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shi3zの長文日記 RSSフィード Twitter

2012-07-16

デザイン、ファーストクラス、クオリアゲーテ 12:39

先週の土曜日に、少し変わった経験をした。

150人の現役大学生の前で「生き方」について講演するというものだ。

まず、あんまり「生き方」を講演しろと言われたことがないので驚いた。

起きて呼吸して寝たら、それは生き方だ。そんなものは説明されるまでもない。

普段の講演では、話す対象がかなり絞り込まれている。

ゲーム開発者やプログラマーとその予備軍、ときどき広告関係の人たち、などなど。

しかし、もっとぼんやりした、大学生全般と言った人たちに向けて、僕が語る言葉を持っているか、というとそうでもなかった。


学生団体の主宰だったので、主宰の方も現役の学生さんだったが、彼女に「どんな話をすればいい?」と聞いてみても、なかなかハッキリした答えが聞けないのだった。しかも文系の人たちが多いらしい。


これは久しぶりの難問だった。

そこでアルバイト出身の社員何名かに聞いて回ってみた。

学生時代に僕からされた話で、なにか刺さった話はどれ?

するとこういう答えが帰って来た。


 「クオリアの話がいいんじゃないでしょうか」


またむつかしいことを言うな、と思った。

でも確かにその話は面白かった。


ギリギリまで話の構成を考えたが、一時間の枠できちんと説明するのは難しいと思ったので没にした。

クオリアの話というのは、こんな話だ。


クオリアとは、人がものを認識するとき発生する所在不明の感覚質を言う。

クオリアは科学上最も難しい難問のひとつである。永久に解明されないかもしれない。


あるとき僕は、クライアントのために「良いデザインとは何か」を解明する必要に迫られた。


iPhoneショック」の時だ。


iPhoneは登場したばかりの頃、まだこれが流行るのか流行らないのか誰にもわからない、という状況だった。

機能比較表を書いてみると、iPhoneと日本のケータイ電話で比較して、機能的に有意な差異はなかった。


しかし、明らかにiPhoneは違う。

iPhoneの「違い」と、その違いが「良い違い」なのだということを、当時の電機メーカーの幹部に理解させるのは想像を絶する難しさだった。



例えばこんな感じだ。


 「しかしこのアイホンとかいうやつね、カメラだって性能はうちのより低いし、解像度だって一昔前のものじゃないか。分解して調べたらCPUさえ安物だ。どこをどうとっても、これは粗悪品だよ」


iPhoneを欲しがるのはスペックに拘らない人だ。

それが彼には解っていなかった。

AV評論家の麻倉怜士氏などは週刊アスキーのインタビューで「通話音質が悪いから決して買わない」と答えていた。


何を言ってるんだ、と今なら誰でも思うだろうが、当時は「iPhoneが世界中で流行する」と断言するのはおそろしく勇気のいることだった。かなりそれを信じてた僕でさえ、大きな声で言うのは憚られた。


とにかく、そうした人たちに「iPhoneの違い」を説明するためには僕は決定的な要素を欠いていた。

それはつまり、「デザインの良さ」を判断する能力であり、もっと平たくいえば「美意識」である。


では人は何を「良い」と感じるのか。突き詰めて行くと、そこには「良いデザイン」を感じ取る感覚質、つまりクオリア的なものがあるという仮説にたどり着く。


「良いデザインとはなんですか」とデザイナーに聞けば、全て違う答えが返ってくる。

しかし、「良いデザイン」というのは千年残る。


たとえば、今どきのiOSアプリのデザイナーに聞けば、「良いデザインとはシンプルである」と言うだろう。しかし、何百年前の中国の精巧に細工を施された壷が「良いデザイン」とされる価値観もある。それがシンプルでないからといって、良いデザインでないとは言い切れない。


つまり「良いデザイン」には、言語化不能な「感覚」がある。

それを「クオリア」と言ってしまっていいのかわからないが(クオリアという言葉は無数の議論を産む難しい言葉であるため)、その言語化不能な「良いデザイン」を感じ取るクオリアが存在すると仮定しよう。


「良いデザイン」は「○○だから良い」と理由を説明できない。

また、説明されるとしてもそれは全て感想であって再現性がないので科学とは言えない。


つまりデザインの説明からは、可逆的ではない感想しか引き出せない。


それに比べると、カメラの性能は「1000万画素だから良い」と説明できるし、これが説明できることによって、1000万画素が2000万画素になれば単純に二倍の性能になった、と誰でも理解できる。つまりこの説明は可逆的である。


ところがそのカメラで撮影した写真が「良い写真」なのかどうか、誰も説明ができない。

写真にもセオリーがあり、構図の三分割法とか、適正露出とか色々だが、そうしたセオリーを忠実に守るだけで「良い写真」に近づくのは事実だ。


しかし本当に「良い写真」というのは、しばしばそのセオリーを崩したところで生まれたりする。

それを「良い」と思う感覚質は、可逆的な説明をすることができない。


そのとき僕は電通で重役秘書をやっていた、という女性と食事したときの会話を思い出した。

彼女は仕事柄、上司について出張に同行することが多いのだと言う。


結果として世界中、さまざまな企業の経営トップと会うことになったが、会社によって応接室やショウルームといったものに経営トップの個性が非常に出るのだと言う。


彼女曰く、「応接室を見ればその会社の質が解る」というのだ。


ある大企業の応接室は、彼女に言わせれば「貧乏な田舎者が考えた、"都会のお金持ちの生活"」なのだという。超一流の家具で揃えられ、明らかにお金が掛かった応接室だ。しかしその配置や、使われ方が「いちいち貧乏臭い」のだという。

また別の中規模の企業の応接室は、「素晴らしいホスピタリティに溢れた最高のエクスペリエンス」なのだという。その会社はあまり有名でもないし、規模が大きいわけでもないが、ある部品の製造では世界トップの品質なのだという。応接室に使われている家具はさほど値段の張るものではないが、部屋に入って来たときの導線から、在室中、お客様が快適に過ごせるようにあらゆるモノの配置を考え、配膳されるお茶の内容にまで拘った素晴らしいものだったと。


この話は僕に大きな衝撃を与えたし、興味をそそられた。

「それは素晴らしい知見だ。一体どんな文献を読めば、あなたのいうようなことが解るようになるのか」と思わず聞いてみて、それから「しまった!」と思ったがあとの祭りだった。



 「あなたバカじゃないの? 本を読んで覚えようなんて発想が、そもそも貧相な田舎者。いい?それを知りたかったら、自分でお金を払って、一流の家具やサービス、ハーマンミラーイームズや、ファーストクラスや最高級のスイートルームを体験する。それが一流と呼ぶに相応しいものかどうか、自分で判断するのよ」



ガーン、だった。

僕は飛行機はエコノミー派だし、ホテルなんて寝るとこさえあればいいや、とそうした無駄に高いサービスを体験することを避けていた。


しかし、そのやり方では、「一流のもの」を見抜く感覚は永久に育たないと思ったのだった。


そこで僕は行動をがらりと変えた。

まず、その年の海外移動は全てビジネスクラスにした。

そしてファーストクラスへのアップグレードが可能な時は、常に追加料金を払ってもファーストクラスに乗ることにした。

毎月どこかの高級ホテルのスイートルームに何日か泊まることにして、そこに友人や取引先を招いてプライベートパーティを開催することにした。海外でも高級ホテルに泊まるようにして、一流を浴びるようにした。

クレジットカードを限度額無制限のブラックカードに変え、最高のバーとレストランを探し歩いた。


当たりもあったり、ハズレもあった。

そういうことを繰り返しているうちに、様々なことが解って来た。

一流のクオリア・・・と呼んでいいのかわからないが・・・とにかくそういうものを感じ取ることがうっすらとだけど解るようになった。


そういう生活を二年くらい続けて、それからスパッとやめた。

飛行機はエコノミーに戻して、出張先のホテルは死なない程度の場所にした。

時々はクルマの中や空港や、無人駅で寝てる。

ブラックカードは会費がもったいないうえに、それを持っているだけでどんどん店から要求される値段がつり上がる(店は客の足下を本当に見てる)ので、二年で解約した。


探し歩いてみつけた、バーとレストランだけは今でも時々行く。

それでどんどん太った。


同じ発想で世界中の美術館と博物館を見に行った。

ちなみに美術館と博物館という言葉は、英語ではどちらもmuseumになってしまう。

しかしこれを別々の概念に分けた明治時代の日本人は本当に慧眼だと思う。


沢山の美術館と博物館を見て回っているうちに、気づいた。

実は美術館と博物館は、収蔵品にそう差があるわけではない。


たとえば大英博物館にもルーブル美術館にも、ローマ時代の石像があるし、絵画や剣がある。

そして大英博物館はThe British Museumであり、ルーブル美術館はmusee du louvreと、「博」と「美」の違いはない。


けれども、「博物館」にあるものと「美術館」にあるもので、決定的に違うことがある。

それは「美」だ。


博物館は珍しいものを広く沢山集めた場所だ。

そして美術館とは、美しいものを集めた場所なのである。


明治時代の日本人は、いつか同胞の子孫が海外に知見を広めにいくとき、美しいものと珍しいものを分けて考えることが出来るように、こうした名前をつけてくれた。これは日本語を使う人々だけが享受することのできる特権である。


オルセーに行かなくても、「オルセー美術館」には美しいものが収蔵されていると解るのは、「美術館」という言葉をつけてくれたからだ。


いわば、世界各国のmuseumに付けられた和称は、タグクラウドのようなものなのである。


ルーブルは決してルーブル博物館にはならない。



昔、美術館に行く人は、何しに行くんだろうとずっと思っていた。

ゲージュツというのは「解らないものをありがたがってる宗教」だと思っている時期もあった。


しかし「良いデザイン」のクオリア、「美」のクオリア、そして「一流」のクオリアを求める旅の過程で、僕は美術館とは「美術浴」をするための場所なのだと理解した。


美味いものと同じで、沢山食べないと、しかもできるだけ一流のものを食べないと味の区別が付かない。

少し前まで、僕はサマートリュフと黒トリュフと白トリュフでさえ、違いがわからなかった。


自分でトリュフを買ってみたり、それを齧ってみたりして、ようやくなぜ白トリュフが黒トリュフの何倍も値段が高いのか解るようになった。一事が万事、そんなところだ。



思えば、スティーブ・ジョブズはまさにこうした旅を続けて来た人だったのかもしれない。

彼はMacintoshを作る時、レジス・マッケンナという超一流のマーケッターに会いに行った。

まだApple Computer社が単なるマニア向けの商品しか出していなかった頃の話だ。

最初は剣もほろろに断られたが、しつこくなんどもなんども頭を下げに行って、ようやく仕事を引受けてもらえることになったのだという。


そしてあの伝説的なスーパーボウルのCMを当代一流の映画監督だったリドリー・スコットで撮影するのである。


そして学生時代の彼はリード大学でデザインの学科を履修し、哲学やタイポグラフィに精通していた。また、禅の世界に系統し、インドまででかけて行った。


そうした経験によって得られた知見、哲学的クオリアが彼の中で極めて重要な役割を果たしたのではないか。



そうした旅の途中で、あるものに出会った。

イスラム教だ。


イスラム教の存在とその教義、とりわけ偶像崇拝の禁止は凄まじい衝撃だった。

知識として「偶像崇拝が禁止」というのは知っていたが、それが「どういうこと」なのかは「解って」いなかった。


偶像崇拝を禁止するとは、あらゆる図版が禁忌なのである。

つまり、文字以外のもの、絵や写真といったものは禁忌なのだ。


イスラム教国のIT企業に勤めていた人に、「アイコンは禁忌なのよ」と聞いてブッ飛んだ。

それに考えてみれば、アイコンだって、元は宗教画だ。敵対する宗教の概念はタブー、ということなのか。


しかし洋服や建物といった具象物は作らざるを得ない。

こうした世界でも、美術は発達するのである。


イスラム美術の特徴は、なんといってもアラベスクだ。

偶像を用いず、幾何学文様の反復だけで神の精神性を表現している。

それは例えば反復の回数や文様の角度、土、空気、火、水の四大要素を象徴する文様など、様々なテクニックで神の世界を表現する。


実はイスラムに限らずあらゆる宗教的建築物がそうなのだが、柱の数や配置、柱に刻まれた筋の数やあしらわれた花の花びらの数までも宗教的意味を持たせる。


こうした細部にわたって考え抜かれた精緻な細工は、信仰を裏付け、人々を引きつける。

また同時に、宗教的建造物や宗教的美術は、信者はもとより、信者でない人も引きつけるような強力な魅力が必要とされる。


その集積が、宗教美術全般に言えることになる。

宗教は人を引きつけるが、それが多くの対立を産む原因にもなっている。

他の宗派や他の宗教を信仰する人々を攻撃し、時には寝返らせるため、しばしば宗教的伝道師はあの手この手を使って人々を籠絡する。


よく使われたのは武器や、結婚パーティや、葬式だ。

ウェディングパーティという概念が日本に入って来てから随分経つが、これはもともとキリスト教の概念だ。だからチャペルで執り行うのである。


いつも不思議なのは、牧師(または神父。宗派によって違う)が英語で祝福するところだ。

まず第一に、キリスト教はもともとはユダヤ教の一宗派に過ぎず、その発祥は今のパレスチナ地方だから大英帝国とはなんの関係もない。

日本にキリスト教を直接伝道したのはスペイン出身のフランシスコ・ザビエルで、聖書はもともとヘブライ語で書かれている。

どこにも英語との接点がないのに、日本のどの結婚式でも英語で宣誓している。

それで僕は宣誓の度にちょっとクスっと笑っちゃうのだが、こういうコスプレ感覚そのものが、キリスト教が「輸出」した概念であり、結婚式なら宗派に関係なく多くの人が集まるし、また同時にこうした結婚形式への「憧れ」を演出することで信者を獲得することができる。


キリスト教による結婚式の実現は、実に巧みな伝道戦術だと思う。

同じようなことは仏教における葬式、神道における祭り(もちろん神前結婚式も)と、とにかく人が集まるような魅力をこれでもかと投入して宗教というのは発達してきた。


ルーブルでもオルセーでも、宗教画がテーマとしてあまりに多いことに驚かされる。

これは絵を描く、という仕事のスポンサーになってくれるのが昔は宗教しかなかったからなのだろう。

同じくらいに多いのが、王族の肖像画である。これもスポンサーの問題だと思われる。


美術品というのは、例えば壷や剣などの実用品から、絵画や宗教的建造物、城といった「本当は生活に必要なかったもの」まで幅広い。



さて、iPhoneと日本古来のケータイ電話の違いというものを理解するためにかなりの遠回りになってしまった。

しかし突き詰めれば突き詰めるほど、これは言語化ができない違いなのだという事実になんどもぶち当たって行く。


しかし、日本の会社がカッコいい携帯電話を発売できない理由はなにか、という問いに関してはひとつ明確な答えが言えるようになってきた。


それは経営トップの美意識の低さだ。


たいていのトップは「デザイン」を洋服のようなものだと思っている。

それは正解のように見えるが、完全な間違いだ。


日本を含め、世界の製造業の多くの経営者は、外装のデザインを「単なる箱」としか思っていない。

だから「箱だけデザインすればいい」という発想でプロダクトデザイナーを雇う。


コンピュータに関しては、アップルだけが経営トップに明確な美意識があった。

経営層が確固たる美意識を持っていないから、アップル以外のメーカーはアップルの後追いしか出来ない。


昔はソニーがそれを出来た。

盛田昭夫という、優れた美意識と国際感覚の持ち主が、外装と内装全てを包括してそれを「デザイン」と呼んだ。

僕は後藤禎祐さんによるVAIOと、初代PlayStationのデザインはあらゆる意味でほんとうに凄いと思う。

あんなすごいものは当時のソニーにしか作れない。アップルにだって不可能だろう。

僕が美術館を作るなら間違いなく初代PlayStationを収蔵する。


経営トップの美意識が高いことが美しいプロダクトを生み出すことを証明しているのはアップルだけではない。

例えばイタリアの自動車メーカー、フェラーリ、ランボルギーニ、アウディのCEOは実に洗練されたスタイルをしている。経営トップを見れば、その会社の美意識が解る。


ヨーロッパのデザイナーズブランドの経営トップはもっとそれが顕著だ。

ファッションの世界では経営トップの美意識がその会社の正否を決める。


フェラーリのデザインは、実は社内で作っているわけではない。

名車と呼ばれるクルマの大半のデザインスタジオは外注だ。


フェラーリと切っても切り離せないデザインスタジオが、ピニンファリーナである。

ピニンファリーナは最近のフェラーリの主要なモデルをほとんどデザインしているが、フェラーリの子会社ではない。

日本の自動車メーカーもピニンファリーナに仕事を依頼したことがある。

その結果は・・・語るも無惨だ。誰の記憶にも残っていない。


デザインスタジオといえばフロッグデザインを忘れてはいけない。

ソニーの仕事を長く続けたドイツ生まれの名スタジオで、その後、ソニーに強い憧れがあったスティーブ・ジョブズのラブコールに答えて名機Apple IIcをデザインし、「Snow white(白雪姫)」というデザイン言語を開発、その後10年以上に渡ってAppleのマシンに使われるデザイン言語となった。


そしてMacintosh、NeXTとスティーブ・ジョブズとフロッグデザインの蜜月関係は続いた。


こう聞くと、「なんだアップルが凄いんじゃなくてフロッグデザインが凄いんじゃないか」と思うかもしれない。

歴史に記録されるのはたいていの場合はいい記録だけだ、という原則を忘れてはいけない。

Windowsの前に見事に消え去ったNECのPC-9801も一時期はフロッグデザインが担当していたし、なにしろ僕が世界一無様なデザインだと思ってる、WindowsXPも、実はフロッグデザインだ(まあVistaが酷すぎてXPはマシにみえてしまうが)。


最近はAcerのあの強烈に安っぽいPCも残念ながらフロッグデザインなのだ。

無惨といえば、シャープのアクオス携帯もフロッグデザインで、それをiPhoneと真面目に比較するのは気の毒なのでやめておこう。


デザインにとって一番大切なことはなにか。


結局のところ、それを選び取る側の美意識なのである。


では美意識とはなにか。

これに明確な答えはない。


しかしまだ旅の途中ではあるが、僕が感じている美意識の正体、その根底に流れるのは宗教性ではないかと思っている。


もっと突き詰めれば、その背後に見え隠れするのは愛だ。

愛という言葉には様々な意味がある。


そして大半の宗教とは、「愛」を定義したものに他ならない。

「愛」は特に西洋の宗教では重要な概念である。


Wikipediaによれば、西洋世界の愛は、エロス(性愛)、フィーリア(友愛)、アガペー(無償の愛)、ストルゲー(師弟愛)があり、特にアガペーは神によってもたされる祝福を意味する。


こうした愛に関する考え方や感覚が、キリスト教世界を根底から支えており、現代文明は形はどうあれキリスト教的世界の指導によって発達して来た以上、決して無視することのできない事実なのだ。


愛なくしてデザインされた機械は、単なる機械の域を出ない。

それには宗教的な熱狂や、信仰にも近い情熱を抱くことはできない。

それは小麦をケチって作られた、スカスカのパンのようだ。


日本で普通に手に入るパンは非常にレベルが高いので、スカスカのパン、と言っても解る人は少ないと思うが、アジアの発展途上国の高級ホテルで供されるパンには、しばしば外身だけ美味しそうで、中はスカスカで味がしないものがある。


誰もが疑わないのは、スティーブ・ジョブズがその生涯を賭けて、彼の生み出すプロダクトに真の情熱を傾けたということだ。


本気で最高のものを創りだしたいと願い、創業の瞬間から常に「宇宙に衝撃を与えたい」と唱え続けた、その彼の生涯における最高傑作が、iPhoneなのである。


そこまでして全ての愛情、全ての集中力、全ての能力を傾けて作られた製品の上辺だけいくら真似しても、勝てるわけがないのだ。


iPhoneの二番煎じ、という意味ではGalaxyシリーズは良く戦っている。けれども、それはどこまで行ってもiPhoneもどきに過ぎない。


この「愛」は単に仕事への情熱だとか、そんな簡単なものでは表現できない。

愛を高める、というのは筋力トレーニングでも座学でも、世界中を旅行しても鍛えられるものではない。

しかし間違いなく言えるのは、ジョブズの愛はAppleIIの時とiPhoneの時では比較にならないくらい進化している。


ジョブズはプレゼンが上手いと言われるが、実のところゲイツに比べたら足下にも及ばない。

ちょっと考えれば解ることだが、ジョブズがプレゼンで人を感動させるのは、プレゼンのテクニックではなく、創りだした製品そのものだ。


同じ製品のプレゼンをゲイツがやれば、もっと人々は驚くだろう。

しかしゲイツが凄いのは、単なる粗悪品であるWindowsを、まるでとんでもないハイテクの塊のように思わせることだ。


ユーザーは何度ゲイツに騙されたか、よく考えてみるべきだ。

Windows3.0、Windows3.1、Windows95WindowsNTWindows2000WindowsMEWindowsCEにタブレットコンピュータ、ついでにMicrosoft Bob.


どれもこれもMacOSの粗悪なコピーであり、実際に使ってみると無惨な冗談のような代物だ。

Windows95の時代は、MacOS自体が粗悪品と化していたので一瞬は追い抜くことが出来たが、その後のOSXには本質的には全く対抗できないにも関わらず、そんなことは誰にも感じさせずにWindowsを売り続けて来た。


だいたい、Microsoft KKの古川会長(98年当時)にしてからが、ずっとMacを使ってる。上から下までほんとは解ってる。どっちがより「優れた製品」なのか。


Windows Phone 7はこの10年の間にMicrosoftが作ったモノの中で最も評価して良い製品だ。

けど悲しいかな、全く売れていない。


ユーザーはバカじゃない。

ある製品を手に取った時、その向こう側に「愛のクオリア」をちゃんと感じ取ることが出来るのだ。

お金のために嫌々作らされたiPhoneモドキと、一人の男がその全生涯を賭けて生み出した本物の発明の向こう側に感じるものは、実は愛なのだ。ジョブズの強さとは、その愛の大きさなのだと今は思っている。


だから僕はiPhoneは愛おしく感じてしまう。

僕はAndroidを仕事にしているけど、iPhoneを手放すことが出来ない。




愛の重要性を思い知った僕は、まだエジンバラ大学で英文学を勉強していたアルバイトにこんな話をした。


 「どうすれば愛をもっと理解できるかな。その手かがりになるようなことを知らないかな」


すると彼女は、詩を読んだらどうか、と言った。

それが彼女の専門分野で、彼女の先生の書いた本やWebを教えてくれた。


それから僕はヒマを見つけては、愛について書かれた詩を読むようにしている。

いわばこれは愛を浴びてる段階であって、まだなにがしかのものが見えたというわけではない。


そんなことが数年前にあった。

それをきっかけに、彼女は大学院を卒業して、UEIの正式な社員となった。

それを彼女は覚えていたのだろう。



まあでもこんな話、大学生に聞かせるにはちょっと難し過ぎるかな

それで没にすることにした