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shi3zの長文日記 RSSフィード Twitter

2016-08-17

シン・ゴジラ 1日ぶり6度目の鑑賞の感想文 10:08

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 シン・ゴジラほど何度も見返さなくては、と思う作品は珍しい。

 なにしろモノが怪獣なので、映画館の大スクリーンでないとその真価が発揮されないような気がするのだ。


 ちなみに、僕自身は気に入った映画はDVDでなんどもヘビロテで見る。

 ヘビロテで見ていたのは洋画で言うとIRONMAN,IRONMAN2,BATTLESHIP,Wanted,SWORD FISHみたいな感じ。そういう人のレビューなので、ラーメンマニアのラーメン評みたいになっていることは先にお断りしておきます。


 シン・ゴジラをみんなで見る会、というのに誘われたので行ってきた。

 その前日にも、「4DXで見たい」という人が居たので一緒に見に行った。


 これで通算六度目。

 

 六回目ともなるとだいぶ落ち着いてくる。

 今回はKindle Unlimitedで読めるCGワールドで予め予習してから見ることにした。



 この本はファンなら必見であり、貴重な舞台裏が書かれた本だ。

 

 で、このCG WORLDのシン・ゴジラ特集だが、これによると登場する自衛隊兵器のほとんどはCGらしい。

 実車のカットもあるが、だいたいCGだそうな。


 そんなコトって有りえるの!?と思ったが、まあ確かに多摩川の土手に実物の10式戦車を並べるわけにも行かない。


 10式戦車のモデリングは、戦車のモデリングを趣味としてずっとやってきた人が担当していて、彼の入社面接のときにもってきたポートフォリオも10式戦車だったらしい。


 ホンモノと同じく全ての戦車の迷彩が一台一台微妙に違うという凝りよう。



 そして気がついていたんだけど前のエントリーで書き漏らしていたのが、16式機動戦闘車が3カットくらいだけ映ってるところ。


 ゴジラの両手が上を向いているのはモーションキャプチャーを担当した狂言師野村萬斎さんのアイデア。

 「荒ぶる神」として、宝珠を掴んでいるイメージだとか。


 ゴジラが鎌倉に上陸するシーンでは、船が吹っ飛ぶコマが一瞬映るが、この船はモデリングされたものでもミニチュアでもなく、写真を直接2D的に動かしているらしい。


 たしかによく見るとわかるようなわかんないような。



 日本のCGがここまで違和感なく溶け込めるようになったというのは凄い。いや、もしかしたら最初から出来たのか?一体全体、いままでなぜこういうことがさらりと出来なかったのか。それともミニチュア職人のひとたちに敬意を表するために雇用創出的な意味合いをこめて敢えてのミニチュアだったのか。


 今回のシン・ゴジラのCGは、ミニチュアの技術とCGが上手く融合している。

 ゴジラの雛形は造形作家が直接つくり、それを3Dスキャンしてゴジラのモデリングデータにしている。ポリゴン数は1000万ポリゴン。


 東京駅丸の内口も同様で、ミニチュアをまず作り、それを3Dスキャンして使っている。あの東京駅の生々しさはそういう努力に支えられているのだ。


 制作手法も画期的で、まず全編のプリヴィズ(仮のCGで作られた映像)をスタジオ・カラーで作り、それを白組が順次丁寧なCGに仕上げていくというもの。こうすると確かに無駄がない。


 CGで最も時間がかかるのはモデリングとレンダリングだが、通常、どこから見られるかわからないモデルは、できるだけどの方向から見ても成立するように作る。


 ところが精密につくるとレンダリング時間が伸びる。レンダリング時間はモノにもよるが、1コマをレンダリングするのに1時間くらいかかってしまうこともある。二時間半の映画だから、ざっと180x60x30=324000コマのレンダリングが必要だ。32万時間というのはざっと37年に相当するので、実際にはそんなに時間をかけてレンダリングすることはできない。そこで大規模なサーバーファームを作って分散してレンダリングする。それでも、たとえ100台で分担したとしても135日も掛かってしまうことになる。


 さらにいえば、普通はCGは編集時の自由度を残すためにのりしろとなるようなフレームを余分にレンダリングしておく。そのため、実際には1.2倍くらいの長さのフレーム(場合によっては使われるカットの2倍以上のフレーム)をレンダリングする必要があるし、そもそも調整もしなくてはならない。膨大な手間である。


 これが、完全に正確なプリヴィズが最初にあるだけで、モデリング、レンダリングの手間は最小限になる。


 画面に映らないところはモデリングしないという判断が最初からできるし、当然、カットにない部分もレンダリングする必要がない。


 おそらくこういうワークフローが組めたところが、欧米に比べて極端な低予算であってもひけをとらない迫力のCGが仕上がっている理由だろう。


 僕はプログラマーとしてはCGの専門家だが、10式戦車がCGだということは、初見ではわからなかった。本当に、すごい努力の結晶である。



 もちろん戦闘シーンであっても、一部実写のシーンはあるらしい。個人的には、キャタピラの大写しとかは実写ではないかと思っている。CGで再現するにはキャタピラの接写は面倒すぎるからだ。


 また、護衛艦を四隻並べたシーンや、いずものシーンはCGでやるのはコストが掛かり過ぎるので、実際に護衛艦を四隻集めたらしい。ほんのワンカットしか使わないにも関わらず、すごい手間をかけている。


 しかし今回、海軍マニアとしては護衛艦があんまり活躍しなかったのは残念だ。なんで鎌倉にあんなに近づくまで気づかなかったんだよ。ソノブイとかがそこら中に設置してあるんじゃなかったっけ?


 日本の対潜水艦索敵能力は世界随一だというのに、世界一の静粛性を誇るそうりゅう型潜水艦も登場しなかったのは残念。シン・ゴジラ2があるなら、次回はぜひ海自をもっと活躍させて欲しい。



 初見ではやや物足りなく見えた物語のクライマックス、矢口プラン(後のヤシオリ作戦)の準備シーンも、3回目以降だと「これくらいアッサリしていたほうがいいんじゃないか」と思えてくる。


 同じ映画を繰り返し何度も見る理由は、映画が好きだからというのはもちろんあるが、それ以上に、作り手の視点を意識するためだ。


 映画のことやエンターテインメントのことを知ろうと思ったら、作った人にいくら話だけを聞いても無駄である。

 同じ言葉でも、こちらに受け止める準備ができていなければ、聞かないのと同じか、むしろ逆効果になる可能性もある。


 当たり前だが、やりたことは全てコンテンツそのものに込められているのだから、まずそれを見て、自分の中で消化してみないことには話にならない。



 映画監督になるためには、同じ映画を10回は見ないとならない、と言われていたそうだが、まさにそれはそういうことなのではないかと思う。



 作り手というのは、当たり前だけど自分の作品を仕上げる時に何度も繰り返しみる。それこそ10回じゃ効かないだろう。


 繰り返し見ているから、初見の感動は麻痺してくる。


 何度も何度も繰り返し見て、どこに注力するか、どこのディティールを詰めるのか、それを考える。

 


 だからたとえ観客としてであっても何度も繰り返し完成品の映画を見ることによって、少しずつ作り手の視点に近づいていく。


 このシーンは効果的か、このシーンは冗長じゃないか。

 あと2コマつめられるか、それとも詰めるべきでないか。



 アニメーターというのは特殊な感性の持ち主である、と最近良く思う。

 以前は「アニメーターは三次元的に不正確な絵を描いてしまう。それは人間の欠点である」と考えていた。

 

 たとえばスネオの髪型とかスヌーピーの顔とかである。



 ところがアニメーターと会話し、アニメーションを一コマずつコマ送りで見るようになると、印象は激変する。


 そして、実はアニメーターが三次元世界を正確に把握していないのではなく、むしろ彼らの認知能力が、コンピュータグラフィックスのはるか先を行っているのだということに気づく。特にそれはAIの研究を踏まえるとそんな気持ちがどんどん高まってくる。


 人間は、自分の生きる空間を三次元と認識する。幾何学的には、三次元でも別に問題ない。


 しかし、実際には我々が生きる空間には、縦横高さの3つの軸の他に、時間軸があり、さらに重力という軸がある。これはか弱き三次元生物である人間が知覚可能なギリギリの軸だが、素粒子のレベルに行くと今は10次元くらいを想定するのが普通らしい。



 か弱き三次元生物である我々は、実は二次元のものしか知覚できない2つの眼を通して3次元空間を「感じ取る」ことしかできない。


 映画は、二次元の平面に写した映像によって、見る者の記憶を刺激し、記憶の新しい組み合わせによって新しい体験を体感させるVR装置の一種であると考えられる。


 だから作り物とわかっていてもホラー映画は怖いのだ。


 そして「絵」とは、非常に高次で知覚された人間の脳の情報処理結果から、人間が理解するのに最適なレベルまで情報量を減らしたものである。


 このあたりの話は、川上量生・著の「コンテンツの秘密―ぼくがジブリで考えたこと (NHK出版新書 458)」に詳しい


 非常に印象的な台詞の多い本だが、少し引用しよう。

「アニメの場合の絵の情報量とは線の数です。線の数がどれほど多いかでアニメの情報量は決まるんですよ」

アニメとはまず線で絵を描いて、線のあいだに色を塗っていくぬり絵なのだというのです。そのぬり絵を動かしているのがアニメの本質なのだそうです。

そしてぬり絵は線の数が多ければ多いほど塗らなければいけない色の数も増えていきます。つまり、ぬり絵の複雑さは線の数で決まると言ってかまいません。だから、アニメの場合も線の数=情報量と考えるのがいちばん正確なんだそうです。


(中略)


「そもそもアニメを子どもが好きなのは情報量が少なくて分かりやすいからなんですよ」

「えっ。情報量が少ないほうがいいんですか」


「実写だと子どもには情報量が多すぎて、複雑すぎてよく理解できないんです」


(中略)


もともとアニメは情報量が少ないのが実写よりも優れている点で、だから子どもはアニメが好きで、でも、情報量が少ないのがいいところのはずのアニメなのに、いまは情報量を多くする競争がおこなわれているということでしょうか。そう、ぼくは石井さんに確認しました。


「そのとおりです。情報量が増えることによってアニメは子どもだけでなく大人も楽しめるようになってきたんですが、逆に小さい子どもは、いまのアニメは難しすぎて理解できなくなってきたんです」


「矛盾ですね」


「そう、矛盾なんです」


 スタジオジブリの作品は、情報量を増やすことによって一時代を切り開いたと言われている。

 しかし情報量というのは多すぎてもダメらしい。


 そこで著者は「主観的情報量」と「客観的情報量」の2つを意識することでこの矛盾を理解できると指摘する。


 客観的情報量とは、情報学でいう、情報エントロピーである。この場合、写真のほうが絵よりも圧倒的に情報量が多い。定量的に計測可能な情報量を言う。


 映画に重要なのは言うまでもなく「主観的情報量」で、これは人間が認知可能な情報量の総量と考えられる。


 子供はまだ認知能力が低い(AIも、学習時間が短いと認知能力が低い)。実写のように無駄な情報が沢山あるものをみると、映像の中でどの部分に着目するべきかわからずに物語が頭に入ってこない。 


 だから、子供は実写よりもアニメが好きだ、というわけだ。

 アニメの情報は十分咀嚼されていて、どこに注目すべきでどこに注目すべきではないかが明確になっている。


 情報量の多いアニメというのは、主観的情報量の多いアニメということだろう。

 ジブリの映画は背景にもの凄い情報量が詰め込まれている。もちろん台詞の一つ一つ、小道具のひとつひとつに至るまで、細かく演出されている。


 人は完成したモノよりも未完成のものに強く惹かれることが心理学で分かっている。これをツァイガルニク効果と呼ぶ。


 情報量の多いアニメ作品はこのツァイガルニク効果を良く利用する。


 たとえば「天空の城ラピュタ」のラピュタや空賊。一見すると空賊の日常を描いているようだが、「ママ」と呼ばれる女性の頭領が実母なのかそう呼ばれているだけなのかはハッキリしない。「パパ」がどこにいるかもわからない。


 ラピュタに関しても、高度な文明を持っていることはわかるが、具体的にそこでどんな文化があり、どんな人々が暮らしていたのかは全く明らかにされない。主人公の真の名前にも秘密が散りばめられていて、解決されないまま終わる。


 この「解決されないまま終わる」ということが、ツァイガルニク効果を引き起こすトリガーで、観客はその後がどうなるか、無意識のうちに想像で埋めようとする。だからこそ繰り返し鑑賞に耐える傑作に仕上がるのである。



 これは「風の谷のナウシカ」「もののけ姫」など、宮崎駿作品に共通した特徴でもある。


 「ふしぎの海のナディア」や「新世紀エヴァンゲリオン」といった庵野秀明作品も、明らかに意図的にそうした「解決されない謎」を挿入している。


 ブルーウォーターにしろガーゴイルにしろ、謎が謎のまま終わるところは多い。

 謎があるから人々は心を惹かれ、謎を解き明かそうとして幾度も見る、想像する。


 鉄人28号の操縦方法が二本のレバーでしかないというのも、あれでどうやってロボットを意のままに操縦するかわからなくする効果があったのかもしれない。


 エヴァに至っては、徹頭徹尾、謎だらけだ。

 謎が多いからこそ、公衆電話やビール、トラック、電車、電柱、改札といったディティールが現実世界のもので満たされていることの安心感がある。


 公衆電話が公衆電話のまま写っているということは、「それは現実世界の公衆電話と同じだから深く考えなくていいですよ」というメッセージであるといえる。そう、実はエヴァは情報量を増やしながら間引いているという非常に高度な手法を達成しているのだ。


 これが、本人たちには失礼な物言いになってしまうが、僕は失敗作だと思っている「オネアミスの翼」の場合、出てくるもの出てくるもの全てが見たことのないもので満たされた世界の場合、それこそ「一体全体どこを見ればいいのかわからなくて混乱する」という状況が簡単に生まれてしまう。情報量を多くしすぎて失敗するというのはこういうことだと思う。


 唯一説明抜きで理解できるのは、主人公の乗るバイクと、ロシアのR-7ロケットに似たロケットだけだ。


 もちろん、個別の小道具には眼を見張るようなアイデアが散りばめられていて、部分にだけ着目できる人にとっては傑作という評価になるだろう。


 「オネアミスの翼」のあとにガイナックスが作った「トップをねらえ!」では、客観的情報量を増やすことによって主観的情報量を減らすという手法が早くも試行されている。


 「トップをねらえ!は名前からしてトップガンとエースをねらえをくっつけたものであり、ほとんどの場面で説明なしで理解できるものしか出てこない。


 ハイレグ水着のような体操着、ずんぐりむっくりして情報量を減らしたわかりやすいロボット、グラウンド、縄跳び、校舎、誰がどう見ても、今までに見たことのあるものばかりの組み合わせなのに、その実、誰も見たことがないロボットスポコンアニメに仕上がっている。


 それでも第二話から第四話までというのは、多少中だるみしたりとか、ウラシマ効果を大胆に物語に取り入れているという目新しさはあるものの、やはり少し情報量が増えすぎたり減りすぎたりして退屈なシーンもある。それでも宇宙船の中に地下鉄のような電車が走っていたりとか、宇宙怪獣の正体が明らかになったりとか、ヒロインの恋人が死んだりとかまあいろいろとよくありそうなドラマはある。


 ところが第五話と最終話は、吹っ切れたかのように圧倒的な情報量をブチ込み、そもそも英語版タイトルになっているガンバスターという主役メカが、第五話まで登場しないわけで、ここから怒涛のように物語は盛り上がっていく。


 カットの端々が過去の特撮映画や戦争映画の引用で満たされている理由はおそらく2つあって、一つはそもそもそうした映画の台詞やカットが洗練されていること、もう一つは映画ファンが見た時に「これは単なる引用であって重要な意味を持たない」という、「客観的情報量の増大によって主観的情報量を減らす」という二重の効果がある。


 これ以後、庵野秀明作品はそうした手法を多用し、自分のものにしていく。


 この手法は、庵野秀明総監督、樋口真嗣監督で製作された「巨神兵東京に現わる」でも顕著に現れる。


 巨神兵がなぜ東京に現れたか、ということに関しては劇中で一切明らかにされない。これは明確に提示される「謎」である。林原めぐみのモノローグで登場する「弟にそっくりな災い」の台詞も意味深で、まさしく謎でしかない。

 

 ただひたすら巨神兵の巨大さと、巨神兵の放つ光線の禍々しさが描かれ、最後に「火の七日間」に繋がるような台詞で締められるが、そもそも火の七日間の設定ってそんなんじゃなかったよね、という別の謎が生まれる。


 何も考えてないのか、いや何かもしかしたら深い考えがあるのか。


 そう考えさせられた時点で既に術中にハマっているのだ。



 そういう目線で今回のシン・ゴジラをもう一度見てみると、この「客観的情報量を増やすことによって主観的情報量を減らす」手法が見事に炸裂していることに気づく。


 信じられないほど無駄がないのだ。


 基本的に映画は単純な方がわかりやすい。頭を使ってウンウン唸るような映画が好きな人もいるが、それはごく一部のマニアの話だ。ふつうの人は、単純明快なストーリーを好む。


 ところが単に主観的情報量を減らすだけでは、手抜きに見えてしまう。薄っぺらい絵で、薄っぺらい話をするだけの物語になってしまっては、その映画は失敗だ。


 だからといって闇雲に客観的情報量を増やしたとしても、いい映画になるとは言えない。


 ところがそもそも実写映画はアニメに比べて客観的情報量が多い。

 シン・ゴジラでは様々なところで「客観的情報量を増やして主観的情報量を減らす」という演出が導入されている。


 たとえば最初の東京湾のシーン。

 東京湾には日本人なら誰でも見慣れている。レインボーブリッジとアクアラインがある。

 

 これは客観的情報量としても海と橋という少なさがあるが、それ以上に「東京湾」という高次の情報にまで観客は圧縮できる。


 いちいち「この海はどこの海?」などという余計な疑問を挟まなくても理解できる。


 そしてプレジャーボート

 画面に写り込んだインジケータ表示を見ることで、「これはきっと海上保安庁の隊員が記録用に撮影している映像なんだな」とわかる。


 ここはおそらくGoProなどのあえて少しチープな撮影機器を使うことで客観的情報量を減らし、隊員の報告音声により情報量を多く持たせている。


 だから台詞がより頭に残る。


 台詞が頭に入ってきたところで、ドーンとプレジャーボートが揺れる。

 次のカットは水しぶきだ。


 ここでもういきなり事件が起きている。


 過去の怪獣映画を紐解いても、こんなにはやく主役怪獣が出てきたことというのはちょっとめずらしい。

 まあゴジラFINAL WARSは別だが・・・


 一切の無駄がないのだ。


 会議が始まり、閣僚の名前と肩書がテロップで挿入される。

 しかし肩書が長い。さらに消えるのがあまりにも早過ぎる上に無数の登場人物が出てくるので、見ても覚えられない。

 しかしテロップというのは、そもそも主観的情報を伝えるための手法である。

 戦車を見てそれがなんだかわからなくても、「10式戦車」とテロップ表示されれば「ああ、自衛隊の戦車か」と分かる。


 総理大臣も「内閣総理大臣」というテロップがあれば、「この人は誰なの?」ということに悩む必要がなくなる。つまりここでもまた客観的情報量を増やすことで主観的情報量を減らすという演出が行われている。


 唯一気になったのが、初見では矢口が政治家であるということになかなか気づかなかった点だ。

 議員バッヂをつけているし、もちろん最初のテロップにでるのだが、矢口を官僚と勘違いした人も多かったのではないか。実際、昨日も二回見たという女性が、矢口を官僚と勘違いしていた。


 選挙で選ばれる政治家である閣僚と、国家公務員上級職である官僚は違うのだが、そこらへんは普段から役員と仕事をしていないとイメージするのが少し難しいかもしれない。


 ただ、こういうミスリードさえも意図的に演出されている可能性がある。

 「え、そうだったの?もう一回見なきゃ」というリピート誘導に寄与している可能性は捨てきれない。


 客観的情報量を増やすとリピートが生まれやすくなる。「次はもっと詳しく見てみよう」と思う。これもツァイガルニク効果だ。


 そう考えると、初見では物足りないと感じた全世界のスーパーコンピュータを集めるシーンや、全国の製薬会社のプラントを借りるシーン、ホイールローダーを集めるシーンも、あれ以上長いといかにも冗長になってしまう。


 「タバ作戦」「ヤシオリ作戦」というネーミングも上手い。

 情報を極限まで圧縮して提示することで、「え、タバって何?」とか「ヤシオリって何?」というツァイガルニク効果を引き出している。あの時点でスマホを取り出して検索したくなった人は少なくなかったのではないか。


 特に「ヤシオリ作戦」は秀逸で、テロップに表示されない細かいモブの台詞の中で、「アメノハバキリ・マルヒト」というものが出てくる。


 ヤシオリ・・・八塩折の酒は八岐の大蛇(ヤマタノオロチ)に飲ませた酒の名前で、アメノハバキリ・・・天羽々斬は眠らせた八岐の大蛇を切った剣の名前である。「アメノハバキリ・マルヒト」はおそらく第一建機小隊のコールサイン(01をマルヒトと読む)。だから第二、第三小隊は「アメリハバキリ・マルフタ」「アメリハバキリ・マルサン」などと呼称されているのかもしれない。


 このチョイスが実に上手い。

 普通だったら、八岐の大蛇(に見立てたゴジラ)をやっつける作戦なら、「スサノオ作戦」でもいいはずだ。けれども敢えて一般に馴染みの薄い「ヤシオリ」や「アメノハバキリ」という用語を使うことによって初見では「なぜヤシオリ作戦なのか」「アメノハバキリとはなにか」がわからないようになっている。


 同時に、これは「あんまり深く考えなくていいですよ」というメッセージでもある。

 つまりここでも客観的情報量を増やしながら主観的情報量を減らしているのだ。



 また、ヤシオリ作戦で流れる伊福部昭の「宇宙大戦争マーチ」は「はい、ここからバカなことが始まりますよー」というメッセージでもある。敢えてチープな原曲をそのまま使用し、日本人なら誰もが見たことのあるN700系新幹線が登場。いきなりゴジラに体当りする。


 このテロップも秀逸で、「新幹線 N700系電車(無人運転)」と表示することで、「まさか特攻してる可哀想な運転手さんが居るのでは?」という余計なところに気持ちを向かわせない。


 新幹線はなぜかゴジラに体当りし、ド派手に爆発する。


 それでいて、次のカットの台詞では「無人新幹線爆弾、効果あり!」と言っていて、爆弾が搭載されていたことが明かされる。


 これが最初のカットで「無人新幹線爆弾」と表示されていたら興ざめである。「爆発するんだなあ」と思ってみるのと、「え、爆弾だったの?」という驚きがあるのとではぜんぜん違う。



 さらに米軍の無数のUAV(無人戦闘機)もいい味を出している。

 人命の損失を最小限に抑えようというヤシオリ作戦の意図が明確に伝わってくる。


 そしてゴジラに襲いかかる高層ビルの数々。

 そう、これはそれまで28作品の映画の中で、さんざんゴジラに蹂躙されてきた、高層ビルや新幹線や在来線の、壮大な敵討ちの物語でもあるのだというメッセージが明確に示される。


 ここでゴジラが倒れ、音楽が伊福部昭の宇宙大戦争マーチから鷲巣詩郎の緊迫感のあるBGMに切り替わる。


 日間にも突入した第一建機小隊はあえなくゴジラの熱戦放射によって瞬間的に全滅する。

 直前まで第一建機小隊の隊員が写り込んでいただけに観客のショックも大きい。


 ここでの矢口蘭堂の表情の演技は素晴らしい。

 覚悟していた犠牲ではあったものの、そこに怯んではならないという強い決意が感じられる。


 ヤシオリ作戦の本部では全員が放射能防護服を着てマスクをかぶっているので客観的情報量が極端に少なくなる。それだけに矢口の眼の持つメッセージ性が鋭いナイフのように観客の心に突き刺さる。この映画の主人公であり、政治家でもある矢口蘭堂という人物の人間性がこのカット一枚に全て込められている。


 日本では政治家というのは好かれない職業のひとつだ。常に悪いことをしている、というイメージがある。それはもしかしたら政敵が流した偽情報かもしれないし、事実の一片かもしれない。完璧な人間はいないし、政治の世界は複雑だ。だから実際には我々国民は政治家が何をしているのかということを具体的に意識することは少ない。


 しかし矢口は私心を捨て、大量の放射能を被爆しながらも、東京への核攻撃を阻止するため、最前線で作戦の指揮をとる。


 そのためには、作戦の犠牲になった人々を無駄死にとしないために、カッと目を見開いて作戦を断行するのだ。


 その最高の演技の仕上げが、「この機を逃すな! 無人在来線爆弾、全車投入」という台詞とともに現れる在来線の数々である。



 このカット、よく見ると他のカットに比べて少しチープな印象を受ける。

 しかしそれ以上に「このタイミングで在来線か!」という驚きと、自分が通勤に使っている路線を確認する充分な猶予が与えられる。在来線が何かということに関して、日本人に説明する必要がない。とにかく、東京駅に来ている全ての在来線が一斉にゴジラに襲いかかるということが一瞬で理解できるようになっている。


 これがこの映画最大のカタルシスであり、第二、第三建機小隊の高圧ポンプ車がなぜか調度良くゴジラの倒れた真正面に陣取っていたことなどどうでもよくなる。


 いやにゆっくりと展開する高圧ポンプ車の動きをハラハラして見守る。


 そしてゴジラがついに凍結される。

 このカット構成も素晴らしい。



 全編を通してスピーディなカットの切り替えで会議室のシーンですら飽きさせない。

 二時間半があっという間に過ぎ去ってしまう。






 石原さとみ演じるカヨコと、長谷川博己演じる矢口蘭堂の恋愛を描かなかったのも素晴らしい配慮で、それが入ってしまうとせっかくソリッドな作りだった本作に安っぽいメロドラマが入ってしまう。


 カヨコと蘭堂はお互いがプロの政治家として駆け引きを演じる。

 カヨコは匂い立つような美人だが、矢口はそこに一切の性的興味を見せない。


 そこに矢口のプロフェッショナリズムがあり、カヨコは味方ではあっても個人的な友人ではない、という態度を最後まで崩さない。


 矢口はカヨコと仕事以外の話を一切しない。

 カヨコが矢口をどう思っているのかも、実のところ一切分からない。


 カヨコの目的は矢口と同じく東京への原爆投下を阻止することであり、その目的のためだけに二人は手を組む。


 そういう意味では、ラストシーンでのカヨコと矢口の会話が二人の関係をよく表している。

 カヨコは大統領になる夢を語り、矢口は「よき傀儡だろ」と吐き捨てる。お互い、利用できるものは利用する、という態度の表明だ。そしてカヨコが大統領になり、矢口が総理大臣になるということは、二人に男女の関係はあり得ないということも暗に意味する。


 この描写は「ふたりとも仕事を再優先においている人物であり、お互いがお互いを本当はどう思っているかなんてどっちでもいい、そこは考えなくていい」という主観的情報量の圧縮であり、これが出撃直前になって矢口に惚れているカヨコが「お願い、生きて帰ってきて」なんて瞳を潤ませながら言ったりしたら興ざめなのだ。


 この映画のテーマは「未曾有の災害に対し、私心を捨て全力でことに当たる人々」であり、登場する人物の一人でも自分や家族を優先する素振りを見せたりしたら台無しになってしまうのである。東宝史上最大の予算が掛かり、まさしく社運を掛けた作品である。プロデューサーからは当然、カヨコと蘭堂の恋愛展開を要求されたそうだが、そこを監督がよくぞ突っぱねた。そしてそれを飲んだプロデューサーも天晴としか言いようが無い。


 樋口監督が主要な役者を樋口組で固めたのも、事務所の意向に振り回されないためだろうし、東宝が製作委員会方式をとらなかったのも余計なノイズを入れないためだ。最高の映画をつくるために、全員がプロフェッショナルとして最善を尽くした。もしかすると日本映画史上初めて、監督が「好きにした」結果の作品と言えるのかもしれない。


 「私は好きにした。君らも好きにしろ」


 というメッセージをほかならぬ岡本喜八に言わせているのも、言外にそういう意味を含んでいるのかもしれない。つまりこの映画は「俺(たち製作者側)は好きにした、君ら(観客)も好きにしろ」というメッセージである。


 さんざんアメリカの要求に振り回された末、本来は矢口を諌める側だった竹野内豊演じる赤坂臨時官房長官代理が、「総理、そろそろ好きにされてはいかがでしょうか」と助言するシーンもこの映画の裏テーマを暗示させる。牧教授と矢口、「好きにした」者同士の戦いであり、「好きにさせてもらった」庵野総監督と樋口監督の作品でもあるという二重構造だ。


  総じて、シン・ゴジラは無駄がない。

 それは情報量の適切なコントロールによって実現されている。

 客観と主観、2つの性質の情報量をうまくコントロールして、初見の人にもわかりやすく、マニアの人にはいくらでも深掘りできるような多層構造が構築されている。


 これをしくじると何が起きているのかよくわからない映画が出来上がってしまう。

 邦画の悪癖というのはたいがいがそういうところから起きている。



 そしてラストの意味深なカットでいきなりプツンと映画が終わる。


 「あれ、今何が写っていたの!?」と混乱させる仕掛けだ。

 これもまた、映画を見終わったあとに「最後に写っていたのって何?」という会話を誘導するトリガーになる。



 初日は空席が目立った映画館も、今や三周目にしてもチケットをとるのが難しいくらいの人気作になった。

 これもまた、映画の中にあとで語りたくなるような要素が無数に散りばめられた結果だろう。

 敢えて冴えない感じの予告編になっているのも計算のうちであり、この映画は最初から口コミで広めることを想定して全ての宣伝活動が設計されている。「宣伝」のところに庵野総監督がクレジットされていることからもその意図は明らかだ。


 見たあとに語らずにはいられない、そんな映画こそが庵野作品の真骨頂である、そういう意味で原点回帰を果たしたのではないだろうか。