『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 -永遠と自動手記人形-』感想

※思いっきりネタバレで書いてますので、未視聴の方はご注意。つか作品見て!気になるならお願い!見て!

  この作品のTVシリーズは、近年見たアニメの中では最も気に入っている。クオリティの高さで定評ある京都アニメーション制作作品の中でも、一番好きだと言っていい。なので、仮にあの事件がなかったとしても、今回の外伝の劇場公開を見に来ていたと思う。だが、商業的に成功することが制作スタジオを何より力付けることになるのではないかとも思い、その一助になればという気持ちがあって劇場に足を運んだことは否定しない。それでもやはり、見て後悔のない素敵な作品だった。

  

 TVシリーズヴァイオレット・エヴァーガーデン』は、感情表現を知らない戦場の殺人兵器として育てられた少女ヴァイオレットが、戦後、手紙の代筆という仕事を通じ、様々な人々との交流を重ねていきながら、「愛してる」の意味を知っていく物語だ。

 では、その「愛してる」の意味とは何か?それは当然、人ぞれぞれによって形が違う。しかしこの作品で一貫してるものを敢えて一言で置き換えるなら、「赦し」だと受け取っている。様々な過ちや悔い、悲しみを重ねながらも、あなたに「生きてほしい」「生きていてほしい」「生きていてほしかった」と願うことで、願われた者の生は「赦し」となって生き続けることができる。それはこの世の生として失われた者であっても、願う人の心の中で、「愛してる」という言葉によって、生き続ける「赦し」を得るのである。

 今作『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝』で主人公ヴァイオレットは、二人の少女と出会う。物語の前半は全寮制女子学校に通う貴族の娘イザベラ・ヨーク、後半はそこから3年後、孤児院を抜け出してヴァイオレットが勤めるC.H.郵便社にやってきた10歳の少女テイラー・バートレットだ。この二人は、かつて貧民街で一緒に生きていた疑似姉妹であった。

 イザベラは、エイミー・バートレットの名で孤独に日銭を稼ぎながら、その貧民街で生活していた。そしてある日、親に捨てられ雪の中にうずくまっていた幼いテイラーを自分の妹として迎える。二人で幸せになることがこんな世の中への復讐なんだと誓い、エイミーはテイラーと共に貧困の中で必死に生きていた。

 だがある日エイミーは、突然現れた紳士に、自分は貴族ヨーク家の非嫡出子であること、その紳士が父であることを告げられる。そして過去も「エイミー」という名前も捨てて共に来れば、妹テイラーの生活は保証してやると言われ、彼女はテイラーを残し、ヨーク家の娘イザベラとなった。

 イザベラの教育係兼侍女としてヴァイオレットが女子学校に派遣されてきたとき、イザベラは牢屋に閉じ込められているが如き日々に鬱屈していた。この学校にいる生徒は皆、名声ある男の下に嫁ぐためだけに教養と嗜みを学ぶ存在であること、過去を捨てた自分もまたヨーク家の娘という以外に価値のない存在であることに絶望していたのである。

 だが、当初反発していたヴァイオレットに対して、彼女も孤児であったという過去を知ったことで、次第に心を開いていく。そしてある朝、遅刻しそうになりながら校舎に向かって二人で走っているとき、イザベラはヴァイオレットに「このまま二人でどこかへ行っちゃおうか」と冗談交じりに言う。するとヴァイオレットは「どこへも行けませんよ」と静かに答えた。

ヴァイオレット「いいのでしょうか?私は、自動手記人形でいて、いいのでしょうか?生きて……生きていて、いいのでしょうか? 」

ホッジンズ「してきたことは消せない。でも、君が自動手記人形としてやってきたことも、消えないんだよ。ヴァイオレット・エヴァーガーデン。」

TVシリーズ第9話より)

 イザベラが捨ててきたものは、「エイミー」という名前と過去だけではない。テイラーを幸せにするという名目で、テイラーと一緒に幸せになってこの世の中に復讐するという誓いも、そして捨て子だったテイラーのことも再び捨ててきてしまった。しかしその全てが消えない過去であり、その結果としての今も消えないのである。この時点でのヴァイオレットはまだイザベラの過去を知らなかったが、「どこへも行けませんよ」という、一見冷たく突き放したようなヴァイオレットの答えは、彼女自身の経験から自ずと出されたものだ。それは、消えない過去と、その結果としての今の自分を受け入れてもよいという「赦し」だったのだろう。だからイザベラは、ヴァイオレットに反発せず、黙って一緒に校舎へと走った。

 デビュタントと呼ばれる初の舞踏会を無事に終えた夜、イザベラはヴァイオレットに自分の過去を打ち明ける。するとヴァイオレットは、テイラーへの手紙を書くことを促した。イザベラは短い手紙を書き、ヴァイオレットにそれを託して、翌朝、教育係の役目を終えて立ち去る彼女を見送った。

 これに続くシーンは、正直なところ少し説明不足な感じはしたが、前半作中に取り巻きに囲まれた名家の子女として幾度か登場していたアシュリー・ランカスターが一人で現れ、やっと二人で話せるとイザベラに近寄ってきた。何か企んでるんじゃないかと思わせる登場だったが、日陰から陽の差す窓辺へと踏み出して「家柄とか関係なく、あなたと話したかったの」と告げたことで、これが「イザベラ」という今の彼女を承認するシーンなのだと理解できる。

 後半、孤児院の庭に一人でいたテイラーのもとへ、C.H.郵便社の郵便配達人ベネディクトが現れ、二通の手紙を届ける。一通はヴァイオレットから、もう一通がイザベラからのものだ。まだ幼くて言葉が拙く字が読めないテイラーに、仕方なくベネディクトは手紙を読んで聞かせる。

 ヴァイオレットからは「困ったことがあれば、いつでも訪ねてきてください」と。そしてイザベラの手紙には「魔法の言葉」が記されていた。その言葉とは「エイミー」。テイラーを幸せにするために捨て、もう誰からも呼ばれることがなくなった名前を、イザベラはテイラーを幸せにする魔法の言葉として彼女に残したのだ。

 3年後、10歳になったテイラーが、ここで働きたいといってC.H.郵便社にやってくる。無断で孤児院を抜け出してきたのは明らかだったが、問い合わせ等の手続きをする間、見習いとして面倒を看るよう、ホッジンズ社長はヴァイオレットに言い渡す。しかしテイラーは、自動手記人形ではなく、郵便配達人になりたいと言った。3年前、ベネディクトが自分に幸せを届けてくれたから、自分もそんな仕事がしたいと。

 そのころベネディクトは、代り映えのない毎日をつまらないと感じていた。だが、「師匠」と慕って付いてくるテイラーと関わる中で、彼の心も動かされていく。また、字が読めないテイラーに、ヴァイオレットも配達を手伝いながら字を教える。それはかつて彼女が軍にいたころ、唯一彼女を兵器ではなく人として接してくれたギルベルト少佐が字を教えてくれたことをなぞるように。

 テイラーは、ヴァイオレットに手伝ってもらいながら、エイミー宛の手紙を書く。しかし彼女は今、どこにいるか分からない。でも、どうしても届けたいと訴えるテイラーに、ベネディクトは答えた。

届かなくていい手紙なんてないからな。 

 あらゆる手を尽くしてエイミー=イザベラの居場所を突き止めたベネディクトは、新調してもらったサイドカー付バイクにテイラーを乗せ、過去を消されるようにイザベラが嫁いだ貴族の館へと向かう。

 館の外の人と殆ど交わることなくひっそりと暮らしていたイザベラは、日に一度だけ昼時に裏門から外に出、池の畔に立つのを習慣にしていた。淑女然とした濃紺の服を着て静かに池の淵に現れたイザベラに、ベネディクトが歩み寄り、エイミー・バートレッドへの手紙だと言ってそれを手渡す。驚いたイザベラは差出人の名を見、手紙を読んで泣き崩れた。

私はテイラー・バートレットです。
エイミー・バートレットの妹です。 

  たったそれだけの文章だったが、それはイザベラにとって間違いなく幸せを届ける手紙だった。あの子の幸せのために捨て、魔法の言葉として託した「エイミー」という名前を、テイラーは妹として今も呼んでくれているのだから。それは「イザベラ」となった今の彼女自身を認めてくれる過去からの「赦し」だったと言えるだろう。

 草陰に隠れて泣きながらエイミーを見ていたテイラーは、しかしそこから出ては来なかった。帰り道で「本当に会わなくてよかったのか?」と問うベネディクトに、「いつか自分で届けに行くから。」とテイラーは笑顔で答える。一人前となった幸せな姿で自ら手紙を届けに行くことが、「エイミー」の選択を全肯定することであると、幼い彼女は無自覚のままにも分かっていたのだろう。

 再び館から現れた姿が映されたイザベラ=エイミーは、真っ白な服をなびかせ、力強い足取りで、裸足のまま池の畔へと歩み出た。そして大きな声で「テイラー!」と叫ぶ。遠く離れていても、互いに名前を呼び合うことで、それは互いの幸せを願う魔法の言葉となるのである。

 作中、街灯がガスから電気に替わり、結婚しても女性が仕事を続けていかれる新時代の息吹が折々に描かれていた。手紙の届け先の老婦人が建築中の電波塔を指して毎回「あれはいつ完成するんだい?」と訊いてくるのに対し、当初は面倒くさそうに対応していたベネディクトが、最後は「そのうち、そのうちな。」とどこか楽しげに答える。それはまるで、テイラーが一人前になるのを待っているかのようだ。

 きっとテイラーが一人前となって再びエイミーに会いに行くとき、エイミーもまた真っ白な服で館の奥から新時代へと力強く踏み出すのかもしれない。そのとき復讐ではなく、新時代で二人で幸せになるという誓いが果たされるのではないだろうか。互いが名前を呼び合う限り、捨てた過去は、決して消えないまま未来へと繋がるのだから。

 

 今作のエンディングクレジットでは、作品に関わった全てのスタッフの名前が記されたという。従来京アニでは、就業一年未満のスタッフは除かれていたというのだが、今作で初監督となった藤田春香氏のたっての希望で全員の名前が明記されたということだ。今作では名前というものがとても重要な意味を持つ。だから仮にあの事件がなかったとしても、そしてあの事件があったからこそ、関わった全員の生きた証として、クレジットに全ての名前を明記したのだろう。

 世間では、報道であの事件の被害者の名前を公表したことの是非が論議になっているが、確かに遺族の意向に反して勝手に公表することは避けるべきだったろう。しかし名前を知ることで、35人の犠牲者という数字だけではない、一人ひとりの生の存在の重みを感じることも確かだ。少なくとも、今作のクレジットに記された全ての名前を見つめ、この作品を作り出してくれたスタッフの皆様全ての生に感謝したいと思う。

新海誠『天気の子』を見て ー というか新海作品への雑感

 2回見た。1回目は公開翌週、2回目はそこから2週間後。

 1回目はほぼ予備知識を入れず、見終わった直後の感想が「ヒャッハー!キモいぜ新海!やっぱあんたはそうでなくっちゃwww」といった感じだった。当然新海の過去作を見てきた上での感想なわけだが、ちなみに『星を追う子ども』だけ未視聴です。

 上記未視聴作を除くと、新海作品は『ほしのこえ』+『雲のむこう、約束の場所』、『秒速5センチメートル』+『言の葉の庭』、そして前作『君の名は。』の3グループに大雑把に括れ、今作『天気の子』は商業エンタメ的な作風としては『君の名は。』と同グループに入るのだろうけど、内容的なテーマはむしろ『ほしのこえ』+『雲のむこう、約束の場所』に回帰してるのかなと。つまり、万人受けする『君の名は。』のビジネス的成功によって「新海誠」という名前だけで集客できる力を持ったことにより、前作で培ったエンタメ性を活かしつつ、自分が本来描きたかったものを躊躇いなくやっちまったのが『天気の子』ではないか、と思ったわけだ。

 新海作品は基本的に、たった一人の誰かに自己の発見と承認を求めている物語だ。これはもちろん、世の中に数多ある物語にありふれたモチーフである。まあしかし、彼の粘着性はなかなかのもので、彼の最大の売りである背景描写のリアリティーある美しさが、ギャップとなって自己の内面を際立たせる効果を発揮している。

 まさにアニメとしての新海作品らしさとはこれで、既視感ある風景が、普段の目線を外した位置から、俯瞰、仰観、ローアングル等で様々に美しさとリアリティーを持って描写されることで、自分が気付いていなかった新たな世界として迫り、翻って社会、世の中、世界といったものからの自己の孤立感をもたらすのだと思う。 

 処女作の短編『ほしのこえ』では、宇宙空間と時間という形で広がる主人公二人の距離によって、ただお互いだけが繋がっていたいという思いの希望と絶望がストレートに描かれる。『雲のむこう、約束の場所』では、一見ハッピーエンドのように見えて、しかし救われる世界と引き換えに、少女・佐由理が夢の中で求め続けた思いは記憶とともに消え、作品冒頭に登場していた大人になった少年・浩紀の傍らに佐由理はいなかった。

 「セカイ系」って言葉の定義は人によって結構ブレがあるようなので、あまりこの言葉に引っ張られないほうがいいのだろうけど、「セカイ系」と呼ばれがちな新海作品では、「セカイ」は本質的に主人公たちには無関心であり、たまたまリンクしているだけだ。少年と少女は、圧倒的な「セカイ」の一部に過ぎず、人知では計れない「セカイ」の意思からは結局のところ疎外されているのである。

 『秒速5センチメートル』と『言の葉の庭』ではSFファンタジー要素を排し、「セカイ」はよりリアルな現実として存在する。主人公たちはここでも、美しくもリアルな風景の中で、自分を承認してくれるたった一人を求めながら、希望は希望のままに、最終的には現実という社会に自己を置いて生きていくことになる。『秒速5センチメートル』を最初に見たとき、この作者は新たな作品を今後書けるのだろうかと心配になったほどだ。

 しかし『君の名は。』で新海誠は、ついに「セカイ」を救うと同時に、最終的に互いを見つけ合うハッピーエンドを描いた。だからこの作品は、万人受けして大ヒットした。だが、この作品の主人公たちがそれまでの作品と違うのは、瀧には根っからの正義感と社交性があり、また三葉には宮水家が受け継いできた使命を最終的に担う度量があったことだ。彼らは運命によって結ばれた互いを求め合いながらも、彼らが背負ったものは二人だけではなく、正義感と使命感をもって自らの意思で「セカイ」に介在していき、糸守町を悲劇の運命から救い、更には記憶の消滅という無慈悲な運命にも打ち勝って互いに辿り着くのである。いわば出来すぎなのだ。だからこそ、エンタメとしては面白い作品になったといえる。

僕は、本作を“帆高と社会の対立”の映画だと思っていて。個人の願いと、最大多数の幸福のぶつかり合いの話だと思うので、そこに社会は存在している。帆高は大人の社会で働こうともするし、警察も出てくるわけです

『天気の子』新海誠監督が明かす“賛否両論”映画を作ったワケ、“セカイ系”と言われることへの答え - 2ページ目 - 映画 Movie Walker

  2回目を見るにあたり、あちこちで取材に答える新海誠の記事をいくつか読んだ。上記のように、新海は『天気の子』を「帆高と社会の対立」「個人の願いと、最大多数の幸福のぶつかり合いの話」だと述べている。この点、『君の名は。』の瀧と三葉は「個人の願いと、最大多数の幸福(糸守町住民の命)」は一致しており、運命とは対峙しても、社会とは本質的なところで対立していない。だが『天気の子』の主人公・帆高の願いは、運命と対峙し、そのために最終的に社会と対立する。彼はただ、自分を承認するたった一人の少女・陽菜を救うために動くのである。

 これが過去作への回帰という印象を私に与えたのだ。特に『雲のむこう、約束の場所』での少年側主人公・浩紀の動機は長い眠りにある佐由理を目覚めさせることにのみあり、そこに戦争や世界の消滅という大きな運命が絡んできても、親友・拓也の協力を得て、軍事境界線を越えて(社会状況に対立して)飛行機を飛ばした。そして佐由理を目覚めさせると同時に世界の消滅という危機も食い止める。だが既述のとおり、その代償として佐由理の記憶は消え、二人の願いと思いは、佐由理が目覚めた瞬間の一瞬の交差で終わる。これが社会、世の中、「セカイ」に対する新海誠の精一杯の抵抗であり、諦めだった。

 『秒速5センチメートル』と『言の葉の庭』で現実社会を逡巡した後、個人の願いを叶え、ハッピーエンドにするために君の名は。』で彼が採った手段は、個人の願いを「結果として」多くの人々を救うことと一致させることだった。これは彼にとって大きな転換だったと思う。

 しかしこの出来すぎた結末は、興行的に大成功するほど万人受けしたにも拘らず、思わぬ批判も呼んだ。

君の名は。」の中で災害は起きるんですが、死んでしまった人を生き返らせる。僕はあれは、生き返らせる映画ではなく、未来を変える映画のつもりで作ったんですよ。あるいは、強い願いそのものを形にするとこういうものなんじゃないかっていう形が、映画の『肝』だったんですけど。

でも、「代償もなく死者をよみがえらせる映画である」「災害をなかったことにする映画である」という批判は、ずしんとくるものがあって。

WEB特集 新海誠監督 批判を乗り越えた先に | NHKニュース

  確かに、例えば東日本大震災で肉親や友人を失った人にとって、現実はそんな都合のよいものとして受け止められないはずだ。フィクションとは現実では叶えられない願いや夢を描くものだとしても、現実や運命の大きさを知る人は、それに対し無邪気にはなれないだろう。

 ならばどうすればよいのか。

 「君の名は。」を批判してきた人たちが見て、より叱られる、批判される映画を作らなければいけないんじゃないかというふうに思いました。

君の名は。」には、それだけ人を怒らせた何かが映画の中にあったはずで、怒らせるというのは大変なエネルギーですから、何か動かしたはずなんですよね。そこにこそ、きっと自分自身に作家性のようなものがある。

あるいはもっと叱られる映画を作ることで、自分が見えなかった風景が見えるんじゃないかという気もしたんですよね。 

WEB特集 新海誠監督 批判を乗り越えた先に | NHKニュース

  そこで『天気の子』で採った手段が原点回帰であると同時に、ついに開き直って放ったあの結末だと思う。つまり、「個人の願いと、最大多数の幸福」を一致させることなく、過去作でずっと諦めてきた個人の願い、たった一人の誰かによる承認という願いを叶えてしまったのである。私はあれを見て、まさに「ヒャッハー!」となったのだ。ついにやっちまったよと。

 新海は「帆高と社会の対立」と述べているが、発端の家出の原因についてはぼんやりとしか語れず、帆高のバックボーンとしての社会性はほぼ描かれない。彼自身は社会との対立以前に、まず社会から浮足立った状態にあった。須賀の事務所に住み込みで働くことで社会の中に身を置き始めるが、彼自身が社会と対立する動機は当初はなかった。偶然拾った拳銃によって、反社会性のアイコンを早々に手に入れるも、あくまで最初は単に社会の埒外だっただけである。

 一方ヒロインの陽菜は、母を失ってから弟の凪先輩と二人だけの生活に拘り、児童相談所の介入も拒否し、むしろ彼女のほうが社会と対立する動機があった。しかし晴れ女の能力を使ってお金を稼ぐという手段を、帆高の提案によって得たことで、誰かの役に立つ自分という、社会の中の自己を見出していく。しかしその能力の行使は、いずれ人柱として「セカイ」から消えるという代償を伴うことを知る。陽菜は社会に身を置くきっかけを作ってくれた帆高に感謝しつつも、その能力によって「セカイ」から消えるという矛盾を受け入れる覚悟をしていく。

 帆高はこのような陽菜の運命を知ることで、はじめて「最大多数の幸福」という社会と対立し、自分を承認するたった一人の少女を救うという個人の願いのために走り出した。警察から逃げ出し、道路を混乱させ、線路の上を走り、一旦は社会に引き戻そうとした須賀を前に拳銃を撃ち放つ。もともと彼には社会と対立する動機なんてなかったからこそ、社会と「セカイ」を敵に回した彼個人の願いは、運命に奪われた陽菜を取り戻すという一点に純化された。だからこそ、新海が過去作でずっと諦めてきた自分だけの願いというものを叶えることができたのだろう。

 結果として、陽菜が消えていた間だけ晴れ渡った空は、帆高とともに彼女が地上に戻ったと同時に、その後3年経っても降り止まぬ雨となって、東京を水没させていった。多くの人が住む場所を失ったことは作中でも示唆されているし、現実的にこんな状況を考えれば、疫病が広がって死んだり苦しんだりする人たちがいてもおかしくないだろう。「最大多数の幸福」を奪った帆高個人の願いの代償は、本来あまりにも大きい。

 世の中の多くのフィクション、そしてそれ以上の現実社会では、「最大多数の幸福」のために、自分自身を犠牲にすることを美徳としてきたし、今もしている。でもこの物語は、その真逆のことをやってのけてしまった。だからきっと、社会性を大切に生きる多くの人たちの怒りを買うことになるかもしれない。

 でも、たった一人の誰かと繋がりたい、自己の存在を承認されたいという個人の願いもまた、恐らく古から普遍的に存在しているものだろう。だからせめてフィクションの中だけでもと、新海はそれを堂々と突きつけてみせたのだ。

 更に図々しいことに、「こんなの異常気象ではない」(気象神社神主)、「世界なんて元々狂ってる」(須賀)、「元に戻っただけかもしれない」(立花老婦人)という台詞で、社会や「セカイ」こそ、個人の願いがもたらしたこの運命を受け入れる度量を見せてみろと言ってのけているのである。

 ホント、ヒャッハー!である。

ポストSSAから歴史としてのWUGへ

 この記事タイトルをネガティヴなものとして受け止めないでほしい。ざっくり言うなら、SSAの余韻からシームレスに始まってしまったその後の月日に対し、自分なりに一旦線を引こうというだけだ。

 解散後SNSを順次始めた彼女たちが、ライブのMCやWUGちゃんねる、ぺらじなんかを見たり聴いたりしていたときとまるで変わらず絡み合い、じゃれ合っている様子を見て、素直に微笑ましい気持ちになりながら、ポストSSAの日々は進んでいた。それは、気持ちの軟着陸という意味では、とても理想的で、私が知っている彼女たちらしい姿だとも思っている。

 ただ、昨年6月15日の解散発表から始まったファイナルツアーの怒涛の濃密な時間と、これ以上ないほどの大団円をもって幕を閉じたSSAのファイナルライブを振り返ったとき、WUGの6年間、自分が彼女たちと出会ってからの5年余り、そしてあの怒涛の9カ月を、きちんと「歴史」にしなければいけないな、と思うのだ。

 ああ、もちろんWUGについての歴史書を執筆しようというわけではないですよ。念のためw

 「歴史」というと、あたかも終わってしまったものにするかのように聞こえるかもしれない。でも「歴史」とは、実は発見によって紡がれていくものなのですよ。書き留められる事実は、そこに意味や価値を見出されるからこそ、「歴史」として書き留められる。子供の頃、そのときは大ごとのように思えた出来事も、時とともに記憶も印象も薄れ、「なんかそんなこともあったかな?」くらいになってしまったものが、誰しもあるだろう。しかし、その後の人生で再び呼び起こされ、新たな意味や価値を生み出す経験や記憶は、その人の人生において「歴史」としてしっかり刻まれたものといえる。 

Wake?Up,?Girls! ?FINAL?LIVE?想い出のパレード? [Blu-ray]

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 先日SSAのブルーレイが届いた。

 あ、とりあえずあの場にいた13000人のみなさん、買ってね!少ないバイト代をやりくりしてる学生さんなんかも、毎月ちょっとずつ貯金して数カ月後になってもいいから、是非是非手に入れてね!

 さて、映像を見ると、200レベル最前で見ていた景色とは違うものがいろいろ見えてくる。ただそれによってあの時の印象が変わるわけではなく、それが補完される。私はあの日、ステージ上の彼女たちの表情がほとんど分からないにもかかわらず、モニターは敢えてほとんど見ていなかった。彼女たち7人の姿を可能な限り全て残さず直に目に焼き付けたかったからだ。それが今、映像を通じて、記憶に残るそれぞれの瞬間にメンバー一人ひとりの表情が補完され、見えていなかった会場全体の一部として、自分があの景色を作っていたことを視覚的に理解する。これによって、私の中のあの日が、一旦記憶として完成されたわけだ。

 このブルーレイによって、彼女たちの軌跡を映したものは事実上全て出揃った。ファイナルツアーPart IIIで使われた各メンバー毎のPRINCESS紹介動画が追加リリースされるらしいし、Animaxで放送されたドキュメンタリーが円盤化されたりしてくれたら、まだもう少しプラスアルファされるかもしれないが、いわば一次史料としては、SSAのブルーレイで一区切りと言っていい。

 だからここで、あの日からなんとなくシームレスに続いてきたポストSSAの感覚から、一旦線を引こうと思う。そしてここからは、人生の第二章として、WUGちゃんたちを新たに見つけていく自分へと切り替えていきたいと思うのだ。

いま気づかれなくてもいい。
5年でも、10年でも、20年先でも、
WUGってすごいグループだったと言ってもらえる自信があります。

 SSAで語ったあいちゃんのこの言葉は、必ずしもこれからWUGを知る人たちを指すものではないだろう。私を含めたワグナーたちもまた、WUGが存在した意味を20年先にも新たに見出だせたなら、 WUGはこれからも「歴史」として残っていくことになる。だからこそ、まゆしぃの「Wake Up, Girls!をこれからもよろしくお願いします!」という言葉もまた、私たちに意味成すものとなる。

 最近、ツイッターから距離を置いている。別に辞めてしまうつもりではないが、少しWUG後の自分を作り直すための一環だ。メンバーそれぞれが始めたラジオやインターネット番組も視聴しているが、リアタイで頑張って聞く感じではなく、週に一、二度時間を作って、まとめてになっている。ワグナーとしてあの内側にいた当事者性より、新たなスタートを切った彼女たちを、少し離れたところから見守るスタンスといったところだろうか。

 彼女たちが参加するイベントや舞台にも、今のところ行っていない。もちろんこれは、今も変わらず足繁く現場に通っているワグナーたちがいてこそ出来ることであり、彼らに任せて安心しているということでもある。

 だからまあ、つらつらと書いてはきたが、こうあるべきだという話ではなく、WUG後の過ごし方は、ワグナー皆それぞれであっていい。人によっては、現場で新たな彼女たち一人ひとりを見出すことによって、WUGを「歴史」としていくのだろうから。

 このところはとにかく本を読んでいる。4月以降、十数冊といったところか。このブログも、始めた頃の本来の主旨に戻って、読書や映画・アニメの備忘録的感想を書こうかと思ってるが、無理してもかつてのように長続きしないので、気が向いたらって感じになるだろう。

WUG新章で実らせた旧章の種 ー 「男鹿なまはげーず」からの一考察

 突然今更だが、アニメWUG新章についてちょっと考察してみようと思う。ただ、作品全体に対する見解は、既に昨年1月の最終話放送のあとに書いており、その内容について今も特に変更点はない。 

 今回は一つの切り口に絞った作品解釈の試みだ。具体的には、物語上の「男鹿なまはげーず」の存在意義についてである。上の記事内で、前作には「それより他に描くべきところがあっただろ」というツッコミどころがあったと書いたが、もともと旧章が終わった時点で思った「それより他」の「それ」とは、男鹿なまはげーずのことであった。その辺から書いていこうと思う。
※ちなみに「他に描くべきところ」については、自ずと旧章批判になってしまうので、話が散漫になるためここでは触れない。

◆旧章TVシリーズ第10話

 旧章TVシリーズ第10話というのは、続劇場版まで含めた旧章を大きく二つに分割した場合の、第2部第1話という捉え方が出来る。

 劇場版「七人のアイドル」から第9話までは、まだ互いの気心が分からず手探り状態だったWUG7人が、様々な試練を通じてぶつかり合いながら認め合っていく話だ。それゆえ暗く重い展開が多く、また片山実波や菊間夏夜の背景に震災の影も仄めかして、東北の苦難ともオーバーラップさせる。そして気仙沼という震災の傷跡がダイレクトに残る街で、島田真夢が一人で抱え込んでいた過去をみんなに打ち明けることによって、7人がようやく心から互いを認め合い、アイドルの祭典へ向けて心を一つにする。

 第10話は結束した7人が再スタートする回であり、これ以後続劇場版後篇「Beyond the Bottom」(以後「BtB」)まで、試練に苦しむ場面はあっても、メンバー同士が相互不信でもめ合うようなことはなく、全体的に思考がポジティブで、物語が明るくなっている。

 それを最初に強調するギミックとしてこの第10話で初登場したのが、男鹿なまはげーずだ。アイドルと呼ぶには如何にもイロモノなキャラ設定で、夜道で突然現れ、七瀬佳乃と真夢に宣戦布告したコミカルなシーンは、第9話まで最も心を許し合えていなかった二人が、既に頼り頼られる関係になっていることを視聴者に理解させることが目的だったと言ってよい。つまりこの場面は別の演出にも差し替え可能であり、男鹿なまはげーずというキャラクターに必然性はなかった。

 しかし、第10話の最後にWUGがアイドルの祭典東北予選を優勝した場面で、男鹿なまはげーずがWUGにエールを送ることによって、彼女たちに別の存在意義が付与される。それは、WUGにバトンを託す東北のアイドルたち全員の代表としての意味だ。また「わたすら明日からまたバイトの毎日さ戻るばって」という台詞から、苦労の日々の中でも前向きに元気に生きようとする東北の人々の姿も象徴される。そのように男鹿なまはげーずによって、WUGは7人が結束して再スタートしたその時から、7人だけではない、東北のアイドルたちと繋がった存在となる。今振り返れば、「Wake Up, Idols」という全国のアイドルと繋がっていった新章終盤の活動が生まれる最初の種を、ここに見出すことが出来るだろう。

 ただ、その後TVシリーズでは、佳乃の怪我というトラブルを抱えてアイドルの祭典本戦に向かうWUG7人の話に焦点が絞られたため、本戦のステージに立った彼女たちから東北代表という観点が薄れてしまったことは否めない。東北との関係性を感じ取るためには、第9話までに描かれてきたメンバー個々人の背景にまで改めて思いを致す必要があり、相対的に男鹿なまはげーずとのエピソードの意味は小さくなる。

◆BtB

 次に男鹿なまはげーずが登場するのがBtBだ。WUGは、続劇場版前篇「青春の影」で一度東京に進出したものの、東京の業界ルールに馴染めず、仙台に戻って再度アイドルの祭典を目指すことになる。BtBではまず仙台での活動を描き、そこが拠点であることを明確に示した上で、バンに乗っての全国行脚に出かける。その出発点が秋田の男鹿なまはげーずとの合同ライブだ。ここで男鹿なまはげーずは、イロモノという意味合いがぐっと後退し、WUGと切磋琢磨し合える良きライバルになっている。

 また全国各地で街頭ライブを繰り返して地道に認知度を高める活動は、「Wake Up, Idols」と同じベクトルを描いており、ここにも新章の種が蒔かれていることが読み取れる。

 ただ、二番目の点を強調すると、男鹿なまはげーずの話がなくても、街頭ライブを通じて東北から全国へという筋立ては作れるため、彼女たちの存在は不可欠ではなかった。明らかに尺の都合とはいえ、東北地区予選で男鹿なまはげーずはWUGと一瞬笑顔を交わすのみで、次の瞬間にWUGは予選を突破し、その後登場シーンはない。

 物語の後半は、楽曲「Beyond the Bottom」の作成、久海菜々美のエピソードを駆け足で消化し、WUG7人の結束を再度確かめ合った上で、アイドルの祭典優勝というピリオドを打つ。この時WUGのライバルはI-1 Clubであり、岩崎志保率いるネクストストームだ。結局旧章終幕時点で男鹿なまはげーずの存在意義を高く見積もることは難しく、どこか代替可能な存在感で終わってしまった。

 一方、I-1センターから都落ちして博多に移った志保は、駆け出しの後輩たちとともに一から再出発することで、真夢と同じ立場で挑み合う気持ちを手に入れた。ここに、男鹿なまはげーずの僅かなシーンで描かれていたものが、メインキャラの一人である志保にも移植されているのである。WUGと男鹿なまはげーずの関係が先に描かれていたから、WUG、あるいは真夢が志保に与える影響の変化を読み取りやすくさせたとも言えるだろう。もちろん、過大評価であることは否定しないが。

◆漫画「エターナル・センシズ」

 この漫画は公式原作・監修による、BtBと新章の間の時期を描く物語だ。WUGはアイドルの祭典に優勝したものの、これはいわばライブパフォーマンスに特化した対戦であった。バラエティー等での力不足は前回東京進出で痛感しており、この漫画では、まずは仙台でしっかり地保を固め、確実にステップアップする方針が描かれる。

 男鹿なまはげーずは、WUGがまたアイドルの祭典に出場すべきか悩んでいる時に登場する。宣戦布告に来たといいながらも、WUGが決めかねていることに理解を示しながら、「おめがんだ見てると元気が出てぐす」「不思議とやる気になるす」と素直に話す。この直後に男鹿なまはげーずの運営状況が芳しくないことが示唆されるが、そんな中で彼女たちにとってWUGの存在が頑張るモチベーションとなっていると描かれているのだ。そしてこの漫画の最終話、地元ライブを終えたWUGメンバーたちの会話の中に、以下のような台詞がある。

「昔の人は夜の間北極星を頼りに旅をしたんだって」 
「ふうん…北極星か…」
「九州や秋田からも見えてるかな」

  九州は志保のネクストストーム、秋田は男鹿なまはげーずを指しているのは明らかだ。「エターナル・センシズ」はアニメ新章放映前の制作時期に並行してWEB公開されていたのだが、既に新章の結論を先取りしていた格好だ。「Polaris」の歌詞が書かれたのが、2017年6月頃と言われているので、漫画の終盤では歌詞も反映されていたわけだ。つまり男鹿なまはげーずは、「Polaris」というキーワードが生まれてすぐに、作品内でそれと直結するキャラクターとなった。旧章ではストーリー上代替可能な危うい存在だったものが、その中でささやかに蒔いた種によって、新章の主題を象徴する存在へと昇格するのである。

◆新章第11話

 男鹿なまはげーずの新章での登場は第11話(作品本編としては10話目)だが、第1話で解散したことが大田たちによって語られている。旧章のような存在感だと、アイドル不況という状況設定を説明するための一具体例として消化されてしまう可能性もあっただろう。しかしこの第1話での言及は、旧章で蒔かれた種を終盤で実らせるための伏線だった。

 第11話、ツアーチケットの売上が伸び悩んでいたため、WUGメンバーはそれぞれにゲリラライブを敢行する。そんな中、岡本未夕が、訪れたメイド喫茶で再始動した男鹿なまはげーずのライブチラシを発見した。未夕は夏夜とともに男鹿なまはげーずのライブに行くと、頑張ってるWUGを見ていてまた歌いたくなった、「おめたつのお陰」だと言われるのである。

 そこで未夕は自分のインターネット番組に、男鹿なまはげーずをゲストに呼ぶ。しかも次のライブはWUGと同じクリスマスで、全国でも多くのアイドルがライブをするから、アイドル尽くしの一日にしようと盛り上げるのである。バッティングすることを恐れていた旧章の頃とは大きく異なり、彼女は自信をもって全国のアイドルへも呼びかけていこうとするのだ。そして彼女がオファーした先に星のシールを貼り付けた日本地図をメンバーが見て、星をテーマにした「Polaris」という歌が生まれるのである。更に第12話で、アイドルがアイドルを応援する「Wake Up, Idols」へと発展するのだ。

 男鹿なまはげーずは、7人だけでなく、もっと多くの人たちと与え合いお互い幸せになれると、WUGメンバーたちに改めて気づかせるきっかけとなった。それが互いを照らしてつながり、みちびき、輝く「Polaris」という歌に結実するのである。

◆作品解釈のまとめ

 「Polaris」のサビ前は、不安や傷ついた心と東北の震災を示唆する重い言葉が綴られている。作品と結びつけて解釈するなら、ここには旧章第9話までの思いが込められている。アニメ作品のWUGが他のアイドルアニメと一線を画す特徴は、ここにあると言ってよい。そこには露悪的なほどに汚い世の中の側面も描かれ、まだお互い心を許し合える関係になっていないアイドルたちが悩み苦しむ姿に、単に華やかなだけでないリアリティが映し出されていた。

 しかし、理想のない現実主義は、単なる場当たり主義にすぎない。そこで、不安や苦しい現実からも、お互いが本音で理解し合い、心を一つにすれば、アイドルとして胸を張って人々に幸せを届けていくことが出来るという理想が描かれた。それが旧章第10話からの物語である。

 その過程で、結束したWUGがWUG以外で最初に対等に認め合い高め合う存在となったのが、男鹿なまはげーずであった。作中I-1 Clubというトップアイドルグループが対置されていたため、旧章内の男鹿なまはげーずは、結局一過性のエピソードにすぎないキャラクターで終わってしまった感が強かった。しかし僅かでも彼女たちの存在意義を汲み取ろうとしたとき、新章へと繋がる種がそこにあったことに自ずと気づくことになる。

 監督が代わっての新章制作が発表されたとき、私は旧章を「古典」としてどれだけしっかり解釈し、次へ進む物語に出来るかが重要だと考えていた。結果として新章制作陣は、実にしっかり旧章を咀嚼し、男鹿なまはげーずをきっかけに、東北から全国のアイドルたちと照らし照らされる関係へと実らせる「Polaris」へと、作品を仕上げることが出来たと言えるだろう。

◆「Polaris」作詞者「Wake Up, Girls!」と新章

 最後に作詞者であるリアルWUGとの関係について簡単に。

 作品WUGとリアル声優ユニットWUGは切っても切れない関係だ。新章の結論といえる歌の作詞を彼女たちに任せた時点で、新章制作陣は彼女たちのこれまでの活動を通じた思いを作品に込めようとしていたと考えていい。

 旧章以後、個々の活動を通じてファンを増やし、同時に、見ていると誰もが幸せの笑みを浮かべてしまうほど仲の良さを深めてきたWUGちゃんたちは、旧章第10話以降の段階にあったと言っていい。先輩ユニットi☆Risをはじめ、様々な声優ユニットやアイドルたちとも認め合い、刺激し合える関係を築いていた彼女たちが、周りで支えるスタッフたちや応援するワグナーたちとの関係性に思いを致したとき、自然と「Polaris」の歌詞が生み出されていったのだろう。

 新章はそんなWUGちゃんたちの思いを活かすため、旧章を際立たせる「現実」を描いた特徴より、旧章が目指した「理想」をより発展させる明るいストーリーになったと考えていいのではないだろうか。

WUGちゃんへ

 WUGちゃん、こんばんわぐ~ こんにちわぐ~

 

 初めてお便りします。といっても、このお便りを手紙として直接お送りすることはありません。ネットの海の中でたまたま見つけて読んでくれたら嬉しいな、という気持ちで書いてます。というか、七人宛の手紙を届ける手段が分からないので……。

 お一人お一人には直接お手紙を送るつもりでいます。が、生まれてこのかたファンレターというものを書いたことがないので、もし煮詰まって結局書けなかったときはゴメンナサイ。

 

 私は最初から一貫して箱推しです。May'nちゃんが言うところの「七人単推し」という表現が一番正しいですね。みんな個性が違う一人一人が大好きで、他のワグナーさんから「それでも誰か一人特別な子がいるでしょう?」と訊かれても、「みんな一人一人が好きすぎて、誰か一人を選ぶなんて無理!そんなのできない!」と駄々をこねるように答えてますw

 一体この気持ちはなんなのだろうと自問したことがあります。私はみんなの親御さんのほうがずっと近い年齢なので、「娘を見るような感じなんでしょ」とよく言われますが、いやいやいや、みなさんが生まれたときから手塩にかけて育てた親御さんと同じ感覚とか、おこがましくて言えません!それにオレ、嫁さんいないし……('A`)

 多分学校の先生の気分に近いのかなと思ってます。もちろん私がWUGちゃんに何かを教えたわけではありません。ただ、私はかつてドイツに住んでたことがあり、そのとき週に一度、日本語補習校で先生のアルバイトをしていました。小学校高学年8人の担任だったのですが、日本から親の仕事で来ていた子は一人だけで、他は皆いわゆるハーフか現地の日本料理屋の子で、ドイツ生まれでした。全員個性が強くてバラバラで、クソ生意気で、でも自分たちの出自にちょうど悩み始める年頃で、ふざけ合ったり、時に喧嘩したりしながらも、結局仲がいいあの子たち一人ひとりが愛しく、それぞれらしく幸せになってほしいと強く思っていました。WUGちゃんたちに対しても、それに近い感覚なのかなと思います。

 

 WUGちゃんたちを知ったのは、最初のアニメ放送のときでした。当初は毎週アニメ視聴後の次回予告を見て「まだまだ全然素人くさいけど、彼女たちなりに頑張ってるなあ」くらいの感覚だったのですが、2月に行われたワンフェスのミニステージを何となくニコ生で見たとき、心を鷲掴みにされてしまいました。当時アニメの評価がお世辞にもよかったとは言えない時期だったのですが、このときのみんなの表情が、今そのステージに立っていることへの喜びに溢れ、そして荒削りながらも一切出し惜しみのないパフォーマンスを披露していて、「あ、この子たちをアニメ終了と同時に終わらせてはいけない。そのためには自分も試されているんだ。」と思わされてしまったのです。

 3月8日SSAでのお手紙やパンフレットには「WUGを見つけてくれて、ありがとう」という言葉がみなさんそれぞれに語られています。でも私には「見つけた」という気持ちはありません。上に書いたように、どちらかというとWUGちゃんたちにガシッと捕まえられた感覚で、それは神様によって仕組まれた出会いのようにも感じます。

それぞれのタイムライン
重なる瞬間
逃したら二度と会えない
昨日まで知らない
君とめぐり逢う
新しい世界のトビラを開くよ 

 この「重なる瞬間」に、見事にとっ捕まったわけですw それは「おいもちゃん」だったWUGちゃんたちが放つ、原石としての光が為せるわざでした。

 

 私はそのニコ生を見た後、すぐに「7 Girls War」と「言の葉 青葉」のCDを購入し、封入されていた優先抽選券を使って、4月に行われた品川ステラボールでのWUG初の単独イベントのチケットを入手し参加しました。このとき初めて会場を緑の光に染めてWake Up, Girls!コールをやったこと、7人がステージに再登場し、まゆしぃが「私たち、持ち歌4曲しかないんですけど…」と言ったのに対して、会場のワグナーみんなが両手で頭上に輪を作り「オーケイ!」ってやったのは、懐かしく忘れられない想い出です。もうこのときから、WUGとワグナーの一体感って始まってたんですね。

 

 そこから、1st~4thツアー、毎年暮れの幕張でのWUGフェス、ソロイベ、二度の舞台やグリーンリーヴスフェスなど、さすがに全通というわけにはいきませんでしたが、お財布と時間が許す限り、参加してきました。ブログやラジオを通じ、WUGちゃんたちの言葉にもずっと触れてきました。一つ一つを振り返ることはしませんが、その間が順風満帆だったとは思っていません。初期のファンの中から離れていく人たちが少なからずいたことも見てきました。

 でも、WUGちゃんたちそれぞれが、ユニットも作品も「WUG」を「HOME」として担いつつ、各々の活動の場を広げていく中で、少しずつ、でも確実に新たなファンを生み出していきました。ライブ会場で隣に座った推し色を着た若いワグナーさんに話しかけると、「〇〇という作品で〇〇を知り、WUGちゃんも好きになりました」なんて答えてくれることが増え、そのたびに嬉しくなりましたよ。

 だってほら、WUGちゃんたちも気づいてたでしょ?最初の頃、なんだか妙におっさんワグナー比率が高かったこと。「あなた、平日は怒らせたら怖い部長さんなんじゃないの?」とか「あんた、絶対リアルタイムでクリィミーマミ見てただろ」って人がやたら目について、同じおっさんワグナーとしては心強いのやら気恥ずかしいのやら……

 そこに若いワグナーさんたちが増えていくのは、とても心強かったです。台湾から来たワグナーさんと話したこともありますが、海外生活経験者としては、そういった国境を越えた広がりが感じられると、本当に嬉しかったです。「WUGを見つけてくれて、ありがとう」というのは、むしろ私の言葉でした。もちろん私だけでなく、私より後にワグナーになった人たちも、その後から来る人たちに対してそう思っていたことでしょう。

 

 これまで、WUGちゃんのツアーを通じて、いろいろなところへ行くことが出来ました。特に2ndツアー仙台千秋楽の翌日、気仙沼に初めて行って震災の爪痕を目の当たりにしたことは、強く印象に残っています。作品を通じ、東北の震災復興支援というミッションを担ったWUGちゃんと出会っていたからこそ、非当事者である私も当事者の記憶に触れるという重いテーマに向き合うことが出来ました。

 ただ、そこで出会った大鍋屋さんの女将さんや若旦那、復興屋台村の人たちは皆明るく優しくて、むしろ私のほうが背中をぽんぽんと叩かれた気持ちになりました。またそこで初めてワグナーたちとガッツリ飲んで交流することも出来ました。楽しかったなあ。

 もちろん東北だけでなく、沖縄や四国徳島など、生まれて初めて土を踏む土地もありました。熊本も高校の修学旅行以来です。そこで出会った人たちと交流し、ライブで一体となり、それぞれの土地が思い出深い「HOME」となっていく。WUGちゃんたちの狙い通りですね!大成功です!

 

 昨年6月15日に突然解散が発表されたときはショックでした。WUGちゃんたちはまだまだ可能性の塊なのに、何故今なのか?いろいろ考えました。私なりに自分を納得させるための理由を作ったりもしました。でもWUGのみんなのほうが、遥かに強い葛藤があったはずです。だから、今はあれこれ詮索する気はありません。

 それよりも、終わりを決めてからのファイナルツアーはとてつもないものでしたね。終わりがきっかけというのは確かに寂しいことですが、でもだからこそ代えがたい濃密な時間と空間が、とてつもない規模で生み出されたのだと思います。

 

 一公演ごとに振り返ると大変なことになるので、仙台2日目のことだけ少しお話します。

 昼公演、そのときは隣の人と特に話すこともなく開演を迎えたのですが、「Polaris」で自然と肩を組み、ライブが終わった後、彼が2ndツアーのブレードホルダーを持ってることに気づいたので、「お互い長くワグナーやってますね」と声をかけたのです。すると「でも4thツアーのあと時間が作れず、実はこの公演がそれ以来なんですよ。それに夜公演のチケットも外れ、SSAも行けないから、これが最後なんです」と話してくれました。でも彼の表情はとても晴れやかでした。かやたんがMCで「この昼公演で最後の人、来てくれてありがとう」って言ってくれたでしょ?あの言葉、彼にとってとても救いになっていたと思います。仙台在住のあいちゃん推しだというので、私の足元にちょうど落ちていた青い銀テープを渡すと、本当に嬉しそうな顔で「ありがとうございます」と言ってくれました。そのとき私は、彼と肩を組めてよかった、彼の分も夜公演とSSAを全力で楽しまなきゃなと思ったのです。

 そして千秋楽となる夜公演、言葉にしつくせないものでしたね。夏から続いたツアーを通じて進化し、濃密となっていったWUGちゃんとワグナーの一体感に、もはや全ての時空を越えていくような感覚に襲われました。特にダブルアンコールの「7 Girls War」。セトリにまったくなかったはずなのに、なんの申し合わせもないまま、よっぴーのソロパートでWUGちゃん7人が一緒に歌い出すと、会場も一緒に、自然発生的に歌い始めました。あの大合唱、もうあの場にいた全員の想いが一つに溶け合っていたかのようでした。

ひとつ みんなでひとつ
答えはひとつだね 

  「7 Senses」のこの歌詞を4thツアーで初めて聞いたとき、実はちょっと眉をひそめました。「答えはひとつでいいの?」と。でもよく聞くと「でも全てじゃない」って歌ってます。

ひとつ みんなでひとつ
想いはひとつだね
(でもカラフルだ)

  そう、ファイナルツアーを通じ、「7つのセンス 7人の個性」は更にワグナー一人一人のセンスと個性とも重なり合い、つなぎ合わせて、ひとつの、でもカラフルな「すごい光」になっていたのです。そして「虹の向こうへ」

約束の地で待ってて
約束の時待ってて
約束の地で見てて
約束の時見てて 

  出来すぎでしょ。只野さん、スゴイよね!

 

 そうして迎えた3月8日SSA。寂しさや悲しさより、最後にもう一度あのすごい光を作りたい、大勢いる初めての人たちも巻き込んで、一生忘れられない「想い出のパレード」にしようという気持ちのほうが勝っていました。そしてそれは絶対成功するとも確信してました。だって、今のオレたちワグナーとWUGちゃんは、かつてないほど最強なんだから。

 その確信は現実となりましたね。さすがだよみんな。WUGちゃんもワグナーも最高だったぜ。細かくは振り返りません。みんな最高で、最強で、本当にすばらしいフィナーレでした。このとき輝いた光の一つになれたこと、それを心から誇りに思います。

 終演後、隣にいた若い二人に話しかけました。WUGのライブを見るのは、これが初めてだったということです。「一緒に肩を組んでくれてありがとう。初めての人たちもいてくれたから、彼女たちにこの景色を見せることができました。ありがとう」って言うと、「いえいえ、こちらこそ。それに僕も頑張んなくちゃなって思いました」と爽やかな笑顔で答えてくれました。

This story is only the beginning!

  新章最終話のラストに映ったホワイトボードに書いてあった言葉ですね。楽しいことや嬉しいことばかりじゃなく、多くの辛いことも噛み締め、「アイドルは物語」を自ら綴ってきたWUGちゃん。でもこの物語は序章にすぎない。よっぴーが言ってましたね。明日から人生の第二章ですって。

 私のような古株も、SSAで初めてWUGちゃんのライブに参加した彼らも、仙台昼が最後だった彼も、途中で去っていったワグナーも、みんな照らし照らされ道しるべとなった光、Polarisです。震災の辛い記憶を背負って始まったWUGの物語は、すごい光となって、東北から全国の、いやきっとWUGを知った世界中の人たちの人生の第二章の道しるべとなったのです。

 今日は3月13日です(ギリギリ間に合った~汗)。あいちゃんが選んだ数字「313」ですね。あの日から2歩進んで、合わせて7人で歩みだす数字。みんなはこれから一人一人の道を歩み始めるのだけど、分かち合ったこの6年間は掛け替えのない一つの想い出です。その想い出を誇りに、さあ、胸を張って行ってらっしゃい!

 まゆしぃ
 あいちゃん
 みにゃみ
 よっぴー
 ななみん
 かやたん
 みゅーちゃん

 5年前、私の心を鷲掴みにしてくれてありがとう!私はもう人生の折り返し地点を回ってしまってるけど、まだまだ老いぼれる年じゃありません。今まで棚上げにしてたことがあるので、みんなからもらった人生の第二章(ウソです。第十◯章)で、本気で取り組もうと思います。だから、いわゆるオタク現場に行くことはほとんどなくなると思うけど、いつだってみんな一人一人のことを応援してます。だってワグナーはいつだって家族、みんなのHOMEですから。

 そしてまた、極上の笑顔で会いましょう。