Hatena::ブログ(Diary)

フリーダムワーカー 中村しげきBlog

2012-01-20 シンクロ☆ディスティニー

ソウルメイトとの巡り会いにも似ている

| 16:32

昨年の仕事納めの日、ホノカ社の事務所の一室で(といっても一室しかありません!)、澄んだびっくり声が響きわたったのでした!

通販業ゆえ、商品をくるむプチプチは欠かせないものです。梱包担当のますみは、いつもこのプチプチを切ったり巻いたりしているわけですが、

無数にある丸いプチプチのうち、ひとつだけハート型が、混じっている?という都市伝説検証するというテレビ番組をたまたま見た翌日に、その何万個のうちのひとつのハート型を、なにげなく見つけたのでした。

 ↓こちらが写真です。ますみのブログより

 http://d.hatena.ne.jp/honokasha/20111221

 通販を始めて7年、いままで一度も見たことがなかった…、ハートです。

この<出会い方>は、人と人、ソウルメイトとの巡り会いにも似ている気がします。

運命の相手は、たった一人しかおらず、何億人の中から見つけるなんて…と考えれば、途方もない確率のように思えてしまいますが、ハートにアンテナを埋め込み、引き寄せようとすれば、翌日にでも、ひょっとしたら、その日のうちにでも、<出会って>しまうのが、この世界の仕組みなのかもしれません。

シンクロ二シティ(偶然の一致)という言葉が、すっかり浸透した昨今ですが、すべてのシンクロ二シティは、シンクロディスティニー(運命を変える偶然の一致)であると、スピリチュアル・リーダーのディーパック・チョプラは言います。

私たちも、ハートのプチプチを見つけてから、今度は、どんな運命を引き寄せようか!と日々わくわくしています。

2011-12-18 疾走する2歳児を見た!

夕方頃に動物園を出るや、猛烈に駆け出した

| 01:13

幼ければ幼いほど、子どもは歩く速度で、行きたいところへいくのか、そうでないかがわかります。

たとえば、病院に予防注射にいくときは、いまにも止まりそうな歩みになるのに、お祭りにいくときはいつの間にか小走りになっている、という具合です。

我が子のことを思い返せば、まだ言葉も理解できない幼児の頃もそうでしたから、歩いて行った先に何があるのか、ということを察知する力は、本能的なものなのかもしれません。

と、こんなことを考えていたのも、当時2歳の娘・ほのかをつれて、上野動物園に行ったときのことを思い出していたからでした。

ほのか(社名と同じ名です)は、充分歩ける歳頃になっていたにもかかわらず、動物を間近で見る楽しみより自分で歩く面倒さが先立ったようで、丸一日、レンタルの乳母車から出ませんでした。

そんな子が、夕方頃に動物園を出るや、猛烈に駆け出したのです。僕は、唖然としながらも必死で追いかけたところ‥‥、失踪&疾走する2歳児が向かっていた先には、おもちゃ箱をひっくり返したような、何もかもが幼児サイズの「上野こども遊園地」があったのでした。

人目で全体を見渡せるほどの敷地に、メリーゴーランドや、コースターなど、おなじみの乗り物が一式、のろのろと動いています。

親からすれば“寄り道危険区域”なのですが、娘にとってみれば、きらきら輝いているところにちがいありませんでした。走って行かれてはすでに手遅れで、しかたなく納得するまで遊んでもらいました。

それでも、名前のとおりにのほほんと存在感の薄かった娘・ほのかが必死で走る姿を見たことに、ヘンな満足感もあったのでした。

子どもにとって速く歩く(走る)ことは、ひとつの自己表現でもあり、時間の進み方を変える手段でもあるようです。

かつて、アインシュタインが、自身の相対性理論について、「好きな人と一緒にいる時間は、短いでしょう?‥そういうことですよ」と説明した言葉を思い出します。

相対性理論によると、単に<そう感じる>という以上に、時間の進み方というは、一定ではないのです。

ですから、今年一年、「けっこう早かったな」と思ったのなら、きっとそれは、充実していた証です。

2011-12-08 ラストスパート

頭の良い馬は、レースに勝てない

| 01:11

学生時代に陸上部の長距離選手だったせいかどうかはわからないのですが、何かをやり終えようとするとき、ラストスパートという言葉をよく使ったりします。ところが最近、文字どおりの「ラストスパート」を、マラソン中継で見ました。

ロンドン五輪マラソン日本代表の最有力候補となった市民ランナー、川内優輝さんがいま話題になっていますが、その走りの特徴は、猛烈なラストスパートで、いつもゴールとともに意識朦朧のまま昏倒し、担架で運ばれていきます。

42キロを走り続けたその最後で全力疾走する精神力とは‥‥、尋常ではありません。

その壮絶なスパートを見ると、ラストスパートなる言葉を使っていた自分が恥ずかしくもなり、そういえば陸上部だった頃、倒れ込むほど全力で走ったことは一度でもあっただろうかとも思い起こすのでした。

現在の僕は、競争とも全力疾走とも無縁の日々を送っていますが、この前も、ニュース映像で川内選手のラストスパートを見ていて、思い出した言葉がありました。

「頭の良い馬は、レースに勝てない」

これは、競馬の話しです。頭の良い馬は自分が負けるとわかったら、本気で走らなくなるのだとか。逆に、勝つとか負けるとか余計なことを考えない馬は、全力で走りきって、思いがけず一着になるものだそうです。

実際の競馬を見たことは一度もないのですが、僕はこの言葉と出会ったおかげで、無駄だと思える仕事も手を抜くな、頭の良い馬にはなるな、と自らを律してきたように思います。

現在、やりたい仕事ができていることを振り返れば、なんだ、自分なりの全力でやってきたのだな、とちょっとだけ自分を褒めたくもなりました。

かおぴかおぴ 2012/01/21 14:55 すてき!

2011-11-25 山の中にある、秘密の場所

幼き日の父は、この山の中で

| 01:10

父の実家は、富山県山奥の村です。僕が小学生の頃、父にせがんで山釣りに連れていってもらったことがあります。

「最後まで歩けるか? ちゃんと付いてこれるか?」と、出発してからも何度となくハッパをかけられたのですが、その訳は、釣りに行くというのに父は釣り竿を持っていないことに関係していました。もちろん、このときはわけもわからず、ただ父の後ろをついていくだけでした。

幼き日の父は、この山の中では、よくうさぎを取ったり、ヘビとったりしたそうです。青大将はまずかったが、マムシはうまかったとか。 

やがて、だんだんと道がなくなり、藪をかき分け、草をつかみながら断崖を這いずり、一歩足を滑らせたら間違いなく死ぬというような斜面を次々と越えていくことになりました。

こんな道なき道を歩きながら、余裕のステップで進む父が、明らかにある場所に向かっていることが、僕は子どもながらに感じていました。

さらに、またずいぶんと歩いた頃、僕は「うわっ、うわ」と、声をあげていました。頭から水しぶきを浴び、目の前には、一本の大きな滝があり、ドドッととめどもなく水を吐き出していたのです。

父が滝壺に潜って中をかき回すと、驚いた魚が引きつけられるように採れました。これが、父にとっての<釣り>でした。そこは、人が訪れない手つかずの滝で、おそらくは父と、父の兄弟たちの秘密の場所のようでした。

当時の僕はまったく感じなかったのですが、そんな場所を持っていることが、どんなに幸せなことかと、今にしてようやくわかってきました。

今頃、あの山は紅葉で真っ赤に色づいているはずです。そして、紅葉とほとんど同時に、初雪を迎えます。

2011-11-12 わすれないこと

一行という制約の中で

| 01:09

最近、「わすれないこと」というタイトルで、一行詩を少しずつ書きすすめています。幼い頃などの、印象的ないち風景を思い出して、一行という制約の中で、詩のような文章にするというものです。

たとえば、三歳のとき、家の前で遊んでいるうち、ふらふら歩いて迷子になってしまい、ぜんぜん知らない女の人が、僕の手をつなぎつつ、我が家まで連れて帰ってもらった、とか、こんなおぼろげな記憶を一行の詩で書き残す、という試みです。

と、この創作をしていると、いろんなことを思い出すのですが、本当に自分が見たことなのか、夢や想像で浮かべた光景なのか、定かではなくなっている<記憶>の存在に気付きます。

そのひとつが、大学生の頃、駅のホームで電車を待っていたときに目にした光景です。いえ、本当に見たのか、自信がないことなのですが‥‥。

ホームの端ぎりぎりの場所でうつむいていた女性に、おそらくは赤の他人であろう白髪の老女が近づいてきて、「雨がふりそうやねえ」と、なんでもないことを話かけている、というシーンです。

なぜ、これが記憶に残っているかというと、老女は背中が丸まっているほど老いているというのに、強い力でその女性の腕をがっしりとつかんでいたからです。まるで、線路に飛び出してしまおうとするのを必死でとどめているように。

と、このワンシーンは、本当に見たのか、夢で見るなりして自分で想像したのか、さっぱりわからなくなっているのですが、ときおり、ふとした折りに思い出す、ひとつの光景です。もちろん、もはやそれが事実か空想かは、僕にとってはどっちでもよく、この<記憶>を時折思い出すたびにいつも、人の心の美しさのようなものを感じるのです。