2012年を生き永らえる


5月末に自転車仲間と浜名湖を少し走った。あの時が急性期だったのか?
体の状況はあのときを境に急激に悪くなっていったみたいだ。だが、と考えてみる。
そもそも、5年生存率が数%といわれる末期がんを宣告されたのは2年前。今、調子がよくてもそれは表面的なこと。
何が起きても不思議はない。
胸膜炎を発症し、6.7.8と毎月のごとく滞留した胸水を抜いた。合計3.8L。
3.8kgの体液が失われた。
タガメに喰いつかれた蛙ほどではないが、劇やせは当然で、私の顔に死相を見た人もいたのではないか?
そんなことで、物置に吊ってあるTREKにも乗ることはない。
たまにタイヤに触れてみるとぺしゃんこだ。
そんなときは寂しくなって空気だけは張っておくようにしている。






8月、3回目の胸水排出をして体が少し楽になった時、これが遠出の最後になるかもしれない思い、越前海岸へ出かけた。
ひかりかがやく日本海を見ながら相棒との過ぎし40年を振り返る。
東海自然歩道に始まり、あちこちの旧街道歩き、遍路道里山登り・・・・・ と私たちの思いでもそれなりに深い。





そして秋、胸水はたまらなくなった。それは状況が好転したということではなく、胸水がたまるべきスペースをがん細胞が覆いつくしてしまったということらしい。
何をやってもすぐに息があがる日々が続いた。
そんな秋の何日かを、私を育ててくれた鈴鹿の山のふもとに点在するお寺を訪ねて歩いた。尾高観音、福王神社、聖宝寺・・・・
十数段の石段が一息に登れない。昔、重荷を背負って雪の山をラッセルしたように、3歩、登っては一休み。2歩登っては一休み。そして、一歩登っては一休みだ。



秋も深まるころ、胸に激しい痛みがきた。
痛みを我慢することが一番いけないことだとDr・に諭され、麻薬系の鎮痛剤を用いるようになった。
今日は大晦日。まもなく除夜の鐘も聞こえるだろう。
暗い話題の多い中で、今年、日本中を明るい話題で染め抜いたiPS細胞。
だが、と、私は五百羅漢様とともに考える。
生命を初期化していいものだろうか?
そこには核エネルギーの開放をはるかに凌ぐ、深くて暗い落とし穴があるような気がしてならない。
羅漢様に問いかけたが、不動の姿勢で遠くの空を見てござるだけだった。

今年の夏

just a lunch !

だいぶ前のTVcmにこんなのがあった。
野を越え、丘を越え颯爽と走るホンダアコード。
ハンドルを握るのはアングロサクソン系の渋い男。
男は、とある湖畔のレストランへ。男を見た店主は
店主:you a vacation ? (休暇かい?)
男:just a lunch (ランチに来ただけだよ)

加齢で注意力散漫になり、ボデーのあちこちが凹んでいるオレのNOAHyyは、アコードみたいに格好良くは走らんけど、100km離れた浜名湖舘山寺のこの鰻屋に90分で着く。
今日は take just a ヒツマブシだ。
食後、すぐ横の秋葉山舘山寺にお参り。
ところが、お寺の階段が登れないのは満腹になったお腹のせいではなかった。
また溜まりだした胸水のためか、呼吸が苦しい。



たがめ

次の診察日。 オレ:”前ほどじゃないですか息苦しくなりました。”
Dr・:”無理してガマンすることはありません。抜きましょう。” 排出された胸水は1L。
じっと胸水を見つめる。これはオレの体液じゃないか。ふと、田圃のギャング タガメに喰いつかれ、体液を吸われて骨と皮になった死んでゆく蛙を連想した。 
”先生、胸水排出を繰り返すうちに、タガメに食いつかれた蛙みたいに骨と皮になっていくんですか?”



タガメに食いつかれた蛙説は、Dr・に笑って否定された。
カミサン:でもお父さん、2回で2.8L抜かれたでしょ。確実に2.8kgは減ってるがね。ただでさえ痩せてるのに、そのうちミイラみたいになるワ(このワは、女性語ではありません)。
オレ:・・・・・・ 食欲はあるんだけどな ・・・・
病室から、新幹線・在来線が頻繁に行き過ぎるのが見える。
アッ!貨物だ。
子供の頃、山へ連れてったH君、”JRFの運転手をやってます”と言ってたけど、こんな奴を引っ張って走ってるんだ。
みんな大人になったんだ。





花火

数日後、みなと祭りの花火を見に、取って置きの場所へ自転車で走る。
途中に橋があり10mほど登らなくてはいけない。
息が切れずに登れるだろうか?
登れた!
10mの坂を息を切らさずに登れた喜び!
一日100km走行、獲得標高1000mを目指して美濃の山間部を走り回っていたのは、つい3年前。元気だったなぁ。
花火は終わった。
”来年も必ず見に来るから”と心に誓ったのは去年。
今年も同じ思いで10mの坂に向った。

友達に伝えてよ

体調が悪いと草むしりがおっくうになる。
庭が草ぼうぼうになった。
それも悪くない、いろんな昆虫が集まるからだ。
しばらくバッタ君と話し合う。
”福島の友達は大丈夫かい?
小さな命に異変が起きてるって聞いてるぞ。
狭い庭だけど、ここでよかったら友達を呼んでもいいよ。
大昔みたいにフライパンで揚げて喰ったりしないから大丈夫だよ。
安心して連れてきな。”

答志島の後


>>fare.well to 答志島 !
これは素直な気持ちだった。
この息苦しさでは、もう島へ来ることもできなかろう、と。
>>また来るからね。
これは、希望を残すためにも自然と出てきた言葉。
このまま終わっちゃうんじゃ寂しい、という気持ちで。
だが、
「ガンの長期生存者に唯一共通するのは歩き続けたこと」という柳原和子さんの言葉を信じて続けていた散歩さえ、息苦しさでできなくなってしまった。


こんなに苦しいのに、次の診察予定日まで受診しなかった俺はいったいどうしたんだろう?
もう正常な判断ができなくなっているんだろうか?
生死に係わることなのに。それとも、
”大往生したけりゃ医療と係わるな”と言った京都のN医師の言葉が頭の隅にあったのか?
でも、こんなに苦しんでりゃ大往生なんかできない。
緊急に排液処置されて出てきた胸水は1.8L。排液処置中に呼吸がどんどん楽になっていくのが分かった。1時間弱の処置でとりあえずは生き返った。外科的処置は現代西洋医学の得意とするところと聞いていたが、これほどまでとは。それに比べて抗がん剤の世界はどうなっているんだろう?  そこに、保身と利権にまみれた原子力ムラと共通する構造を垣間見てしまうのは考えすぎだろうか。


数日後の夜、枕元を十三夜の月明かりが照らす。
呼吸もずいぶんと楽になった。
こんな夜は早く寝てしまったらもったいない。
カーテンを開け放ち、月明かりを部屋いっぱいに入れて、布団の中でボーッと物思いにふける。
よく通った近鉄後在所山の家の、蚕棚のような部屋で毛布に包まりながら、同じように月を眺めたことが思い出される。
あれから50年経ったんだ・・・・
ムニャムニャ・・・・・
自転車、もっと乗りたいよぉ・・・・
ムニャムニャムニャ・・・・・

答志島の一日

答志島スカイライン
全線長さ10km未満。
獲得標高100m未満。
梅雨の晴れ間の一日、
できたらこのスカイラインを走ろうと思い三度目の答志島へ渡った。

鳥羽市の市営定期船乗り場は一新されていた。
場所が分からずしばらく車でうろうろ・・・・・
「確かこの辺りだったがなぁ」と車の中で思案していると、警備員風のおっさんがやってきて
「どちらへお行きですか?」
「市営定期船乗り場へ行きたいんですけど」
「あ、そこに見えるマリンターミナルがそうです」
ちゃんと日本語の看板も出してくれよ。
”市営定期船乗り場”で頭にインプットされてる年寄りは”マリンターミナル”って言われたってすぐには変換できないんだよ。
なんだって横文字にすりゃいいってもんじゃない。
もっと日本語を大事にしてくれよ。
無事定期船に乗船。2年前に来た時はBD−1の相棒はDAHONだったが、DAHONは人に貰われていった。今回の相棒は物置で眠っていたBROMPTONだ。


和具港から1kmほど離れた答志港へ向うが数十mの小さな坂を越えなければならない。これが越えられない。心臓がパンクしそうだ。BD-1はすいすいと登っていった。
坂の上にあるお寺で大休止。
「願い事を頼むんじゃないよ、今まで生きてこられたことに感謝するんだ」
二人で鈴を鳴らし手を合わせる。
誰もいない境内で静かな島の時間が流れる。


坂を下るとすぐ答志港の漁村地帯だ。
海辺の狭い土地を利用しつくした漁村の路地は狭い。
自転車を降りて歩く。


路地から路地をくねくね曲がっているとどちらに向っているか分からなくなる。
「ボク、海はどっち?」
「あっちだよ」



誰もいない港の外れまで来た。
一人の漁師が船の上で甕の掃除をしていた。
「ちょっとお話していいですか?」
「あ?」
「その甕は何ですか?」
「蛸壺だよ」
「掃除してるんですか?
「蛸はきれい好きだから中が汚れていると入ってくれねんだよ」「蛸はな、あわび、サザエ、伊勢海老など喰うんだ」
「蛸は美食家ですね」
「そうだなぁ」
スカイラインを走って桃取漁港まで行こうと言う力と、元気はなくなっていた。



答志港の待合所へ戻り、ぼんやり船を待つ。
会話も途切れがち。
静かな島の時間が流れる。
やがて、やってきた船に乗り込み島を離れる。
fare.well to 答志島  
また来るからね。

浜名湖の一日


前夜は年に一度の4040クラブ(よれよれくらぶ)前国OFF会の宴会。
宴会を終わって3階の部屋へ。階下からは二次会三次会の賑やかな笑い声が深夜まで続いていた。
参加したいが身体が言うことを聞かない。いびき防戦用にティッシュを丸めた耳栓をして眠りにつく。
翌朝、窓からの眺め(この写真はよし奴さんのを拝借しました)。漁船用の桟橋の先端で朝の日課太極拳をする。
朝食前に何人か浜名湖一周にでかけたらしい。よれよれくらぶは名は体を現していない。ピンピンクラブだと思いつつ、湖の中へ落っこちないように崩れた舞を舞った。



食後、みんなと一緒に走る自信はなかった。「帰りは舘山寺から船」と言う声を聞いて参加することにしたが、結局鍾乳洞まで往復35kmを走るはめになってしまった
平地はまだ何とかなるが坂は全然ダメ。
極端にスピードが落ち全員に軽く抜かれる。
すぐ息があがり、片肺は機能していないと言うことを実感した。ヨレヨレと坂を登ること何度ぞ。
そのうち平地でも置いていかれるようになる。
前の人の姿が視界から消える。
そんな時、こんな風景が現れれば躊躇することなく自転車を止めて、構図を決める。
カメラの液晶画面は光で何も見えないが、勘でシャッターを押したら様になっていた。
宿へ帰り着いたのはもちろんビリ。
みんなはもう自転車を車に積んで帰り支度をしていた。

さまざまな執念?

懐かしい渥美半島先端の海岸をポタろうと、小径車を2台積んでやってきたが海に白波が立つほどの強風だ。それにこの日は相棒もオイラも体調がよくない。無理をせずに日の出門の方へ海岸を歩いていた。

この砂浜を見ながらよく走ったものだ。5回、6回・・・・・  その砂浜を日の出門に向う10人ほどの子供達。気をつけるんだヨ、こないだも二人の大人が波にさらわれたばかりだ。ホラ、先生から離れずに。
それにしても、と思う。今回は時間の制約が厳しくたいして走れないことは分かっているのに、旅に出るときは自転車を積まずにおれない。それはオイラの自転車に対する執念?か・・・・  自転車を積まないと寂しい。



”執念”といえば4、50年前、山岳雑誌に秀山荘という山道具屋の広告が出ていて、なぜかよく覚えている。体中にザイルを巻かれた山屋のイラスト。ザイルの端は蛇の頭だ。曰く。
”オロチ(大蛇)より怖いザイルの執念”
これは40年前、沢登りにいつもお供した9mm×40mのザイル。現役を引退してからは、ガタのきた揺り椅子の修理に使ったり、ベランダから荷物の上げ下ろしに使ったり。そして捨てられない。
車でどこかへ出かけるとき、物置の自転車たちが声をかけてくる、”俺達も連れてってくれ”、と。車に自転車を積まないと何か忘れ物をしたような感じがする。自転車の念(おもい)がオイラに伝わるのか。





母の日に次男から送られたカーネーション
つぼみまで全部咲かす、と
かみさんは執念を燃やしている。


何の花だか分かりますか?
ジャガイモです。
裏庭に植えたジャガイモが花をつけました。



これは、草むしりしていた時、あまりに鮮やかに咲いているもんでむしり損なった花。
雑草にしてはいやに屹立している。
何年か前、裏庭に植えて枯れ果てた花の種が地中で耐えて、再び芽を出し花をつけたに違いない。
それは、花の執念というより、
生命のしなやかさの証し、に思えた。

背後から声が聞こえるような


今年は長良川の春を見に行けなかったが木曽谷の春を見逃すわけには行かない。
一昨年の春には、木曽谷も見納めだと思って走ったものだ。
坂下駅からJRに乗り込む。

野尻駅で降りる。
駅前からまだ白い木曽の山々が見える。
熊ン蜂見たいな奴がブンブン飛び回って、藤の花にこれ以上近づかせてくれない。
花と青空のスカイラインに黒く見える奴が蜂。

八重桜と新緑の山。
野尻宿から。




石仏様の花挿しが空っぽだったので、去年と同じように後のツツジを折って花挿しに入れた。石仏様のお顔が一瞬嬉しそうになったと思ったが、気のせいか。



ここは一昨年辺りは満開で見ごたえがあったがもう遅かった。

そのかわり、咲き始めたつつじの中をポタる。





走っているより休んでいるほうが多いが、
南木曽駅前のベンチで本格的に大休止。
三留野宿の面影を残す駅前風景は、須原駅前と同じように気に入っている。



読書発電所前の碧い水面と新緑を写して国道に沿ってしばらく走っていると、後のほうからプシュッと音がした。
あれ?パンクだがや。
走行中のパンクは何度も経験している。
リムに対してタイヤの嵌め合いがちょっときついので苦労するだろうけど、15分もあれば片付くさと、頻繁に通り過ぎる車の轟音を背後に聞きながら作業を始めた。
まずタイヤを外すのに一苦労。固いなぁ。一汗かいて外した。
次にスペアチューブを入れてタイヤを嵌めるのだが固くてどうしても入らん。3年ほど修理してないが前はどうやって収めたんだろう?
30分、45分と時間は過ぎていく。
車の騒音があまりにうるさいので100mほど離れた空き地を見つけそこへ移動した。”お前なぁ、こんなことしてていい身体じゃないんだぞ”と思いながら再チャレンジ。やり方をちょっと変えて強引に押さえ込んだら、入った!!
ふぅ〜手間を取らせるぜ。
さぁ、空気を入れよう、スカスカスカ・・・・・・ ?
あれ?入らんぞ? もう一度、二度、三度、四度、何度試してもダメ。
タイヤレバーで強引にタイヤを押し込んだ時にチューブを傷つけたかな、と思ってもう一本持っていた予備のチューブに空気を入れてみる。
スカスカスカ・・・・ 入らん。 スカスカスカ・・・・やっぱり入らん。
”空気入れも3年以上使ってないからパッキンでもいかれたんだろうか? いやそれしかない”

結論。最寄の駅まで歩くしかない。
田立駅まで1.8km”の標識を眺めてため息をつく。身体がどうのこうのって歩くしかない。途中軽トラでも見かければ事情を話して乗せてもらおうと思ったが、田舎の道は誰もいない。たまに乗用車が行き過ぎるだけ。
こんな景色も上の空。
とぼとぼ歩いてやっと田立駅に着いて、時刻表を見るとあと5分 !!!!
これに乗れないと2時間待ちだ。自転車を袋に入れなくちゃ !!
あれ?入らん? あっ自転車の置き方が上下反対だ。
あれ? まだ入らん。あっ、袋が左右反対だ
あちゃー列車がホームに入ってきたぞ。どうする? どうするもこうするもない。ベンチに散らけた荷物をザックに放り込み、車輪を2個手にぶら下げて車内に飛び込んだ。



後日談。
家へ帰ってもその日は何もする気になれず、翌日(今日)調べてみたら空気入れは正常だった。
交換したチューブは、タイヤレバーでついたと思われる傷がついていた。予備のチューブは成型時の合わせ目と思われる部分からひび割れていた。購入してから5年は経つチューブだが劣化だろうか?
昔、山友達が「ナイロンザイルは紫外線に弱いから期間が過ぎたら捨てる」と、言っていたたのを思い出した。チューブだってゴム製品だから同じことなのだろう。
それはともかく、
この日の出来事が「もういい加減やめんかい」という声にも聞こえてきたのは、やはり弱気になっているんだろう。
でもなぁ、ちょっとでもペダルを踏む力が残っていれば春の木曽谷へはやはり行きたい。新緑と、花々と、爽やかな風を感じに。鶯のソロと、蛙の合唱を聞きに。
あの石仏様だって、あの山の麓で待っていてくれるにちがいない。