November 07(Fri), 2008
グローバリゼーションとゆとり教育、そして“KY”
高校受験のとき、学区制ってありました?
公立高校を受験するときに、住んでいる地域によって受けられる高校と受けられない高校があるってやつです。
私たち30代の場合はまだこの学区制でしたが、今年28歳になる人はこれがなかったんだそうです。
公立高校といえども、住んでいる地域に関係なく、どこでも好きな高校を受験できたんですね。
話は変わりますが、中学校の頃、通知表って相対評価でしたよね。
5段階に成績の評価が分かれていて、それぞれに一定の人数枠が設けられていました。
今の大学生は絶対評価だったらしく、段階による人数制限がなかったんだそうです。
またまた話を変えて、私たちの時代は“学力別にクラス分け”なんていうのはありませんでしたが、今は小学校でも子供たちの能力に合わせて授業単位でクラス編成がされています。
算数が得意な生徒のクラス、国語が苦手な生徒のクラス、得意分野は伸ばし、苦手分野は子供の理解度に応じて教えてくれています。
たぶんこれらもゆとり教育の一環なんだと思いますが、若い世代の人たちに話を聞いてみると、本当はゆとり教育ってそんなにイメージの悪いものでもないのかなと思うようになりました。
学区制がなければ高校の選択肢も広がりますし、絶対評価であれば頑張ったら頑張っただけの評価が得られます。
得意な教科はたくさん伸ばすことができ、苦手な教科は克服するチャンスが与えられます。
学校で子供たちが意欲的に学べる制度がゆとり教育ということなんでしょう。
日本を取り巻く世界の環境が変わり、教育面でも国際社会に対応できる人材を育てていく必要がある。
そのためには、自ら積極的に学び、自分の中の“個”を少しでも多く伸ばすことができるような教育制度に日本も変貌していかなければならない。
国が掲げた「ゆとり教育」にはこんな意図があったのではないでしょうか。
国際社会の変化を感じてからだんだんそう思うようになりました。
ゆとり世代以前の私たちは“均質的”と言われることがしばしばあります。
均質的な人材は益々厳しくなる企業社会では時として負の作用をもたらします。
自分で考えないとか、自分で判断しない、自分で行動しないなど、一時期、企業の人事部から若手社員に対する印象としてこんな評価がされていました。
ひょっとしたら企業の社会的なニーズがゆとり教育を招いたのかもしれません。
“個”を重んじることで、“均質性”や“集団性”、“協調性”などといった「みんなと一緒」という考え方のウェイトを下げ、実力主義社会に対応できる人材を生み出すというのがゆとり教育の本当の目的なんでしょう。
理想は「個の育成」、目的は「強い人材」、競争化社会が国に要請したゆとり教育の本当の姿はこういうことなんだと思います。
でも、この動きに、今、日本の若者は“No”という言葉を突き付けています。
“己”を重んじるよりも“他”を気にする。
いつからか高校生の間で流行りだした“KY=空気読め”という言葉。
「空気を読む」とは対人関係でいうと、相手の気持ちを汲むとか、その場の雰囲気を感じるということですが、普通の大人なら頻繁に使うことのないこの言葉を高校生たちは日常的によく使います。
通常なら言われた方は傷つく言葉でもありますし、言う方も快く思っていないわけですから、それなりに高いコミュニケーションスキルが必要で、ある程度重い言葉と言えるでしょう。
それにもかかわらず、ちょっとしたことでこの言葉が使われます。
“個”が重視された反動からなのか、自己同一性への不安からなのか、村八分からの恐れなのか。
自分自身を前に出すことを嫌い、他者に同調することで自分の居場所を確保するといった集団性への回帰が高校生の中で起こっているような気がします。
確かに、才能が伸ばされたり、感性が磨かれたり、創意工夫を評価されたりすると、少なからず人とは違った印象を自分の中に持ってしまいます。
良いことならまだしも、これが友だちの間で反対の意見を言ったり、本当は正しいのに友人と考え方が逆だったりして、自分がマイノリティーの立場に置かれるような状況になると不安になります。
不安が恐れになり、恐れを消すためにみんなと一緒になることで安心を得る。
そしていつの間にか、自分も誰かに「KY」と言っている…。
「個の育成」を受けている若者が逆に「みんなと一緒」であることを望みだしたというこの“KY”行動をゆとり教育の副産物だとするならば、高校生たちは今、実力主義社会、競争化社会、激化する国際社会などに対して無意識のうちに反対運動を起こしているのかもしれません。
ちょっと大袈裟かもしれませんが、回りまわって経済のグローバル化が高校生の流行にまで影響を及ぼしているのなら、これはなかなか興味深い現象です。
グローバリゼーションは精神世界にも影を落としている。
最近、そう思います。



