哲学(精神分析)とオカルトの違いについて

精神分析(ここでは主にフロイトとラカン)は反証可能性が無いから疑似科学でありオカルトである、というよくありそうな批判を仮想的に立ててこれについてちょっと考えてみよう。まず、そもそも精神分析は科学ではない。なぜなら精神分析は超越論的な次元で問いを立てるから、これらは経験科学ではなくカント以降の大陸系哲学の系譜に加えるべきだ。どういうことか。まず整理しておくと「超越論的」という用語は「経験的」の反対語であり、「超越論的転回」というタームでよく知られるようにカント以降の大陸系哲学の最重要キーワードだ。

今思えばカントの超越論的な次元に辿りついたとき、私は哲学とは何たるかを間違いなく初歩的なレヴェルでしか理解してなかったのだ、と思いました。つまり、私は哲学が一種の誇大妄想的な企て――ほら、「世界の基本的な構造を理解しましょう」というたぐいのものです――ではないという重要なポイントを理解したとき、哲学はそんなものではないとわかったのです。(スラヴォイ・ジジェクジジェク自身によるジジェク』)

もちろんこの「一種の誇大妄想的な企て」とはオカルトのことであり哲学的なタームで言うと形而上学のことである。

あるいは、よりハイデガー的な言い回しを使えばこうです。世界の構造を理解すべく根本的な問いがある場合、世界という観念は単に宇宙であるとか、存在する万物であるというものではないのです。むしろ「世界」というのは、ある種の歴史的カテゴリーであり、世界が何たるかを理解することは、超越論的な用語で言えば、歴史的に以前から存在するアプリオリ(先験的)な構造――世界がいかに私たちに露呈されているのかをどう理解するかを決定する構造――を理解することなのです。(同上)

世界の内部に存在する万物(あるいは「存在者」)を対象とする学が経験科学である。超越論哲学は逆に世界そのもの、つまり世界の「内容」ではなく「形式」、オブジェクトレベルではなくメタレベル、あるいはハイデガー的に言えば世界の「存在」そのものを対象とする学だと言えるだろう。

哲学は誇大妄想的なものではないと私が知ったのは、愚直な科学者から「われわれが合理的な仮説にもとづいた厳然たる現実を扱っているのに対して、君たち哲学者は単にあらゆる事物の構造を夢見ているだけではないのかね」というありがちな反論を受けたときでした。そのとき、哲学はある意味で科学より批判的で、より用心深くさえあるのだということに気づきました。哲学はより初歩的な疑問さえ投げかけます。例えば、科学者がある問いにアプローチする際、哲学のポイントは、「万物の構造は何か」ではなく、「その問いを定式化するために科学者がすでに前提としなければならない概念とは何なのか」ということです(同上)

つまり、私たちが外界にある何らかの事物を認識(経験)しようとするときに、その認識が可能になるための前提、もしくは条件とは何なのか、ということだ。
今一度整理してみる。まず科学とは経験的な次元を扱う。方やカント以降の大陸哲学、もしくは精神分析は超越論的な次元(ハイデガー的にいえば存在論的な次元)を扱う。ここでオカルトと哲学を分かつ境界線とはまさしくこの位相の違い、つまり経験的次元と超越論的次元の差異なのであることが判明するのだが、ここで話を旋回してひとまず精神分析における超越論性について考えてみよう。
周知のように、精神分析とは19世紀末にフロイトによって体系化された、神経症者を治療するための実践的な技法、または理論である。そしてそこにこそ、経験科学に依拠した既存の心理学に超越論的な次元を導入する契機が見られたのであった。

しかし、フロイトの精神分析が画期的なのは、「無意識が人間行動の多くを制御している」という考え方自体――それはロマン主義以来常識であった――にあったのではない。初期の『夢判断』――これも古来存するものだ――に見られるように、意識と無意識のズレをもたらすものを、言語的な形式においてみようとしたところにあった。そして、そのことから無意識の「超越論的」な構造が見いだされていったのである。(柄谷行人トランスクリティーク』)

無意識とは(よく誤解されるように)どこかに実在するものではない。それは言ってみれば人間の存在のありかたを規定する純粋な「形式」である。

フロイトは、無意識を、分析的対話における、患者の「抵抗」に見いだしている。抵抗と否認がなければ、「無意識」はないとさえいってよい。また、彼は、自我、超自我、エスといった心的な構造を考えているが、それは、どこにも存在しないのである。それは、こうした抵抗(否認)において規定される、ある構造的な機構を示すものである。(同上)

無意識とは機能であり、デカルト主義者のように心を実体的に捉えるものではない。この点でフロイトは厳密な唯物論者ともいえる。

フロイトの精神分析は経験的な心理学ではない。それは、彼自身がいうように、「メタ心理学」であり、いいかえると、超越論的な心理学である。その観点からみれば、カントが超越論的に見出す感性や悟性の働きが、フロイトのいう心的な構造と同型であり、どちらも「比喩」としてしか語りえない、しかも、在るとしかいいようのない働きであることは明白なのである。(同上)

そしてこの精神分析における超越論的な次元をさらに推し進めたのがラカンである。よく知られているように、ラカン理論では、すべてのシニフィアンに意味をあたえる、だがそれ自体は無意味な、逆説的な一つの特権的なシニフィアンが存在する。そのシニフィアンとは「シニフィエなきシニフィアン」、「対象a」、「ファルス」、あるいはデリダ東浩紀的に言えば「超越論的シニフィアン」などと呼ばれている。

ラカンにとって『盗まれた手紙』に登場した手紙が範例的なのは、すでに述べたようにそれが「対象a」あるいは「ファルス」、つまり超越論的シニフィアンの性質をよく表していたからである。盗まれた手紙は何も表象しない(内容は誰にもわからない)。その手紙は自分自身の位置をもたず、王から王妃へ、大臣へ、デュパンへ、そして警視総監へとたえず移動する。しかしまさにそのことで問題の手紙=ファルスには、「自分自身の位置をもたない」位置という逆説的位置が保証される。ある意味でラカンの手紙は決して届かない。つまりファルスはいかなるシニフィエも決して持たない。しかしその絶対的不可能性は逆に、手紙=ファルスに対して「決して届かないこと」をこそ保証してしまう。それはオブジェクトレベルではどこにも届かない。しかしメタレベルにおいては「どこにも届かない」という場所に届く。この「どこにも届かない手紙」はいわば郵便制度全体の不完全性に対応し、配達の失敗を表象しながらネットワークのなかを循環し続ける。それはあたかも、行方不明の手紙を集中管理する超越論的な場が、不可視のまま浮遊しているようなものだ。(東浩紀存在論的、郵便的』)

東浩紀否定神学批判について簡単に整理しておこう。

デリダの「奇妙さ」を説明するために私が提案した枠組みは、まず、脱構築を二つに分けるというものでした。理論的に形式化可能な脱構築と、その形式性を剰余し、奇妙な戦略をデリダに強いた脱構築ゲーデル脱構築デリダ脱構築、あるいは論理的脱構築と郵便的脱構築とかりに名付けられたその二つの思考は、私の考えでは次のように差異化されます。
一方で「論理的脱構築」とは、まず(1)所与のシステム(あるいはテクスト)を形式化し、つぎに(2)そこに自己言及的な決定不能性を見いだし、最後に(3)そのポイント(あるいは穴)を超越論化することでシステム全体の構造を逆説的に説明する思考です。逆説的にというのはそこでは、問題のシステムはつねに、安定性を欠きつつも、まさにその不安定性によって安定しているものだとして説明されるからです。私は試論4で(3)の段階を「存在論的脱構築」と呼び区別しましたが、これら三つのステップはおおむね連動しています。そしてデリダの多くのテクスト導いている(1)―(2)―(3)の道――私はそれを「否定神学」と総称しているのですが――実はまた、ハイデガーの存在論、ド・マンの文芸批評、ラカン派精神分析、ジジェクのイデオロギー論、岩井克人貨幣論などに一貫して発見されるものであります。(東浩紀『郵便的不安たち』)

自己言及的な決定不能性とは、エピメニデスのパラドックスチューリングマシンに見られるような、形式化にともなって生じる、自己言及的なパラドックスのことである。

「すべてのクレタ人は嘘つきだと一人のクレタ人が言った。」この言葉の意味は、これだけを取れば、決定することが不可能である。もしこのクレタ人が嘘つきなら、「すべてのクレタ人が嘘つきだ」という彼の言明はウソであり、その結果、言明がいうのは、すべてのクレタ人が嘘つきであるわけではない、ということになる。また、彼が嘘つきでないなら、「すべてのクレタ人は嘘つきだ」という彼の言明は真実として受け止められなければならず、すると彼の言明内容と一致しなくなる。したがっていずれの場合も、この文章は真偽の決定が不可能である。
形式化にともなって生じるこの難提は、当初、形式化の内部で解決しうるものと考えられた。論理哲学のバートランド・ラッセルは、この文章が、たとえば「すべてのクレタ人は嘘つきだと一人のマケドニア人が言った」となっていれば、パラドックスを構成しないことに注目し、このパラドックスが言明者(クラス=上位レベル、この場合「一人のクレタ人」)と言明内容(メンバー=下位レベル、この場合「すべてのクレタ人」)のロジカル・タイピング(階梯づけ)の混同を原因としており、これを禁止することで、そこから生まれた自己言及性の構造は解除できると考えた。しかし、その後、それがそれほど簡単な問題ではないことが明らかになる。数学者クルト・ゲーデルが、形式化された矛盾のない体系は、それをどこまでも推し進めると、必ず「その体系の公理と合わない、したがってそれについて正しいか誤りかを言えない(決定不可能)な規定が見いだされてしまう」ことを証明し、「どんな形式的体系も、それが無矛盾であるかぎり、不完全である」こと――自分の根拠を証明することはできないこと――を明るみに出したからである(加藤典洋『テクストから遠く離れて』)

話を元に戻そう。

否定神学的思考が説明するシステム(否定神学システム)は、そこに宿る決定不能性、システムの限界を開示しつつかつ同時に縫合するある特権的対象の運動により初めて安定します。ときにより「呼び声」とも「ファルス」とも「貨幣」とも「代補」とも呼ばれるその対象を、私は試論2において、デリダのある論文を参照しつつ「超越論的シニフィアン」と名づけておきました。否定神学システムの安定性は、超越論的シニフィアンの循環運動により保証されます。この論理においては、システムはつねに危機に瀕していると述べても、またつねに危機を乗り越えると述べても同じことです。(東浩紀『郵便的不安たち』)

超越論的シニフィアン=対象a=ファルスとは例えればそれは外的光景における、地平線、もしくは消失点のようなものだ。消失点そのものは経験的空間には存在しない(空無)が、まさしくその存在しない消失点によって空間のパースペクティブが規定される。いわばそれは現実空間に枠をはめる、カント的にいえば純粋な形式的カテゴリーだ。

現実の領域は〈対象a〉の除去の上になりたっているが、それにもかかわらず〈対象a〉が現実の領域を枠どっている。(ラカン『エクリ』)

デリダ東浩紀はその特権的で単数的な超越論的シニフィアン=対象aにある種の形而上学への反動的な回帰(現前の形而上学)を見るのであり、東はそこに異議をはさみ代わりに複数的な超越論性を提示するのであるが、ここでは詳細は割愛する。
いささか散逸的になってきたので急いで議論をまとめなければならない。結論を言えばオカルトと哲学(精神分析)の違い、それは前述したように経験的次元と超越論的次元の差異である。オカルトは経験的次元で思弁を繰り広げる(そしてそれには反証可能性がない)。哲学は超越論的次元で問いを立てる。そしてそれにも反証可能性がない。どちらにも反証可能性が無いが、オカルトはあくまで経験的次元に立って科学を標榜するのが特徴である。そもそも超越論的次元は本来「語りえないもの」の次元であるはずだから反証可能性が無いのは当たり前である。ならば超越論的哲学を批判するのは不可能なのだろうか。いや、可能である。それは「語りえないもの」を語るのはナンセンスであると言えばいいだけのことだ。それを実際にやったのがウィトゲンシュタイン(「語りえないものについては沈黙しなければならない」)であり、またそれに続く論理実証主義の系譜だ。彼らの批判はそれなりに正当だし彼らの批判を無視した上で超越論的な次元で問いを立てるのは避けなければいけないだろう。しかしここでの議論はあくまでオカルトと哲学の差異についてだ。それらの批判の正当性を検証するのはまた別の機会に譲らなければならない。