座談会「日本と中国の狭間から」より

言論の自由に対する批判のことですが、私がいつも思うのは、与えられた自由な言論空間でいうと、日本は中国より広いです。ただ、日本の自由な空間は、どうも壁のようなものに囲まれていて、押しても押してもなかなか広げられない。一方、中国での空間は狭いのですが、それは一種のネット袋みたいなもので、押したら十分な空間に空間になりうるんです。(孫軍悦さん)

メディアの存在は、今の中国においては特別な意味を持っている時代だと思いますね。例えば三農(農村・農業・農民)の問題を最初に具体的に取り上げたのは、近年一番有力な全国紙のひとつになっている広東省の南方報業集団でした。南方集団は、現地に取材に行って農村の問題をリアルに伝えました。ただ、忘れてならないのは、南方集団も広東省の機関新聞で、広東省政府の機関紙だということです。そういう機関誌がとても批判的なことをしていることについては、あまり日本の人は見ていない。社会的経済的に見れば南方報業集団は、党のプロバガンダ紙からある種のメディアグループへ転換した一つの成功例です。しかし政治的に見れば、そういう転換を成功させることに大きな役割を果たしたのは、編集者や記者など知識人だけでなく、党内の改革派だったんですね。共産党そのものをも重層的にまた動的に見るべきであり、そこから「中国」そのものをダイナミズムに満ちた存在としてみるべきだということです。(林少陽さん)


季刊軍縮地球市民 特集:隣人中国 より。
孫軍悦さんとは、まだ学校にいた頃、何度かお会いしたことがある。ほとんどすれ違いのようなものだったので、この座談会を読んで、もっといろいろお話を聞いておけば良かったと思った。中国の言論空間が「ネット袋」だというのは、思わず首をぶんと振ってしまうような指摘なのだが、この感覚をうまくロジカルなコトバで表現できたら、俺もたいしたものなのだけどな、と思う。

南博の水脈

読売新聞本日の朝刊「時代の証言者 名画上映 高野悦子(4)によると
高野は46年に入学した日本女子大で、アメリカ帰りの気鋭の社会心理学者南博に出会い、指導教授とする。

先生は個別の課題を与え、私のテーマは「マスメディアとしての映画」でした。「娯楽には大衆の無意識が反映される。ヒトラーは映画を利用して大衆心理をとらえた。映画などを通して何となく形成された男らしさ、女らしさというイメージは根強い。言いかえれば、無意識の部分をかえれば社会も変わる」と持論を語り、「送り手、その内容、受け手」との関係で研究するよう指導されました。

高野らは学生でグループを作り、映画館に出かけ観客の反応を調査する、今のマーケティング・リサーチを行っていたという。南が社会心理研究所を創ると、一橋の南ゼミの学生とともに参加し、映画研究のグループを作って活動した。ほかには新聞、ラジオ、流行歌、婦人問題などの部門があった。

余談ながら、この時に知り合った2人が後に東京都知事になります。早大生だった青島幸男さんと、一橋の南ゼミにいた石原慎太郎さんです。