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志摩の海辺で RSSフィード

2010-06-19

メモリアル・デー


久しぶりの志摩への道中。ついこの間まで麦が黄金色に輝いていたのに、今はもう水田となって柔らかい緑の苗がきっちりと植えられている。

梅雨前に植え替えた鉢植えのあじさいが、とうとう根付かずに枯れてしまった。白や濃紺、薄いブルーなどのがくあじさいの中に紅い彩りを添えるつもりだったのに。

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それにしても6月は、なんとメモリアルな日々が多いことか。

沖縄戦福岡空襲から65年。朝鮮戦争から60年。

1960年、三井三池大争議の真っ只中、国中が安保反対のデモに揺れていた。その春、大学生になったばかりの私は、わけもわからずデモに参加したものだ。国会議事堂を巻く渦巻きデモの中での東大生・樺美智子さんの死。あれからもう50年!

89年6月美空ひばりさん逝く。仕事でもかかわりのあった彼女の葬儀が福岡でもあった。全国5箇所からの同時中継だった。


高校、大学の先輩で直属の上司であった人も6月の梅雨の大雨のさなかに逝った。

私にとっては1ヶ月間に亘る、どんより曇った6月のドイツ・ルール炭坑の取材。

そして数年前の6月の台風の時には松の木が天窓を突き破り、割れたガラスで大ケガもした。

91年6月2日。この日には私が勤める局の創立記念特番として10時間の生放送を行った。

暦を調べ、1年内で最も天気が安定しているということでこの日を選んだのだった。

全ての仕込みを行い、総合演出も担当する。公開ホールでの多元生放送だったが、番組は無事に終った。

夜遅く、各地に散っていた中継スタッフが帰ってくるのを待ち、達成感と開放感に溢れて乾杯をした。そして翌6月3日、雲仙普賢岳が爆発した。

猛烈な火砕流が発生し、消防隊員やマスコミの取材陣などに43人もの犠牲者が出る大惨事となる。

しかし幸いにも私たちの局の系列では犠牲者は出なかった。現場を仕切っていた長崎放送報道記者が危険を察知して、他局の応援スタッフも含めて総引き上げを指令していたからである。90年に噴火したときから周到な取材を積み重ねての結果だった。

もしこれが前日の6月2日だったら。おそらく編成や報道と険しいやり取りを交わし、特番を打ち切って数台の中継車と全スタッフを普賢岳へ向かわせたであろう。各局より早い出動態勢をとっていたのだから、さぞかしスクープ映像の数々を全国に届けられたに違いない。だがその結果は……。

想像するだに恐ろしい。


この6月13日。姪の結婚式だった。華美な式は避けるように願っていたが、教会で挙式し、クリスチャンでもないのに、賛美歌を歌わせられた。有名ホテルでの披露宴は長い長い挨拶が続き、うんざりするほどの進行ぶりだった。

同じ夜、叔母が亡くなった。C型肝炎と30年間闘った末のホスピスでの安らかな眠りだった。

叔父と一人息子、嫁、そしてたった1人の孫それぞれに遺された感謝の言葉に涙が止まらなかった。ちょうど一月前、意識があるうちに書いたものだという。

おまけにこの日は私たち夫婦の40回目の結婚記念日。その夜ささやかにビールで乾杯し、地獄で再会しても知らんぷりしようねと誓い合った。

2010-05-30

原点


朝から濃い霧がかかり、海も空も区別がつかない。

昼になって霧が薄れても、いつも見える遠くの山並みには亜褐色に濁った大気が澱んでいる。澱みは一日中、消えなかった。潮の満ちた船溜りに繋留されている船が多い。不漁で船が出せないそうだ。


散歩に出る気も起こらず、古い資料を整理していたら、数葉の写真が出てきた。

モノクロの写真には大きく口をあけて笑っている子供達が写っている。そうだ、これは水俣の子供達だ。水銀障害を受けて、顔も手もゆがんでいるが、身体中で一杯に笑っている。昔、取材で当地を訪れた時のものだ。

そして同じモノクロで、美しい帆船の写真があった。不知火海のうたせ船である。

8枚の帆を風でふくらませて 網を引いている。

しかしこの白鳥のように美しい姿の下の海も又、水銀毒に侵されていた。


この「うたせ船」を陶で作りたい。そう思ったのが始まりだった。

以前、私自身のメモリアルとしての小さなヨットディンギー)を作っていたが、それ以上の美しい帆船、うたせ船を作りたいと思ったのだった。かすかに鎮魂の意も込めて。

ミニチュアを作り、デッサンを繰り返して、小型のものが出来上がった。

形をそのままに、2倍の大きさにして完成した。

不知火海の美しい白鳥、うたせ船が天へはばたいた、というイメージである。「天舟」と名付けた。

そして今もその延長上にある。

無限回廊」というテーマで様々なバリエーションを試みながら、その時々の心の内の闇と光を出口のない彷徨になぞらえて作陶している。無論、稚拙ではあるけれど。


もう一葉は、私自身が写っているカラー写真である。

博多どんたく中央本舞台」と大看板がかかっている。旧福岡スポーツセンターの正面玄関だった。「前夜祭」ともある。

昔、どんたくや山笠など多くのテレビ番組を作った。

中央本舞台がスポーツセンターから国際センターへ、パレードが国体道路から明治通りへ移行し、

その商業性を増すばかりの祭りへと変質していくのにも付き合った。

パレードへの参加チームは年を追うごとに増え、企業の宣伝場へと化していった。広告代理店マスコミ福岡市、3者共存の果実であったろう。

我われテレビ側も本舞台やパレードを中心に番組を作り続けていて、それは今も同様である。

2週間前の5月3日。博多奈良屋町で「どんたく」を見た。

奈良屋は中世博多の中心部であり、当時の大商人達もここに住まいしていた。福岡空襲で最も焼き尽くされた地区でもある。櫛田神社の前の土居通りを博多湾の方へ北上し、昭和通を突っ切った辺りがそうである。

通りの一角を車両通行止めにし、道路そのものを「どんたくステージ」にしていた。

通りには数張りのテントが張られ、すぐ側の老人ホームのお年寄り数十人が車椅子で運ばれ、ハッピを着て手にしゃもじを持って祭りに参加している。 障害をもつ子供や青年達も見物に来ている。ステージには次々と芸達者が登場し、近所のおいしゃんおばしゃんが三味線や笛、太鼓を演奏し、面白おかしく踊る。

稚児流れが祝いの口上を述べ、博多のあいさつのしきたり「一束一本」を三宝にのせて渡し、子供のお囃子、大人のお謡いに合わせて稚児・少女が仕舞う。大舞台では見られぬ光景だ。

柳川から来たというバンドのジャズともレゲエともつかぬ陽気な演奏に、皆が手拍子を打って大喜び。と、先ほど踊り終わったおばしゃん達が手を引き合って道路に出て、リズムに乗って勝手に踊り始めた。やがて彼女らが障害の子供達を引っ張り込んだ。

彼らも全身で喜びを表しながら踊った。見物人も踊りの輪に入った。ホームのお年寄り達もしゃもじを懸命に叩いている。

「どんたく」が「祭り」という意味ならば、これこそが祭りであろう。「どんたく」の真髄、その原点。表通りの企業まつりのみを仕事としていた自分を密かに恥じた。

昼すぎに通りかかった時には気配もないほどに片付いていた。そして間もなく山笠

博多の男達が家業もなにも放り出して伊達を競う季がくる。

2010-02-20

言葉


「お誕生日、ちゅかれた〜!」

そういって彼は父親に受話器を渡し、さっさと消えてしまった。遠くに住む孫にお祝いの電話をかけた時の第一声である。

この一言で彼をとり囲む状況が殆んど分かった。幼稚園やご近所のお誕生会、あちこちからかかるおめでとうコール。子供ながら応対に疲れてしまったのだろう。

しかし、こういう一言を口にしたいものだ。たった一言で多くを、あるいは全てを伝える言葉を。


久しぶりに同期会があり、同年度入社の男女7人が集った。全社的にも珍しく仲の良い期と言われている。すでに物故者が3人いるが、残ったのはなかなかに個性的な連中である。

白熊君「あのねえ、愛にはアガペーとエロスの2種あってねえ。アガペーは神の無償の愛、エロスは欲望、奪う愛なんだ」神学部をもつ学校出身の彼は博覧強記、森羅万象知らざるものはない。政界の裏話から芸能界のウワサ話まで話題は広い。だが、どこまで本当かウソか煙の中である。

柴犬さん「陽の光を浴びていると、神様に育てられていると思うんよね。この頃、何に対しても感謝したいっちゃん。」強い正義感と信仰心をもつ彼女は話し出したら止まらない。

梟君 「柴犬さんの言うことはかなり理解できるんだけど」と穏やかに意見を述べる彼は、理性的でバランスのとれた思考の持ち主だ。実はこの会は彼が半年間の入院生活を終えての出所祝いだった。

梟君 「血液の病気で、死というものに本気で向き合った。著名な人の本も多数読んだけれど、とことん納得することはできなかった。」彼がすごいのは無理矢理自分を納得させないところにある。分からないところは分からないままにしておく勇気がある。

三毛さん「何ばごちゃごちゃいいようと。皆んな、会費チョーダイ!」

自然に幹事兼会計係になっている彼女は、相変わらずおきゃんだが、しかし、1週間前に18年連れ添ってきた彼(愛犬)を亡くしたばかりだったのだ。眼を泣きはらし、頬がこけても、やはり正義の女性、中国からの観光客の散財ぶりに話題が転がると、

三毛さん「今の中国はおかしい。僅か1%の富裕層と99%の貧民層。もう一度革命がないといかんとよ!」

熊猫君「いやね、中国は何度革命を起こしても、その構造は変わらんとよ。」著名な中国文学者に学んだ彼は又、美味しいもの大好きな人間である。

熊猫君「イヤー、どの刺身も旨いねえ。キンメも食べたいねぇ。」「キンメ美味しいと?」「旨いんだよこれが。」「キンメ高いよ。」「え〜?値段きこうか?えっ、1尾5000円!半身にする?」など喧しい談合の後、ムツの煮付けに決まった。アオサ味噌汁、貝汁、焼きおにぎりなど、譲り合いながら皆パクパク食べている。その時ひたすら焼酎を飲んでいた男、

カッパ君「45年前とちっとも変わらんねぇ。人間、基本的な人格というのは変わらんもんやな。」

お開きになる直前、突然梟君が居ずまいを正して「1分間時間を下さい。」

それから彼は入院に到った原因から治療の模様、退院までの経過を簡潔に報告した。

そして「再発するかもしれないし、しないかもしれない。でも、もし再発したら、それはその時に考えていきたいと思う。」誠実で律義、かつ剛気な彼らしい言葉だった。

文は人なりという。しかし、文の前の言葉こそが人そのものを現わす。言は人なり、である。


春一番が吹き、春雨が柳を芽吹かせる季、冬のオリンピックは終った。

カーリングにはまり、ヘボ碁の指し手のように、「あの石をこちらへ、この石をあちらへ」といいながら、実は上目使いのキリッとした美女軍団に釘付けだったのだ。

2009-10-30

能古島で


ウィークデーだというのに、しかも昼の便だというのに能古行きの渡船場には150人程の行列ができていた。「今頃から行ってどうする気?」と呆れながら、自分もその1人であることに苦笑する。

秋空に染まった青い志賀の海や、白砂の中道を遠くに望みながら能古に上がる。薄いジャンパーの右のポッケに水、左のポッケにゃチューインガム、ならぬウィスキーの小瓶。無論、こんな時にはトリスである。砂浜で、茶とブルーが基調の百道のビル群を眺めながら、トリスをチビリと含む。はるかな青春が懐かしく、苦く、広がっていった。

今日は東回り。福岡の市外を右手に見ながらの散歩である。道は海沿いからゆるやかな山道にかかっていく。


先週は久しぶりに唐津にドライブした。二丈町のガラクタ市をひやかし、虹の松原を通り抜け、唐津市の城内へ。

T邸という観光名所がある。城の近くの一等地に、財を成した炭鉱主が建てた旧居である。筑豊にも、I邸、A御殿という広大なものがあるが。

和洋折衷で、高価な材料を用い、随所に工夫があった。欄間の透かし彫り、杉戸の日本画、各部屋の飾りもの。いかにもである。

極めつきは大座敷の中の能舞台だ。演じられる時は、次の間と仕切られた敷居と杉戸がとり払われ、囃子方の奏場となる。洋の部屋には暖炉にピアノ、洋風の飾り物。別棟には食料庫、その地下にはレンガで全面が囲われたワインセラーがあり、中味のないビンがほこりまみれで、ギッシリと詰まっていた。観光客の案内人も数人いて、グループ毎に熱心に説明していた。

郷土の誇りであるに違いない。しかし、申し訳ないが私には、金にあかした成金趣味にしか見えなかった。豪華な造りを見せつけられる度に、そこには見えない無数の坑夫たちの地底の葬列が眼に浮かんだからである。

25年前、大牟田有明鉱で、大火災事故が発生した。坑夫たちの人生を追って、別件で筑豊へ向かっていた私たち取材スタッフは、そのまま大雪の中をとってかえし、現場に急行した。

焼かれて真っ黒になった坑夫たちが、坑口から次々に搬出されてくる。それに取りすがり、泣きわめく家族。両手をすり合わせ、泣きながら無事を祈る妻たち。阿鼻叫喚の地獄絵だった。

頂上付近の思索の森にある檀一雄さんの碑に参り、献酒をする。能古島を愛し、終の梄となった。

糸島の海が光っている。


古代から中国人が尊ぶもの、それは玉(ぎょく)と太湖石である。

玉は中国の西域・和田(ホータン)などでとれる、しっとりとしてつややかな軟玉。

古代から中国では金よりも貴重なものとされていた。太湖石は江南の太湖でとれる、穴だらけの大きな石灰岩だが、中国人はそこに自然界が凝縮されると考える。

どちらも、フツーの日本人には理解しにくいものだ。仮に私がもらっても猫に小判、豚に真珠、何の有難味も感じない。


もっとも、今の中国人には玉より太湖石より、金(マネー)だと思えるのだが。

ことほどに価値観というものは違っている。

陶芸も含めて、あらゆる芸術は、それに無関心な人には無用のものであり、執着する人には、時に命がけの営為となる。が、古代中国思想家荘子は「無用之用」と考えた(らしい)。「どれほど無用に思えても、何らかの役に立っている。」この世の存在に無用のものなどない。それが天の理である。

勇気りんりん、ヘタでも、訳がわからなくてもいいのだ。

能古発、姪の浜行きのフェリーは乗客であふれていた。全く、ウィークデーだというのに……

2009-06-30

ほととぎす

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淡青の海と濃緑の森を駆け抜けた風が、乾いた鼻孔と汗ばんだ肌をかすめてサワサワ通りすぎた。

「てっぺんかけたか〜」、ほととぎすが問いかけている。夏だ。

「谺(こだま)して 山ほととぎす ほしいまま」杉田久女の名句を口ずさみながら、ゆるやかな坂の落葉をサクサク踏む。

ギャーギャーと騒がしく鳴くむくどりの群れ。赤紫いろをした鈴なりの山桃の実をついばみながら、おしゃべりに夢中である。2年半前、不測の大腿骨骨折以来、万歩計を腰に、散歩するのが日課となった。

偶々つけたTVが、生誕百年になる太宰治の16才の頃の写真が、青森で見つかったと報じていた。卒業記念か何かの集合写真の中に、級長マークをつけた白皙の美少年がいた。

トカトントン」。この不可思議な文章に出会ったのは小学生の頃だったか。大人しか読んではいけない本に混じって、太宰の短編集があった。戦地から帰還した若い兵士が、家を建てる槌音の響きに、突如、無力感を覚えるという話であった。

なぜそうなのかは本人にも判らない。ただ、「人生、ここ一番」という時に、きまって「トカトントン」と幻の音が聴こえ、自分自身を無常の中に放りだしてしまうのだった。

始末が悪いことに、まだ柔らかかった私の心は、この「トカトントン」という響きにとりつかれてしまった。

後の人生、推して知るべしである。しかし、おかげで、文章や言葉のたおやかさを知った。

当然ながら作家は、それぞれの文体を持っている。簡潔な文や粘りの文。剛直さやしなやかさ。浅田次郎の「天切り松」などは、声に出して読み上げたいほどの江戸弁のリズムと歯切れの良さがある。

だが、言葉そのものに執拗なまでにこだわるのは、商(殷)や周、春秋戦国時代など古代中国を題材にした小説を数多く書いている宮城谷昌光だろう。何故そのような難しい漢語を使うのか、もっと平易な言葉があるだろうと、腹を立てながら読まねばならない。面倒くさい時は読み飛ばしさえする。文字が持つ意味。彼はそれを重視し、辞典にも載っていない言葉をあえて使う。

その彼が敬愛してやまないのが、漢字学者の白川静博士である。甲骨文字を一文字一文字書き写し続け、遂に文字の持つ意味、その成り立ちを明らかにした。在野の身でありながら、2千年近く、誰も疑おうとしなかった学界の定説を根底から覆したのである。博士の重要な発見の一つに「U」(サイ)の文字がある。アルファベットのUの中に横一本、足したような字である。

口(くち)の原型だそうだ。「U」は神への祈りを捧げ、神託を受ける言霊の入れものらしい。

半可通は馬脚が現れる。これくらいにしておこう。

無謀にも私は、これを陶で形づくれないだろうかと思ったのだ。文字をなぞるのではなく、その持つ意味を表現する。壷や皿を作れない私は、訳のわからぬオブジェに走っているが、こうなれば毒皿である。デッサンを繰り返し、どうにか形になりつつある。

バルコニーに置いた器に、小鳥たちが水浴びに訪れる。砂をしき、水を張っている。

これはかつて塾展に出したもので、そのタイトルは「倣汝窯水仙盆」。なんとも今でさえ汗が吹き出そうな大それたものだった。宋磁に魅せられ、色はともかく、せめて形だけでもと真似て作ったものだ。

やまがらが水浴びしている。羽や尾をひとしきり洗ったら、急にピーピーと鳴き、飛び立った。すると入れ代わりにめじろが飛んできて、水浴びを始めた。

それにしてもこの「作品」を評価してくれているのは、この小鳥たちだけだなあ、と目を細めていたら、大きなひよどりが飛んできて、思いっきり水をはね飛ばし、プリッと置き土産までしていった。

2009-05-30

ファルセット


雨の匂いを含んだ風が吹いている。今年はつつじも藤もエゴの白い小花も早く散り、山法師が早くも咲き出した。季節は確実に早くなっている。

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3年ぶりに広島に行った。学生時代のジャズバンド仲間のセッション&パーティーに出席するためである。以前にも書いたが、毎年春、東京広島福岡の持ち回りで、パーティーを開催、全国に散った仲間が集まる。中には海外からの遠来者もいる。

20回目になる今回は、ことのほか力が入っていた。東京在住者を中心とした東軍と、福岡を中心に広島熊本佐賀からなる西軍がそれぞれ、密かに練習をしていたからだ。

「学生の頃より練習しているかも」「当時より理論が判っている」との声が出るほど、前期高齢者のメンバーは真剣に練習した。

当日、家族、友人も含め30数名が参加、スタンダード、モダンラテンフュージョンなど、30曲余りを入れ代わりセッションした。確かに前回よりも上手くなっていた。

ジャズに夢中(それもモダンジャズ)だった私たちは、同世代ビートルズには、興味のかけらも持たなかった。プレスリーは好きだったが。

ビートルズに決定的な影響を受けたのは、井上陽水たちの世代である。先日亡くなった忌野清志郎もその一人だった。彼は反骨の人で、反核反原発反戦の歌を多く発表し、放送局などの体制と激突した。


25年ほども前、「ザ・ベストテン」という超人気TV番組があった。黒柳徹子久米宏の名コンビで、「追いかけます、おでかけならばどこまでも」のキャッチフレーズのもと、ベストテン入りした歌手を、日本はおろか海外までも追いかけて生中継するのがウリの歌番組だった。私もしばしば生中継を担当した。

その「ザ・ベストテン」に「い・け・な・い・ルージュマジック」で初出演した忌野清志郎は、坂本龍一と奇抜な化粧をし、札束が舞い散る中、男どうし、濃厚なキスシーンを演じた。これは今でも、TV演出上の名シーンとして語り草になっている。

彼らに共通するのは、歌詞(日本語)を大切にすること、イントネーションに沿った自然な音の流れを重視したことである。又、明瞭に発声することで、その歌の意味を正しく伝えようとの意思が強く働いている。

少し若いが、尾崎豊もそうだった。サザン・オールスターズの桑田佳祐も、巻き舌で英語風に歌うが、明瞭だ。

近頃の歌をラジオなどで聞いていると、言葉の流れを無視したメロディーラインが多い。しかも、突拍子もない高音がいきなり出てきて、それをファルセット(裏声)で歌う。

一流の歌手は、ファルセットで歌うのは恥だと思っていた、と思う。どうしてもそうしたければ、美空ひばりの「悲しい酒」や「みだれ髪」をじっくり聴いてみるがよい。地声からファルセットに移行する絶妙な変化を味わえば、恥ずかしくてファルセットを使えなくなるだろう。

そういえば最近、女の子が「知らねーよ」「ウザいんだよ」などと乱暴な言葉を使い、男はひたすら「やさしさ」を求められる。それどころか、性としての男(オス)の生殖能力が落ちてきていて、人類滅亡の可能性すらあるといわれる。男の歌手がやさしげに「さくら〜〜」とファルセットで唄うのもこのせいか?

阿久悠逝き、三木たかし逝き、残るのは素人に毛が生えたアーチスト(!)ばかり。

日本のいい歌が消えていく。

2005-04-30

地震のあとに


私が通っている陶芸塾・陶芸展の搬入日、3月20日午前11時前。テレビを見ていたら突然、ビリビリ、ガタガタ、ドンドンと突き上げられた。地震だ、これは、本物の地震だと、ベッドとベッドの間に身を伏せた。

居間では大きな水槽が割れ、部屋中が水浸しになった。シーツやタオルケット、新聞紙で応急処置をし、散乱した室内に手をつけないまま、自転車で周辺を見て廻った。

百道浜埋立地である。市の図書館液状化現象で、水と砂があふれ、建物の周囲が陥没し、亀裂が入っている。

福岡タワーの南側の道路は川となり、道が波打っていた。

四月半ば、久しぶりに上京した。学生の頃のジャズ仲間「モダンスカラーズ」のパーティーが開かれる。年に1度、福岡東京広島の持ち回りになっている。今年の会場は、池袋の「マイルスカフェ」というジャズバー。

九州などからの遠来組も含め、メンバーやその家族など約30名が参加した。私もこの1月頃まで、持病の腰痛のために、殆んど歩けないほどだったが、何とか参加を果たした。右足はしびれたままだ。

いつもなら軽く食事をし、酒が回ったところで「ジャズやるべー」となるのだが、今回は夕方5時が「ケツカッチン」(強制終了)となっているので、早々に演奏を始めた。

序奏もなしに始めたつけはすぐに現れた。我らがバンドのテーマ曲、「危険な関係ブルース」は、メンバーが素面のせいか、ためらいや自信のなさがもろに出て、よれよれになった。アルトサックスがドラムの私に、「テンポが速くなったり、遅くなったりしとう」と文句をつけた。

「なんばやー。アルトとペットがずれとるけん、合わせたっちゃなかやー」と思ったが、ここは大人の態度、日中関係とは違うのだ。しかもこの曲の原題は「ノー・プロブレム」。

今回は事前が面白かった。会場探しから、曲順、楽譜、音源のやりとりなど、メールでチャットがひんぱんに行われ、「練習しとけよー」。まるで中高生のような、うきうきとした心の柔らかさが、パソコンの無機質のかなたで飛び交った。

来年は広島、気合を入れて練習し、又楽しく「ジャズやるべー」。


宴のあとから数日、昔、名ギタリストの学友の参加するマンドリンアンサンブルの演奏会、近代絵画展、ルーヴル展、北大路魯山人展と、幸せな時を過ごした。

特に鎌倉神奈川県立近代美術館の、「高橋由一から松本峻介まで」と題した、近代日本美術の名作展には驚嘆した。

美術の教科書に出てくる、錚々たる画家の絵がズラリと並んでいる。それぞれの絵の時代背景や、欧州の美術運動との関連が区分毎に説明されており、幕末から第2次大戦終結までの日本洋画の変遷が、判りやすく、展示されていた。


帰福した翌早暁。短い旅の疲れのまどろみのさなか、いきなり、ビリビリ、ドーンと余震が再襲した。震度5強。

3月20日の強震後、「想定の範囲内」で、散乱した室内をわざと放置していたから、手間ははぶけた。しかし、人の一生、幸と不幸は釣り合いがとれているというが、あんなにも楽しい時を過ごしたことの、これが罰なのだろうか。

そして数日後、行きつけの店で、画家の菊畑茂久馬さんと偶然一緒になった。

以前、県美で、先生の「絵かきが語る近代美術」を受講したことがある。

 その中で先生は、幕末から明治初期の高橋由一の作品をスライドで見せながら、日本の油画(油絵)の祖といわれる彼の凄さを語った。貧しい下級武士の身で、独学で油画を追求したらしい。

気迫あふれる「ちょんまげの自画像」日本洋画史のシンボルともいえる「鮭」そして特に、「花魁図」の鬼気迫る吉原の遊女の絵を絶賛していた。

鎌倉の話をすると、「それはいいものを見たねー。あそこは日本最初の公立近代美術館だし、展示品は全部所蔵品なんだ」。

それから約2時間、呑みながら、さまざまな話で盛り上がり、私にとっては至福の時を過ごさせて頂いた。

そして……。原稿を書いている今、テレビでは尼崎脱線事故の悲惨を伝えている。

私のふくらんだ気持も紙風船のようにしぼんでいく。

2004-10-30

能囃子


記録的な数の台風の襲来と秋雨にたたられ、ホークスの悲劇に涙した日々は、はや晩秋の匂いにさえ包まれている。百舌が、キーッと鋭く、虚空を切った。

能楽囃子を聞く会に参加しませんか」という案内があった。福岡市内の画廊が企画した催しで、今回8回目。

たまに博多座歌舞伎を観ることがあるが、私の場合、役者たちの演技よりも、囃子の方に興味がいく。話の筋が判らないということもあるのだけれど、音のすごさの方に吸い込まれてしまう。西洋音楽の音調とはまるで異質の音境。ピーッと舞台を切り裂くような笛、そして皷、棹、唄い。さらに舞台の袖で、タンタンとはげしく打ち鳴らす柝(き)が、メリハリをつける。

「能囃子を聞く会」の会場は、糸島郡志摩町の禅寺だった。主催者ゆかりの寺であるらしい。

内心、せいぜい数十人程度だろうと思っていたのだが、夕刻、会が始まる頃には寺の檀家の人々や、福岡市内からと思われる客で広い本堂が満杯になっていた。子どもたちの姿もある。

私が初めて能や狂言にふれたのも小学生の頃、学校の講堂で巡回のそれを見せられた時だった。何だか訳もわからず、ただ、狂言の所作に笑っていた記憶しかない。

能囃子の会は、五人の禅僧による般若心経の読経に始まった。

中世に興り、武家社会に広まった禅宗。寺社の庇護のもと、これもまた武家社会で発展した能狂言。両者の縁は深い。

音響のいい立派な能楽堂ではない、明治末期に建てられたという古びた禅寺でのパフォーマンスは、絶妙のしつらえといえた。

能楽師たちが登場した。笛、小皷、大皷(おおつづみ・おおかわ)、太鼓の四人。短い奏者紹介の後、すぐに演奏が始まった。曲目は「出端(では)」。平たくいうと出囃子である。神様や鬼やら、もろもろが登場する時の音だ。

能の主役は幽霊である。

小皷のポンポンと微妙な音色の変化に、鋭く高いカーンという大皷が加わり、笛がヒュ-ッと空間を切り裂く。太鼓が全てを包み込むようにトントン、タンタンと調子を創る。そして何よりも演者達の掛声。笛を除く、小皷、大皷、太鼓の三人が、腹の底からオー、ウオー、イヤーッと唄いながら楽器を叩く。

解説によると、能の囃子では『 掛声八で粒(打音)二 』、掛声で調子を創るのが大切だとある。

演目が進み、舞囃子「中(ちゅう)之舞」。舞と楽器の基本で、習熟度が問われるものらしい。舞いが始まった。女性である。面をつけず、静かに舞う。本堂の中央から、じわり、そろりと四隅に動く。動きの意味は判らない。しかし、その顔を見ていて驚いた。まばたきをしていない。まさしく能面そのものになりきっている。動きは緩慢。所作らしいものはほとんどなく、扇子を前にだして足をかかとから踏み出しながら、時々、トンと足踏みする。

この能囃子のメンバーが、先月、九州交響楽団オーケストラと共演した。演目は「創作能・山笠」。

天神福岡シンフォニーホールが、1300人の聴衆で埋め尽くされた。

能の舞、狂言、ナレーション、能囃子、そして九響の、渾然たる舞台が始まった。

何より驚いたのは、たった四人の囃子が、大オーケストラを圧倒していたさまである。しかも彼等の前には楽譜がない。長い曲を全て暗譜しての、一糸乱れぬ掛け合いが、舞やナレーションやオケとからみあう。

日本の伝統芸能の奥深さと凄さを見せつけられた思いだった。

『 能の表現方法は写実的表現ではなく、削ぎに削ぎ落とした必要最小限度の抽象的な動きによって、観る方の想像力、感性に訴えてゆく方法をとっています。』

やっぱり世阿弥さんはすごいというか、後世にこのような影響を遺している。

そして私がビビッときたのは「必要最小限度の抽象的な動き」というところ。この「動き」を「形」に置き換えるとどうなる。

作陶の手間がはぶけて、なまけものの落ちこぼれには、格好の逃げどころなんだけど。

しかし、「削ぐに削ぐ」ほどのものが土台ない、ということにすぐに気づく。

せめて「くりぬき」の時に、T師口伝の「一円、一円」ととなえながら、土を削り取るのが関の山か。

2004-07-30

ゴビ砂漠を走る


シルクロードを走る列車の屋根に、無賃乗車を決め込んだ人々。私にはまるで鶏の群れに見えたのだが、夜が明けて、嘉峪関につくころには、その姿は大荷物と共にかき消えていた。

嘉峪関は万里の長城の西の果ての城郭である。その城壁の上から見ると、まるで溜め池の土手のような、たよりない長城が、西の彼方へ這い伸びて、やがてゴビの砂礫の中へ消えていっている。時と風と砂に削り取られたのか。

嘉峪関から約400キロ、バスで8時間の敦煌へ向かう。真っ青な空に、刷毛でサッと刷いたような雲が、幾重にも浮かんでいる。「飛天」。 嫋々とした薄衣をなびかせて、天女が舞っている。と、悦に入っていたら雲行きが怪しくなった。ポツポツと水滴が窓に落ちてきた。ガイドが言った。「この地域は年に4、5日、年間2、30ミリの降雨量しかありません。皆さんは運がいいですよ。めったに降らない雨を見たんですから。」

干上がった路面をわずかにぬらし、雨はすぐに上がった。そして私たちは確かに運が良かった。

 中国のタイヤには溝がない、ことはない。初めはあったのだが、使い古してツルツルになったタイヤを山積みにして売っている。これでブレーキはきくのか? 

バスはスピードを落として走っている。前方に白いものが見えた。トラックが横転している。積荷のレンガが散乱していた。手のつけようのない量である。その側を「あらまー」とかいいながらバスは走りぬけた。

雨が極端に少ない土地だから、雨降りの運転には慣れていない。また、雨と砂が混じって路上は滑りやすい状態になっている。左前方に、ジープが道路から10m程も飛び出して横転しているのが見えた。近づくと4、5人の青年たちが呆然と座り込んでいる。一人は仰向けに倒れ土気色である。ピクリともしない。バスは事故現場に停まることもなく通り過ぎた。

「大丈夫です。多分誰かが連絡していると思います。」 ガイドは言った。ホントかしら。道路と電柱しかない、後にも前にも4時間のところである。

月の砂漠のイメージ通りの敦煌から北西、柳園へ向かう。そこから再び夜行列車トルファンへ行くのだ。

柳園まで128km、70キロあるという直線道路が地平線の彼方へ伸びている。バスの中は冷房がきいているが、窓の外は燃えるようなゴビ灘。地平線の向こうには海(勿論、蜃気楼)が見える。60度近い白酒(ぱいちゅう)を暑気払いに飲む。時折キラッと光るものが遠くにみえるが、やがてそれは対向車だと判る。遠く左前方に竜巻が立っている。しかも3本も。あれにぶち当たればどうなるのか?

その時、目を疑うものを見た。男が一人、道路を箒で掃いているのだ。路面に積もった砂をゆっくりと路肩に掃き寄せている。

ここは砂漠の真中。ちょっと風が吹けば砂は舞い上がり、道路に降り注ぐ。徒労ではないか。しかもこの男、どこから湧いて出てきたのか。見渡す限り人家もなにもない。しばらく考えて結論に至った。おそらく「道路掃除隊」のようなものがあって、トラックで数キロごとに人を落としていって、その持ち分をそれぞれが掃いているのだ。それが仕事なのか、労役なのかはわからないが、少なくともそれをしないと道路が砂に呑みこまれてしまうのではないか。毎日毎日途方もない作業で、ある意味何の生産性もない労働だが、これなしにはシルクロード動脈が消えてしまうのだ。と、何となく納得したのだが、その後道路を掃いている人をついに見かけなかった。一体、あれは何だったのか? 悩みながらふと前方を見ると・・・。ナニ? 

 今度は自転車だ。ゆっくりとペダルを踏みながら、中年の男がやってくる。360度砂漠の、村落などの影も形もない。土台、人が住み着くようなところではないのだ。この男、どこからきて、どこへ行こうというのか。もう夕刻。日没も近い。前も後も地平線だぞ。やがて自転車男は、西陽を背に受けながら悠然とすれ違っていったのだった。

スケールの大きな、じゃない様な気がする。

多分私は、スケールのない世界へ来ているのだろう。  

2004-06-11

梅雨の晴れ間に 


梅雨だというのにカラリと晴れた日、新しい出光美術館で開かれている「板谷波山展」を見に門司港へ行った。

ビールちくわを買い、10数年ぶりに在来線に乗る。やわらかい座席が快適。新幹線より目線が低く、景色の変化が肌で楽しめて、ちょっとした小旅行気分だ。

板谷波山の作品とは30年ぶりの再会だった。

お目当ての窯変天目も展示されていた。以前見たものとは違うが、いわゆる禾目天目で、辰砂の赤い線が口縁から下へ細かい雨のように降り注ぎ、霧のように淡く消えていく。非の打ちどころのない美しさ、と思ったら箱書きがあった。

この作品、波山本人にしか判らぬキズがあるらしく、出来栄えの良さを惜しみつつも割ろうとしたところを、出光佐三が拝み倒して貰い受けたものだ。「命ごい」と銘がある。あまり上手ではない佐三自らの手で命名の由来を書いていた。無論のこと、波山の自署はない。

明治末、岡倉天心高村光雲に師事して木彫の腕を鍛えた。波山には現田市松というロクロ引きの助手がいた。助手というよりは終生の分身だった。波山がデザインし、市松が成形する。波山はそれに彫りを入れ、彩色して独自の世界を創り出した。しかし、その形はまさしく宋磁であった。宋磁をお手本に、一点のゆるみもなく、緊張感に満ちた作品を生み出し続けたのだ。

波山は陶磁器界で初めて文化勲章を受賞した。しかし人間国宝は辞退した。理由は知らない。だが何となくわかるような気もする。91歳の絶作となった茶碗は椿を描いて、実に瑞々しいものだった。

関門海峡を行き交う大型船。その間を縫ってチョロチョロと走り回る釣船たち。「W・4」(西の流れ・4ノット)と電光が示す。潮が流れる様はまるで大河である。遊歩道の風見鶏がゆっくりと尾を振っていた。

この時、懐かしい光景を想い出した。10年前、シルクロードへ行ったときのことだ。

西域の大都市蘭州から、土地の美味い葡萄酒を買い込み列車に乗った。上海発、ウルムチ行きである。いつものことだが、列車に乗り込む時は押し合い、へし合いの騒然とした状態となる。蘭州名物「牛肉麺(にゅうろうめん)」を食べそこなった。心残りのまま列車はゆっくりと長い長いホームを走り出した。

やがて黄河が見え、鉄橋を渡る。例によって、天の神、河の神、そして自分に献酒をする。コンパートメントの同室者は幸いワケのわかった連中で、「始めますか?」と言ったら、みんなにっこりうなずいた。私以外は3人とも妙齢(!)の女性だった。幸せな気分で外を見る。この辺りの黄河は川幅も狭く、黄土を巻き込んだ濁流である。列車が大きく右にカーブした。車列の全容が見えた。機関車から最後尾まで何十輌あるのだろう。こんな長い列車は見たことがない。

その時、妙なものが目に入った。列車の後方の屋根に鳥が留まっている。

 「鶏?」 それも何十羽も。女性たちに告げた。「ウソッ」。疾走する列車の屋根に鶏がいるはずがない。4人が窓から顔を突き出した。双眼鏡で確かめた。「キャー、あれ人間よ!」「ウソーッ」

数十人の人達が、山ほどの荷物を抱えて座り込んでいる。無賃乗車だ。丁度鶏のトサカのように見える。風を受け、満員の車内よりよほど快適そうだ。  停車の度に、鶏たちはゴビ砂漠夕陽の中へ一羽一羽姿を消していった。

「我も又 欲しや市松 粘土(つち)崩す」