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関西学院大学社会学部 島村恭則ゼミ

2018-09-15

大学院進学案内

| 19:36



https://www.facebook.com/shagaku.shimamura/ を参照してください。


【1. 教員情報】

氏名:島村恭則

職位:教授(博士後期課程研究指導教授)

学位文学博士

専門:現代民俗学ヴァナキュラー文化研究、世界民俗学史と民俗学理論


【2. 研究・教育内容】

 わたし個人の研究としては、沖縄民俗宗教シャーマニズム研究から出発し、都市伝説日韓比較研究、妖怪・占い文化の博物館民俗学在日コリアンや引揚者が生み出したヴァナキュラー文化の研究、喫茶店モーニング文化の都市民俗学的研究、関西私鉄文化研究などを経て、近年は、世界民俗学史をふまえた民俗学理論の研究、とくに、民俗学を国際的・学際的な「ヴァナキュラー文化研究」として再編成する議論を展開しています(「ヴァナキュラー文化」については、島村2018などを参照)。

 大学院教育では、民俗学ヴァナキュラー文化研究の全領域を扱っており、古典的な民俗学から現代民俗学まで、日本民俗学から中国民俗学韓国民俗学などアジア民俗学まで、また、社会伝承、生業伝承、交通・交易儀礼、祝祭、宗教口承文芸芸能物質文化文化遺産博物館など、民俗学研究のすべてのジャンルについて、研究指導を行なっています。あわせて、本研究科文化人類学ゼミとの相互乗り入れにより、人類学知識も身につけられるよう仕組みを整えています。

 現在および過去の島村研究室所属院生の研究テーマは、「流行神をめぐる民俗宗教論―〈残念さん〉信仰を中心に―」「神輿会のフォークロア東京圏の都市祭礼を支える人びと―」「中国の茶芸館をめぐる都市民俗誌」「ヴァナキュラー宗教民俗誌―稲荷信仰の事例から―」「ネット・ロアとヴァナキュラー・ウェブ」「フォークアートアウトサイダーアート」「植民地と引揚者」「新宗教スピリチュアル民俗学的研究」「職人と講集団」「食文化と食ツーリズム」などです。

 わたしたちの研究室では、関西圏の他大学大学院民俗学ゼミとの合同ゼミを定期的に実施しているほか、研究室のメンバー全員で中国台湾を訪れ、現地の民俗学大学院ゼミとの合同研究会や共同調査も実施しています。院生は、日常のゼミにおいて修士論文博士論文の完成に向けての研究指導を受けるとともに、これらの研究室活動からも多くを学びとり、日本や東アジアはもとより、世界の民俗学第一線で活躍できる研究者として成長しています(国内学会に加え、アメリカ中国台湾ドイツなど海外の民俗学会での発表や論文投稿を経験している院生もいます)。

 日本における民俗学大学院教育の一拠点としての位置を占める関学社会学研究科島村研究室では、大学院に進学して民俗学ヴァナキュラー文化研究を学ぼうと考えているみなさんを、国の内外、列島の東西/南北から広く歓迎しています。


【3. 代表的な著書・論文等】

島村恭則, 2010, (単著)『〈生きる方法〉の民俗誌』関西学院大学出版会.

島村恭則, 2013, (編著)『引揚者の戦後』新曜社.

島村恭則, 2019,(共編著)『民俗学読本―フィールドワークへのいざない―』晃洋書房.

島村恭則, 2003, (単著)『日本より怖い韓国怪談河出書房新社.

島村恭則, 2008, (共著)『異界談義』光文社.

島村恭則, 2018, 「民俗学とは何か―多様な姿と一貫する視点―」『現代民俗学のフィールド』古家信平編, 吉川弘文館, 14−30.

島村恭則, 2017, 「グローバル化時代における民俗学の可能性」『東アジア世界の民俗−変容する社会・生活・文化―』(アジア遊学215), 217−231.

島村恭則, 2017, 「『民俗学』是什么」『文化遺産』46, 59−65, 中国・中山大学中国物質文化遺産研究センター.

Shimamura, Takanori, 2017, Folklore in the Midst of Social Change: The Perspectives and Methods of Japanese Folkloristics. Japanese Review of Cultural Anthropology, 18(1), 191−220.

島村恭則, 2014, 「フォークロア研究とは何か」『日本民俗学』287, 1−34.

島村恭則, 1995, 「沖縄民俗宗教新宗教―「龍泉」の事例から―」『日本民俗学』204, 1−37.

島村恭則, 1993, 「民間巫者の神話的世界と村落祭祀体系の改変―宮古島狩俣の事例―」『日本民俗学』194, 70−124.

島村恭則, 2001, (博物館展示)「異界万華鏡―あの世・妖怪・占い―」国立歴史民俗博物館.


【4. 研究紹介のホームページなど追加情報】

 「大学院進学希望の皆さんへ」(「関西学院大学社会学部島村恭則ゼミホームページ」で検索後、当該ページへ)、およびFacebook島村恭則)を参照してください。

 また、これ以外にも、「喫茶店モーニング文化―都市の民俗学―」(関学スカイセミナー https://www.kwansei.ac.jp/skyseminar/pdf/sky66.pdf)をはじめ、ネット上で「島村恭則」を検索すると、関連情報がいろいろ出てきます。

 進学を検討されている方は、島村恭則 tshimamura<アットマーク>kwansei.ac.jp(<アットマーク>は、@に変えてください)まで、直接ご連絡ください。ゼミ見学も受け付けています。


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2018-09-08

「信奉者」たち

| 15:30

社会学部 3回生

高樋凌平

「信奉者たち」

金光教八幡浜教会の事例―

[目次]

はじめに

1. 八幡浜教会

2. 信奉者たち

2−1.T氏の語り

2−2.K氏の語り

3. ご祈念

おわりに

謝辞

参考文献

はじめに

 

 今回の愛媛県八幡浜市での調査実習における調査対象は、幕末三大新宗教とされる金光教である。金光教幕末期に創唱された民衆宗教で、教派神道十三派の一つである。赤沢文治が四十二歳の時大病を患い、その快癒とともに天地金乃神への信仰に目覚め、安政六(1859)年、神の思いを人々に伝える「取次(とりつぎ)」に専念したことが始まりである。赤沢文治の死後、明治三十三(1900)年に金光教として独立し、元来たたりの神であった金神を天地の祖神、愛の神としてとらえ、心からの祈りによって救済が与えられると説いた。

 現在の金光教は教祖金光大神の「取次の業」を伝承し、教統を保全するものとして教主をおいている。教主は教祖の血統で金光の姓を称する教師のうちから、教祖の信心を継承し教統を保持するに足るべき者を、全教会長が選挙により推戴し、本人の受諾をもって5年の任期を務めることになっている。教主が信仰の中心、教団が依って立つべき本源として生神金光大神取次の業を行うところが金光教本部である。その本部は岡山県浅口市にある。

先に言葉の説明として、信奉者・信徒・教徒と本文で使い分けがされるが、「信奉者」は教師と信徒の両方を示すものとして使われる。そして「信徒」は、信者と同じ意味ではあるが、対外的に信者と使われることはあまりない。「教徒」とは冠婚葬祭など全て金光教で行うもので、信心するが葬儀などを別で執り行う「信徒」とは少し異なる。

 金光教日本国内に数多くの教会を持っており、今回はそのうちの一つである八幡浜教会の成り立ちや性格、信奉者さんたちの語りや、日々のお祈りについて調査を報告させてもらう。

1、 八幡浜教会

本章では、八幡浜教会の設置に至る流れ、その本源となる初代様について、そして八幡浜教会の特徴を見ていく。

金光教八幡浜教会の設立は大正6(1917)年のことであり、昨年の平成29(2017)は100年記念を迎える年となりました。大正6年の初代様から始まり、現在の教会長である多河常浩氏になり4代目となりますが、ここまでの世代交代は血筋によって続いている。ただ、金光教として必ず血筋でないとならないというわけではなく、後継ぎの方法は各教会に委ねられている。このように各教会にある事柄について自由さを持たせているところも金光教の特徴の一つと言って良いだろう。

八幡浜教会設立の祖である初代教会長多河常民師(以下、「師」と表記する)は、八幡浜の生まれではなく、広島県御調郡宇津戸村田村宗三郎氏の五男として、戸籍によれば文久二年八月三日出生とされているそして明治二十年二月二十一日、同郡坂井原村多河四朗家の養嗣子となり、長女ウマと結婚した。

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写真1 右 初代教会長 多河常民師 左 初代夫人 多河ウマ師

師は幼名を常一と呼び、明治十五年十一月一日常民と改名している。幼児期から学問を好み、五、六歳のころから村内または近村に師を求めて習字算盤、読書の稽古をし、また経書、歴史も修得したという。その後師は、教員の資格を得て教員生活を始めることとなる。退職後は二、三の事業に手を出したり、さらには政治に関与して県会に出馬したこともあった。

師は明治二十九年脳病を煩い、その時初めて金光教三原教会所に参拝し、取次を願いまもなく病気は全快した。市はこのおかげをいたく喜び、直ちに三原教会所と本部に御礼参拝したばかりではなく、翌三十年から三十一年にかけて年に二、三回参拝を続けているのであるが未だ本教の何であるかを理解することが出来ず、そのまま参拝は中絶していた。そういった状態で過していた信心が明治の末年頃、平川菊太郎師発企の至誠会という本教信徒の講社に加入し、時々説教や講話を聴聞する機会を得た。それとともに明治四十五年七月から再び三原教会所に参拝することになった。度重ねて御教をいただき道理を理解するようになり、また御用奉仕をもした。

その頃のことであるが、八幡村と隣村との境界のことから二十年近くも和解できずの事件があり、その調停を師に依頼するものがあった。師は渋々引き受けることとなる。師はこのとき、三原教会に参拝し、神様がお使いくだされて問題の解決を見ることが出来れば、道の教師となり終生御用に立とうとひそかに決していたという。そして願い通りにおかげを頂いたことから道の教師を志願するようになった。直ちに金光教教義講究所に入学を願い出て、予科聴講を許され、学科の習得と新年の修養につとめ、教師たる資格を得ることが出来た。講究所を出た後は三原教会にあっては一修行生として、教会の内外、出社教会のことに至るまで御用を仕えられた。

八幡浜地方に金光教が伝えられたのはおおむね大正の初期のことであった。主なものは八幡浜の出身者で大阪の道広教会で信心を頂き帰郷された津田島太郎師(後の川之石教会長)のお手引きによるものと、別府教会の手続きによるものである。別府教会は豊後水道を隔てて向かい合う位置にある温泉町にあり、古くから季節に応じて入湯に出かけるものが多く、その機会に別府教会に参拝して御神縁を頂いているものが八幡浜地方のところどころにできつつあった。そういうことから別府教会から大正四年井上幸雄師(現黒崎教会長)を当地に派遣して、同五年六月には教会所設置願を提出することになった。しかし、土地の人である津田師と対立を生じてしまい、それが激化したが八幡浜警察署長大仁田市太氏の調停により両者とも白紙にかえり、新たに教師派遣を願い出ることとなった。

大正五年十二月本部参拝の節、専掌山本豊師から八幡浜布教についての話を受け、種々協議し、その内容をもって金光様に御取次を頂いて、いよいよ八幡浜行きを決意したという。これは大正六年一月七日のことである。翌八日、諸先生を訪ねて八幡浜布教の挨拶を述べ、それぞれに教訓を頂いた。

かくして、一月二十日郷里を出て三原教会へ、二十二日本部参拝金光様にお届けを申し、二十三日に出発、同夜は松山市の長女の婿青山操氏宅に宿泊した。八幡浜に到着したのは一月二十五日で、多数の信徒の出迎えを受け、二十六日夕には一流料亭にて歓迎と感謝の席が設けられ、主なる信徒十四名が出席した。教会設置願は二月十七日から作製、信徒総代の決定に多少手間取るということもあったが、三月十五日提出、四月五日管長添書を頂き、四月十七日師自ら松山の県庁へ赴き、設置願を提出して、三原教会に参拝した。五月五日金光教八幡浜小教会長に任ぜられ、同十五日に本部から山本専掌を迎え、開教奉告祭が執り行われた。

師が八幡浜に来てからの布教活動は一見順調に見えたが、実際には種々の問題から非難、攻撃、排斥運動まで起こったという。当時の状況を夫人とともに八幡浜に来て生活を共にしていた三瓶教会長土肥光師(師と夫人の孫にあたる)の「古い記憶から」では、「これまでの信者はあったが、開教奉告祭が済んだころから教会所へは足掛けもせず、参拝者は一日二、三人の日が長く続いた。師はそんなことには一向無頓着で、心中はただ神様あるばかりであったが米飯から麦飯へ、麦飯からお粥へ、生活はだんだん窮迫していった。」と、つづられている。

こうした状況の中、一時は体を壊し静養することもあったが、六十の齢を重ねていよいよかくしゃくとして日夜の御用に精励され、その神徳はようやく遠近に輝くに至った。かくて昭和二年教会設立十年を迎えて、開教十年祭が行われた。この祭典には沿岸の部落から船を仕立てて団体参拝するものもあり、新築の広前にも溢れ、盛会であった。この祭典において師の十年の苦節が初めて酬いられたという。

それから少しした昭和三年三月末ごろから時々腹痛を覚え、四月一日からは臥床するようになり、計三名の医師が立ち会って診察したが、どれも変わらず結果は肝臓病ということであった。心ある信徒は誰ゆうとなく寄ってきて全快を祈念したが、病勢は好転せず六日午前十一時四十分眠るがごとく帰幽した。六十五歳であった。

初代教会長の帰幽から90年ほどの年月が経った現在まで四回の教会移転があった。現在の位置に教会が移転されたのは昭和二十三(1948)年のことである。その後、教会設立七十年を迎えた昭和六十二(1987)年に新築、御造営が成され、元々の木造建築から現在のビルのような建物になったという。その新築の際、木造建築時代の御神前御霊前がそのままの形で残され、今でも一階会議室の中で見ることが出来る。現在は二階に新しく作られた御神前御霊前が使われている。

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写真2.四度目の移転後 木造建築

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写真3.現在のビル

その木造の御神前御霊前が残る会議室や一階ロビー、駐車場などを使って年に一回7月後半ごろにバザーが開かれ今年で29回目になるという。このバザーを始めたのは三代の多河巌氏で、大きな目的としては「開かれた教会」を目指したという。これは布教を目的としたものではなく、純粋に地域の人々との触れ合い、そして日頃の感謝を込めたものである。バザーに出品されるものは教会の方々がそれぞれ持ち寄ったもので、主に手作りの物やお菓子・日用品・手芸品などや、その場で鉄板で焼きそばを作るなどするのだが、中には漁師の方や趣味で釣りをする人などが自分で釣った新鮮な魚を持って来たり、三瓶町の農家の方が自分で育てた野菜などを持ち寄ることもあるという。このバザーで得られた収益金の一部は八幡浜市へ寄付し、その際感謝状も頂いている。これほどの盛況が見られるのは、地元の新聞社である八幡浜新聞・南海日日新聞からの取材によりバザーの日時が何週か前に告知され、バザーの様子が掲載されることで町の人に広く知られているからである。

2.信奉者たち

 本章では二名の信徒の方の入信のきっかけなどの語りについて報告させてもらう。

2−1.T氏の語り

 彼は信徒総代という役職で、教会長と信奉者の方々の間に入ってまとめ役をするものである。総代は基本三人または五人とされており、八幡浜教会では五人体制でそのうちの一人である。T氏は元々お家柄が仏教であるため、冠婚葬祭全てを金光教で執り行う教徒ではなく信徒または信奉者となる。金光様を信仰するようになったきっかけとしては母親にルーツがあるという。T氏の母親はT氏の妹を出産する際に助産婦さんの手を借りて出産したそうで、その助産婦さんが金光教信仰している方であったため、教えを頂き、その道をつけてくださったのが金光教参拝の始まりであったという。その頃はまだ子供であったT氏は母親に連れられてお参りをしていたという。母親がどのような想いで教会に参っていたのかは分からないが、T氏はおそらく子供のことを思っていたのではないかと述べている。その頃お参りしていたのは大洲教会だそうだ。しかし、学校を出てからは都会に就職することになり、金光教の教会とは疎遠になり、お参りすることはなかった。やがて都会から自分の郷に帰って来ることになり、再び金光教に引き寄せられた、そのような道をつけてくださったという。それは都会に住む間、お参りはせずとも子供のころからの神様への思い、見守ってくれているという思いが途切れていなかったことが大きく起因しているといえるだろう。実際、郷に戻ってきて初めは自分から教会へ赴いたと思ったが、やっぱり神様がその道をつけてくださったのだと感じたとT氏は述べている。

2−2.K氏の語り

 彼もまた金光教八幡浜教会信奉者の一人である。彼の入信のきっかけも家族がきっかけであり、祖父母の入信をきっかけに両親から自分へとその流れの中で金光教に触れることとなった。祖父は元々大工棟梁をしていたらしく、それは太平洋戦争よりも前の話である。その頃にたまたま隣町に布教に来ていた初代様のお話を聞く機会があり、金光教自由さというものに惹かれ入信したという。大工であった祖父には、この方角に建物を建てたら良いだとか悪いだとか言う俗説が付きまといがちであったが、「日柄方角見るに及ばん」という俗説にはとらわれない考え方があり、神様にお祈りしておかげを頂き、都合のよい日がよい日であるというシンプルで自由な思想が祖父を引き付けたのだろうという。そんな祖父からK氏またその子供にまで受け継がれてきているわけだが、現在は少子高齢化より子供が教会に来るということがほとんど無くなってしまったそうだが、K氏が子供のころ、すなわち四、五十年ほど前は「少年少女会」と言って月に一回ほど教会に集まり、教会でゲームをしたり、外へ出かけてハイキングやミカン取りに出かけたこともあったそうだ。近年では、K氏の娘さんが小さいころは主に勉強や入試のこと、お参りごとなど私たちが神社にお参りするのと同じような感覚で金光教に参ることがある。また、祭典後に吉備米を奉納する御用をされている。

3.ご祈念

 

 本章では、金光教で行われるお祈りについての詳細と、実際に参加させてもらい体験したご祈念の様子を報告させてもらう。

 まず、ご祈念について教会で頂いたパンフレットを抜粋させてもらう。

「天地に命があって、すべてのものが生かされており、天地に真理があって、すべてのものが整っています。この働き、この姿を神(天地金乃神)と仰ぎ称えさせて頂いています。従いまして、私達人間の方から言えば神様はわが本体の親であり、人はみなその神徳の中に生かされている氏子自家の子)であって、神を離れては生き得られないものなのです。これは天地の道理であります。何事も道理に基づかずに成就することはありません。天地の道理に基づき、実意丁寧な生き方を進めていくのが、金光教の信心です。」

「御取次は、神の願いを人に、人の願いを神にとりつぎ、その人その人に応じて立ちゆく道を生み出していく働きであり、だれでも、どんなことでもお願いできます。そのお願いは、ご祈念帳に記され、日夜御祈念くださります。」

「お供え物は、何を、いくらしなければならないということはありません。神様への真心を表すものです。」

 

 御祈念は教会で毎日行われている。一日に三回御祈念の時間が設けられているが、すべてに参加しなければならないということはなく、参拝の時間は自由である。朝から、九時半・十六時・十九時と分けられ、ほとんどの信奉者の方は九時半の回に御祈念へと足を運ぶ。ただ、この時間も元からそうであったわけではなく、朝は元々四時であった。それが時代のニーズに合わせて変化し、九時半になったのは昨年のことである。もちろん全教会がそうではなく、教会によって様々である。

 御祈念には毎日のものに加えて、月に四回の祭典がある。朔(ついたち)祈願祭・月例霊祭・月例祭とあり、月例祭が二度行われ、計四回である。

 朔祈願祭は毎月一日に、先月までの反省点やのおわび・お断り、そしてここまで命を頂き今日を迎えさせていただいたことへのお礼をする。これらを神様に伝えた後、次の月からも人の御用につかせていただくようにとのお願いをする。これらを教会で済ませた後、四国山にある奥城(お墓)へ行き、そこに祀られている先代方や信奉者の方々へ同じようにお礼をする。

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写真4 四国山にある奥城

月例霊祭・月例祭は六の付く日に行われる。月例霊祭は六日、月例祭は十六日と二十六日である。しかし、月例霊祭はみなが集まりやすいようにということで第一日曜日に変更されたという。この祭典は霊様、つまりご先祖様へのお礼をするものである。そして月例祭が二度あるのは神様、つまり天地金乃神様と教祖様それぞれへのお礼である。十六日が教祖金光大神様で、二十六日が天地金乃神様である。

 次に実際に参加した御祈念の様子を述べていく。私が参加したのは信奉者の方々が多く集まる九時半の時間に参加さて頂いた。

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写真5 朝の御祈念の様子

 写真5が御祈念の様子であるが、向かって真ん中が御神前、すなわち神様で左側が御霊前すなわちご先祖様である。右手に女性が正座している姿があるがその真正面にある椅子は、そこに座り教師に御取次をしてもらうのである。

・おおまかなタイムスケジュール

9:30 御祈念開始 御神前

9:40頃 御霊

9:44頃 教会長の御教え

9;53頃 合唱(金光教の歌)

9:57頃 ラジオ体操

10;03頃 終了

 この中で合唱とラジオ体操八幡浜教会独自のもので、合唱は三代多河巌氏が独学でピアノ練習していたことから始まったそうだ。巌氏の間はピアノを自ら弾かれていたが、その後はCDを使って歌うようになった。ラジオ体操は、現教会長多河常浩氏が十年ほど前から始められたもので、元々は共励会と言われる円になってお互いを励まし合うというものをしていたのだが、照れであったり、お互いの批判であったり本来の姿から離れてしまったため、高齢者の健康も考慮したラジオ体操に変更したという。それに加えて月に二回、市から専門家の人に来てもらい、一般の人も参加可能な健康体操をも開催している。

おわりに

 ここまで金光教について、そして金光教八幡浜教会について述べてきて、文中でも述べたようにとても「自由」な宗教であることが今回の調査で分かった。調査以前の私の印象はもっと堅苦しく、掟重視のようなイメージがどうしても強かったが、金光教自体も八幡浜教会でお話を聞かせていただいた方々もそのような印象はなく、明るい感じを受けました。この自由性があるからこそ時代に合わせた在り方を見つけることが出来、百年もの歴史を有することが出来たのだろう。K氏の祖父のようにその自由性に魅せられて信心を持つ人々がこれからも現れることが期待される。私自身これまでの人生において、宗教というものに意識的に関与したことが無かったので、今回八幡浜の地で調査を行えたことは今後の大きな糧になるだろう。

謝辞

 今回調査をさせていただくにあたって、幾分至らぬ点もありご迷惑おかけしたところもあったと思いますが、突然の来訪にも快く受け入れてくださった教会長様、並びに許す限りのお時間を頂き、お話を聞かせてくださった信奉者の皆様には大変感謝いたします。ご協力ありがとうございました。

参考文献

コトバンク https://kotobank.jp/word/金光教−67177

井上順孝 孝本貢 対馬路人 中牧弘允 西山茂,1994年,『新宗教辞典 本文篇』 弘文堂

金光教八幡浜教会 多河常浩,2018年10月,『八幡浜百年 金光教八幡浜教会百年記念誌』 株式会社 豊予社