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関西学院大学社会学部 島村恭則ゼミ

2018-02-21

「咲かずの藤」が咲いたとき〜四万十市中村の歴史と伝承〜

| 16:35

「咲かずの藤」が咲いたとき〜四万十市中村の歴史と伝承

                          社会学部 23015222 山田美玖

【目次】

はじめに 

第1章 一條兼定と「咲かずの藤」

 第1節 土佐一條家衰退

 第2節 長宗我部時代

 

 第3節 山内時代

第2章 一條神社の建立と「咲かずの藤」

 第1節 一條神社の建立

 第2節 県社への昇格

第3章 軍国主義のなかの「咲かずの藤」

 第1節 戦争下の藤の花

 第2節 久邇宮朝融王の参拝

第4章 藤まつり

結び

謝辞

参考文献

はじめに

 今回の実習地、高知県四万十市中村は、京都と深いつながりを持っている。それは、1467年に起こった応仁の乱を逃れた一條教房公がこの中村に下向されたことに始まる。町の中心には中村御所が建ち、その周囲には京の街並みを模した街づくりがなされた。以来、一條家はこの中村の発展に大いに寄与し、この地は公家大名の町として栄えることとなる。

 現在、この御所は一條神社として、土佐一條氏をお祀りした神社が建立されており、春と秋にはそれぞれ大きな祭りが開かれ、町の人びとの集う場となっている。

 また、この地には中村御所の名残として、一條神社建立のきっかけともなった藤の花、「咲かずの藤」が残っており、この藤にまつわる逸話もいくつか存在している。それらは文献や石碑、口伝によって継承されたものであり、時代によってその性質・意味合いを変えて今日まで続いてきたものである。この「咲かずの藤」は、先にも述べた通り一條神社の建立に関わるものであり、土佐中村における一條神社の重要性と共に語られるべきものである。

 今回は、この「咲かずの藤」の伝承のされ方の変遷について、文献、石碑、インタビューから調査を行い、歴史的事実と伝承とを分類したうえで、土佐中村において藤の花が持つ意味について研究していく。

第1章 一條兼定と「咲かずの藤」

 「咲かずの藤」は、一條神社が建立される前からこの地に存在した。この章では、土佐中村における土佐一條氏の衰退から一條神社建立に至るまでの歴史を、「咲かずの藤」伝説と共に紹介していく。

第1節 土佐一條家衰退 

 1467年に起こった応仁の乱を避け、一條教房公が土佐中村に下向されたのは1468年のことである。一條教房公は土佐中村に中村御所を立てられ、息子である房家公と共に、御所を中心とした碁盤の目の道路や地名など、京の都を思わせるような街づくりを行ってこられた。この御所の建っていた小森山の麓に、藤遊亭と名付けた亭を設け、家紋でもある藤の花を多数陪植していたとされる。これが後の「咲かずの藤」となる。

 そうして中村の町が発展していく中、1480年に父である教房公、1481年に祖父である兼良公を亡くされた房家公は、その霊を祭る為に御廟所(おたまや)を御所内に建立された。これが一條神社の始まりとされる。以降この御廟所は、この地が戦国大名長宗我部元親の支配を受けるまで残っている。

その後、房家公を初代として四代目である兼定公の治世になると、土佐国司であった兼定公は、当時四国を平定していた長宗我部元親に土地を追われ、1574年に豊後の国へ追放されることとなった。

 この中村御所を去る際に兼定公は、「植え置きし 庭の藤ヶ枝 心あらば 来む春ばかり 咲くな匂ふな」、つまり、私を恋しく思うのであれば、私がいないときには咲かないでおくれ、という歌を詠んだと伝えられており、その願いが届いたのか、翌年から藤の花が咲かなくなった、と石碑や口伝によって現在までその伝説が残っている。

第2節 長曾我部時代

 その後、先に述べた通りこの地は長宗我部支配下にあり、1589年には土佐全域で地検が行われ、その地検帳の中に、森山という場所(現在の小森山であり、一條神社が建っている場所)に維摩堂が建っていたということが記録されている。維摩堂とは、維摩経教典が納められたお堂であり、護摩供養の際にはその前で護摩を焚いて祈祷が行われていたとされている。その為、正式に記録が残っている訳ではないが、追放滅亡を余儀なくされた一條氏の神霊鎮魂の為に、先に述べた御廟所が変形したものではないかと考えられている。

 長曾我部の支配下において、中村御所は長曾我部の配下であった岩崎佐渡居住地として扱われ、藤遊亭があった場所は森となり、藤の花についても記述はなく、放置されていたと考えられている。ここから察するに、兼定公が去って後に藤の花が咲かなくなった、というのは、特別な世話をしなかったが為に咲かなかったか、あるいは放置されていた為に、花が咲いても気付く人がいなかったのではないか、というのは現宮司の川村公彦氏の考察である。

 

第3節 山内時代

 更に後に戦国時代も終わりを迎えると、今度は山内一豊土佐へ入国し、その弟である康豊が幡多の支藩藩主となりこの地を治めることとなる。この時に、かつて一條氏に仕えていた者達が揃って山内家に訴え、既に存在した御廟所に土佐一條家の神霊を奉ることと、御所が存在した小森山の山頂に祠堂を建立することの許しを得たのである。この祠堂が一條神社創立の基となった。当時は一條神社の名ではなく一條権現と称されていたことも記録に残っている。

 この頃においても、藤の花に関する記録はない。

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写真1 一條神社

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写真2 咲かずの藤

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写真3 咲かずの藤伝説が記された石碑1  

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写真4 咲かずの藤伝説が記された石碑2

   

第2章  一條神社の建立と「咲かずの藤」

 本章では、特に「咲かずの藤」に関する伝説が集中した、一條神社の建立から1900年頃までの歴史を、「咲かずの藤」伝説と共に紹介していく。

第1節 一條神社の建立

 1574年に兼定公が中村を去ってから咲くことのなかった藤であるが、1861年に突如藤の花が咲き、そのことをきっかけに一條神社も転機を迎えることとなる。

 この藤の花の開花を受けて、当時の幡多奉行である間市之進、高屋順平は社殿を新しく建立すること、また春と秋にそれぞれ大祭を執行することを定め、一條氏の故事来歴をただし、社殿の建設に着手したのである。社殿が建立されると、今度は小森山の山頂にあった祠堂を新たな社殿へと移し、1862年には国学者として有名な木戸明氏に頼り、正式に一條神社の名を得て、兼良公と夫人にもそれぞれ尊号を奉り、ここに正しく一條神社が誕生したのであった。一條神社が誕生する一年前の1861年から1865年まで藤の花は咲き続けるが、1866年からは再び咲かなくなってしまう。

第2節 県社への昇格

 その後、花が咲かないまま27年が過ぎた1892年に、未だに神社社格が定まらないことを遺憾に感じた時の神職、川村知義氏が神社の昇格を企画し、都へ赴き方々へ働きかけ、ついに1900年に県社への昇格が決定する。するとまた不思議なことに、再び藤の花が咲くようになり、それ以降は何か良いことが起こると咲くようになる、との伝説が語り継がれることとなった。

 兼定公が去って後、なぜ1861年に藤の花が咲いた、または咲くとされる吉事があったのかは不明であるが、現神職の川村公彦氏によれば、丁度この頃土佐では勤王思想が隆盛を極めていた為、更にこの運動に勢いをつけるために、五摂家の一つでもある一條家に所縁のあるこの神社の再建に踏み出す、そのきっかけとして藤の花の伝説を持ち出したのではないか、とのことである。

第3章 軍国主義のなかの「咲かずの藤」

 本章では、これまで一條家、または一條神社に関わることについて開花が関係してきたとされる藤の花が、別の要因で開花が左右されてきている現象について、日本の歴史、一條神社の歴史を「咲かずの藤」伝説と共に紹介していく。

第1節 戦争下の藤の花

 一條神社が県社に昇格してから4年後の1904年、日本は大々的に日露戦争に突入することとなる。各地で様々な会戦が起こり、勝利を収めていくのだが、国をあげての吉事ということなのか、「咲かずの藤」も戦勝の知らせが届く度にその花を開いた、と伝えられている。

第2節 久邇宮朝融王の参拝

 1928年には一條神社とも関わりが深い久邇宮朝融王が一條神社を参拝された。その頃は藤の花の開花時期ではなかったが、不思議と一房だけ花が咲き、それをご覧になった王はこの藤の花にまつわる伝説をお聞きになり、「不時に咲く 藤の花こそ ゆかしけれ」と歌を口ずさまれた、とも伝えられている。

藤の花における伝説、あるいは言い伝えはこれ以降新たに生まれることなく、昔の伝説をそのままに現在まで伝えている。

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写真5 久邇宮朝融王殿下御参拝記念碑

第4章 藤祭り

 中村では、毎年5月に藤祭りが開催される。一條教房公の入府を再現した公家行列をメインとして様々なイベントが開催され、中村の町、あるいは外からも観光客が訪れる、春の大きな祭りの一つとなっている。この祭りについて、中村商工会議所の福留拓氏にお話を伺った。

 1992年、中村の中心を占める6商店街が、中村の市街地の活性化を目的に、中小商業活性化事業を活用したことがきっかけではじまったのが 藤祭りである。

 中村という土地が京都とも関わり深いことから、京都葵祭をベースに、中村の中心ともいえる一條神社の一條公の家紋である藤の花からとって藤祭りとし、自然、そして中村の発展に寄与した一條公に感謝するお祭りとされている。

 第1回から8回までは、企画元であった中村市商店街振興組合が運営を担っていたが、祭りが続くにつれ、負担が増大したことから、第9回以降は中村商工会議所が運営を引き継ぐこととなっている。

 また、行列については、それぞれ特別な衣装を身にまとった約200名の人びとが長蛇の列を作り、一條神社を起点に町内を練り歩く華々しいものとなっている。行列の中にも役職が存在し、中心を担う一條教房公、そして教房公の孫嫁とされる玉姫様を担うのは、現在の中村の町の中心人物、そして一般公募で集められた女性の役目である。

行列以外のイベントに関しても種々の工夫が凝らされ、開始当初は鷺舞のみであったものが、買いを重ねるにつれ増えていき、運営元が変わった第9回目以降はフリーマーケット等も加わり、現在では音楽から踊り、飲食、物販に至るまで町をあげての一大イベントとなっている。

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写真5 公家行列1

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写真6 公家行列2

結び

 以上、藤の花にまつわる中村の歴史について述べてきた。

この調査によって分かったことは、「咲かずの藤」が咲くとき、というのは、初めは一條氏の不幸にかかわる形でマイナスの意味合いで語り始められていたもの(第1章)が、次第に一條氏、そして一條神社の吉事にまつわる形でプラスの意味合いで語り継がれるようになり(第2章)、更に後には一條氏、一條神社の吉事ではなく、国をあげての吉事にまつわる形で語り継がれるようになった(第3章)という点である。

藤の花が関わる事象というのが、時代によって、中心となるもの・ことが変化してきているのである。そして、これらの伝説はどれも公的な記録には残っておらず、伝承として語り継がれてきたものである、ということも併せて注目したい。

これらの事実から考察するに、この「咲かずの藤」の伝説というのは、単なる伝説としての藤の花なのではなく、一條氏、一條神社、中村における歴史のターニングポイントとなる出来事により強力な意味を付与し、印象づける為の象徴であるということが分かった。

そして、現代において中村における藤の花とは、藤祭りにおける例からも分かるように、出来事を印象付ける為のものではなく、それまでの伝説・伝承から強く根付いた藤の花と一條氏の関係から、より単純化されて捉えられるようになったと考えられる。

謝辞

論文の執筆にあたり、多くの方の温かいご協力を頂きました。お忙しい中、当時の資料やお写真をご提供頂いただけでなく、街中のご案内もして下さった中村商工会議所経営指導課課長の福留拓様、飛び込みでお伺いしたにも関わらずご丁寧にインタビューにお答えくださった一條神社宮司の川村公彦様、皆様のご協力のお陰で本論文が完成致しました。心より厚く御礼申し上げます。 

参考文献

上岡正五郎,2012,『一條神社 百五十年史』一條神社

・「中村商工会議所」,http://www.nakamura-cci.or.jp/

2018-01-31

酒場の人生 ─キャバレー「グランドサロン十三」社長 松崎良一氏のライフヒストリー─

23:57

社会学部 大谷加玲

【要旨】

 本研究は大阪にある、或るキャバレーを対象に、その社長のライフヒストリーを通してキャバレーの世界とはどのようなものであるかを明らかにしたものである。明らかにしたのは以下の通りである。

1.キャバレー発祥とその経緯

ルーツは明治に洋行帰りの洋画家が開いた「カフェー」。大正時代に入り間もなく、コーヒーの店と酒の店が分化した。酒の店では女給が客席でのサービスも行うようになり、酒のお酌だけでなく"色気"を売り物にするようになる。第一次世界大戦後の不自然な経済の急成長の行き詰まりと、関東大震災後の不況により昭和初期は重苦しい世情になった。その頃からカフェー業界でもいわゆるエロ・サービスが氾濫するようになり、後に”キャバレー王”と言われる榎本正が、専属の踊り子を養成してステージショーを上演する” 赤玉ダンスショー”を目玉にし、大箱のカフェーを開店。これを”キャバレー”と呼称した。戦争により、閉鎖されていった社交場はキャバレーダンスホールとして復活高度経済成長とともに爆発的に店舗が増え、日本中の繁華街に大型キャバレーが軒を連ねていく。

2.キャバレーの世界

現在キャバレーの常連客は、70から80歳の男性が多い。年金受給者が多く、受給日の翌日に来店する。馴染みのホステスに会うために来る。アルコールは飲まないという人も多く、コーヒーウーロン茶を頼み、カラオケをする。客の素性は特に知らない。本人に話されれば聞くが、こちらから尋ねることもない。ホステスの現在の時給は近隣の地域の他の仕事と変わらないため、あえてキャバレーを選ぶ人は少なくなってきた。「お客さんもだけどホステスさんも減ってきている」そうだ。しつらえは、1階、2階は吹き抜けのホール。1階にはステージとオーディエンスフロア、バーカウンターがある。ステージを取り囲むように作られた半円形のバルコニー席になっている。エントランスからは赤い絨毯が延び、ビロードのソファが並ぶ。手元のランプは風営法に配慮してつけているものだ。

3.キャバレーとは何か

キャバレーは、全てが人間関係で成り立っている。そこには、時々もうやめてしまいた いと思うようなこともある。しかし、関わりによって、癒されたり、考えさせられたり、頑張れたり、自らを律したりできる。このように人の中にどっぷりと浸かる商売は他にはない。キャバレーにある商品は「サービス」であり、奉仕の精神によって成り立っている。「モノ」のないところにお金が発生する。そこに見られるのは、客とホステスの関係や、男と女の関係というよりも人と人のコミュニケーションの場であった。

【目次】

序章 ......................................................................... 4

 1.問題の所在大阪駅環状線ホームのゴミ箱はキャバレーの世界への入り口だった ... 5

 2.キャバレーとは何か ..................................................... 5

 3.十三という場所 ......................................................... 8

1章 放浪時代..............................................................12

 第1節 キャバレーの世界に入るまで.........................................13

 第2節 日本全国を旅する .................................................13

 第3節 寅さんへの憧れ、フーテン生活.......................................15

2章 京橋にて..............................................................17

 第1節 大阪駅環状線ホームのゴミ箱はキャバレーの世界への入り口だった........18

 第2節 酒場を調理場と勘違いする...........................................18

 第3節 京橋キャバレーでの悪い待遇.......................................19

3章 グランドサロン十三....................................................20

 第1節 若い衆を連れて十三へ...............................................21

 第2節 ボーイから幹部へ..................................................21

 第3節 スナックのオーナーに...............................................23

 第4節 郵便局で働く......................................................25

 第5節 グランドサロン十三への復帰 ......................................... 27

4章 キャバレーの世界......................................................28

 1.松崎氏から見た客とホステス............................................. 29

 2.しつらえの工夫 ........................................................ 31

 3.キャバレーとはどういう場所なのか ....................................... 35

結語 ........................................................................ 38

文献一覧 .................................................................... 40

【本文写真から】

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図1,2 キャバレーグランドサロン十三・外観

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図3 グランドサロン十三社長・松崎氏

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図4 ボーイ

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図5,6,7,8 しつらえ

【謝辞】

論文の執筆にあたり多くの方々が調査に協力してくださいました。忙しい中、キャバレーと自らのライフヒストリーをお話してくださった、グランドサロン十三社長の松崎氏。営業している店内の撮影に協力してくださったボーイ、ホステスの皆様。地元十三について教えてくださった大和氏。これらの方々のご協力なしには、本論文は完成に至りませんでした。また、松崎氏から「今までいろんな取材を断ってきたが今回初めて取材を受けた理由」として、ご自身が経営されていた2件目のスナックに当時の関西学院大学生が足しげく通ってくれていたことへの感謝の思いからだと聞きました。今回の調査にご協力いただいた全ての方々と松崎氏との縁を結んでくださった先輩方にも、心より御礼申し上げます。本当にありがとうございました。