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関西学院大学社会学部 島村恭則ゼミ

2018-10-20

平家伝承を生きる人々―八幡浜磯岡の小野氏をめぐって―

11:54

社会学部回生 山田菜摘

目次

はじめに

八幡浜平家伝承

1−1歴史

1−2平家

1−3磯岡の平家伝承

2 小野堂と了月院

2−1了月院の創立

2−2了月院の三尊仏

2−3小野堂

2−4小野堂の仏

2−5行事

2−5−1念仏供養

2−5−2法要

3平能忠

3−1平能忠

3−2墓

4小野家の歴史

4−1屋敷

4−2古物

4−3巻物

5拝み屋

結び

謝辞

参考文献

はじめに

八幡浜市は多くの平家伝承が存在する土地である。保内町喜木磯岡もその中の一つである。本稿では、その土地に暮らす小野一族を中心として語られている伝承について、一族の方々から伺った内容に基づき記すこととする。

八幡浜平家伝承

1−1歴史

まず、歴史的な面から八幡浜市平家の関わりを見ていく。平家伝承が多く残るこの地域は、平安時代、「矢野庄」と呼ばれる庄園であった。しかし、平家源氏に敗れた後、それまで平家が所有していた荘園は没収された。しかし、その中で、池禅尼のもつ領土はその息子、平頼盛に返却された。その中にこの矢野庄も含まれており、代々、平家に関係のある一族地頭などをつとめ、支配していたという。

1−2 平家

八幡浜市に流れる宮内川の上流に位置する「平家谷」という場所についても触れておく。この場所は現在、市の天然記念物に指定された公園となっており、流しそうめんが有名な夏場の観光名所となっている。そしてこの場所は、昔、壇ノ浦の戦いで負けた平家一族が落ち延びたという伝説が残る場所としても有名である。

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写真1平家谷入り口

ここでは次のように伝わっている。

文治元年(1185)年、長門の国壇の浦(現在の山口県下関市)の源平の戦に全敗した平家一族瀬戸内海を渡り、落ち延びた。そのうち、平有盛一族8人が三崎半島の瀬戸内海沿いに流れつき、現在の平家谷まで逃げたとされている。

逃げ延びた一族は、狭間谷を開墾し百姓を続けていた。しかし3年目のある日、見張り人が白サギの群れが海岸近くを飛ぶ様子を、敵の白旗と見間違い、仲間に知らせた。源氏が攻めてきたと勘違いした一族は、平家の子孫を残すための2人をのぞき、狭間谷の田の中で切腹した。残された2人は6人の死体を平家谷の森の岩穴に埋め、生き続けたという。

現在、平家谷周辺には両家、枇杷谷、鼓尾という地名が残るが、これは一族が半島へ流れつき、平家谷まで逃げのびる途中弱りはてたため、音楽が好きであった一族のものが鼓尾部落へ「つづみ」を捨て、枇杷谷部落へ「びわ」を捨て、また残された2人が部落へ住みついたことから両家の名前がついたといわれている。


1−3磯岡の平家伝承

次に八幡浜市保内町喜木磯岡で語られる伝承について触れていく。この場所には平宗盛次男、能宗の孫ではないかと推測されている平能忠の墓や、その家来である平重隆の墓があり、その近くには小野堂と呼ばれるお堂がある。小野堂には江戸時代まで、平能忠が作善したとされる三尊仏が納められており、代々この地に暮らす小野一族が管理をしてきた。この小野一族は平能忠の子孫であると語られている。次章からは小野一族と平能忠との関わりや小野家に伝わる伝承について記していく。 

                                              

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写真2平重隆の墓          

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写真3平能忠の墓

2 小野堂と了月院

2−1了月院の創立

八幡浜市日土町に小野家や平能忠と深い関わりを持つ了月院という浄土宗の寺がある。正式名称は東向山了月院能忠寺という。

この寺の創立を宝暦10(1760)年に作成された了月院の過去帳から見ていく。また、『宇和島旧記』にもほぼ同じことが書かれていた。

過去帳の記述(現代語訳要約)

「記録がないので寺の創立が分からないが、古老の話では昔喜木村の磯岡に小野の左兵衛 平能忠という人がいた。仏心厚い彼はこの本尊を祀って毎日信仰していた。能忠がなくなった後、土地の人が小野の堂と呼んでいた。時が過ぎて、日土村の庄屋兵頭喜右衛門がこの土地に一寺を建てて、本尊をお迎えした。願主の能忠の名にちなんで能忠寺とした。」

平能忠とは、現在了月院の本尊としてあがめられている、三尊仏を作善した人物である。しかし、この三尊仏はもともと、了月院ではなく現在の小野堂がある場所に納められ、小野一族が中心となって崇めていた。小野堂で祀られていた三尊仏だが、江戸時代に入り1600年頃兵頭喜右衛門という人物が日土町の庄屋になると、今の了月院がある場所へ移された。兵頭喜右衛門は信仰心厚く、浄土宗帰依した人物とされ、小野堂で祀られている三尊仏を寺の本尊として信仰するため、仏を作善した平能忠から名を取り、了月院の元となる能忠寺を建立したとされている。その後、東向きの寺であることから東向山、また、立派な仏像を持っていることから寺の中でも位階の高い寺だと言うことで、院号を名乗るようにと宇和島藩伊達家の時代に言われたそうだ。そこで、兵頭喜右衛門の法号「了月院殿三誉心覚道牛居士」から取り、東向山了月院能忠寺、通称了月院と名乗るようになったという。

こうした歴史背景があるため、現在でも了月院と小野家のつながりは深く、年に2度、平能忠に関する行事が行われている。

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写真4 了月院山門

2−2 了月院の三尊仏

現在了月院に本尊として祀られている三尊仏は、平能忠が文永六(1269)年に作善したものである。仏像の枘の部分に「願主 左兵衛尉平能忠」と明記されていることから確認できる。八幡浜市有形文化財に指定されている。

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写真5 了月院三尊仏(「八幡浜文化財」より)

2−3小野堂

小野堂は平能忠の死後、能忠が作善した三尊仏を祀るため作られた。その当時から小野一族が中心となって管理していた。

また、100年ほど前まで小野堂の裏には、10メートル近い大きな洞穴が存在していたという。現在はその洞穴は崩れ人が入ることはできないが、それでも痕跡は残っている。伝説では、その洞穴の中に財宝や仏像が隠されていたそうだ。この洞穴から、白馬に乗った侍が出てくる夢を見たという一族の方もいたそうだ。

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写真6洞穴の跡地と見られる現在の場所  

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写真7 小野堂

2−4小野堂の仏

小野堂には了月院に三尊仏が移された際、代わりの仏が作られ、置かれるようになった。それは高さ70cmほどの小柄な物で、木箱の中に入っている。その木箱には人が担げるように丈夫な紐がついている。昔、戦が起こった際にはこの仏像を担いで戦い、出城を守っていたという。また、壇ノ浦に敗れた平家のお殿様が、この仏像を担いで磯岡の地まで逃げ落ちたという伝承も存在している。このように小野堂の仏は、歴史的価値が高いため、一時期、国宝にするといった話が上がったという。しかし、もし国宝などになれば多くの人が小野堂に訪れ、写真を撮らせてくれとせがまれる恐れがあり、小野一族仏像を守るため、元々は木目調であったが、国宝の話が出た際、京都に修理に出し金箔で覆ったという。

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写真8 小野堂の三尊仏

2−5行事

2−5−1念仏供養

毎年正月2日の9時頃から、小野家一族が了月院に集まり念仏供養を行っている。この行事は、了月院の檀家にとって重要な意味を持つ。この日に供養を行わないと、了月院の住職は小野氏以外の檀家の葬式を執り行えないそうだ。そのため、この行事は毎年本家のご子息が中心となって行われている。

2−5−2法要

毎年3月15日には、平能忠の墓前に了月院の住職を招き、能忠追善の法要が行われる。この日は能忠の命日と言い伝えられているためである。この法要は代々小野一族、それぞれの家庭が順番に幹事を務め、執り行っている。昔は磯岡に住む小野家の親戚が多く集まり、法要が行われた後、各家庭で料理やお酒を持ち寄って、小野堂にて住職とともに食事を楽しんでいたようである。しかし今では、参加家庭の高齢化や人数の減少により、形も変わってきているという。現在の法要の流れは、幹事に当たった家庭は去年担当した人から、名簿代わりの木札、法要の際に小野堂に掲げる赤旗、お金の管理表などを受け取る。その後、木札を参考に各家庭から1000円ずつ集める。そのお金で簡単な料理やお酒などを用意し、当日に備えるほか、法事の前にも小野堂や墓前の掃除を行う。また、法要の日程が近づいたら各家庭に参加を呼びかける。法要当日は、必ず、平家象徴である赤い旗を小野堂の前に立てる。その後、小野堂で法要を行い、用意された料理やお酒を囲むという。

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写真9 法要の際小野堂に掲げる赤旗

3平能忠

3−1平能忠

平能忠がどのような血筋のどのような人物であったか、枘の墨書以外に記録はなく、はっきりと分かっていない。しかし、このような三尊仏を迎え、護持仏とするには相当の政治力と経済力があったと考えられている。そのため、時代背景と照らし合わせ、一説には平宗盛次男、能宗の孫ではないかと言われている。この能宗は歴史上では壇ノ浦の戦いでの敗北後、8歳で処刑されたことになっている。しかし、実際は逃げ落ち、平家谷のあたりに安住し百姓となり、能忠の代に名主となったのではないかと推測されているのだ。

3−2墓

平能忠の墓は磯岡の山の中腹に位置している。現在、写真3のような石碑が建っているが、それは今から20年ほど前に新しく建てられた物であるという。石碑の後ろには、能忠妻千里の名義で了月院のいわれが掘られている。

また、この墓の隣には家来のための墓がある。磯岡の山全体には古い墓が多くあった。それら古い墓の下を掘ると、遺骨や刀、大量の金が出土したという。そこで、出土した遺骨と刀は焼き、金は束状になっていたものを折り曲げ、骨壺の中に入れまとめて家来の墓に納められているという。

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写真10平能忠の墓 裏側 

        

4小野家の歴史

4−1屋敷

元々は小野家の屋敷は能忠の墓の近くの山の上にあったが、年月が経ち、山の麓に家を下ろした。そして小野家の後屋敷には別の一族が移り住んだ。その一族は小野家の後にこの地に来たため、同じ小野姓を名乗っているが、能忠とは関わりが無いため、了月院の檀家ではないという。

また、磯岡の山には昔の名残として、小野一族平家にまつわる人々の墓が多くあり、小野家が立ち退く前は奉っていた。しかし、元屋敷に別の一族が移り住んだため、その土地にあった墓の管理がおろそかになったという。すると、その墓のある土地の新しい所有者身に異変が起きるようになった。仏壇に供えるための榊の木を切り倒すと、体中にできものが現れた人もいると言われている。

4−2古物

また、小野家の本家には、後ろの納屋に大きな箱があり、古い鎧や刀、槍が保管されていたという。しかし、話を伺った本家の三男に当たる80代の男性が小学生の頃、父親の姉が洋服屋を営む上で、京都の反物を買うためほとんど売却してしまったという。当時でも土地が買えてしまうほどの大金だったという。だが、今でも3m近い鎧がらみが四本残っており、自宅にて保管されているという。以前宮内で平家の残党の骨董の見本市に、次男の兄が鎧がらみを出したが、「珍しい」と好評だったという。

4−3巻物

本家には、代々伝わる小野家にまつわる歴史や家系図が書かれた巻物が何十と存在していた。しかし、その巻物は本家のご長男が亡くなられてから行方が分からなくなっており、現在小野家にまつわる歴史は口で伝承するほかないという。そこで、本家の三男にあたる方は、小野家の伝承を守るため、二番目の孫に、毎年1月2日、念仏供養が始まる技間前の朝8時から、了月院で話を伝えているという。

5拝み屋

能忠と小野一族との関係は、拝み屋によって現れる場合もあった。拝み屋とは祈祷師とも呼ばれ、自身を媒介とし、神や故人の意思を依頼者に伝えるなどの役目を担っている人々のことである。

今から12年ほど前に、京都から能忠と話したいという拝み屋がやってきて、小野堂で拝んだことがあったそうだ。何度か試みたものの、能忠の位が高すぎたためか、部下しか出てこなかったという。そのため、拝み屋はあきらめて帰ったという。

また、小野家の分家にあたる家庭に生まれたという女性によると、信仰深い母が拝み屋に行ったことがあったという。そこで、能忠様は偉い方だから、墓に参るときは先に家来の重隆の墓にまいり、取り次いでもらってからお参りしなさいと言われたそうだ。また、毎月14日は小野神様のお祭りの日だから、御神酒を供えて祝ってあげると喜ばれるとも伝えられた。そこで女性の母親は、毎月14日に重隆に参り、掃除をし、平家象徴である赤い旗を立てるなど、深く信仰したという。そして女性も、母親が亡くなった後、できるときには今でも、14日には墓を掃除し、重隆の五輪の横に赤旗を立てているという。また、他にも昔は、病気になると能忠や重隆の墓に願掛けをし、願いが叶うと、赤旗を供えていた人もあったようだ。

小野家と平家のつながりは歴史的に解明できない点が多い。そのため、伝承された語りと、拝み屋の力を借りて、平家を身近に感じたいと、細々と続いている。

結び

今回、この論文を進めるにあたり、小野家の方々数人にお話を伺った。しかし、小野家と平家伝承について詳しく知っている方は少なかった。そのため、本稿は主に本家の三男にあたる80代男性と、分家の70代の女性から伺った内容を元にしている。戦後の日本は都市化が進み、村のあり方は大きく変化した。その流れの中で失われた伝承や習慣も多い。小野家の例においても巻物が紛失し、伝承を語ることのできる人も限られてきているなど、例外ではないだろう。しかし、70代女性は、若い頃は興味が無かったが年を取ると家族にまつわる伝承に興味を持ちはじめたと伺った。一族内で伝承を共有し、同じ対象を拝むことで同じく共有する人々と一体感が生まれ、自分は小野家の一族であることがアイデンティティとなり、時代に流されながらも、居場所のひとつになっているのではないかと感じた。

謝辞

論文八幡浜でお世話になりました皆様のご協力により、書き上げることができました。特にお忙しい中、車で八幡浜市平家伝承のある土地を案内していただいた、八幡浜史談会事務局長の清水様、突然の訪問にもかかわらず温かく迎え入れてくださった小野家の皆様、本当にありがとうございました。

参考文献

日土史談会編,1995,「了月院能忠寺」八幡浜市日土町続藪

八幡浜文化財編集委員会,2015,「―八幡浜文化財―」,八幡浜市教育委員会

八幡浜史誌編,1987,八幡浜市

八幡浜市商工観光課,2014,「平家谷」八幡浜市ホームページ

2018年8月30日取得,http://www.city.yawatahama.ehime.jp/docs/2014091600023/)

2018-09-30

戦後八幡浜のマーケット ―新興マーケットから中央マーケットへ―

| 20:57

社会学部 3回生 織田怜奈

目次

はじめに

1章 新興マーケット

1-1 引揚者の出現

1-2 マーケットのようす

2章 中央マーケット

2-1 新興マーケットから中央マーケットへ

2-2 マーケットのようす

3章 マーケットの終焉

3-1 マーケットの閉鎖

3-2 商店街への移転

結び

謝辞

参考文献

はじめに

 戦後の日本では物が不足していたために、全国的にマーケットが栄えていた。愛媛県八幡浜市でも当時はマーケットが存在し、時代とともに新興マーケット、中央マーケットと変化しながら人々の暮らしを支えていた。本稿ではそのマーケットのようすを述べ、それが人々の間でどのような役割を果たしていたのかについて論じる。

1章 新興マーケット

1-1 引揚者の出現

 新興マーケットの始まりは戦後間もない頃である。満州台湾中国朝鮮などからの多くの引揚者が八幡浜で働く場所を求めていた。マーケットのことをよく知る菊池昭自氏によると、酒六紡績株式会社様より地域復興の期待を込めて無償で提供していただき店を開くことができたという。出店希望者を募集し、紡績工場跡の土地を各店舗に割り当てた。敷地面積は248坪で、現在のスーパーホテル周辺である。

 出店希望者の中には、八幡浜出身の引揚者だけでなく、八幡浜出身の知り合いを頼りに他の地域から来た人もいた。働く場所を得た引揚者たちは割り当てられた土地にバラックを建設し、いわゆるヤミ市のような形で魚、肉、野菜や果物、惣菜などの食品や手芸用品などの生活必需品を売り出した。

1-2 マーケットのようす

 新興マーケットの形状は特殊であった。四角形の中に半円のようにバラックが並び、その間は通路になっていて、客が見て回りやすいようになっていた。店舗は計64軒で、マーケットに行けばなんでも揃うと言われるほど様々な物が売り出されていた。中央には卓球台も設置されていたという。

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図1 新興マーケットの構造

 バラックは木造で、屋根は杉皮だったため、雨が降ると雨漏りをした。電気も現在のようには整備されていなかったため、よく停電になった。夜停電になった時は、ろうそくやカーバイドを使用して商売を続けていた。出店者たちはバラックの1階に店を構え、奥や2階で生活していた。2階といっても広さはなく、子供でも頭を下げなければいけないほどだったため、ほぼ寝るためだけに利用されていた。

 物は百姓や漁師が卸売りに来たものを購入したり市場から仕入れたりしていたが、他から手に入れることもあった。家電製品も普及していなかった時代、もちろん冷蔵庫もない。食料はその日に買うというスタイルで、マーケットは毎日買い物客でいっぱいだった。とにかく物が不足していたため、物を並べるとすぐに売れていった。長持ちする乾物や、衣服の修繕に使う糸やボタンなどもよく売れた。

 当時、八幡浜イギリス将校に占領されていた。勝手に商売することが許可されていなかったため、当初は警察による取り締まりが厳しかった。警察が取り締まりのためにマーケットに来るとマーケットの中で合図が出され、それを受けた出店者たちは売り物を隠して没収されないようにしていたのだという。売り物を没収されては生きていけないという声を受けて、菊池昭自氏の父が警察に直接交渉しに行ったということもあり、取り締まりはいくらか緩くなった。非合法だとしても餓死しないためには仕方のないことであった上、実際警察もヤミの物を購入して生活していたため、次第に黙認されるようになった。  

 マーケットの出店者たちはみな親しい付き合いであった。親は店が忙しく子供のことをずっとは見ていられなかったが、放課後に店の子供たちで集まって紡績工場の跡地や学校の近くの山で遊んでいた。秋祭りの時期には出店者たちが衣装を手作りし、商店街ごとの仮装行列に参加するなどのイベントもあった。仲間として協力し、助け合って日々生活していたのである。

2章 中央マーケット

2-1 新興マーケットから中央マーケットへ

 かなり栄えていた新興マーケットであったが、時代の変化により、徐々に景気が悪くなっていった。そのため、マーケットから撤退し、違う場所で個人的に店舗を構えるようになった人もいた。建物の老朽化が進んでいたこともあり、1960年に大々的に建て替えが行われ、名前も新興マーケットから新しく中央マーケットに変わった。マーケットの建設は共同出資だったが、費用の関係などで撤退する店舗もあり、半分以下の22軒まで減った。建て替えのタイミングで、多くの人が大阪東京、松山などの、景気が良く働き口がある都市に出ていったのである。残った店舗で千代田食品商業協同組合が結成され、新興マーケットの時は個人所有だった土地や建物を、組合で所有することになった。初代の組合長は菊池昭自氏の父が担ったが、亡くなられた後は各店舗が順番に組合長をした。

 建て替え後は以前の活気が戻り、再び多くの買い物客で賑わうようになった。マーケットのすぐ前がバス停だったこともあり、近くの人だけでなく、佐田岬半島や大洲などほかの地域の人も買い物に訪れた。

2-2 マーケットのようす

 バラックだったものが、長屋状の建物になった。奥行き約4mの木造長屋2棟が向かい合うように並び、その間が幅2mの通路になっていた。新興マーケットの時と変わらず1階が店舗、2階が住居だった。

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図2 中央マーケットの構造

 マーケットには様々な食品店舗が入っていたが、当時特にトロール漁が栄えていたため、魚屋だけで5軒もあった。また、マーケットの近くには飲み屋が多く、夜寝ていても電話がかかってきて配達を頼まれることも度々あった。昼も夜も繁盛していたためほぼ休みなく店を開け続けたが、年に数回は休みをつくり、マーケットの出店者たちで旅行に行ったり花見をしたりしていた。マーケットの形態は変化しても、出店者たちの関係は変わらず続いた。店の子供のソフトボールチームもあり、強かったという。現在でも八幡浜では大人のソフトボールチームがいくつか活動していると話に聞いたが、それはこの頃の名残ではないだろうか。

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写真1 中央マーケットの入り口(『愛媛新聞』2009年5月22日,より)

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写真2 中央マーケットの前の通り(八幡浜みなっとオフィシャルホームページ,2017年,「八幡濱レトロ散策ブラハマAR」より)

3章 マーケットの終焉

3-1 マーケットの閉鎖

 1970年代以降、スーパーの勢力が拡大し、マーケットはかつてほどの賑わいを見せなくなった。対面で世間話をしながらの商売が時代に合わなくなったことや冷蔵庫が各家庭に置かれるようになったことで、毎日食料を買うという習慣がなくなった。それまでマーケットを訪れていた人々は、きちんと包装され保存の効く商品を購入するためにスーパーに流れた。また、八幡浜から保内町などほかの地域に行くことができるトンネルが開通し、人々が車を利用して行動範囲を広げたことも、マーケットから客足が遠のいた原因のひとつだろう。

 さらに高齢や後継者不足などの理由で閉店が相次ぎ、活気は失われていく一方だった。建物の耐震性や老朽化などを考慮し、当時組合長だった菊池昭自氏が売却先を検討、2009年に千代田食品商業協同組合解散されると共に、長年親しまれてきたマーケットは閉鎖された。

3-2 商店街への移転

 マーケット閉鎖後の土地をドコモが買い取り、そこにはスーパーホテルが建設された。最後まで組合に残っていた14店舗に売却金は分配され、それぞれの店舗は近くの商店街などに移転した。それらも時代の流れと共に閉店していき、いまでも営業を続けているのは藤川商店、田中鮮魚店上野ボタン店の3店舗のみだという。

結び

 八幡浜で半世紀以上栄えたマーケットは、多くの人々の生活を支えていた。ただ物を売買するだけの場所ではなく、そこには出店者たちのコミュニティや、出店者と買い物客との間の会話が存在していた。今では感じることのできない人情味、そして数々の物語がそこにはあったのだ。そのような点でマーケットは八幡浜の人々にとって非常に重要な役割を果たしていたといえるだろう。

謝辞

 この実習報告の作成にあたり、多くの方々にご協力いただきました。菊池昭自さん、宇都宮吉彦さん、藤川商店さん、田中鮮魚店さん、上野ボタン店さんをはじめ、多くの方々から貴重なお話を聞かせていただき、理解を深めることができました。突然の訪問にもかかわらず、快く対応してくださったこと、心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

参考文献

八幡浜みなっとオフィシャルホームページ,2017,「八幡濱レトロ散策ブラハマAR

(http://www.minatto.net/archives/63322018年8月18日にアクセス).

愛媛新聞,2009年5月22日刊行

八幡濱民報,2009年5月2日刊行