関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

「火災都市」小樽と「ブン公」伝説

「火災都市」小樽と「ブン公」伝説
今北 有美

はじめに

小樽と聞いて我々が思い浮かべるのは小樽運河とそれに並ぶレトロな石造りの倉庫である。今では小樽観光において外すことのできない大きな目玉となっている。しかし、倉庫は当初から観光が目的で建てられていたわけではない。もちろん運搬する物資を保管しておくために造られたのだが、石造りである必要はないだろう。小樽の倉庫は火災から物資を守るためにあのように石造りになっているのである。火災というキーワードを調べていると、「ブン公」という犬の存在が明らかになった。そこで火災にまつわる人々の記憶や、文化に小樽らしい特徴がみられるので火災という視点から小樽を見てみる事にする。

第1章「火災都市」小樽

1.小樽の大火

 まず、明治時代に小樽で発生し、被害が100戸以上のものを(図1)で示した。

明治13年から44年の31年間の間に19回も大火が発生している。大火の数が函館と小樽で全国1、2を占めた時期も存在した。
なぜこのように大火が多い町なのか。その原因は複数存在している。
まず、明治28年まで、小樽は電気が引かれていなかった。灯りはすべて蝋燭やランプという火を使用。もちろん炊事も現在使われるような電気炊飯器ではなく竈である。日常生活で火種となるものが毎日使われていたのであるから当然といえよう。
 しかし、それだけが原因で大火になるはずもない。大火となる原因としては小樽の特徴が表れている。
明治から大正にかけて小樽、札幌では急激に人口が増加していた。(図2)

この原因には両者とも開拓の起点となった町だったことが挙げられる。人口が急激に増加すると共に人家も増加する。だが、小樽は前に海、背後に山が迫っている土地だったために人家が密集してしまった。また急遽こしらえた家屋の構造は粗末なものであることが多く、その結果一度火事が起きると炎は瞬く間に燃え広がってしまうこととなった。これが大火になりやすい原因のひとつである。
そして道幅が狭く、坂が多いために水の便が悪かったことも火が大きくなる原因となった。今のように消防車もない時代には木製の手動ポンプ、(図3・4)もしくは木桶による鎮火という地道な作業しか火を食い止める方法がなかったというのもあげられるだろう。
 
2.防火都市への変貌

 道内において重要な位置を占める小樽は、一度火災が起きると甚大な被害を出してしまう構造であった。この火災被害を防ぐため、小樽では防火対策がとられることとなる。
その代表例が倉庫である。小樽に残っている倉庫の数は石造り388棟、そのうち345棟が木骨石造であると平成4年の小樽市全域調査でわかっている。
石造はすべてを石で積み上げたもの。木骨石造は骨組みを木で組み上げ、外側を石で積んだものだ。外側を石にすることで火が燃え広がるのを防ぐようにしたのである。また、木骨石造が多い理由としては、石の産地が近隣にあったことと、木造の技術を使えば工期が短縮でき、経費が安くできたため木骨石造の建物が多く建設された理由である。
明治時代の最大の被害をもたらしたとされる稲穂町の火事は色内、石山を超えて手宮まで達し、2500余戸を焼き尽くしたと伝えられている。その後の町の様子を残した日記があるので紹介する。

“午后一時頃学校を出てゝ、色内町を通ってみると、郵便局、三井銀行支店、越後屋などの大きな建物も何れも類焼にかゝって目もあてられぬ惨情である。それでも石造或は土蔵で屋根に瓦を用ひたのは大概残っていゐる。石造でも若し窓戸の構造の粗なるものは、悉く焼き尽された。これで昨夜の火事が如何に猛烈であったかが分かる。何しろ小樽第一目ぬきの場処であったので、焼跡至る処にポツンポツンと金庫の据って居るものも殊更に目立って気の毒に見えた。(中略) それから、帰りがけに浜町を通って見ると、流石にこゝは石造の倉庫が多い丈に、焼け残ったものが多い。(中略) 三井銀行は、建設費三十万円を投じて建設したもので、全部石造であったから、其部分は残ったが、屋根と窓の構造が粗麁であった故、上図の如き形に残っていた。”(図5)
 
稲垣益穂日誌 明治37年5月9日分より抜粋




この火災を契機に小樽区は市区改正(現在の都市計画)をおこない、色内地区を中心とした道路の拡幅と新セル工事を実施、幌内鉄道の線路も西側に移動させ、市街地の主要建築物の構造は木造から木骨石造へと一気に転換することとなった。
また、倉庫の他にも市街地の商店で防火対策が施された建物としては岩永時計店(図6)
、などがある。この建築物では瓦屋根に鯱鉾の鴟尾(しび)1)がつけられている。鯱鉾(図7)
は建物が火事の際には水を噴き出して火を消してくれるという火除けのまじないとして考えられていた。ここからも人々が火事を恐れていたことがわかる。建物の中には建物の両側に防火のための袖壁(うだつ)を建てるものも存在している。(図8・9)
建物と建物の間に壁をはさむことで防火対策にしていた。2)
防火対策がなされた建物は時代の流れとともに変貌をとげる。大正10年代になると銀行の各支店の建物は当時の主要建築に採用されはじめていた鉄筋コンクリートで建てられた。また、商店では外壁にコンクリートモルタルを塗り、タイルを張り付ける防火建築が出現した。明治に盛んに用いられた石材にかわってセメントが新たな建築材料としてつかわれるようになったのだ。
また、都市計画の中でも防火について取り上げられている。
昭和27年には船見通りと大通線をT字型に結び、全国的に火災発生率の高かった市中央部の全長1426メートルを防火建築帯に設定している。
 
3.カラフルな消火栓





 
 小樽の街を歩いていると青、赤、黄色の消火栓が目に入ってくる。(図10〜14)
このカラフルな消火栓3)にも小樽の特色があらわれているので紹介したい。
小樽は大変坂が多い町である。住宅地の高低差が激しく、小樽市水道局は安定して水を供給するために、配水池を36カ所配置し、配水系統は42系統から水を配給している。


昭和49年11月22日に起きた長橋での火災で、同じ配水系統の消火栓から何台もポンプ車が水を放水した。同系統から大量の水を吸い上げたために配水管内の水量が落ち、水が出にくくなるという事態が発生した。今後このような事態を避けるために昭和50年から高区、中区、低区や配水系統によって色分けされるようになった。(図15・16)


第二章 「ブン公」伝説

1.消防犬「ブン公」

ブン公とは大正から昭和の初めまで小樽消防署5)で飼われていた雄犬である。元々はブンという名前であったがいつしか東京渋谷駅前の「ハチ公」のように「ブン公」と呼ばれるようになった。
ブン公は火災が発生すると消防車に飛び乗って現場まで出動し、火事で集まってくる野次馬の整理、よじれたホースを咥えてなおすなど大変活躍していた犬である。その活躍によって子供たちの人気者となり、ラジオや新聞でブン公は全国に消防犬として知られるようになった。ブン公の出動回数はゆうに1000回を超えていたという。
また、火災報知機4)のベルの音が鳴るとブン公は消防士たちに吠えて火事を知らせ、一番にシボレーポンプ車のサイドステップに乗って出動を待っていたという話や、気をつけの号令の際に「ワン」と一番に吠え、隊員が「2」と号令したというユニークな話も残っている。
そんなブン公も老いには勝てなかった。身体も衰弱し、組員達の必死の看病によって余命を保っていたが、昭和13年2月3日に別れを告げることとなった。4日には消防組葬を本部で執り行い、棺の前には「小樽消防犬文公之霊」という塔婆が建てられ皆ブン公との別れを惜しんだ。彼の功績を記念するためにブン公は剥製にされ、しばらくは小樽市消防団本部に飾られていたのだが、現在では小樽市立博物館に保存されている。(図17)

この全国に知られることとなったブン公も時の流れとともに少しずつ人々の記憶から忘れ去られていくこととなる。

2.「ブン公」以後

(1) ブン公の子孫

それでは、ブン公以後はどうだったのか。1958(昭和33)年1月4日の北海道新聞にブン公についての記事が書かれていた。その中に
“ブン公は城とコゲ茶のまだらな秋田県ににた雑種犬のメスで、死ぬ昭和13年までに仔を一匹生んだ。小ブンと名付けたが、名犬の犬だというのである夜盗に盗まれてしまつた。”
という一文があった。子ブンは夜盗に盗まれたという話であるが、実際はどうやら違っていたようだ。2006(平成18)年3月10日の北海道新聞(小樽版)に、家族でブン公の子を育てていた新井田さんの記事が載っていたので紹介する。
新井田さんは一九三一年(昭和六年)、小樽生まれ。父親の故石山謙治さんは小樽の消防署に勤めていた。当時、署内で「賢い」と評判の消防犬がぶん公だった。小学生のころ、謙治さんがぶん公にお弁当を分け与えていた姿を覚えている。「父は『ぶん公は偉いんだぞ。火事だと一番に現場に行くんだと一番に現場に行くんだ』とよく話してくれました。」と振り返る。犬好きの謙治さんは、消防署で一匹の雄犬を譲り受けた。「ぶん公の子どもだから賢いよ」と言われ、家族で親と同じ「ぶん公」と呼んでかわいがっていた。一九三九年、一家が家庭の事情で岩内に引っ越した際、「ぶん公」は行方不明になった。”北海道新聞(小樽版)2006(平成18)年3月10日より抜粋。
これがどうやら真実のようだ。また、ブン公は当時、雌犬だと思われていたが、実際には雄犬だったことがわかっている。では子ブンはどこからやってきたのか。今となってはわからない。

(2) 二代目消防犬「ゴロー」

さて、ブン公や子ブンが存在していたことは知られているが、実は消防署に、もう一匹消防犬が存在していたことはあまり知られていない。
今回お話を伺うことができたAさんは昭和36年から43年までそんな知られざる消防犬とともに小樽消防署で働かれていた元消防士の方である。
昭和36年、消防署に一匹の犬が迷い込んできた。消防署内で飼うこととなり、消防士たちのアイドル的な存在となった。名前はゴローという。
ゴローはよく消防署の2階か3階におり、消防士たちは1階にいることが多かったという。ゴローはブン公と同様火災報知機の音を聞き分けることができたようで、ゴローが一階に吠えながらやってくるときは火災報知機が鳴っている時であった。ゴローも吠える事で火事を知らせてくれたのだという。
ゴローもまた消防車に乗って火事現場に出動していた。現場へ向かう途中振り落とされないように立っており、運転するものは気をつかったなどという話も伺うことができた。ブン公のように野次馬の整理やホースのねじれをなおしたりはしなかったが、鎮火するころになるとどこからともなく帰ってきて自動車に乗り込んでいたという。
当時は大変野犬が多かったらしく、多くの犬が処分されていた。ゴローも一度保健所に捕まってしまったことがあったのだが、首輪に消防士の階級章が付けてあることに気付いた保健所職員が消防署に電話をしたために命拾いをしたということもあったそうだ。
消防士たちにかわいがられていたゴローは人がやってくる足音も聞き分けられたようである。当時巡視と呼ばれる上官が支部を抜き打ちでチェックすることがあったようで、「上官がやってくる前にゴローは上官の前を走って消防署のガラス戸を叩き、上官が来たことを知らせてくれたよ。」とAさんは笑いながら話してくださった。
昭和43年にAさんは移動となってしまったため確かなことはわからないが、ゴローも歳を重ねるごとに弱っていき、車にものれないようになったという。最後には一番ゴローをかわいがっていた消防士の方が引き取っていったそうだ。

(3)再び注目される「ブン公」

 さて、時代の流れとともに影をひそめていたブン公であるが、近年再び注目されている。
きっかけは「小樽歴史物語」の中に書かれていた消防犬「ブン公」の話が児童書として平成10年に「消防犬ぶん公」として絵本化されたことが大きいのではないだろうか。これを機にぶん公の剥製は毎年命日の2月3日に展示されることになった。
 もうひとつは小樽市観光物産運河プラザ前広場に立つぶん公記念碑(図18)である。
この建設の中心となったのはかつて消防団副団長として活躍されていた木下さんである。木下合金90周年記念の際に木下会長が「お世話になった小樽市に何か恩返しをしたい」と考えていた。そんな時会長は小樽市民のために尽力したぶん公の存在を思い出し、消防・防火の意識を多くの人に感じてもらうためにぶん公の銅像をつくろうと決意。そしてブン公の命日である平成18年2月3日に「消防犬ぶん公記念碑建設期成会」を発足させ、同年7月21日に記念碑建立・除幕式が行われた。ブン公の銅像は現在私たちに当時の雄姿を伝えている。
そして平成20年2月3日にはぶん公没後70年のメモリアルコンサートが開催された。ここでは日本社会福祉愛犬協会からぶん公の功績を讃えた賞状6)と受賞記念に『銀の首輪』(図19)
が贈呈され、最後には絵本作者である水口さん作詞によるブン公の歌「ぼくは消防犬」(図20)が披露された。
同年10月15日〜18日には小樽市消防署主催「消防犬ぶん公」火災予防フェアが小樽市観光物産プラザで開催され、4日間で延べ800人の人々が来場し、ブン公や住宅用火災警報器の説明が行われた。

まとめ

 さて、第一章で挙げたことからわかるように小樽はかつて大火が発生しやすい火災都市であった。これは第二章で挙げたブン公の出動回数から見てもお分かりいただけるだろう。防火対策のひとつとして建てられた倉庫や建物は今では当時の面影を我々に伝えている。時間の流れとともに倉庫の小樽での倉庫の在り方は変化しているが、小樽の発展に役立っていることには変わりはないようだ。
そしてブン公の伝説は口頭伝承から絵本という媒体の変化したものの現在でも語り継がれている。そしてブン公が注目されることが小樽市民に火災を意識するきっかけになっている。こうしてブン公物語を語り継ぐことが小樽にとって一番の防火対策になっているのかもしれない。

1) 瓦屋根の両端につけられる飾りの一種。寺院や仏殿などによく用いられ、飛鳥時代に大陸から日本に伝えられたとみられる。唐時代末に鴟尾は魚の形、鯱の形状へと変化していった。鯱はインドの空想の魚で、海にすみ雨を降らすと考えられていたことなどから火除けとして考えられるようになったのだろう。

2) うだつ(本来は梲と書く)を上げるためにはそれなりの出費が必要だったことから、うだつが上がっている家庭は比較的裕福な家庭に限られていた。出世しない、見栄えがしないなどの意味でつかわれる慣用句「うだつが上がらない」の語源のひとつと考えられている。小樽では鰊によって富を気付いた人々もいたので、うだつが上げられる裕福な家庭が多かったのだろう。



3)カラフルな消火栓は既製品ではなく、小樽市では毎年消防署職員の方々によって色を塗りなおされている。このようにカラフルな消火栓は全国でも珍しく、小樽の他には札幌でも見かける事が出来る。(図21・22)


4)電話の普及していなかった当時は火災報知機が市内のいたるところに設置してあった。1028年に設置されて以来、296機まで増設されたが1974年にその役目を終えて廃止となる。仕組みはボタンを押すと、消防署内で火災発生を知らせるベルがなるというものである。(図23・24)





5)ブン公が活躍していた時代の消防署は1944年に北海道庁小樽市消防署として花園町西三丁目4番地に開庁。現在はこのようになっている。(図25・26)
 しかし、戦後火災の重大化認識が求められ、1951年に花園町西二丁目二四番地に新庁舎を建築。(図27)
現在この建物は庄坊番屋(図28〜30)
という飲食店として利用されている。消防署が現在の場所に移されたのは1983年のことである。

6)NPO法人日本社会福祉愛犬協会(KCジャパン)は「人と動物がよりよい関係で共生できる社会を創ること」を目的とし、「犬を通じた社会貢献」を推進している団体。銀の首輪賞は過去・現在を問わず、犬を通じた社会貢献に大きな業績を残した犬や人間に与えられる賞である。ブン公はこの賞受賞一号である。


 謝辞
本稿の調査にあたっては、小樽市在住の木下英俊氏、新保義彦氏、水口忠氏、村岡典久氏をはじめとする小樽市消防署職員の皆さま、小樽市立博物館の石川直章先生、佐々木美香先生の多大なご協力を賜りました。
ここに記して感謝申し上げます。

参考文献

水口忠
 1989 『おたる歴史ものがたり』、北海道郷土史研究会。
1998 『消防犬ぶん公』、文渓堂。
稲垣益穂
 1903 『稲垣益穂日誌』9巻、小樽市博物館編。
井尻正二
 1975(2007再刊)『消防犬・文』、築地書館
福田博道
 2003『名犬のりれき書 あの犬たちはすごかった』、中経出版
2006『犬名辞典』、グラフ社
青木由直
 2007『小樽・石狩秘境100選』、共同文化社。
発行者 小樽市
 1993『小樽市史』第七巻。
1994『小樽市史』第八巻。
1995『小樽市史』第九巻。
2000『小樽市史』第十巻。
発行者 小樽観光大学校
 2006『おたる案内人』、小樽観光大学校運営委員会編、石井印刷。

2003『小樽散歩案内』、ウィルダネス編、ウィルダネス。
2008『小樽なつかし写真帖 総集編』、小樽なつかし写真帖編集委員会編集、小樽市総合博物館 監修、北海道新聞小樽支社。
1983『小樽−坂の歴史の港町』、朝日新聞・小樽通信局編、北海道教育社。
2009『月刊 おたる』2月号、(株)月刊おたる。
2006『Wan』10月号、緑書房
2007『Wan Day 犬と暮らす』VOL.5、あおば出版
 1935.7.15 『小樽新聞』火災現場で活躍する人も及ばぬ愛犬。
 1936.5.6  『小樽新聞』赤い風に勇む消防犬ブン公。
1938.2.4  『小樽新聞』颯爽火事場護る名犬“文公”。
      『小樽新聞』消防犬文公病死。
1938.2.5  『小樽新聞』文公を葬ふ。
 1958.1.4  『北海道新聞』消防犬ブン公。
2006.3.1  『北海道新聞(小樽版)』銅像建設へ寄付着々。
2006.4.3  『北海道新聞(小樽版)』ぶん公はく製化粧直しの旅。
2006.4.13 『北海道新聞(小樽版)』消防犬 ぶん公像のデザイン決定。
2006.8.8  『北海道新聞(小樽版)』お仕事拝見 木下合金

小樽市消防署本部HP
小樽市の消火栓
http://www.city.otaru.hokkaido.jp/simin/anzen/shobo/syoukasen.html
 消防犬ぶん公
http://www.city.otaru.hokkaido.jp/simin/anzen/shobo/bunkou.html

NPO法人 日本社会福祉愛犬協会
http://www.kcj.gr.jp/news/2008/vol1.html

犬ニュース01 2008.1.25
http://news01.net/news/2008/01/20080125192249.php

小樽ジャーナル 
2006.2.3  http://otaru-journal.com/2006/02/post-991.php
2007.12.20  http://otaru-journal.com/2007/12/post-2163.php
2008.2.3  http://otaru-journal.com/2008/02/post-2255.php
2008.10.18 http://otaru-journal.com/2008/10/post-2886.php
「消防犬ぶん公」没後70年メモリアルコンサート
http://homepage2.nifty.com/tamizu-otaru/miz165.htm

小樽と小豆

小樽と小豆

二上 愛

第一章 小樽と小豆産業

(1)栄光とその時代

 小樽における小豆の豆撰産業の発達は、明治22年(1899年)に小樽港が特別輸出港に指定され、日本でも有数の貿易港として発展していくことと大いに関係する。小樽港で取り扱う品目は石炭、海産物、穀物、雑貨など多くの種類を移出していたが、なかでも米や小豆、大豆といった穀物が多数を占めるようになる。そのため、小樽は道内から来た産物の集積地となり、小豆を選別する工場も増えていった。
 そして、大正3年(1914年)、第一次世界大戦が勃発すると、ヨーロッパの豆主産地だったルーマニアハンガリーも戦場と化し、輸出がストップした。その影響で豆が不足し、世界的に値上がりしたとき、北海道から穀物が大量に輸出された。この時すでに、道内で取れた穀物はほとんどが小樽に集積されるようになっており、第一次世界大戦がはじまった3、4年後にあたる大正6、7年にかけて小豆の豆撰産業の最盛期を迎えることになった。
 最盛期には、現在の色内1丁目〜3丁目の運河周辺に20数件の工場が立ち並び、豆撰工場で働く女工の数が約6000人にも上ったというのだから、驚きである。確かに小樽で小豆の豆撰産業は盛んであったのだと言えよう。
 第三章で聞き取り調査から得た、当時の工場の様子や女工さんの働きを紹介しようと思う。

(2)そして衰退へ

 (1)でも述べたように、小豆の好況は華々しかったがその衰退は早い。多くの資料にもその後の動向は書かれていないが、昭和 初期頃から船舶は大型化、世界の商港は接岸荷役へと転じていたため、小樽港も大規模な工事を余儀なくされ、一時衰退する。それに伴い小樽の小豆も衰退の一途をたどる。昭和に入ると工場は減り続け、女工さんも小樽の地から離れるようになり、現在では渋沢倉庫が形を残しているのみである。
 現在では、小樽市民の方も小豆工場の繁栄を知らない人が多く、その栄光は忘れ去られてしまった印象を受けた。

第二章 活躍した「小豆商人」

小樽における穀物輸出の急激な伸びで、多くの小樽商人が莫大な富を得ることとなる。この章では、特に小豆によって活躍した人々を紹介する。

(1)高橋直

当時のロンドン相場まで揺さぶった彼の名は今でも「小豆将軍」として伝えられ、小樽の小豆を語る上で彼の存在は欠かせないであろう。
 直治は安政3年(1856年)に新潟県で生まれる。18歳で小樽にやってくると約三年間の荒物屋の店員をした後に独立し、味噌・醤油の醸造などを手掛ける。その後も精米所や小樽商会の設立、小樽新聞の出資者になるなど幅広い活躍をし、さらには明治35年(1902年)に、北海道初の衆院議員となる。
 直治は弟の喜蔵とともに、明治30年(1897年)に高橋合名会社を始め、主に米・海産物・荒物・醤油などの売買、委託などをした。さらに、委託だけにとどまらず、積み出しから輸出までをも扱うようになる。
 彼には、次代を見越す力があったのだろうか。第一次世界大戦が始まれば、ヨーロッパの穀物類が不足し、必ず価格は値上がりすると考えた。その予測をもとに、道内から13万俵という膨大な量の小豆を買占め、自分の倉庫に貯え値上がりを待った。この時の小豆の価格は一俵6、7円である。そして予測は的中し、戦火が激しくなるにつれ小豆の価格は上がり、一俵17円の高値をつけると、備えていた13万俵の小豆を一気に売りに出した。それ以来、直治は小豆将軍といわれ、ロンドン市場を揺るがす以外にも世界中の市場関係者の間で知れ渡ることとなる。
 その後も何度か衆議院議員を務め、大正15年(1926年)に生涯の幕を閉じた。

(2)板谷宮吉
 
彼は直治と同郷の新潟県出身で、後に海運王として知られるようになる。直接小豆業と関わることはなかったが、小豆将軍の直治との生涯の友であり、同業として多くの接点があったため紹介した。

(3)その他の小豆将軍

 名前などは残ることがなかったようだが、多くの小豆仲買人が富を得ることとなる。雑穀商の中心地となった堺町筋は「売った」「買った」を叫びながら、店から店へと飛びまわる。そして儲かれば、妙見町界隈の花柳町で札ビラを切る風景も見られたらしい。
 当時よほど儲かっていたことが想像できる。


第三章 「豆撰」全盛時代の話

 では小豆の豆撰産業が小樽で全盛を迎えていた時、当時の様子はどのようだったのであろう。小樽での聞き取り調査にご協力いただいた小樽市在住の北村猪之助さんと同じく小樽市在住の中ノ目定男さんの話を元に紹介していこうと思う。

(1)小豆工場の仕組み

 小樽の小豆工場と他の工場の違いはその外観である。雪が多いこの地では三角形をした屋根が多いが小豆工場の屋根は平らになっている。


 まず女工さんたちが、工場内で集積された小豆の選別を全て手作業で行い、それを麻袋に入れ、屋根に通じる梯子を登る。そしてその豆を屋根の上に天日干しにし、それが終わればもう一方の梯子から戻ってくるという流れ作業を行うために屋根は平らになっている。
 しかし屋根が平らでない工場もあり、その場合はだだっ広い外の空地までいき、天日干しの作業を行っていたそうだ。
 また、石造りの工場内は防火対策として窓が少なく、それゆえ中は薄暗く湿気が多かったようだ。
 このように、小豆工場はほかの工場とは違った特徴を見せ、工夫が凝らされていたことが分かる。

(2)女工さんの働き

 最盛期の頃、小豆工場へ吸い込まれて行く多くの女工さんを見てか、人々に小豆工場は「豆撰女学校」とも言われていた。
 女工さんたちは年齢も10代〜50代くらいとさまざまであった。
 給与体系は工場ごとに異なっていたそうだが、どのくらい悪い豆を見つけることができましたよ、あるいは良い豆をこんなにも選別しました、ということを評価基準にする請負賃金制が基本だったそうだが、それでは賃金をもらいたいがゆえに嘘の選別をする女工さんもいたそうだ。そのため、問題が起きた工場などは日給や時間給に変更するところも多くなっていた。しかし、賃金を巡っては最善の解決策がなかったようで、困ったこともあったそうだ。
 そんな豆撰産業に代表する女工さんたちも、小豆が衰退の一途をたどるのと同じように小樽を後にしていくこととなる。明確なその後の所在地は分らないが、さらに発達している町の中心部や太平洋側の地域に移ったのではないかと考えられている。

第四章 小豆の建物今・昔

 この章では、文献や聞き取り調査の結果分かった小豆に関する場所を現在ではどのように変化したのかを写真とともに紹介していきたい。

(1)小豆工場

 渋沢倉庫は第一章でも紹介したように現在唯一残る小豆倉庫である。場所は色内町の運河沿いにあり、写真のように屋根が平らで、小豆工場の特徴をはっきり残していることが分かる。第三章(1)内で示した渋澤倉庫の写真の反対側に回ってみると、お洒落な建物が今では居酒屋さんとして使われているようだ。


 次に、勝納町にある銭湯「汐の湯」は、昔豆撰であったとされている場所だ。当時の資料は残っておらず、明確ではないが銭湯の方たちに聞くと代々その話が伝わっていたというのだから、おそらくそうであろう。

(2)小豆将軍の家

 現在、小樽市歴史的建造物となっている旧寿原邸は、第二章でも紹介した高橋直治が創建者であったとされる。



明治42年の土地明細録、大正3年の土地台帳によると、土地所有者は「高橋直治」となっていたが、電話番号簿では昭和9年には寿原外吉に変わっていた。(http://www.mmjp.or.jp/OTARU/kyoyou/jr-27.htmlより)場所は東雲町の高台にあり、邸宅内の様子からも高橋直治の優雅な生活ぶりが想像できる。
 次に、同じく第二章で紹介した板谷宮吉の邸宅も、旧板谷邸として小樽市歴史的建造物となっている。和風の母屋とその北側に続く洋館は独特の雰囲気を醸し出し、高台に建つ広々とした敷地は風格がある。現在は休業中のようだが2005年に商業施設となり、母屋で日帰り入浴やエステサロン、洋館ではフレンチが楽しめるお店になっているそうだ。




まとめ

 小樽での豆撰は小樽港の繁栄とともに多くの工場や女工さんに支えられて栄えた。その栄光は数十年という短い期間だったが、今回の調査を行い、たしかに存在していたことを確認することができた。しかし文献を調べたり、小樽に行きフィールド調査を進めていく中で、現在小樽に住む人々にはあまり知られていないことであったように感じた。
 今回調査するにあたって、小豆産業の繁栄という今から約80数年前の事実を掘り起こすことは本当に困難なことであると実感した。この調査で得たフィールドワークの方法は今後活かしていきたい。そして、このリポートによって小樽の小豆産業の栄光が少しでも色褪せてしまわない事を願う。

謝辞
本稿の調査にあたっては、小樽市在住の北村猪之助氏、中ノ目定男氏、小樽市立博物館の石川直章先生、佐々木美香先生に多くのご協力を賜りました。ここに記して感謝を申し上げます。

文献一覧

小樽市
 1981 『小樽市史 第二巻小』図書刊行会。

合田一道
 2004 『目で見る小樽・後志の100年』郷土出版会。

小樽商工会議所HP
http://www.otarucci.jp/

北海道中央タクシーHP
http://www.chuo-taxi.jp/feature_articles4.html(小樽の歴史)