関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

小樽とガラス

はじめに
 小樽ではガラス産業が盛んである。ガラスの浮玉・ガラス製のランプ・工芸品をはじめとして様々なものが特産として名を連ねている。その中でも、小樽のガラス産業の礎とされているガラスの浮玉がある。本調査では、ガラスの浮玉を通して発展した小樽のガラス産業と、衰退そしてその背景に迫り、現在また将来的な小樽でのガラスの位置づけに迫りたい。
 まず第一章にて、ガラスの浮玉の誕生から衰退に至るまでと、現在での浮玉の状況について小樽高島地区の漁師成田正夫氏への聞き取り調査を記述。続いて第二章、第三章では小樽のガラス産業を支えてきたとされる、浅原硝子製作所と北一硝子の二社に焦点をあて、浅原硝子製作所の浅原宰一郎氏、北一硝子花園店の松島睦氏に話をうかがった。ガラスの浮玉を開発したとされる浅原硝子。また、その浅原硝子を前身とし設立された北一硝子。浅原硝子と北一硝子の関係について、両社の視点にたちながら論じる。第四章ではとりあげきれなかったガラス産業についての記述を施すことで、筆者自らが本調査で感じた、ガラスの可能性について記述する。

第1章 ガラスの街小樽
(1)小樽のガラス工場と浮玉
 小樽にガラス工場ができたのは、明治24年(1891年)に井上寅蔵が山田町に開いたのが最初とされている。船燈、発火信号なども作ったといわれている。そうして、井上寅蔵に続いて同33年(1900年)に浅原久吉が富岡町に。同三五年に藤井丑吉が緑町に。同四五年若林という人が山の上町に。大正5年(1916年)に川口留吉が緑町に、それぞれガラス工場を開いたとされている。昔のガラス工場で今もまだ続けられているのが初代を浅原久吉とする、浅原硝子製造所である。
明治から大正期の小樽のガラス工場の製品は、ランプのホヤ、カサ、投薬ビン、菓子、砂糖の広口ビン、金魚鉢など家庭雑器が主であったとされる。そうして次第に北洋漁業がさかんになるにつれ、漁業用の浮玉の需要が高まってきたことから、ガラスの浮玉の生産が盛んになった。
浮玉の原料はカレット(ガラスくず)を主としている。普通ガラスの種はバッチ(原料=珪砂、カリなど)を溶解して作る。しかし浮玉は再生産である。ガラスの浮玉は、正式には漁業用浮標といわれていた。製品としては中が空洞になっているガラスの中空の球である。大きさは1尺5寸(49.5センチ)の大型のものから、1寸5分(4.9センチ)の小さなものまで各種ある。網、漁の種類で使いわけられていた。種類として代表的なものは、○1尺2寸玉:深海、浅海でイワシ、サケ、マスの定置網漁に使用 ○5寸玉:深海、浅海でヒラメ底引き網漁に使用 ○2寸5分:深海用でタラ、スケトウダラカニの刺し網漁に使用などである。

(2)浮玉の最盛期
 魚の習性を利用し、網を計画的に張り魚を捕らえる。この網で重要な役割であったのが浮きと重りであった。漁業では重りのことを“アシ”という。「沈子」という漢字を用いる。一方浮きは“アバ”といわれ、「浮子」の漢字を用いる。アシは主に鉛、錫、鉄、針金、ゴロタ石が使われていた。中でも主流であったのはゴロタ石であるといわれている。アバの方は、昔木材を使っていた。トドマツ、エゾマツを主に使っていたとみられる。しかし、北洋漁業の発展により大型の網が投入されるようになると、アバも大量に必要とされるようになった。そこで登場したのがガラスの浮玉とされる。浮玉は木材よりもめっぽう好都合であった。はるかな浮力・水圧に強い・加工しやすい・値段も安いという条件がそろっていたのだ。ただ一つ欠点としては、壊れやすいということだった。こうして、需要の高まりから各地に浮玉ガラス工場が軒を連ねるようになったのだった。
 北洋漁業は昭和年代になると本格化している。定置網漁から母船式の漁法が主流となっていた。サケ・マス母船は5000ら1万トン級の缶詰工場を中心に、30隻ほどの独航船が一船団となる。一隻の独航船には三百反もの刺し網が積んでいるのだ。網を全部繰り出すと、およそ15キロ近くにのぼりそれに全て浮玉がついている。戦前で十船団もの船が大海へと出航する。北洋漁業は世界の漁業へと発展したのだ。この北洋漁業の漁網で欠かせないアバ、浮玉を作って支えていたのが北海道の浮玉工場であったというのは言うまでもない。
戦前の浮玉の生産量は明らかにされていない。昭和22年には1056トン以上を生産していると小樽市史に記述がある。

(3)浮玉の衰退と背景
北洋漁業に多大なる影響を与えた浮玉産業が打撃をうける。浮玉産業の衰退には様々な要因が考えられうる。まずは北洋漁業である。北洋漁業の漁獲は太平洋戦争の末期にまで及んでいた。しかし労働者の不足により、業務を滞りなく遂行できず、仕事の能率は下がる一方であった。戦後に北洋漁業が復活したのは昭和27年からである。しかしながら、1956年の日ソ漁業協定が結ばれる。これにより、日本が今まで漁業領域としていた海域はあっけなくも失うことになる。北洋漁業の「斜陽」の時代の幕開けであった。そこへ拍車をかけたのが二百海里の規制条約の締約だ。ますます日本の漁場は狭まっていくばかりであった。北洋漁業だけではない。その他の漁までも規制した。さらに、北海道では沿岸のニシン漁までもが衰退の道をたどる。海岸が盛り上がるように押し寄せていたニシンの大群、群来(くき)が小樽の沿岸に戻ってくることはなかった。この北洋漁業とニシン漁の衰退により、ガラスの浮玉の生産は一気に落ちることになる。また追い打ちをかけるように、昭和49年のオイルショックが船の燃油を上げるとともに浮玉をも値上げをし、ますますガラスの浮玉離れが始まる。
様々な要因が重なり、漁具にも化学製品が使われるようになった。漁網は天然繊維からナイロンなどの化学繊維を使用し、アバの浮きにもプラスッチクを使用、楕円形や太鼓型などの様々な形のアバが登場する。このプラスチック製品がガラスの代わりをするようになった。なぜプラスチックが台頭するようになったのか。プラスチックの利点として考えられるのが、浮力の良さ・耐久性・安い というこの三点である。ガラスよりも軽く、また叩いても壊れないうえに捨てても腐敗しない。融通の利きやすさが、ガラスにプラスチックが勝利した要因である。こうして現在に至ると、ガラスの浮玉は姿を消したのではないか、という話を耳にするようになる。海に浮かぶオレンジ色の丸い球が等間隔で並んでいる。小樽の海も同じように、そのようなオレンジが海から顔を出していた。本当にガラスの浮玉は消えてしまったのだろうか。小樽で漁を営む成田正夫氏に伺ってみる。

(4)現在の浮玉 
「今ガラスの浮玉使っているところなどない」小樽に着くまでそのように聞いていた。小樽の高島地区にある漁師成田氏の仕事場を訪ねた。ガラスの浮玉は漁に使われているのか。もっとも聞きたいことであった。成田氏は漁に使う網の仕掛けのかごを見せてくれた
(写真1)これはしゃこを漁るときに使用するという。ガラスの浮玉の需要がなくなったというわけではない。実際にはガラスの浮玉は、まだ昔のものが残っているから使用するのだという。ガラスの浮玉はプラスチックとは違い、半透明であるから海の色に自然となじむ。
それではこのガラスの浮玉どのようにして使うのだろうか。しゃこ(ガサえび)漁を例に説明する。海に15メートルほどの網をたらし、網の下部に重りをつけ海底へたらす。その重りから海面へ約一メートルの網をあたり一帯に張り巡らす。網の上部分にガラスの浮玉が等間隔で並ぶ。この約一メートルの網一帯にしゃこが掛かるという仕組みである。このしゃこの漁に使われるガラスの浮玉の大きさは、15センチほどのもので比較的小さなサイズのものだ。実際大きいもので30センチほどあり、様々な漁で使う。このガラスの浮玉は、浮玉工場から直接購入しているのかと思っていたが、実は網屋から仕入れているという。10年から15年前からはプラスチックをもっぱら扱うようになり、今となってはガラスの浮玉は仕入れてはいない。このしゃこ漁などに使われているガラスの浮玉は、昔から使われている、いわば生き残りのガラスの浮玉なのだ。また、亡くなった漁師の漁師小屋などに残された網の仕掛けについたガラスの浮玉を取って再利用する事が多いなど、ガラスの浮玉は半永久的であるから需要がなくなったというより、必要とされてはいるが仕入れる必要性はないというほうが正しいのかもしれない。
また再利用は、漁師間だけではない。居酒屋がもらいにくることもあるらしく、無料で提供していたと成田氏は言う。ガラスの透明感と、ガラスの球を網で縛ってまるで海を凝縮したようなガラス玉の風貌は、居酒屋のビジュアルに最適なのかもしれない。


第2章 浅原硝子製作所
(1)浮玉産業の栄光と衰退
 現在では小樽の天神町にある浅原製造所は(写真2)
初代浅原久吉が明治に小樽に硝子製造工場を操業した。初代で扱われていたのは、相次いでできるガラス工場と同じように石油ランプや金魚鉢、投薬瓶などの生活雑器を主としていた。ガラスの浮玉を開発したのは、浅原久吉だといわれている。最盛期である昭和20年から昭和30年にかけては、会社数は小樽、室蘭、釧路、旭川樺太、と道内五社にのぼり各工場に職人が20人から25人働いていたという。同業者としては、道外で函館や青森にも工場があったとされる。ガラスの浮玉はあくまでもひとつひとつが手作りで、職人が丁寧に一つ一つふくらませるのだ。職人芸であるガラス玉には、生産の限界がある。中ぐらいのサイズで1日1500個、大きいサイズのものでは1日90個、朝から晩まで職人がガラスの球を吹き続けてできる限界の数である。一週間では、10000個もできないのが現実であった。また半永久的なガラスの浮玉は、一度供給されると二度三度、そしてそれ以上に使える利点がある。この最盛期を越して一気に衰退の岐路をたどるのである。

(2)ガラスと伝統
浅原硝子製造所は元々大きな工場であった。ガラスの浮玉だけではなく、業務用や卸として実用品を病院などの団体にむけ出荷しており、個人に小売をしてはいなかった。しかし今となってはガラスの浮玉の需要はないに等しい。最近では、大阪に出荷したという。そして浅原硝子製造所では今までのガラスの浮玉から新しいガラスの浮玉の導入も始めた。金のラメをガラスに配合し、特殊に加工。そうすることで海によりなじみ、海に入ったときにキラキラ輝くのである。
(写真3)このガラスの浮玉はタコのいさり漁で実際に使われている。このように浅原硝子のガラスの浮玉は多様化しつつあるといえる。と同時に、今までの漁具の一種としての機能から見て楽しむものに変容しつつあるのがわかる。かつて卸問屋のような大きな工場として機能していた浅原硝子は、職人として後世にガラスの浮玉を残していく役割の位置を築いた。だからこそ浅原硝子は売ることを専門としていない。あくまでも、作る人と売る人はイコール関係にはない。それは先代からでもうかがえることである。前述のように、元々卸業者として機能していたので、二代目の弟が小売部門を担当し北一硝子を創設した。現在ではその息子が社長となっている。
現在では人件費の安さから、自国ではなくベトナム・韓国をはじめとする海外で作られたものが多くなりつつある。しかし、それでは小樽特産が消されてしまうのではないか。そこで小樽でのイベント「雪あかりの路」(第八回まで浅原硝子がガラス担当、その後は耐熱硝子で他工場に)や展示会に参加することで、小樽でのガラスの伝統を守る。またそれを元に小樽の地域活性化のために供に盛り上げようと売る人。この両者があって初めて、次へつながる小樽のガラスがある。

第3章 北一硝子
 (1)北一硝子と浅原硝子
北一硝子の前衛は浅原硝子である。しかし同じ経営でも、同じ会社でもない。別会社であり、昔はグループ会社であったこともある。今でも親族が経営陣であるのが特徴的である。両社はライバル会社ではない。第二章での記述にもあるように、ともに歩みそれぞれの役割を明確にしている二社であるのだ。
 北一硝子は小売部門を昔から担当している。設立当時、板ガラス、石油ランプ、浮玉などを主に取り扱っていた。しかし、ガラスの半永久的な利点から売れなくなってきた。そうして発案されたのが、テーブルウェア商品であった。ガラスのコップ、皿、しょうゆさし、など生活雑器とされるものを一般の人々に売っていた。その着た北一硝子一号店とされるのが、花園店である。花園とは、現在観光客やお土産屋などで賑わう小樽運河よりも山側へ、国道線沿いに建てられている。少し落ち着いた、店内は決して広くないそんなお店である。なぜ、花園店が最初に建てられたのか。なぜなら、単純に昔は花園界隈のほうが栄えていたからだという。まだ小樽運河沿いの倉庫街は、今のように倉庫を活用したお店などなく、ただの倉庫街であった。水道も通っていない、倉庫の際までが海であった。それに比べると、花園周辺は国道が貫き、百貨店も近くにあったので車で小樽を訪れる人々で賑わっていたとのことだ。だから、北一硝子は花園を一号店の出店の場所に選んだのであった。先に記述した、小樽の倉庫街。今となっては観光名所としてたくさんのガイドブックなどで取り上げられているが、最初に倉庫を再利用したのが北一硝子三号館であった
(写真4)。百年以上もの歴史をもつ由緒ある建物である。昭和四十年の衰退しつつある頃、「斜陽の町」と呼ばれた小樽の街を物語っているのが倉庫そのものであった。先人の残した文化を斜陽という言葉一つで終わらせてはいけない。この北一硝子に隠された、小樽を支えるという理念につながる。

(2)北一戦略
『感謝/奉仕』これが北一硝子における社是である。自分たちだけで生きてはならない。他の人があってこその自分。またそれが人としての生き方でもある。だからこそ他人へ感謝し、自分のできることを考えようではないか。この言葉を聞くと、北一硝子の存在意義そしてその意義が、浅原硝子への敬意を表しているかのように聞こえる。
 お客一人一人にガラスを小売りする北一硝子は、つぎつぎに店舗を増やしている。花園店、三号館、クリスタル館
(写真5)、さしすせそ、北一プラザ、VENINI、ミュージアムショップ、アウトレットと小樽で展開している。栄町を歩けば、そこは北一ワールドとでも言うように、北一硝子の店舗もしくは系列店がいたるところに目に入ってくる。集中しているのである。この一か所に集中させて展開すると、同じ北一硝子のお店が増えるだけではない。最近では、栄町周辺に類似の硝子細工屋や、土産屋が軒を連ねている。ガラスを扱うお店が増え続けているのだ
(写真6)。故に、売り上げが落ちるのではないかという事が懸念される。しかし、北一硝子側の答えとしてはNOであった。前述の社是にもあるように、自分の発展だけではいけない。なぜなら地域の発展なくして、自社の発展ではないのだから。地域の発展とは小樽の街の活性化である。かたくなに小樽のみの展開体制を崩さない、それは小樽にお客を呼ぶために、自らがその礎となり地域を盛り上げようとしているのだ。その戦略は自社の売り上げを重視するのではなく、増える同業者また他業者を含めて小樽という地域の価値をあげていく。だからこそ、増える競合の同業者は、「北海道にある小樽」に着てもらうために、また小樽での「ガラスの街」としての認識をより一層深めていくために大歓迎なのであった。さらに、北一硝子は小樽活性化のために、インフラ整備まで行っている。栄町近くにある駐車場を設置し、地域に貢献しているのだ。

第4章 ガラス工業の発展とこれから
 これまでガラス工業についてガラスの浮玉という漁具の栄光と衰退。そしてそこから発展した小樽のガラスについて、そのガラス業界を支えている浅原硝子製造所と北一硝子の二社を記述してきた。しかし、小樽の伝統を残す浅原硝子と小売りを中心に小樽の街の活性化に貢献する北一硝子だけではなく、現在小樽では様々な工芸ガラスの職人が芸術的な作品を残しているのだ。ザ・グラス・スタジオ・イン・オタルもそのひとつであり、またこここそが工芸ガラスを小樽に最初に持ち込んだとされている。このザ・グラス・スタジオ・イン・オタルが小樽で最初に拠点としたのが小樽市内の緑町二丁目のミナト産業跡であった。ミナト産業の前身は川口硝子製作所でガラスの浮玉を製造していたという。
ガラスの浮玉がプラスチックに変わると、人間の生活自体もプラスチックにまみれた生活になり、プラスチックの機能性を生かした、どこまでも利便性に富んでいるそんな贅沢を手に入れることができた。しかしプラスチックのような科学技術の賜物で手に入れたものは、どこか人造的で冷たいのである。人間は温かさを求めて、職人一人一人が丹精込めて作った工芸ガラスを求めたのかもしれない。この工芸ガラスの導入により、ますます「ガラスの街小樽」が浸透し、ガラス業界に勢いを与えたというのは言うまでもない。
 ガラスの浮玉は、本来の作用としては需要がなくなってしまった。しかし、「ガラスの街小樽」という世界に誇れる名前を残している。伝統として残す人がいて、それを売る人がいる。また、その伝統を生かして次の伝統につなげる人がいる。みなそれぞれの役割を担い、全ての人が小樽のために、ガラスと向き合っている。

謝辞
 本調査の取材に協力いただいた、小樽市漁業協同組合手島・高島地区区長 成田 正夫氏、浅原硝子製作所浮玉作り4代目 浅原 宰一郎氏、北一硝子花園店店長 松島 睦氏、他漁業協同組合の方々、小樽市総合博物館石川氏、小樽の街の方、ならびに調査レポートをご指導いただいた島村先生に感謝の意と代えさせていただきます。どうもありがとうございました。

参考文献
大石 章
 1998、「小樽ガラス物語」、大石章著、北海道テレビ放送
小樽市
浅原硝子製作所HP http://asaharaglass.com/
北一硝子HP http://www.kitaichiglass.co.jp/