関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

小樽と蒲鉾

中野美菜

はじめに

小樽は地理的な好条件などから、蒲鉾産業が発展してきた。昭和30年代後半には、技術革新などに伴い、蒲鉾店は小樽全体で約70店にのぼった。しかし、その後200海里問題、食品添加物問題をはじめとした問題や、日本人の食文化の変化によって蒲鉾店は衰退の道をたどってきた。現在、小樽市には13社の蒲鉾店があるが、今回このうち2軒から聞き取り調査を行った。本研究は、その情報や文献を元に調査を進めた。

第1章 蒲鉾店の成り立ち
(1)かま栄
 かま栄は、明治41年に創業を開始した小樽でも老舗の蒲鉾店である。現社長の父、佐藤仁一さんは明治31年新潟県西蒲原郡巻町にて佐藤興兵衛・マスの次男として生まれ、明治45年新潟から小樽へ移住し、今井呉服店の小樽店に入社している。昭和2年には中村千恵さんと結婚の後、四男一女をもうけた。この佐藤仁一さんが合資会社かま栄商店の経営に参画したのは昭和8年のことだった。当時丸井函館店の副支配人をまかされていたが、かま栄の宮崎代表社員から誘いを受け、丸井を退社してのま栄の経営に参画することになった。同年代取締役社長に就任した。このように、北海道(小樽)には新潟から丁稚奉公で渡ってきた人も多い。実際に、小樽の蒲鉾店社長で新潟から丁稚奉公で小樽へ移住した人も存在している。それぞれ、創業のきっかけは違うにせよ、新潟出身という共通項がある場合も少なくない。

(写真1 かま栄工場直売店)

 次に、かま栄での蒲鉾製造の過程について触れておく。まず原材料はワラズカと、米国産のスケトウダラを使用している。主原料の魚には、とことんこだわりがあり、北米産スケトウダラ以外にも、季節や天気などさまざまな状況に対応して、ミナミダラやイトヨリをブレンドして使用している。この原材料である魚肉(具材である野菜なども)を、機械ですり潰し、丹念に練り上げる作業のことを①擂潰(らいかい)という。この段階で製品ごとの味付けも行う。まず大まかに練った後、1時間ほど石うすですっていくのだが、この工程がとても重要となるため、長年この作業を行っている人が担当している。

(写真2 擂潰の作業の様子)

次に、②成型を行う。かま栄では、この工程も全て人の手で行っており、グラム合わせや形を均一にそろえる技は、長年の修行が必要となってくる。この工程で一人前になるには、最低5年はかかると言われていて、できなかった場合はまた違うところでの修行が待っている。熟練の方となると、何十年もこの成型を行っているという。この作業にも、かま栄のこだわりがあり、機械で型にはめると、おしこむ感じ(触感、舌触り)などが違ってくるのだという。時間や人件費もかかるが、手作業にこだわり続けている。
(写真3 成型の作業の様子)

第3の工程が、③加熱( 蒸す・焼く・揚げる)である。かま栄本社工場では、蒸した後冷やす工程まで行い、その後各店舗へ出荷される。その後、各店舗ごとに揚げるなどの作業を行っている。加熱はそれぞれの製品・素材に最適な方法で、かまぼこ独特の触感やうまみが引き出されるようになっている。このような方法で、かま栄の蒲鉾製造は行われている。この蒲鉾の特徴としては、添加物は使用しておらず、良質な白身魚を使用し、余分な血や脂肪をきれいに取り除くことで、透き通るような白い蒲鉾ができる。また、独特の歯ごたえや弾力もある。魚肉を食塩と一緒にすりつぶすと、たんぱく質が溶け出して網目状み絡み合ったペーストができる。これを加熱することで網目構造がさらに強くなり、独特の弾力が生まれる。

(写真4 蒸しあがった蒲鉾)

 創業当時(昭和初期)の小樽はまさに黄金時代であった。花園大通りをはじめ、商店街はさまざまな店が軒を連ね、蒲鉾店も鰻上りで増えていった。30年代後半から40年代にかけて、冷凍すり身技術の革新等により蒲鉾店はピークに達した。冷凍すり身技術は、それまで食用向け利用度の低かったスケトウダラの活用分野を大幅に拡大、北洋漁業の勃興をもたらしただけでなく、その後の技術革新と品質の向上によって、蒲鉾製品のあらゆる等級に使い分けされ、その利用範囲を急速に広げた。とくにその安定して品質と供給は、産地の原料転換を推進し、地元の労働力不足、廃棄物処理問題を解消した。
 この時代は、すり身を切る工程から自社の工場で行っていた。原料は、カレイ、ヒラメなどの白身を使用していたが昭和50年代、200海里問題(排他的経済水域)でスケトウダラが全くとれなくなってしまったのだ。かま栄でも、スケトウダラを使用していたので、安定供給が難しくなり大打撃を受けた。そこで、北米(アラスカ産)のスケトウダラを使用することを思いついたのだという。スケトウダラの特徴は、アミノ酸が強く、日が経つと適さない。また、消費者のイメージ的には「日本産」を使用した方がいいのだが、実質的には質の高いものを使おうと、今でも北米産をあえて使用している。
最後にかま栄の特徴を挙げる。かま栄は小樽で最も古い蒲鉾店で、本社を含め9店舗と、店舗数的にも1番多い。また、高級生産でブランドイメージも強いため、観光客のニーズも高いといえる。


(2)大八栗原蒲鉾店
 大八栗原蒲鉾店は、明治39年に創業を開始し現在は3代目である。創業者の栗原八郎は、かま栄の一番職人として働いていた。その後、本州での展開を考え当時小樽で誕生した「角焼き」を長野へ地方発送を行った。これが、現在の大八栗原蒲鉾店の礎となっている。
 現在のご主人(栗原康さん)が中学生だった頃、限界を感じたため、合同で経営していた大八栗原蒲鉾店を解散した。金銭的での遣り繰りが難しくなり、破産に近い状態まで追い詰められたからだった。しかし、その後、栗原康さんの祖父の援助もあり3〜4年で営業再開を果たした。栗原康さんは、幼い頃から店で働く両親を見て育ったため、自然と自分も後を継ぐものだと思っていたのだという。高校生の頃から、包装やだて巻きを焼いたり、揚げる手伝いをしていた。しかし、実際に店を継ぐという頃、店の帳簿を見て経営状態等に大変驚いたと話を伺った。また、函館にも蒲鉾店が多数あるのだが、蒲鉾店のレベルの違い(取り組み方、真摯な姿勢)を見て、追いつけないと悲嘆した時代もあったという。それに触発されつつ、追いつき発展していかなければならないと思い、この20年間、懸命に努力を重ねてきた。20年の間に問題を解決しながら、いかに良いものを作っていくか試行錯誤してきた。
 先代の時代には、原料はかつて安かったカレイやヒラメを使用していた。現在は、スケトウダラを主に使用している。また、栗原蒲鉾店では国内産の生すり身を使用し、ソフト感を出している。最大のこだわり(特徴)としては、無でんぷんの蒲鉾であることだ。北海道では栗原蒲鉾店だけだ。でんぷんを使用しないと、水が外へ出てしまうので、実験を繰り返し、無でんぷんに成功した。それだけではなく、無リンの冷凍すり身の入荷を行っている。普通はリンを入れて、ゼリー強度を高めるのだが、ストレスに対してとても弱いものになってしまう。その為、栗原蒲鉾店では無リンのすり身をオーダー生産している。
 栗原蒲鉾店の客層は、地元・小樽の人が50%、北海道の他市の人が50%である。リピーターが多く、味が美味しいと口コミで広がりを見せている。小樽市で3店舗を展開しており、市場にあることからも分かるように、地元型の蒲鉾店だといえるだろう。

(写真5 南樽市場内の大八栗原蒲鉾店)

(写真6 店頭に並べられている蒲鉾。夕方になると売り切れの物も多い)


第2章 水と蒲鉾
(1) 水
 蒲鉾産業が発展する条件として、海が近いなどの地理的条件が挙げられることが多いが、水も重要な役割を果たしている。実は、水がきれいで美味しいところで蒲鉾は製造されることが多いのだ。なぜなら、蒲鉾を製造する工程で「加水」と呼ばれる作業(すり身を足す)がある。また、魚の内臓を洗うなどさまざまな作業の中で水を使用する。そのため、水の重要性は高く重要なのである。小樽では、勝納川から奥沢水源の水が家庭に流れている。一般的に、とても水がきれいで美味しいといわれているのだ。水には、硬水・軟水、pHなどの要素がある。それぞれの蒲鉾店にこだわりがあるが、水に関しても独自の工夫がなされていることも多い。普通の水道水でも、勝納川から奥沢水源の水なので、他の地域よりも水がきれいで美味しいのではないだろうか。また、小樽以外では小田原の蒲鉾製造は富士山の水が使われている等の実例もある。


(2)大八栗原蒲鉾店と井戸
  大八栗原蒲鉾店では、水のこだわりが高じて井戸を掘ったことがあった。水道水は、塩素等で殺菌されているため、どうしても僅かながら苦味が出てしまうのだという。また、水道水は軟水だが蒲鉾製造には硬水(井戸水)の方が適していると考えていた。硬水にはカルシウムが含まれる等の適性が見られるのだ。
 現在のご主人の、祖父・父の代まで井戸水を使って蒲鉾製造を行っていた。井戸が3本もあって、そこから水を汲み蒲鉾を作っていたという。蒲鉾製造に対して、相当なこだわりがあったことがうかがえる。そして、現在のご主人はその時代に食べていた蒲鉾の味(触感・風味等)が忘れることができず、今から3〜5年前に深井戸を掘ることを決意した。井戸を掘るには相当な費用がかかったが、やはり井戸水は甘味があり、蒲鉾製造には最適だとご主人は完成を喜んだ。しかし、完成から1年余りで井戸は使用できなくなってしまった。定期的に行われる、井戸水の水質調査で、不純物が混ざっているのが判明したからだ。やはり、水道水に比べると井戸水は、地下から汲み上げることもあって不純物などが混ざってしまうことがあるのだ。また、現在は昔(先代の時代)に比べて、かなり調査基準等が高くなったこともあり、井戸水を使用することは不可能になってしまった。このような問題から、井戸水を使用した蒲鉾製造は今では幻となってしまったが、水が蒲鉾製造の過程で重要だということが改めて証明された。 


第3章 鰊場労働と蒲鉾
 小樽といえば、鰊漁がかつて栄えたことで有名である。一般的には、鰊と蒲鉾には直接的な関係がないといわれているが、以外な繋がりに着目した。ここでの繋がりとは、原料等ではなく労働市場での関係のことである。
鰊漁は明治から大正にかけて、北海道の日本海沿岸各地で最も盛んに行われていた。漁期は3〜5月で、雇いの漁夫や手伝いの人々で集落は一挙に人が増えていた。浜も鰊の運搬や加工を担った出面の人たちや物売りで大変な賑わいを見せていた。この鰊漁の発展は、小樽経済を活発化させ、鰊産品を扱う海産物商が多かったことは蒲鉾の販路拡大にも影響があったようだ。
 また、最大の着目点は加工場で働くおばさん達が、鰊漁と蒲鉾製造で同じだったという説だ。鰊漁の最漁期は、春先の3〜5月である。かつて、漁獲高の最高を記録した大正14年は、約7万5000石というとてつもない数の漁獲量である。その鰊を、さばくという作業は並大抵のものではなかったという。それに比例して、加工場で働くおばさん達の数も増えていった。その鰊をさばくという作業は、蒲鉾(スケトウダラ)をさばくことにも応用できる共通の技術もあったのだろう。蒲鉾の原料であるスケトウダラは、冬に最漁期を迎える。冬になると、春先に鰊をさばいていた加工場のおばさん達が、今度は一斉にスケトウダラをさばいていたということが考えられる。とてつもない量の鰊をさばいていたおばさん達にとって、スケトウダラをさばくのは容易なことだったのかもしれない。しかし、上記で述べたようなことが必ずしも全て起こっていたとは限らない。鰊と蒲鉾では加工屋が基本的に違うといったような話も聞かれえる。
 最後に、労働市場以外での鰊と蒲鉾の関係について触れておく。小樽の名産といえば、やはり鰊を想像する人が多いということもあってか、かつて鰊を用いた蒲鉾を作ることができないかと考えた人もいたという。実際に、すり身にして実験を行ったが、油が多く蒲鉾には適さなかったため断念した。現在では、今まですり身にしてこなかったものを、蒲鉾に使用してみようという動きも多数見られている。


第4章 「小樽の蒲鉾」の現在
 冒頭でも触れたように、現在小樽には13社の蒲鉾店しか残っていない。最盛期には70社近くあった蒲鉾店は、さまざまな問題や日本人の食文化のシフトにより減少したと述べたが、自然と淘汰されていったという背景もある。
 13社の蒲鉾店は、自然とバランスができている。例えば、ニーズもそれぞれの蒲鉾店によって違う。今回取り上げた2店は、かま栄は観光客向け、大八栗原蒲鉾店は地元向けの商品を取り扱っている。また、同じデパートには1つの蒲鉾店しか入っていないのだ。他の地域を見てみると、小田原では同じような商品を競合しているのだという。しかし小樽では、13社が助け合える存在で、互いが共存しあって良い関係を築こうとする取り組みが見られた。逆に、そのような取り組みや精神がなかった蒲鉾店は自然と淘汰されてきたのではないか、と栗原蒲鉾店のご主人は話していた。
 近年では、日本人の食文化が欧米化してきたこともあって急速に蒲鉾離れも進んでいる。実際に、生産量・消費量ともに減少を続けている。しかし、今回小樽の蒲鉾店を取材して、13社が互いに協力し合い蒲鉾の発展に力を注いでいるという現状が見えた。

 最後に、本研究に際して様々な方にインタビュー等の協力をしていただきました。かま栄の佐藤元彦さん、大八栗原蒲鉾店の栗原康さん、小樽市総合博物館の石川直章先生、貴重な時間を割いて調査に協力していただきありがとうございました。その他、調査に協力してくださった全ての方々に心から感謝の気持ちと御礼を申し上げたく、謝辞にかえさせていただきます。

文献一覧

岡部一利
1984年 『森市一代記』、菱重印刷株式会社

特定非営利活動法人 歴史文化研究所
2008年 『おたる旅案内 小樽観光大学校 検定試験公式テキストブック』

株式会社かま栄
2005年 『株式会社 かま栄 創業百周年沿革誌 百年物語「粋」』
      工場見学パンフレット 
      『樽蒲の歩み』、小樽蒲鉾工業共同組合 

大八栗原蒲鉾店HP
http://www.dai8kurihara.net/