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関西学院大学社会学部 島村恭則ゼミ

2011-02-14

オタモイの記憶―遊園地と地蔵―

| 14:08

宮下毬菜


はじめに

 オタモイ海岸は、小樽市の北西部にあり、高島岬から塩谷湾までの約10kmに及ぶ海岸線の一部で、付近には赤岩山(371m)など標高200m前後の急峻な崖と奇岩が連なっている。一帯は昭和38年(1963年)ニセコ積丹小樽海岸国定公園に指定され、祝津・赤岩海岸とともに雄大な景観を誇り、訪れる人々を魅了している。

 断崖絶壁の中腹に、龍宮閣、弁天閣、弁天閣食堂など龍宮城に模した建物を、小樽市内の料亭「蛇の目」の経営者、加藤秋太郎が建築した。最盛期には1日数千人の人々で賑わったこの施設も戦争が始まると贅沢とみなされ客足が遠のき、戦後、これからという昭和27年(1952年)5月9日、午後4時26分、かまどの火の不始末により出火し、焼失した。

 また、オタモイには「子宝地蔵」として近年まで多くの参拝者が訪れてきた「オタモイ地蔵尊」が存在する。

 今回の調査は、加藤秋太郎はなぜこのような崖に遊園地を造ったのか、また焼失後なぜ復興しなかったのか。また地蔵尊はなぜ子宝地蔵と言われるようになったのか、近年の地蔵の信仰の実態はどのようなものだったのか。という疑問を解決することを目的に行う。


第一章 夢の跡 オタモイの地

(1)加藤秋太郎

 加藤秋太郎は昭和2年(1869年)10月23日に、愛知県知多郡大府町字江端にて誕生した。16歳で上京し、いくつかの職を経て浅草の「蛇の目寿司」で修業、明治37年(1904年)同店で知り合った松本きんと結婚した。秋太郎35歳、きん16歳であった。

 翌明治38年(1905年)韓国京城に渡り、南大門外に寿司店を構えた。同年韓国保護条約が結ばれ統監府がおかれ、日本式の寿司は大いに喜ばれたという。明治39年(1906年)2月、長男龍男が誕生するも26日死去。また秋太郎は山林の売買の話に乗り大きな損失を被った秋太郎は店を手放し、同年秋日本に引き揚げてきた。

 明治41年(1908年)の夏、秋太郎ときんは小樽へやってきた。日露戦争後のポーツマス条約南樺太が日本の領土となり、当時の小樽樺太へ渡る船を待つ人々で大変賑わっていた。その時、樺太行きの連絡船待ちで宿泊していた稲穂町の旅館「加賀屋」の主人が、秋太郎に小樽で商いをすることを勧めた。秋太郎は樺太行きを中止し、花園町で「蛇の目寿司」を開店した。幸い店は繁盛し、2年後には花園第一大通りに新店舗を構えることができた。この店も大変繁盛し、秋太郎は蓄財をなす。

 明治44年(1911年)1月、男子誕生、多喜雄と命名した。地主の山の上町の猪股さんのご厚意で、敷地も次第に大きく使うことができるようになった。大正10年(1921年)には増改築を終えた。販売品目も寿司を主として様々な種類の料理を扱うようになり、店名も「蛇の目」と呼ぶようになった。大正14年(1925年)2月、次男誕生、金秋と命名。店にスチーム暖房や本格的なボイラーを設置したり、小樽で最初のネオン看板を掲げたりと、秋太郎は新しいもの好きであった。

 昭和7年(1932年)頃、「蛇の目」に料理用の鯉を納めていた長橋の広部養鯉園の当主が、近郊の赤岩に続いてオタモイという景勝の地があることを秋太郎に話した。この時秋太郎は62歳。秋太郎は、小樽を訪れる観光客の多くが日帰りなのは、じっくり時間をかけて見るところが無いためだと考えていた。また、小樽を案内した知人にはもっと名勝地はないのかと言われることもあり、小樽に名所を出現させたいという夢を持っていた。

 オタモイの地に惚れ込んだ秋太郎は、まず連絡用の自動車が必要と考え、多喜雄を東京蒲田の日本自動車学校に通わせた。これは自動車運転手を雇うにしても経営者としてそれに対する知識や腕を持っていなければならないという秋太郎流の考えからであった。

 昭和7年(1932年)秋に下見をし、設計に入り、建設工事は昭和8年(1933年)3月から始まり、10月に上棟式が行われた。そして昭和9年(1934年)夏、龍宮閣が完成、翌10年の6月には遊園地が完成し、開園式が行われた。龍宮閣、弁天閣(弁天食堂)、白蛇弁天堂(弁天拝殿)、演芸場などから成るこの遊園地は盛況し、日々数千人の人々が訪れた。

 昭和12年(1937年)、長男多喜雄は軍隊へ召集され、オタモイを離れる。次男金秋は陸軍の技術研究所に軍属として勤務となり、小樽を離れた。そして昭和14年(1939年)春、演芸場が豪雪のため倒壊。弁天閣は昭和15年(1940年)閉園後、南側斜面の大規模な地滑りのため海岸まで押し流されてしまう。昭和16年(1941年)頃から戦争が激しくなり、オタモイ遊園地に足を運ぶ人は少なくなっていった。「蛇の目」も資金不足で営業が困難になり、秋太郎はオタモイ遊園地を手離した。

 そして営業開始目前の昭和27年(1952年)5月、龍宮閣は焼失する。原因は定かではなく、様々な説があるが、今回調査に協力していただいた村上洋一さんはかまどの火の不始末が原因だとおっしゃっていた。

 秋太郎は龍宮閣焼失の2年後、昭和29年(1954年)11月22日、86歳でこの世を去った。きんは昭和36年(1961年)3月2日、76歳で生涯を終えた。

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写真1 オタモイ遊園地観光案内

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写真2 龍宮閣で着ていた法被

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写真3 彩色八角皿 龍宮閣で使用したといわれる。中央の文様は「蛇の目寿司」の印。


(2)オタモイ遊園地の記憶

 小樽市産業会館でイベントが開催されており、そこでお話を伺うことができた。小樽市民の大竹田鶴子さん(83歳)によると、何度かオタモイ遊園地を訪れたことがあり、演劇場へ芝居を見に行ったのをよく覚えていると話してくれた。また、遊園地が目的ではなく海岸で遊ぶのを目的にオタモイを訪れ、そのついでに地蔵をお参りして帰ることも多かったという。約70年前は地蔵にお参りする人が多く、行列ができ混んでいたが、現在は地蔵にお参りをすることもなく、最後にお参りをしたのは通行止めになる前だそうだ。通行止めになったのは平成19年(2007年)7月のことである。地蔵については、子どもができる、お乳が出るようになるという噂があったことは有名だったが、お参りをした当時は子どもだったのでそのような願いをかけたことはないとおっしゃっていた。

 現在の地蔵の信仰については、自分は信仰していないのでよく分からない。周りに熱心に信仰している人はいないとのことだった。

 また、オタモイ地蔵尊の参詣人の多くが遠方から来ていたことから、その案内として国道と列車からよく見える場所に案内門として唐門が建てられた。昭和7年(1932年)、オタモイ入口の奥の現オタモイ郵便局のあたりに市道をまたぐ格好で建立され、昭和54年(1979年)秋、オタモイ海岸途中の現在の位置に移転された。

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写真4 現在の唐門

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写真5 唐門の案内



第二章 断崖絶壁の地にたたずむ3000体の地蔵

(1)オタモイ地蔵とは

 別名「子宝地蔵」といわれ、子宝に恵まれない夫婦に根強い人気がある。建立したのは、忍路、高島場所の場所請負人であった西川家で、神威岬の難所で沈んだ船人の霊を弔うため、地蔵碑の建立を発願したのに始まるといわれている。水難事故が多く、初めは6体の地蔵が祀られた。

(2)「子宝地蔵」とされるまで

―語り継がれる悲話―

元禄四年松前藩は西部神威岬以北へ婦女の通行するを禁ず」(道史年譜)

 松前藩は、神威岬から北の通行を女人禁制とした。それは神威岬の先端には嫉妬深い女神がいて、沖を通る船に女人が乗っていると必ず激しい風と高い波浪で船が沈められると信じられていたことに由来する。越中(現富山県)高岡在住の医者の一人娘には、親の反対で無理やり引き離されてしまった心を寄せる若者がいた。若者は故郷を捨て、当時としては生きて帰れるかも分からない北の果て、西蝦夷地に渡っていった。残された娘には命が宿っており、恋人の後を追って魚津(現富山県)の港に寄港した北前船の積荷の間に身を隠して旅を続けた。しかし神威岬の沖まで来ると天候が悪化し、海は大荒れとなった。この時隠れていた娘が出てきて、「この海神の怒りは、禁制を犯してここに乗り込んだ私のせいです」と、荒れ狂う波間に身を投げてしまったという。たちまちに海の様子は穏やかになったが、娘の姿はどこにも見えなかった。そして昭和22年(1847年)4月24日の朝、波にはだけた胸乳から白く乳が滲み出た妊婦の亡骸がオタモイ海岸に打ち上げられた。この悲恋の物語を聞いた忍路漁場第七代支配人の西川徳兵衛は、郷里の近江の国で御影石の地蔵尊を刻ませ、このオタモイの高台に祀ってこの妊婦を供養した。

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図1 高岡市魚津市の位置(http://www.mapfan.com/kankou/16/jmap.htmlより)

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図2 神威岬の位置(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93より)

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写真6 神威岬(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%A8%81%E5%B2%ACより)

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写真7 女人禁制の門(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%A8%81%E5%B2%ACより)


以上の悲話が最も有名だが、他にもいくつか説がある。

【1】オタモイ海岸に打ち上げられた娘を、付近の漁師たちが小さなお堂を建てて葬った。お堂を建てた漁師のひとりに松蔵という若者がおり、彼は郷里越後に妻を残してオタモイに稼ぎに来ていた。この夫婦は子宝に恵まれず、松蔵は毎日のようにお堂の地蔵に子供が授かるようにと祈願していたところ、後日帰郷後めでたく子宝を授かったという。この話が広く伝わり、「子宝地蔵尊」と呼ばれるようになった。

【2】忍路、高島の場所一帯を請け負って大変な財を成した西川徳兵衛が、海への感謝と神威の海で命を失った人々を弔うため、嘉永元年(1848年)、100体の地蔵尊の建立を発願した。後年西川家11代西川吉之輔が先代の残した古文書でこのことを知り、探索の末6体を発見することができた。そのうちの1体がオタモイ地蔵尊である。

【3】明治26年(1893年)頃、鹽谷村山印金澤佐市の妻イワは、娘を育てるのに乳不足で悩んでいた。ある時、「オタモイ地蔵尊を祈ればお乳が泉の如く出るだろう」との御告げがあり、その翌朝から熱心に信仰を凝らすとたちまちたくさんの乳が出るようになった。イワはこの話を口にはせず、郵便を使って知らせたが、その噂はすぐに広まり、大勢の信仰者が訪れるようになった。自ら真似て作った地蔵尊を持参して奉納する者も多かった。

【4】津軽のある男の妻は出産後乳が出ず、オタモイ地蔵尊に祈願して乳が出た。

【5】稲穂町の農家の嫁がオタモイ地蔵尊に祈願したところ、乳が出すぎていたため怨みの言葉を放つと乳が止まってしまった。再び懇願すると、乳が出るようになった。

【6】鹽谷村山印金澤長太郎の息子は、普段からオタモイ地蔵尊信仰していた。彼が在学中のある日、難しい試験において奇跡的な救いを受けて通過することができた。

 以上のように、オタモイ地蔵尊が「子宝地蔵」とされるのには様々な説が存在する。オタモイ海岸に打ち上げられた娘のためにつくられた地蔵、西川徳兵衛が建立した地蔵、どちらが先にできたものかの真相は分からない。また、「子宝地蔵」といわれるようになった由来も、どれが最初かは分からない。以下は、長らくオタモイ地蔵尊の堂守をされてきた村上洋一さんによる説明である。

 「地蔵が建立された当時は娯楽と呼べるものがなく、地蔵に参拝することも「娯楽」のひとつであった。多くの人が地蔵尊を訪れ、乳が出るのを望む者、勉強がよくできるよう望む者、金が欲しいと望む者と、その願いは様々で、当時は食糧事情が悪く精神的に良い状態ではない者も多かったが、地蔵を参ることで気持ちが穏やかになった。そして参拝したうちの1人である乳が出るのを望んだ者に、精神の状態が良くなったため無事に乳が出るようになると、「オタモイ地蔵尊に祈願すれば乳が出るようになる」という言い伝えとなって広まった。言い伝えられるうちに話は変わり、いつの間にか「オタモイ地蔵尊に祈願すれば子どもができる」といわれるようになった。海岸に打ち上げられた娘の悲話は分かりやすい内容であり、同情されることもあって、オタモイ地蔵尊の言い伝えと結びつき、現在のような言い伝えとして広まったのではないか」。

(3)オタモイ地蔵尊信仰

 オタモイ地蔵尊信仰の方法について。まず地蔵尊の下の海岸から石を1つ拾い、地蔵の前に置いて願い事をした。願い事が終わったらその石を持ち帰り、撫でた。のちに子どもを授かったら(願いが叶ったら)、再びオタモイ地蔵尊を訪れ、もう1つ石を拾い、持ち帰った石と合わせて2つの石を地蔵の前に置き、帰った。そして、毎年6月24日と10月24日に日蓮宗のお坊さんがお祓いのために訪れ、お祓いが終わると地蔵の前に置かれていた石を全て海に返すことになっていた。

(4)オタモイ地蔵尊のいま

 昔は多くて1日に何百人もの人が訪れたオタモイ地蔵尊も、現代ではそのような活気はなくなった。しかし数年前まで根強い信者も一定数いたといわれている(具体的な数字を聞くことはできなかった)。ただし、平成18年(2006年)4月、オタモイ遊歩道で土砂崩れが起きたことから、翌平成19年(2007年)7月、遊歩道が通行止めになり、現在、オタモイ地蔵に行くことはできなくなっている。したがって、現在、オタモイ地蔵への立ち入り、参拝は不可能である。本調査でも、立ち入りは不可能であった。

 参拝が可能だった頃には、自ら真似て作った地蔵尊を持参して奉納する者も多く、およそ3000体の多種多様な地蔵が納められている。訪れる信者は、子宝地蔵といわれるからか女性が多く、50歳過ぎの人が多かった。また、その季節は春と秋が大半で、夏は少なく、冬は雪が積もって道が通れなくなってしまうため少ないが、何人かの信者は冬にも訪れていた。

 高齢化や怪我や病気のために地蔵尊を訪れるのが困難になってしまった信者は、持ち帰った石を堂守の方宛てに郵送することで、信者の代わりに堂守さんが石を納めてくれた。持ち帰った石は必ず地蔵に返さなくてはいけないというきまりがあるが、期限などはなく、信者が亡くなってしまうまでに石を返せばよかった。今後高齢となり訪れることができなくなりそうな信者から、堂守さんに住所を教えて欲しいと言われることが多かったので、10年ほど前に電話帳に登録した。電話帳の「オタモイ地蔵尊」の欄には堂守さんの電話番号が掲載されている。また、海で拾う石にも特にきまりはなく、自分の手に馴染む、撫でやすい石を選べばよい。信者の宗派は様々で、初めは子どもが欲しくて地蔵を訪れるが、2回目以降は自分の心を穏やかにするために参拝する人が多かった。

 また、産婦人科不妊外来の病室でオタモイ地蔵尊の言い伝えが掲示されていたり、患者のコミュニケーションツールとして自由に書き込んだり読んだりすることができるようなノートが設置され、オタモイ地蔵尊の言い伝えが書き込まれていたりして、それを見て新しく訪れる人もいたという。信仰の方法を知らない人には堂守さんが教えていた。


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写真8 海岸付近の看板 「当代一を誇った夢の里、オタモイ遊園地跡」

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写真9 看板を拡大 オタモイ遊園地について

 

おわりに

 加藤秋太郎が創ったオタモイ遊園地は、現在では何の跡形もない。また、オタモイ地蔵尊が子宝地蔵として毎日多くの人が参拝に来ていたのも昔の話である。しかし、遊園地が盛況を成した話は現在も人々の記憶に残り、次の世代に語り継がれている。オタモイ地蔵尊には近年まで信仰者が訪れ、子宝地蔵と言い伝えられてきた。

 秘境景勝地、オタモイ海岸。これからも美しい自然で溢れる場所として残ってほしいと思う。


謝辞

 本調査にご協力いただいた、オタモイ地蔵の堂守の村上洋一氏、小樽市民の大竹田鶴子氏、小樽市総合博物館石川直章先生、佐々木美香先生、大勢の小樽市民の方々、ならびにご指導いただいた島村恭則先生、佐野市佳先生に感謝の意と代えさせていただきます。本当にありがとうございました。


文献一覧

小樽市立幸小学校PTA文化部郷土誌係編集『オタモイ・幸地区の昔を中心とした郷土誌』1982年小樽市立幸小学校

阪牛祐直『オタモイ地蔵尊の由来』1933年小樽出版協會

小樽市小樽市史』図書刊行会

小樽市総合博物館で閲覧させていただいた資料


参考URL

小樽観光 樽樽源(http://www.public-otaru.info/index.html)

小樽ジャーナル 2007年7月8日(http://otaru-journal.com/2007/07/post-1829.php)

雑記帳(http://www14.plala.or.jp/oss010/index.html)

北海道観光研究所 北杜の窓(http://www.hokutonomado.com/index.html)

北海道観光タクシー山崎(http://www12.ocn.ne.jp/~kouhei/index.html)

Wikipedia 北海道(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93)

Wikipedia 神威岬(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%A8%81%E5%B2%AC)

富山県行政界地図(http://www.mapfan.com/kankou/16/jmap.html)