関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

エビスのまち深堀の信仰と伝承

社会学部 伊藤美尋
【目次】
はじめに
第1章深堀の歴史と空間
第2章エビス
(1)波止エビス
(2)浜エビス
(3)屋敷エビス
第3章亀王と有王
第4章龍宮社と公民館
第5章金比羅神社
第6章「恵比須でまちづくり」
結び

参考文献
謝辞

はじめに
 エビスは七福神の一人で、商売繁盛・大漁祈願の神として広く知られている。エビスを祀る神社は全国に約3000社あり、その本社は兵庫県西宮市にある西宮神社である。
 長崎県長崎市深堀町は、エビスを町全体で祀っている。そのエビスはひとつひとつカラフルに色が塗られている。本調査では、深堀町を調査地とし、カラフルなエビスが並ぶ町の信仰と伝承について調べた。

第1章 深堀の歴史と空間
 深堀町は長崎外港南岸の城山北麓に位置し、東は末石町・竿浦町、北西は西彼杵郡香焼町、南は大籠町に接する。町域の大半は住宅地である。当町の鎮守は猿田彦命・天細女命を祀る深堀神社で、深堀氏開祖深堀(三浦)能仲を祀る三浦神社ほか2神社も境内にある。6月第2日曜日には江戸期からの伝統行事ペーロン競漕(1)がある。現在は深堀町1丁目から6丁目と大籠町が、16の自治会に分かれている。(「角川日本地名大辞典」編纂委員会、1987)
 深堀町には縄文時代から人が住み、漁業と畑作で生活していた。1255年、三浦能仲が上総国深堀から地頭としてこの地に着任し、当時戸八の浦と呼ばれていたこの地を深堀と改めた。
 1588年深堀藩主の純賢が、長崎港入口で海賊行為をしたとされ、豊臣秀吉に城をつぶされた。その際佐賀藩鍋島直茂が身元を引き受け、純賢は嘉瀬に蟄居する。翌年純賢は、許されるが、深堀には戻らず、1592年と97年に鍋島の家中として朝鮮へ出兵した。その後鍋島公のすすめで、姓を鍋島と改めた。このように深堀は佐賀藩と密接な関係にある。
 1968年、深堀、香焼島間が埋め立てられ、深堀と香焼島は陸続きになった。その後三菱重工が臨海部に工場を進出。削り取られた山手には、三菱重工の社宅や住宅団地ができた。

図1−1深堀町

図1−2旧海岸線(黒い線)

第2章 エビス
 深堀のエビスは佐賀から伝わってきたといわれている。1615年ごろ、深堀は佐賀藩深堀領となっており、佐賀から多くの家臣や要人が来ていた。領内の各地から物資を取り寄せるために造られた御蔵内港の波止崎に、漁師たちが鳥居を建て、エビスを祀ったのが深堀エビスの始まりとされている。(峰松巳氏提供資料)
 では、なぜエビスに色を塗り始めたのか。深堀のエビスは砂岩でできているため、非常に崩れやすい性質がある。そのため、明治時代ごろエビスを守るために祠を造った。祠を造ることができなかったところでは、漁師たちが船を塗るペンキの余りで、色を塗るようになった。これが深堀のカラフルなエビスの始まりである。鎖国時代、深堀の菩提寺付近には、多くの中国人が住んでいた。菩提寺にある十六羅漢像は青や白の色が塗られている。深堀の漁師たちがエビスに色を塗り始めたのは、この中国の文化が入ってきているのではないかと考えられている。

写真2−1色を塗られたエビス

写真2−2菩提寺十六羅漢
 現地ではエビスを「波止エビス」、「浜エビス」、「屋敷エビス」の3種類に分けている。以下にそれぞれの特徴と、どのようなエビスがあるのか述べる。
(1)波止エビス
 波止エビスとは、波止場に祀られているエビスのことである。新地波戸エビスと古屋敷波止エビスの2つがある。どちらも祠が造られており、エビスに色は塗られていない。毎年9月13日にエビス祭が行われている。

写真2−3新地波止エビス(右2つ)

写真2−4古屋敷波止エビス
(2)浜エビス
 浜エビスとは、浜に祀られているエビスのことである。舟津浜エビス、鍛冶町浜エビス、永江浜エビス、亀ヶ崎浜エビス、女島浜エビスの5つがあり、すべて色が塗られている。基本的には浜エビスのエビス祭が行われる8月20日に合わせて色が塗られるが、5つそれぞれに塗り方や塗る時期が少し異なっている。女島浜エビス以外の4つはそれぞれ自治会が管理している。
1.舟津浜エビス
 舟津浜エビスは毎年エビス祭の3日ほど前から、子ども会の子供たちの手によって色を塗られる。同時に、舟津に住む人々は屋敷エビスを持ち寄り、一緒に色を塗ってもらう。このように浜エビスも屋敷エビスも一緒に色を塗るのは、舟津だけだそうだ。現在、舟津浜エビスの色はオレンジ色であり、これは舟津のペーロンの色と同じである。舟津のエビス祭では子ども会主催の下、夏祭りやバザーなどが行われる。

写真2−5舟津浜エビス
2.鍛冶町浜エビス
 通常エビスは腹の部分に三つ葉の紋(2)が書かれていることが多いが、鍛冶町エビスには羅針盤を模した模様が書かれている。このことについて「恵比須でまちづくり部会」部会長の峰松巳氏は次のように語っている。「鍛治町のエビスも、もとは三つ葉の模様だった。いつごろからか白くして羅針盤の絵柄に変えた。エビスさんは雨の日も風の日も黙ってずっと座って、笑顔でみんなに知らせている。商売繁盛、大漁祈願、人生を知らせている。人生は確かな羅針盤を持って生きていく。希望のある羅針盤をもちなさいと教えている。」
2014年、鍛冶町浜エビスは、鍛冶町のペーロンの色と同じ紫色に塗り替えられた。

写真2−6鍛冶町浜エビス

写真2−7羅針盤を模した紋
3.永江浜エビス
永江のエビス祭は長らく行われていなかったが、2014年に復活した。8月20日の1か月ほど前から、自治会長の平田憲一郎氏によって色が塗られた。

写真2−8永江浜エビス
4.亀ヶ崎浜エビス
 亀ヶ崎浜エビスは袴の部分が縞模様になっており、亀ヶ崎の屋敷エビスもほとんどが同じ縞模様になっている。

写真2−9亀ヶ崎浜エビス

写真2−10亀ヶ崎の屋敷エビス
5.女島浜エビス
 女島浜エビスはもともと武家屋敷に祀られていた。しかし武家屋敷が取り壊されることになったため、現在の位置に移された。エビスは商売繁盛や大漁の神のため、通常商人や漁師の間で信仰されている。しかし、深堀では武家屋敷にもいくつかエビスが祀られていた。なぜ武家がエビスを祀っていたのかは分かっていないそうだ。
 女島浜エビスの色塗りは、ほかの浜エビスとは時期が少し異なる。女島浜エビスの近くには、ペーロンの倉庫があり、毎年6月になると、地区の人々がペーロンに色を塗りにくる。女島浜エビスはその時残ったペンキで色を塗られているのである。
女島浜エビスの隣には、女島大神が祀られている。女島浜エビスに花を供えるなどの普段の管理は、女島大神の信者が行っている。

写真2−11女島浜エビス

写真2−12女島大神
(3)屋敷エビス
 屋敷エビスは、それぞれの家庭に祀られているエビスである。祀っている家のほとんどがもともと漁師をしていた家である。住人は引っ越す際、屋敷エビスを神社や浜エビスのそばに置いていくことがほとんどである。しかし時々家に置いたまま引っ越してしまうことがある。そこで次に引っ越してきた人がエビスを受け継ぐということもあるそうだ。
 色塗りはほとんど個人の家で行われるため、デザインもいろいろな種類がある。また、何年も塗り替えられていないエビスもある。

写真2−13屋敷エビス

写真2−14屋敷エビス

写真2−15陶器でできた屋敷エビス
 現在深堀町内には確認されているだけで、60体以上の屋敷エビスがある。そのなかでも特徴的なものをいくつか挙げる。
1.エビスに似た形の石
 漁の最中、時々網にエビスに似た形の石が掛かることがあった。漁師たちはその石を家に持ち帰り、エビスと同じように祀った。

写真2−16エビスに似た形の石
2.首をかしげたエビス
 亀ヶ崎公民館の横に首をかしげた屋敷エビスがある。深堀の埋め立てが行われる前、公民館(当時の龍宮社)の前は海岸であった。このエビスを海水につけてから漁に出ると翌日大漁になるという言い伝えが漁師の間で広まり、深堀の漁師たちは漁の前にこのエビスを海につけるようになった。ある時、エビスを地面に落としてしまい、首が折れてしまった。そこで首を付け直したところ、現在のように首をかしげた形になってしまったそうだ。

写真2−17首をかしげたエビス
3.頭のないエビス
 元イワシ漁の網元が、漁ができなくなり、家を売ることになった。その際に家主が宗教を変えたため、エビスをそのままにできなくなった。そこで頭を取ってしまったのだそうだ。次に引っ越してきた人は頭のないエビスをそのまま祀っている。

写真2−18頭のないエビス

第3章 亀王と有王
 平家物語の中に俊寛僧都という人物の話がある。俊寛僧都丹波少将成経、康頼入道とともに、平家への謀反の罪で鬼界島に流された。そこへ中宮徳子の安産祈願のため、恩赦の使者が赦免状を持ってやってくるが、俊寛僧都の名前だけ書かれていなかった。俊寛僧都は傲慢で不信心だったため、赦されなかったという話である。この俊寛僧都が鬼界島に流されるときの話が、深堀で少し違った形で伝わっている。
 俊寛僧都の二人の弟子亀王と有王は、伊王島に流される俊寛僧都を深堀から見送り、この地に住みついた。亀王が住みついた場所には亀王塚が立てられ、亀ヶ崎と呼ばれるようになった。また有王が住みついた場所には有王塚が立てられ、有海と呼ばれるようになったという話である。

写真3−1有王塚

写真3−2亀王塚
 日本伝説大系にも、深堀という地名が書かれた話がある。

  長崎の津より西南五里の海路にいわう島とて東西になかくわたりて島山あり民家も多く漁者農夫 集れり一説に俊寛法師の配流せる所へ此いわう島なり異本の平家物語彼杵郡のいわう島なるよし 見えたりといかや予いまた其異本を見ざれば募りていひがたし常の説のことくは薩摩がた沖の小島 とよみたれば此島にはあらざるへしされと彼杵郡平氏門族の領にて殊に資盛卿の領多しといえは 俊寛を痛はり此いわう島におきてき薩摩の沖なるゆうに都へは聞き置し事もあらんか此島の海原薩 摩につゝきていと近しまして此島にいにしへ泉湯ありしといへは硫黄石もありしならんしからはい わうと祝ふといつれか本の名なる事をしらす此島の東深堀といふ地に有王塚とて塚有というもなを いぶかし又肥前領地の境に鹿背といふ所あり彼杵に甚近し爰に法性寺といふ寺あり俊寛開基の寺に て資盛卿の領地なれば此寺にて死去せるよし苔むしたる石塔あり此外俊寛の遺物資盛の書記なと多 く此寺にあり島にて死せしにはあらずと見えたり都て名所旧跡の差ひ昔より多き事なれば薩摩肥前 のたがひも是非きはめがたし(荒木、1987、130)

 亀王塚は亀ヶ崎浜エビスの横に建てられており、側面には「亀王丸ハ俊寛僧都ノ侍臣ナリ配所硫黄島ニ在ル𦾔王ヲ慕ヒ來リテ此地ニ留ル亀ヶ崎ノ因テ起ルト云フ元小祠アリシモ倒壊セルヲ以テ再建シ僧都ノ歿セル四月二十二日(文治二年丙午)ヲ祭日ト定メ茲ニ奉祀ス」と刻まれている。

写真3−3亀王塚側面

第4章 龍宮社と公民館
 亀ヶ崎公民館の前には龍宮社と書かれた鳥居がある。なぜ公民館の前に鳥居があるのか。もともと龍宮社は、地域の人々の集会場として使われていた。3年ほど前、雨漏りにより神社を建て替えることになった際に、少し広くして公民館として建て替えたそうだ。現在でも神社としての設備は公民館内に残されている。

写真4−1亀ヶ崎公民館
 公民館の裏には、海童神社と書かれた祠がある。海童神社はクジラを祀る神社のため、昔深堀でもクジラ漁が行われていたのではないかと考えられている。

写真4−2海童神社

第5章 金比羅神社
 金比羅信仰は海上交通の守り神である金比羅大権現を祀る信仰であり、総本宮である金刀比羅宮香川県にある。信仰は主に船乗りや漁師の間で広まっており、金比羅講も四国を中心に日本各地に存在する。
 深堀にも深堀団地を見下ろす山の上に金比羅神社がある。埋め立てが行われる際に、もともと金比羅神社があった場所が切り崩されてしまい、現在の場所に移動された。エビスも金比羅神社もどちらも漁師の信仰であるが、深堀では海側の人々はエビス、山側の人々は金比羅神社というように分かれていたそうだ。

写真5−1金比羅神社

写真5−2金比羅神社鳥居

第6章 「恵比須でまちづくり」
 深堀には「恵比須でまちづくり部会」という町おこしのための会がある。現地では「恵比須会」とも呼ばれ、深堀の町おこしのために「えびすマップ」や「恵比須カレンダー」を作成したり、地元の小学校でエビスについて話をしたりしている。

写真6−1えびすマップ

写真6−2えびすマップ

写真6−3恵比須カレンダー
 「恵比須でまちづくり部会」部会長の峰松巳氏は町おこしを始めた理由として、「町がさびれてしまう前に町おこしをしたい」と語っている。深堀の城下町は2011年に、長崎市の景観重点形成地区として指定された。そのため、最初は歴史のある町として町おこしをスタートした。
 深堀は埋め立ての前からの古い住人と、埋め立てによってできた団地の新しい住人が住む新旧共同の町である。そこで峰氏は新旧共同の精神を作るために、エビスを町の名所として取り上げた。長崎大学の学生と協力し、エビスの由来や屋敷エビスの調査をし、講演会を行った。また、調査したことをもとに「えびすマップ」を作成し、町の人からも関心をもってもらえるようにしている。峰氏は「深堀のエビスを見て、エビス顔で帰ってほしい」と語っている。

写真6−4峰氏が作った木彫りのエビス

結び
 本調査では、深堀町をフィールドとし、エビスと町の信仰と伝承を調査することで、以下のことが分かった。
・深堀のエビスは、「波止エビス」、「浜エビス」、「屋敷エビス」の3種類に分けられる。
・砂岩でできたエビスを守るために祠を造ったり、色を塗ったりするようになった。
・同じ漁師でも海側と山側でエビス信仰と金比羅信仰に分かれる
 漁村という1つのコンテキストの中にさまざまな信仰や伝承が絡み合い存在しているのである。


(1)ペーロン競槽は長崎の伝統行事である。ペーロン船と呼ばれる船に乗り、海で競槽する。深堀では毎年6月の第2日曜日に行われている。また深堀のペーロン競槽は特に盛んなことで知られている。
(2)深堀のエビスは毎年色を塗り足しているため、三つ葉の紋が塗りつぶされてしまっているものも多い。

参考文献
荒木博之編、1987、『日本伝説大系』、13。
角川日本地名大辞典」編纂委員会、1987、『角川地名大辞典』、42。

謝辞
 本論文の執筆にあたり、多くの方々のご協力をいただいた。
 お忙しい中エビスや深堀の町についてお話を聞かせてくださった峰松巳氏、平田憲一郎氏。屋敷エビスを見せてくださった深堀町の皆さま。これらの方のご協力なしには、本論文は完成にいたらなかった。今回の調査にご協力いただいたすべての方々に、心よりお礼申し上げます。本当にありがとうございました。