関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

喫茶店とレストラン―老舗4店舗をめぐって―

社会学部 水河 美咲

目次

はじめに

第一章 ツル茶ん

第二章 富士男

第一節 来歴

第二節 富士男特有のルール

1) 早朝に喫茶店へ行く文化

2) ドレスコード

3) 接客のルール

4) 当時のアルバイトの電話のエピソード

5) 冨士男専用の部屋

6) 富士男のマッチ

7) 昆布茶

第三節 現在の富士男

1) 器のこだわり

2) 特有のブレンド

3) メニュー

4) 常連さんの話

第三章 銀嶺

第四章 cafe & bar ウミノ

おわりに

謝辞

はじめに

 現在日本には多くのカフェが立ち並び、街に出て一息つく場所として多くの人に親しまれている。しかし純喫茶と呼ばれる、日本で最初にコーヒーの提供された場所は数が少なくなりつつある。喫茶店は「サロンその他設備を設けて酒類以外の飲み物または茶菓を客に飲食させる営業を言う」と食品衛生法施行令第五条によって定められているが、現在喫茶店と名乗る店の多くが「一般食堂」という分類で許可をとっている。これにより純喫茶にはなかったビール、ウイスキーやワイン等を提供することを可能としている。こうした面から近年、本来の純喫茶は衰退方向にある。これは長崎でも例外ではなく、激戦の末畳んでしまった店もあれば、いまだ人々に愛されるづける店も存在する。今回調査させて頂いた老舗4店舗は、現在も多くの人々に広く知られている店である。喫茶店激戦区であった長崎で現在までその店を構え続けるからには多くの理由が存在した。今回のフィールドワークでは、現在に至るまでの経緯と工夫を調査することにより差別化に成功し、いかに老舗レストランと喫茶店がその名が知られるようになったのか、その結果を調査する。

第一章 ツル茶ん

 「鶴の港の長崎に、はじめて生まれた喫茶店」それがツル茶んである。以下は聞き取り及び提供して頂いた資料に依りながらツ記述するツル茶んの歴史である。初代の川村岳男氏は小浜小学校卒業後、博多にあった共進学(後の日本食堂)に勤務していた。20歳の頃に専務に「君は見どころがあるから新しい仕事をやってみたらどうだ。ついては、東京で喫茶店という新しい商売が流行っているらしい。これを研究してみたらどうだ。」と勧められたことがきっかけとなり大正14年、油屋町でツル茶んを創業した。創業当時はコーヒー、アイス・クリームやミルクセーキを提供し、五年程は競合店もなくツ大盛況であった。


■写真1 創業当時のツル茶ん


■写真2 当時のツル茶んの店内


■写真3 創業当時のメニュー。サンドウヰッチと旧字体で表記されている。

 しかし戦争が始まると男手は次々と戦場へ向かうことになる。昭和初期の喫茶店では14歳から18歳程の男性ボーイが主な働き手であったが、ツル茶んの従業員も次々と戦地へ向かって行った。


■写真4 昭和7年のクリスマスの写真。写真左側の従業員はビルマで目を打たれてその後亡くなっている。右側3人の従業員は戦死。

 岳男氏も例外ではなく、支那事変が始まるとすぐに出兵し、衛生兵として小野の野戦病院で勤務することになった。また大東亜戦争の前年にも二度にわたってジャワの上陸作戦に参加、40歳の頃には沖縄に出兵し、実戦部隊の捕虜として一年半の重労働を強いられたそうだ。
その頃戦争の為人手が足りなくなったツル茶んでは、それまで募集していなかった女性従業員を雇うために「女ボーイさん、募集」という貼り紙を店頭に貼っていた。


■写真5 昭和33年頃に撮られた初代と二代目の奥様である、てるさんと英子さん


■写真6 川村岳男氏の出征写真

 当時は戦争により様々な規制が敷かれ、外食券食堂のようになっていた。どういう訳か大量に配給されるスケトウダラを使ったランチが10日続いたこともあったが、空腹を満たす食糧を求めた客で連日満席だったそうだ。しかしコーヒーや砂糖もなくなり、昭和19年頃には家庭の食糧も不足し、営業も休業を余儀なくされた。
 戦争が終わると米軍の進駐があり、世の中は落ち着いていったがインフレが進み、預金封鎖されてしまった為男性不在でのやり繰りは相当大変なものだった。これにより、一階の店舗をダンス・レッスン場に貸し出したこともあったそうだ。昭和21年11月、岳男氏が出兵から帰還したが、衰弱していた為一週間程寝込んだ。しかし家族4人が食いつなぐには喫茶店を再開するしかなく、封鎖された預金が月500円しか引き出せない中、内装の多くを手作りで施し、一階のダンス・レッスン場の立ち退きに成功、営業再開へとこぎつけたのだった。
 営業再開したもの、食材の乏しさは依然として続いており、商売用は闇業者に頼るしかなかった。日中は警察の目を恐れ、夜中に叩き起こされて山奥に蜂蜜を買いにいったこともあったそうだ。やがて進駐軍の兵隊が食材の売人になり、岳男氏はにこにこした大柄の黒人からコーヒーを仕入るようになった。彼は上着のポケットからMJBのコーヒーやチョコレートを差し出し、人々は片言の英語で「ハウ・マッチ」と値段交渉を行った。闇物資の売人は思案橋に集まり、彼と同じように物資を懐に入れていたので取り締まりを免れることができた。こうして調達されたコーヒーの缶を開けると、たちまちコーヒーの香りが部屋中に広がり、客は皆歓喜の声をあげたのだった。
世の中が次第に落ち着きを取り戻すと、冷房、LPレコード、テレビなどが喫茶店の新しい戦力となる。やがてジャズ喫茶が生まれ、テレホン喫茶、漫画喫茶に続き、美人喫茶、個室喫茶、ノーパン喫茶まで生まれる。このような時代の中で本来の喫茶店は純喫茶と名乗るようになったのである。
なお、上記までのツル茶んの歴史を資料として残したのが、二代目の忠男氏であるが、喫茶店の音楽についても記述していらっしゃる。忠男氏の生の声が書かれていたので全文引用とする。

 喫茶店の二階で生まれ、育った私は、小さい頃から、洋楽に親しんだ。どういうわけか喫茶店は洋楽、カフエは和楽と決まっていた。和楽といっても日本の流行歌である。
この両者の区分は厳格で、お酒を売るか売らないか、女を置くか置かないかで、はっきりとした色分けがあった。その境界を逸脱する事には当局の厳しい監視の目があった。畳の下から、漏れ聞こえる音楽を私は、物心つく頃から聴いていたのである。
曲名は、クンパルシータ、セントルイス・ブルース、アルルの女ペルシャの市場、森の鍛冶屋、カルメン闘牛士、月光値千金、など、枚挙に暇がないが、私はこれらの曲を、すべて、諳んじていて、特にセントルイス・ブルースのイントロの部分は完璧に表現できた。四、五歳の頃である。
私が今でも、和風の演歌や詩吟、民謡が苦手で、ジャズソングやラテン、シャンソンの方に耳が行くのは、この幼児体験が影響しているのである。
 レコードは、勿論SPレコードで、数曲かけると、針を変える必要があった。レコードの溝が摩耗すると、針が溝の奥へ滑り込んで、同じメロディーが反復されるので、客は笑い、ボーイさんは走り回った。これも、当時の喫茶店の風物である。
戦局が緊迫すると外人の帰国が始まり、所蔵していた電気蓄音器が市場にでた。それが、喫茶店やカフエに流れたのである。従来の小さな蓄音器と違い、音域の広さに驚いた。戦局が更に進み、同盟国の音楽以外は、演奏ができなくなった。ナポリ民謡や、「会議は踊る」「狂乱のモンテカルロ」などは許された。秘かに潜入していた、アール・ハッターの「ラブズゴーン」は検閲を免れ、生き残ることができた。
 戦争が終わり、友達になったアメリカ兵から、レコードをもらった。戦争中にできたカントリー・ミュージックやブギウギの目新しい音楽があった。
LPレコードが開発され、やがて始まるテレビや冷房とともに喫茶店の新たな武器となった。ベニーグッドマンのカーネギー・ホール・コンサートのLPレコードで、ウエイトレスの音響管理は楽になった。ジャズ・レコードや再生装置の買えないジャズマニヤがたむろするジャズ喫茶ができたが現在は殆ど消滅し、僅かに残っていた名店の終幕がテレビで報じられている。
現在の喫茶店の客は、殆ど音響に関心がない。環境ミュージックとして、有線放送が流れている。


■写真7 ツル茶ん創業当時の蓄音器

 現在は三代目の隆男氏が店を切り盛りしているが、ツル茶んは長崎だけでなく日本中にその名を轟かせている。お店にうかがった際、隆男氏にいくつかの映像を見せて頂いたが、全国ネットや、地域限定であってもよく知った番組に紹介されていた。メディアに取り上げられているものはすべて保存しているようで、山ほどの映像資料が積み上げられていた。そんなツル茶んの看板メニューは何といってもトルコライスミルクセーキである。トルコライスとは一枚の皿の上にピラフ、スパゲッティ、ポークカツを盛ったものである。トルコライスという名前の由来は明らかにはなっていないが、ツル茶んではピラフが中国、スパゲッティがイタリア、とんかつがその中間に位置するトルコを現すという説を採用している。また、ミルクセーキもツル茶んの代名詞である。ミルクセーキというと私たち関西人は液体状のものを思い浮かべるが、長崎のミルクセーキは少しどろっとしているのが特徴で、「食べるミルクセーキ」と言える。これは初代岳男氏が元祖となるそうだ。


■写真8 トルコライス


■写真9 元祖長崎風ミルクセーキ


■写真10 積み上げられた映像資料

 隆男氏にお話を伺った際、「ライバルはちゃんぽんですね」とおっしゃっていたことがとても印象に残っている。なぜ喫茶店のライバルが主食であるちゃんぽんなのだろう。それは長崎の人々からちゃんぽんへの認識が大きく関係しているという。隆男氏は、ちゃんぽんは「ちょっとごちそう」だとおっしゃっていた。そしてトルコライスもまた「ちょっとごちそう」なのだそうだ。だからこそ戦うべきはちゃんぽんなのだそうだ。隆男氏が喫茶店という枠ではなく更に大きな枠をとらえているからこそ、現在のように名前を轟かせることができたのだ。


■写真11 現在のメニュー


■写真12 現在のツル茶ん

第二章  冨士男

第一節 来歴

 喫茶冨士男は吉田藤雄氏によって創業された、長崎の老舗喫茶店である。創業者である藤雄氏は大正7年に生を受け、2年程前まで店にも顔を出していたそうだ。19歳の時頃片足が不自由になったこともあり、戦時中は食堂で働いていたそうだ。昭和10年頃になると土地を購入し、独立。おでんや酒といったものを提供する酒屋であった。当時土地を買ったのは何か目的があったからではなく、店の構想を練るより先にとにかく土地を買ったそうだ。そして昭和21年、「冨士男」が生まれる。しかし当時はまだ喫茶店ではなく、酒屋として営業していた。戦時中ということもあり日本の軍に睨まれないようにと、日本人っぽい、男っぽい「冨士男」という名前をつけたそうだ。酒屋は大盛況であり、地元の人々に親しまれていた。しかし、その分とりっぱぐれが多くなってしまい、採算が合わなくなってしまう。そこで藤雄氏がアルコールの代用品として考え出したものがコーヒーであった。少しずつアルコールを置かなくなったのか、ある日を境にぴたりと置かなくなったのかはわからないそうだが、昭和21年1月には冨士男でコーヒーが飲めるようになっていたそうだ。当時は戦時中の為、コーヒー豆を中華街から闇物資として仕入れていた。コーヒーは高級品であったため、手に入りにくい状態にあったのだ。しかし、藤雄氏は「物はなくても金はあった」とよく言っていたそうで、現マスターにお話を伺っているときもこの言葉が何度も登場したほどだ。資金が多かったこともあり、高い豆でも購入することができたのだ。材料を手に入れるルートさえ確保できればコーヒーを提供することができた。また、コーヒーを提供する側だけでなく、消費者も貯えを多く持っていた。当時の冨士男のコーヒーはゴイリング法という、粉を沸かしてこしだす手法をとっており、「口に苦し薬」という言葉が残っているようにあまり美味しいとは言えるものではなかったようだ。しかし人々はコーヒーを求めた。これは、「格好のいいもの」として認識されていたこともそうだが、コーヒーと同時に甘いものでもてなすという習慣が共に根付いたことも関係しているのではないかとマスターがおっしゃっていた。また単価も高く、長崎名物ちゃんぽんの倍、4円で提供していたという。しかし冨士男には連日長蛇の列ができ、大盛況であった。先ほども述べたように、材料を手に入れるルートさえあれば、高価なものでも供給することができたのだ。こうしてコーヒーは瞬く間に長崎に広がっていった。
 昭和30年代になると、冨士男の評判は更に広がっていき、本店を含む9店舗にまで広がった。昭和45年頃には記念すべき支店第一号として春雨店が開業する。春雨店はとても大きな店舗で、大盛況であったが、大家さんの都合によりすぐに畳むことになった。現在はコンパドールというパン屋さんになっている。春雨店と同時期にできた浜の町店も春雨店と同様に大盛況であった。浜の町店はキャバレーとして営業していたそうで、ボーイも雇っていた。席が足らないほどの小さな店舗であったという。上記3店舗は同時期に営業していたが、本店と浜の町店を残し、春雨店を畳んだあとに残りの6店舗を拡大した。大波止店、アーケード仲見世8番街店、住吉店、新大工店、葉山店、東長崎店である。


■写真13 本店、仲見世店、浜の町店、春雨店があった場所の現在の地図


■写真14 大波止店があった場所の現在の地図


■写真15 新大工店があった場所の現在の地図


■写真16 葉山店、住吉店があった場所の現在の地図


■写真17 東長崎店があった場所の現在の地図

 店毎に客層は異なっており、紳士が中心の店や学生が中心の店等様々であった。一例として、東長崎店は物理的に入りにくい構造になっており、車のお客さんが多かったそうだ。また、メニューは統一していたそうだが、小さな店舗ではメニューの少なくしていたそうだ。こうした支店拡大により喫茶冨士男の名は長崎中に広まった。当時は一日に500人ほどの人が訪れることもあったという。しかしその後バブルの崩壊と格安コーヒーチェーン店の進出により、大波止店、葉山店、住吉店、東長崎店、新大工店そして浜の町店を畳むことになった。当時は銀行の融資が少なく、どの店も厳しい状態だった。しかし冨士男は大きな資金を所有していたので本店は現在までずっと店を構え続けている。長崎を襲った大水害をも耐えた本店であったが、原爆投下により、少し店が傾いた。昭和40年には現在のビルの中に入っており、場所はそのまま木造から現在の形になった。
 その後藤男氏の奥さんの甥にあたる達正氏へ引き継がれた。一代目の藤男氏と妻の豊子氏の間にご子息はおらず、達正氏は洋食店をした後に冨士男を引き継いだのである。豊子氏の弟、つまり達正氏の父にあたる修氏は現在会長として店頭に立っており、代々家族経営で引き継いできている。現在冨士男は本店のみとなっているが、店を壊すと出費となる為、残していたそうだ。

第二節 冨士男特有のルール

1) 早朝に喫茶店へ行く文化

 先ほどから再三申しているように、当時コーヒーは高級品であったがお金を持っている人が多かった。その為当時の客層としては学生もいたが、社長や紳士が多かった。当時は衣料品店などがあり、時代の背景として大名扱いだった社長たちがふらっと立ち寄る場所だったという。アーケード街で店を営む社長たちについても同じで開店準備の間時間をつぶす場所であったそうだ。そのため徐々に開店時間が早まり、現在では10時から9時へと変わっている。


■写真18 現在の営業時間の看板

2) ドレスコード

 冨士男にはドレスコードがあった。そのドレスコードを守らなければ店に入ることさえ許されなかったという。客は長靴をはくことは許されず、普段着も禁止されていたそうだ。筆者は長靴が禁止されていたということに疑問を抱いたが、いわゆる漁師など「社長ではない庶民」の出入りを禁止していたことの比喩表現だと、当時を知る従業員の方が教えて下さった。

3) 接客のルール

 冨士男の接客の教育の厳しさは「冨士男はルールにやかましい(うるさい)」と長崎でも有名だった。これは藤雄氏と、ママさんと呼ばれていた藤雄氏の妻、豊子氏の教育のこだわりからである。その為辞めていく若者も多かったという。当時冨士男の隣にはボンソワール、銀嶺という店が軒を連ねていた。銀嶺は鉄の門を構え、その奥には長い道があった。小便小僧の着いた噴水も置いてあり、ただならぬ高級感が漂っていたのだ。これらの店舗を目の当たりにしたママさんは、冨士男にも高級感が必要だと判断したそうだ。このお話は従業員のAさん(名前を名乗るほどでもないとおっしゃっていた)から伺った話だが、Aさんはその冨士男で20年程働いているのだから、その時代の教育を受け、見事合格と判断されたということだ。
 制服は男女別であり、今の物とは異なる。男性は今とほとんどかわらず、ポロシャツに蝶ネクタイ、エプロンと黒のパンツを身に着けていたという。女性は現在で言うメイド服のようなものだ。写真はないとのことだったが、女性もポロシャツに黒いスカートだったそうだ。頭にはメイド服で連想される白い帽子を被り、髪はきっちりまとめていないと注意されたそうだ。冬になると、これにブイネックのセーターを着ていた。しかしママさんだけは着物を着用しており、冨士男のトレードマークであった。
その教育は水を注ぐ向きから指導された。冨士男では丸い筒に注ぎ口が横から着いているポットを使っている。このポットから水を注ぐわけだが、この時注ぎ口が客と並行になってはならない。つまり、客に向かって真正面から灌がなければならない。また水を注がれたグラスは音を立てずに客の前へ運ばなければならない。グラスを持つ際は下のみ持つことを許され、腰を曲げてテーブルの上に置くように言われていた。また、灰皿は真ん中に置いてはならなかった。何日間かお店に伺ったが、これは今でも徹底されているようだ。


■写真19 コーヒーを注ぐ様子

 冨士男の気遣いは常連さんにも及んでいる。通常、多くの飲食店が常連客には注文を聞かない。しかし、その日は食べたいものが違うかもしれないと、必ず注文を聞くのである。著者が伺った三日間にも常連さんがいらっしゃったが、必ず注文を確認していた。
このような厳しい教育のため、もちろん私語厳禁で挨拶にも厳しかった。現在冨士男では客が立ち上がるとすぐに「ありがとうございます!」と大きな声で見送り、客がレジに着くより早くお会計の準備をしている。これは当時の名残なのかもしれない。
 伺った三日間の中で気になったのが、ずっとマスターが店の一番奥で作業していることだ。単純に作業の効率化のためだけだと思っていたのだが、そうではないようだ。なんと並ぶ位置が決まっているのだ。入口側から順番に並び、奥になればなるほど重要な役割を果たすらしい。入り口から順に、食器を洗う者、コーヒーをたてる者、サンドイッチ等を調理する者の順番で並んでいる。さらに当時はホールとカウンターで従業員を分けており、特にカウンターは聖域のようなものであった。


■写真20 店の奥で作業をするマスターの達正氏

4) 当時のアルバイトの電話のエピソード
 冨士男の教育は冨士男だけで成り立っていたわけではない。客も冨士男の格式高さを理解していたので、客が従業員に注意することもあった。ある日アルバイトの男子学生がコーヒーを淹れる時に少し手伝ったそうだ。彼はまだ日が浅く、コーヒーを淹れるという作業はまだ経験したことがなかった。しかし人手不足の為、コーヒーを淹れる従業員のサポートをしたそうだ。そしてそのコーヒーを客に提供した。すると後日、なぜ日の浅いアルバイトにコーヒーを淹れさせるのかといった内容の電話がかかってきたそうだ。

5) 冨士男専用の部屋

 当時長崎市内には、島原、天草、五島といった長崎周辺から職を求めてきた若者があふれかえっていた。それは主に女性であり、男性は市内の若者だった。当然冨士男にもアルバイトが殺到し、中通り寺町通りに専用の寮のようなものができたほどだ。女性たちは中卒や高卒が主であった。彼女たちは離島出身者が多くだった為、寝泊りするところがなかった。その為50,60人もの人が2部屋に寝泊りするように手配した。家賃を回収しないかわりに住み込みで働くことは当時一般的であったそうだ。

6) 冨士男のマッチ

 冨士男のこだわりはマッチにまであった。マッチ箱の中にコーヒー豆が2粒入っていたのだ。そのコーヒー豆はブルーマウンテンで、常連客はマッチ箱の豆をこぞって集めたという。Aさんによると、マッチ箱のコーヒー豆は冨士男の常連だという証として、ステータスになっていた。当時は茶色い箱だったが、25年ほど前に現在の白色へと変わった。現在マッチ箱の中にコーヒー豆が入っていないのは、豆が高騰したからだそうだ。


■写真21 現在の冨士男のマッチ箱

7) 昆布茶
 当時から続く冨士男のサービスとして、昆布茶がある。約30年前から食後に提供しているそうだが、これも冨士男特有のものである。喫茶店で食後に昆布茶を出すというのはとても斬新であり、現在の冨士男にも受け継がれている。梅昆布茶を提供したこともあったそうだが、客の反応があまりよくなかった為、昆布茶に落ち着いたのだという。

第三節 現在の冨士男
1) 器のこだわり

 冨士男で働く従業員の方たちを見ていると、あることに気付いた。提供するコーヒーによって使う器が違うのだ。多くのコーヒーは白地にうすい青の模様のカップを使っているが、ウインナーコーヒーを頼むとオレンジのカップでコーヒーが提供される。これは先代のコーヒーに対する強いこだわりから根付いたものである。


■写真22 オレンジのカップに入ったウインナーコーヒー


■写真23 白と青のカップに入ったブレンドコーヒー

2) 特有のブレンド

 先代は焙煎に対して強いこだわりを持っていたとAさんがおっしゃっていたが、現マスターである達正さんのこだわりも負けていない。冨士男のブレンドは特有である。まず、焙煎は一般的な九州地方のものにしては深炒りである。関西地方では一般的に濃いものが多いらしく、九州地方は薄めのものが多い。マスター曰くその中でも冨士男のコーヒーは特にすっきりと飲めるようなブレンドらしく、ブラックコーヒーの苦手な著者でも美味しく飲むことができるほどに苦味がなかった。また、豆は老舗専門業者の中山洋行からおろしている。個人経営の喫茶店でよく耳にする自家焙煎とはプレミックスという、豆焼く前に混ぜる手法である。これに対し冨士男はアフターミックスという焼いた豆を後から混ぜる手法をとっている。これにより濃いがすっきりした味わいのコーヒー、冨士男ミックスが生まれる。また、コーヒー豆はどれだけ気を付けても焼き加減が異なるため、ピッキングというカビ豆等を取り除く作業をするのだが、冨士男ではハンドピッキングという手で一つ一つ取り除く作業を行っている。大手は機械でピッキングを行うそうだが、冨士男では色を見ただけで判別している。このハンドピッキングは焙煎専門業者の方に教えてもらい独学で身に着けたそうだが、「なぜそんなことが出来るのか」という質問に対し、達正氏は「ずっとやってるからね」と答えて下さった。

3) メニュー

 冨士男が喫茶店として営業してからメニューはほとんどかわっておらず、コーヒーとサンドイッチが主である。競合店があったり商店街ゆえに周囲に食事できるところは多くある。それに対抗するなら、メニューを増やしたほうがいいのではないかと安易な質問をマスターにぶつけたところ、「うちはコーヒーを飲んでもらうところやからね」とおっしゃっていた。そのこだわりこそが今も町の人々に喫茶店の老舗として認識されている要因なのかもしれない。また、戦後すぐはコーヒーとぜんざい等の甘いもののみを提供していた。現在メニューにあるサンウィッチはいつ頃からあるものなのか、わからないそうだ。


■写真24 現在使われているメニュー


■写真25 エッグサンド


■写真26 フルーツサンド

4) 常連さんの話

 筆者がお話を伺っているとき、常連さんと思われる方が来店されていた。方言がわからず、あまり会話の内容がわからないこともあったのだが、お話を伺うと筆者にもわかりやすいように話してくださった。常連のBさんがおっしゃるには、長崎の喫茶店はずいぶん変わったのだという。上記にもあるように、競合店が増えていく中で変わってしまった店もあるのだそうだ。Bさんからすれば冨士男は今もかわらず格式を守っている店らしく、腹を割ったお話をされていた。ふらっと店に入り、元気に挨拶をかわした後、サンドウィッチとコーヒーを飲み、世間話をして帰って行かれた。


■写真27 現在の冨士男

第三章  銀嶺

 現在長崎歴史文化博物館に店を構える銀嶺は長崎の老舗レストランである。なぜ喫茶店のレポートの中にレストランが入っているのかと不思議に思う方もいるだろうが、オーナーの和隆氏がおっしゃるには女給がいるとミルクフォール(食事をする所)、いないと純喫茶なのだという。つまりコーヒーを提供するという点は類似しており、喫茶からレストランへとかわっていく店もあるのだという。銀嶺は、昭和5年に鍛冶屋町に「グリル銀嶺」として創業したのが始まりである。グリル銀嶺の下には「ボンソワール」というバーがあり、そこでお酒を飲んだ人達が食事を楽しむ場所であったという。銀嶺ではコーヒーも提供していたが、メインは食事であるのでレストランに位置づけられる。今回お話をうかがった橋本和隆氏は三代目にあたるそうだ。


■写真28 グリル銀嶺があったビル


■写真29 当時の看板


■写真30 現在飾られている当時の店内の写真


■写真31 ボンソワールの当時の内装

 創業者は和隆氏の祖父にあたる磯吉氏であり、福岡の柳川から長崎に上京した際に異国の文化に興味を持ったことが始まりであった。当時長崎は都会としての認識が持たれており、高等裁判所も長福岡ではなく長崎にあった。磯吉氏は上海とオランダへの強い憧れを持っていた。そして長崎のチャイナタウンで中国文化と西洋文化の混じり合った空間を目の当たりにし、西洋骨とう品を集めることに没頭したのだ。それと同時に西洋のサロンへの憧れも強まっていった。こうしてグリル銀嶺は生まれ、西洋調の外装だけでなく骨とう品の評判も定着していった。しかし磯吉氏は中国・西洋への憧れを持ってはいたが、料理の知識はほとんどなかった。その為現在有名店として知られている中国料理屋四海楼の陳氏にそぼろごはんの味見をしてもらったそうだ。このような繋がりからアーケード街に軒を連ねる店との交流が深まっていった。磯吉氏の努力もあってか、当時西洋料理は高級品であったにも関わらず、九州初の鉄板料理屋としての名は瞬く間に広がり、オランダ大使が食事をしにくるほどの有名店へと成長したのだ。またその高級感は長崎の人々の記憶にも色濃く残り、お話をうかがった全てのお店でグリル銀嶺の店構えや名声を耳にしたほどだ。
 昭和55年には二代目亨氏へ受け継がれ、昭和57年の長崎大災害を受けてビルの建て替えが行われた。現在の博物館へと移転したのは平成17年のことで、それと同時に三代目和隆氏へ世代交代が成された。博物館が出来たのも同じ年だ。博物館への移転は一代目磯吉氏の「町と美術館があれば都会」という言葉から決めたそうで、現在昼は観光客、夜は常連客で賑わっている。


■写真32 現在の銀嶺/外装


■写真33 現在の銀嶺/内装

 常連さんは子供の頃から通っているような方も多く、「○○町の△△です」といういかにも親しげな自己紹介が行われるという。他のお店でもこのような自己紹介が行われているのかと質問したが、これは銀嶺特有のものらしい。もしかすると長崎に根付く「くんち」の地区分けからこのような自己紹介が生まれたのかもしれない。また、メニューは創業当時から鉄板料理が主だ。当時はハンバーグと最高級の五島牛ステーキを提供していたことからも銀嶺がいかに高級なものを提供していたかがうかがえる。この鉄板料理は現在も銀嶺の看板メニューであり、これに加え煮込み料理等も提供している。メニューといえば、その内容もそうだが絵自体にも注目してほしい。これは有名版画家棟方志功氏の師にあたる川上澄生氏が手掛けたものである。表紙は澄夫氏の作品を集めたもので、裏表紙は磯吉氏の骨とう品を描いたものだ。このような老舗レストランにも関わらず、和隆氏は「長崎歴史文化博物館で営業させて頂いています」と謙虚な姿勢の方であった。


■写真34 当時のメニューの表紙


■写真35 当時のメニューの裏表紙


■写真36 裏表紙に描かれた骨とう品

第四章  cafe & bar ウミノ

 cafe&barウミノは長崎老舗喫茶店の一つである。昭和30年浜の町のアーケード街にトリスバーとして創業した。創業者の海野進氏は軍艦島出身で、炭鉱の衰退を理由に長崎へと出てきた。喫茶店としてのウミノはトリスバーができた一年後に始まった。客席として使用していた二階を喫茶、一階はそのままにバーとして営業し、大盛況であった。喫茶店ブームが起こると、昭和30年頃にはアーケード街に二店舗、長崎放送の2階に一店舗、県営バスセンターの2階に一店舗、福岡天神地下街に一店舗という支店拡大に成功している。現在も40〜60歳以上の方はみんな知っているという程に大盛況であったが、喫茶店業界の激戦もあり、アーケード街をはじめとするすべての店舗を畳むこととなった。平成22年頃からアミュプラザ長崎の5階に店を構え、半世紀にわたりその味を守り続けている。残念ながら創業者の海野進氏は昨年亡くなられており、現在は日本製粉が営業している。創業当時は本格的なバーだったこともあり、現在もウイスキー中心の酒と、コーヒーと軽食を提供している。ウイスキーというと中年男性が飲むイメージが強いようだが、ウミノでは一人でウイスキーをたしなむ女性客も少なくない。ウミノの最大の特徴がウイスキーだが、ケーキ等が手づくりだということも特徴的である。法改正されるまではアイスクリームも手作りだったそうで、驚きである。メニューは少しずつかわっており、更に多くの人々の来店が予想される。


■写真37 現在のcafe&barウミノ


■写真38 現在のメニューの一部

おわりに

 今回の調査では、老舗が老舗であるための工夫が明らかになった。取材させて頂いたお店毎に調査で明らかになった点をまとめる。
ツル茶んは、老舗喫茶店として多くの苦難を乗り越え、長年愛され続けている。喫茶店という枠を超えた新しいメニューの開発など、常にお客さんのニーズにあわせて変化していくスタイルによりメディアでも多く取り上げられるようになったということが明らかになった。
冨士男では以下5点が明らかになった。①物がない時代に金銭を持て余したが人々求めた、ステータスになりうる高級品を提供したことによりコーヒーがうけた②冨士男特有のドレスコード、接客の決まり、徹底した教育などのルールを作ったことにより高級感を保った③こうしたイメージにより冨士男のマッチ箱を集めることがステータスとなった④現在でもそのこだわりは器や昆布茶に表れている⑤コーヒーを飲むところなのでメニューは増やさないというプライド⑥長年常連客の通う店
また、銀嶺では①当時はめずらしい高級感のある外観で瞬く間にその名が知れ渡り、他店にも影響を及ぼしている②長崎初のレストラン③有名版画家が訪れ手掛けたメニューや先代の集めた骨とう品が有名④老舗であるにも関わらず謙虚な店舗経営 ということがわかった。
ウミノでは老舗として愛されているが、ウイスキーを中心として新たに歩んでいることがわかった。

謝辞

 今回このレポートを作成するにあたり、お話をきかせて下さった方々にお礼を申し上げます。
まず初めに、多忙な中でインタビューに応じて頂き、先代の資料、戦前の写真を惜しみなく提供して下さったツル茶んの川村隆男様。お忙しいにも関わらず貴重なお話を聞かせて頂いた銀嶺の橋本和隆様とその妹様。ご丁寧に資料を確認して下さったcafe&barウミノの熊埜御堂太様。そして何日も足を運ばせていただき、様々なことをお聞かせ頂いた冨士男の川村達正様、紘子様、修様、名乗るほどではないとおっしゃっていた従業員のお姉さん、常連客の方。ミーティングに参加して下さった長崎大学大学院生の富永佐登美様。皆様のおかげで有意義な時間を過ごすことができ、このレポートを完成するに至りました。ご迷惑をおかけしたことをお詫びすると共に、ご協力頂いたことに心より感謝いたします。本当にありがとうございました。