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関西学院大学社会学部 島村恭則ゼミ

2010-02-10 *[小樽の都市民俗学]小樽と映画館

小樽と映画館

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吉田 依里香

はじめに

アメリカ発明王エジソンがキネトスコープを発明したのは明治22年(1889年)のことだった。その7年後の明治29年の秋、日本の神戸に初めてキネトスコープが上陸し、新開地を拠点に次々と映画館ができる。そして早くもその1年後小樽小樽末広座、住吉座でシネマトグラフ「電気作用活動大写真」が上映され、小樽「映画館の時代」の幕開けとなった。その後も映画館は次々に開館し、大正末期には10館を超え、ピークの昭和30〜36年には23館にまで増えた。人口比にして北海道一の映画館のまちになったのである。しかし昭和30年代後半から映画の人気は衰え始め、市内の映画館はあいついで閉館し、平成7年に最後の小樽東宝スカラ座が閉館し、小樽「映画館の時代」は幕を下ろした。

本レポートでは、小樽「映画館の時代」を支えた単独映画館(以下、単館)それぞれのエピソードや小樽の元映画技師下田修一さんへのインタビュー、映画館がその後どういった道を歩んだのか、そして現在の花園町での取り組みをとりあげる。


1章 映画館の時代

(1)単館の世界

21世紀、平成も20年過ぎた今、地域の昔からある小さな映画館で映画を見る人はどれくらいいるのだろうか。いまや映画館といえば大型ショッピングセンター内にある「ワーナーマイカル」の「シネコン」が主流で、大都市大阪梅田でも東宝映画の三番街シネマが平成19年に閉館に追い込まれた。単館にはシネコンにはない個性ある魅力がたくさんあった。では小樽の単館にはどんな世界が広がっていたのだろうか。

小樽の映画館は芝居小屋をルーツにしているものが多い。北海道開拓の時代、本州から渡った開拓史たちの娯楽のために旅の芝居一座が道内を回ったのが始まりだった。明治の中ごろから芝居小屋には内地の役者が来なくなって経営難に陥ったので当時まだ目新しかった映画を上映しだしたのだった。その芝居小屋の名残である桟敷の映画館が小樽にはあった。富士館、中央座(のちの日活オスカー)、電気館の2階が戦前まで桟敷だった。なんと若松館は昭和45年まで桟敷が残っていた。

戦前のスパル座では鈴木澄子主演の映画「化け猫騒動」を上映した際には、まず封切りの前に化け猫のたたりが出てはいけないと神社にお参りに行ったそうだ。そして上映中も化け猫の霊が出てはいけないのでスクリーンの横にお供え物を置き、見終わった客に帰り際に「お清めの餅」を配るという徹底ぶりだった。こういうところに単館の個性が出ていておもしろい。

戦後、昭和26年の映画館の入場料は4円99銭だった。なぜこんなスーパーの安売りの値段みたいな中途半端な額なのか。それは5円からは税金がかかるために映画館の考えた対策だった。でも5円払って1銭お釣りをもらうような人はいなかったという。そんなころ、「蟹工船」が小樽で上映された。この蟹工船の上映でハプニングが起きた。スクリーンを破いてしまった人がいたのである。その人は元海軍軍人。海軍といえば蟹工船の中では労働者をいたぶる悪役。映画の中での軍人の描かれ方に腹を立てスクリーンを引きちぎったのだった。客が破ってしまえるほど小さなスクリーンだったのだ。

昭和30年代になると小樽の映画館は全盛期を迎えた。映画館周辺は活気づき、昭和の懐かしい風景が広がっていた。中でも一際目を引くのが迫力ある大看板やノスタルジックなポスターたちだ。看板をどのように飾るか、ポスターをどこに貼るか、映画技師たちの腕の見せ所だった。図1の「007」の映画の看板(写真1)f:id:shimamukwansei:20101213173235p:image 撮影者下田

にはある工夫が施されている。客は映画館に入るとき、主役の男女の股の下をくぐって映画館に入るレイアウトになっている。映画館に入る瞬間から映画の世界に入ってほしいという技師たちの粋な計らいである。

 看板だけでなく、ポスターにも物語がある。元映画技師下田さんは「ポスター戦争だった」と語る。映画館の激戦区でポスターを貼る場所を開拓するのは至難の業だった。とくに東映劇場と東宝スカラ座と花園映劇は競いあってポスターを貼っていた。このポスター貼りには一つだけルールがあった。それは「他の映画館の近くには絶対貼らないこと」だった。違反するとすぐにポスターははがされた。ポスターは主に古い木造家屋や商店のウィンドーに限られていたので各館の競いあいが激化し、衝突が起きたこともあった。そんなときは話し合って「上映が始まったら他の映画館に譲る」ということになった。人情味あふれる単館同士ならではのことではないだろうか。ただ悲しいことに、のちにこの譲り合いは閉館した映画館がまだ生き残っている映画館に「ポスターの縄張り」を譲ることにもなった。

 ポスター戦争を繰り広げていた花園映劇にはカーボン映写機という珍しい映写機があった。カーボンを燃やした火で照明をとる映写機で小樽にはこの花園映劇にしかなかった。このカーボンで燃やした火は普通の映写機の電球よりも明るく、1番きれいな映画を上映できたそうだ。しかしこの映写機はカーボンの取り扱いが難しく、操作はめんどうだった。この高度な技術を要する映写機とそれを巧みに取り扱う技師がいる映画館だった。

(2)小樽の中の「東京」

大正3年、「電気館」(写真2)f:id:shimamukwansei:20100108111137j:image:left

が現在の都通りにオープンした。当時映画は「電気作用活動写真」と呼ばれていて、明治36年東京浅草に日本で初めて映画専門興行館として「電気館」が開業した。この浅草の電気館にあやかって小樽にも電気館ができたのだ。それで電気館周辺は東京浅草にちなんだ地名がつけられるようになった。電気館前から第一大通りまでの50メートルくらいの細い路地を「仲見世通り」、電気館から南へ2筋向こうの通りを「浅草通り」と呼ぶ(写真3)f:id:shimamukwansei:20100108110854j:image:left

この名は、東京浅草を模して明治末期に付けられたという。

 電気館周辺だけでなく、小樽にはもう一つ「東京」があった。小樽にはかつて北郭と南郭(写真4)f:id:shimamukwansei:20090916172426j:image:left

という遊廓があった。小樽遊郭は舟に関係する人たちが主に利用していた。北郭は舟で仕事をしている労働者が行く低所得者向けで、南郭はその舟でやってきたお金持ちが行く高所得者向けの遊廓だった。この南郭は鯉川楼の八木周蔵が作ったもので入り口には今も現存している大きな桜の木があり、大門をくぐれば大門湯という銭湯があった。南郭は仲ノ町、京町、柳町、弁天町羽衣町で構成されており、東京吉原遊廓と同じ地名である。東京吉原がそのまま小樽に引っ越してきたような感じだ。戦後になって八木周蔵が女性たちを解放して南郭は消滅するが、実はこの八木周蔵は映画館を2つも作っている。スパル座とスパル座地下が八木周蔵の映画館だった。戦前に遊廓と映画館、そして鯉川温泉まで手がけた八木周蔵とはどんな人だったのだろうか。非常に興味深い人物である。

(3)小樽の元映画技師 下田修一さん

 

小樽の映画館の終焉を看取った映画技師がいる。下田修一さんだ。下田さんは小樽日活劇場から花園映劇、小樽東宝スカラ座、プレミアシネマズへと小樽の4つの映画館で働いてきた。しかし今、映画館は小樽築港駅にワーナーマイカルシネコンが1つあるだけだ。このシネコンの登場が小樽の映画館の衰退に拍車をかけたことは言うまでもない。豊富な客席数に、きれいな館内、そして一つの映画館でたくさんの映画を一度に見られる。たしかにシネコンが1つあればいいのかもしれない。だが、シネコンにも多くの長所があるが、短所もある。小樽ワーナーマイカル大阪ワーナーマイカル神戸のそれもどこに行っても同じサービス、同じ風景が広がる。つまり映画館に個性がないのだ。人々は映画を見た記憶を映画館という場所とともに思い出にすることはできない。

 映画を見ようと思って劇場に行く。誰しもが最初にするのは窓口で座席を決め、チケットを購入することではないだろうか。ところが、単館には指定席はない。満席になってしまったときは立ち見も可能だった。常連さんの中には「自分は絶対この席だ」というのを持っていて自分だけの指定席を作ることができた。その「自分だけの指定席」は「自分の居場所」だった。

 そして席についてスクリーンを見ると予告が流れている。それからワーナーマイカルのキャラクター、バックスバニーが上映中の注意や案内についてしゃべりだす。中でも次のシーンに注目したい。バックスバニーが「上映ミスやサウンドミスを見つけたら劇場の係員に知らせてほしい」と言い、画面が意図的に二重になる。「おい!ずれてるぞ!」というコメントとともに画面は通常に戻る。このバックスバニーのセリフに下田さんは疑問を感じている。「ベテランの映画技師がいる映画館で、ミスは許されない。フィルムが逆さまになったり、画面が動かなくなったり、音が出なくなるようなことは技師のプライドとして絶対ありえない。」と悔しさをにじます。

 いよいよ映画本編の上映になるとき、シネコンと単館の決定的な違いが出る。スクリーンカバーだ。ワーナーマイカルなどのシネコンではスクリーンがむき出しの状態になっており、単館には左右にカーテン状の、舞台などでよく見られる幕がある。シネコンでは映画上映の合図は館内が暗くなるだけだが、単館は幕が開く。この幕でも映画技師の技術が試されるのだ。この幕の開閉、実はとてもタイミングが難しいのだ。オープニングではタイミングよく開けなければならないし、エンディングでは余韻を残しつつ閉める。技師たちの観客に対する思いやりで開閉するスクリーンカバー。スクリーンカバー一つにも技師の思いがこめられているのだ。

「映画館のコンビニ化だ」と下田さんは言う。利便性、効率性を重視し、人と人とのコミュニケーションがなくなる。今の映画館は便利さだけが追求され、さらには全国展開、大量配給、まるでコンビニだ。コンビニやスーパーが商店街から客を奪ったように、映画館も同じ道をたどっている。また下田さんは著書のなかで「『小樽・映画館の時代』の最後に、かろうじて滑り込みに間に合った」とこうも述べている。下田さんは映画館のピークが終わり、衰退に向かいつつあった昭和50年から平成11年を映画館とともに歩んでいる。今でも下田さんは、小樽文学館で「小樽・映画館の時代」という企画展に協力したり、自ら講演を行ったりして今でも人々から小樽の映画館の記憶を消さないように活動している。

2章 映画館のその後

(1)各映画館のその後

小樽にはピークで23館もの映画館があった。明治から平成まで全ての映画館をあわせると39館もあり、とくに転業先や廃業時に特徴のあるものを以下の表にまとめた。

映画館     廃業、    転業先

高島劇場・・・・・スーパー

若松館・・・・・・スーパー

錦映劇場・・・・・スーパー

新星映画劇場・・・スーパー

入船映画劇場・・・スーパー

手宮劇場・・・・・出火後改装復旧、閉館後スーパーへ転業

富士館・・・・・・焼失後再建、 また焼失、廃業

電気館・・・・・・焼失後再建、 また焼失、廃業

住吉座・・・・・・焼失、廃業

末広座・・・・・・焼失、廃業

星川座・・・・・・焼失、廃業

八千代館・・・・・焼失、廃業

公園館・・・・・・焼失、廃業

大和館・・・・・・焼失後、倉庫に転業

松竹映画劇場・・・焼失後ダンスホールへ、さらにボーリングへ転業

日活劇場・・・・・ボーリングに転業、また映画館に戻る

東宝スカラ座・・・ゲームセンター

小樽市史、下田さんの話から作成

 こうして表を見ると、開拓の昔から火災の多い町とされてきた「火災の街小樽」がくっきり浮かび上がる。映画館の消滅の原因に火災が多い。とくに富士館や電気館は2度も火災に見舞われている。巻き添えになったのもあるが、映画館の映写室からの出火という映画館自体も小樽の火災の原因のひとつになっている。

また中でも1965〜70年代に転業先として目立ったのがスーパーだった。映画館のピークに陰りが見え始めた頃と、商店街や市場からスーパーが台頭しだした頃がちょうど同じ昭和30年代後半だったのだ。映画館も商店街も高度経済成長の波に押され、近現代化への転換の時を同じくしている。

 そして高度経済成長とともに娯楽の多様化も進んだ。テレビの家庭への普及により映画館への来場者の減少、ボーリングやスケート場など新しい娯楽施設も生まれた。それを受けて松竹映画劇場や日活劇場はさっそくボーリング場に転換している。しかしボーリングの流行もつかの間、日活劇場はまた映画館に戻った。スカラ座ゲームセンターになり、生き残りの策として一般映画館から成人映画館へと転換した映画館もあったが、レンタルビデオ屋の登場に敗れた。そして平成7年、東宝スカラ座が閉館して単館は小樽から姿を消す。

 2009年9月、かつて映画館が密集していた花園町(写真5)f:id:shimamukwansei:20100108151045j:image:left

を訪れた。ここには東映(写真6)f:id:shimamukwansei:20090915102047j:image:left

スパル座(写真7)f:id:shimamukwansei:20090915103359j:image:left

日活(写真8)f:id:shimamukwansei:20090915103819j:image:left

東宝劇場(写真9)f:id:shimamukwansei:20090915104043j:image:left

花園映劇(写真10)f:id:shimamukwansei:20090915104215j:image:left

松竹座(写真11)f:id:shimamukwansei:20090915104535j:image:left

の6つの映画館が同じ町内に軒を連ねていた。閉館後、いろいろ姿を変えてきた映画館たちは最終的にどのようになっているのだろうか。

 映画館の建物は面影もなく、ほとんどが駐車場になっていた。スパル座はスパルビルというスナックが複数入った夜の商業施設に、松竹座はマンションに変わっていた。90年代から駐車場になる映画館が急増したのはバブルが終わり、新しく何かを建てるよりも更地にするほうが楽だったためだろう。

3章 花園町とキネマ祭

(1)花園町 人々の記憶

 

夜になると立ち並ぶ料亭の明かりが辺りを照らし、寿司屋通りにあった妙見見番という置屋から派遣されてきた芸者たちが華やかに行き交っている。戦前、花園町は人々が続々と集まってくる小樽随一の歓楽街だった。稲穂町から花園町へかけて置屋は29軒、芸妓が90名所属しており、その繁栄ぶりを証明している。ところが昭和12年ごろから軍人の出入りが目立つようになった。そして16年にはついに軍部の統制を受け、料亭軍部専用のものになり庶民から遠い存在になってしまった。

現在も稲穂町から花園町にかけての地域はスナック街の嵐山新地(写真12)f:id:shimamukwansei:20090915103003j:image:left

や、飲食店が立ち並ぶ繁華街である。しかし花園町(写真13)f:id:shimamukwansei:20090915103305j:image:left

がにぎわっていたのは夜だけではなかった。かつて、花園町には前述した6つの映画館があったのだ。

「子供のころ、よくタダで映画を見せてもらったなぁ」と東宝劇場の隣にある三川屋のご主人は懐かしそうに話してくれた。昔、映画は「実演」と呼ばれており、女優がPRしに映画館まで舞台挨拶に来ていたのだ。美空ひばりこまどり姉妹ザ・ピーナッツなど大物芸能人たちの来館に花園町は沸いた。芸能人は東宝劇場の非常口から抜け出して、三川屋を控え室として利用したそうだ。そのお礼に招待券をもらえたので、子供のころから映画館は遊び場の一つであり、なじみ深い場所だったという。越後商店の大正生まれのご主人は松竹座、中央座(のちの日活)で弁士のいる無声映画を見たことがあるそうだ。BGMもその場での演奏で洋画なら楽隊が、邦画なら三味線の演奏があったと当時を振り返る。このまま、映画館は当時を知る人々の記憶の中に埋もれていってしまうのだろうか。

(2)キネマ祭

 日本で3番目に鉄道が開通してから炭鉱でにぎわい、戦後には樺太からたくさんの人が引き揚げてきて小樽は港町として大きく発展した。だが戦後になって北海道経済の中心が小樽から札幌へと移ってしまったため、小樽は衰退してしまった。しかし小樽運河をPRした観光事業の成功により、小樽はにぎわいを取り戻した。小樽運河の成功の影で、衰退の一途をたどるままだった花園町。その花園町で「映画の都復活祭小樽キネマ祭」が平成18年に開催された。同祭は今年(平成21年)で4回目を迎えた。この祭りの内容は野外にスクリーンを用意し、昭和の小樽の映画を上映するというものである。また、抽選会や屋台などもある(写真14)f:id:shimamukwansei:20100108150639j:image:left

運河に客をとられることと、商店街の衰退を防ごうと花園映劇の跡地の裏にある石倉のスナックの人が呼びかけたのがきっかけだった。祭りは花園映劇の跡地で開催し、石倉をスクリーンに石原裕次郎の映画を上映する。この映画上映は石原裕次郎記念館とのコラボで実現した。お客さんはほとんど花園町の人だが、なかには小樽商大生もちらほら見受けられる。しかし若いお客さんは映画自体に興味はなく、水天宮のお祭りに合わせた開催なので、なんとなくお祭りの雰囲気につられて来場している人が多いという。会場には映画関係者もおらず、せめて当時の雰囲気の映画館のセットでもあれば、「映画の都」を強調できるのではないだろうか。

おわりに

 今、小樽の街にはかつて映画館の街だったころの面影がまったくといってない。映画館だった建物も今となっては駐車場やマンションだ。「小樽と言えば」と聞かれたら多くの人が「運河」と答えるだろう。「映画館がたくさんあったね」と答える人はこれからだんだん少なくなるだろう。映画館は単館からシネコンへと時代とともにシフトし、映画館も技師の技術いらずの機械化、個性なきチェーン店化の時代を迎えた。そんな中、花園町は映画の街の記憶を復活させ、町おこしに励んでいる。嵐山新地やスナック街に昭和の面影が残っている。その映画の街復活祭で、もし昭和の情緒あふれる映画館や街並みが再現できれば、今注目されている「B級観光」のスポットになりうるのではないか。観光地化だけが町おこしではないが、映画館の記憶の灯火が消えないようにこれからも毎年キネマ祭が開催し続けられることを願う。


この研究をレポートとして形にすることが出来たのは、担当して頂いた島村恭則教授の熱心なご指導や、下田修一さん、越後久司さん、花園町の商店街の方々のおかげです。協力していただいた皆様へ心から感謝の気持ちと御礼を申し上げたく、謝辞にかえさせていただきます。  





文献一覧

下田修一

 2007 『エッセイ集 レトロな映画館につれてって』緑鯨社。

小樽市

 2000  小樽市史 第10巻文化編

小樽なつかし写真帖》編集委員会

 2007 「月刊小樽なつかし写真帖」発行 どうしん小樽販売所会。

神戸100年映画祭実行委員会/編 神戸映画サークル協議会/編

 1998 『神戸とシネマの一世紀』 神戸新聞総合出版センター

URL

http://www.shurakumachinami.natsu.gs/03datebase-page/hokkaido_data/otaru%20hanazono/hanazono_file.htm

http://theaterkino.net/yomoyama/015.html

2010-02-05

高島の伝統行事とアイデンティティ

| 23:21

高島の伝統行事とアイデンティティ

はじめに

 このレポートは社会調査実習の一環として、北海道小樽市で行った調査をまとめたものである。私は小樽市の一地区、高島地区にて主に聞き取り調査を行った。その上で、高島地区における七夕行事、高島越後盆踊りといった伝統行事を通して、高島という町について調査をした。

 第1章 高島という町

 (1)高島地区の成り立ち

 高島地区は石狩湾に面した小樽市の西北部、北防波堤からカヤシマ岬の間の海岸沿いにある集落で、赤岩山へと連なる丘陵地帯に住宅地が広がっている(写真1:高島の町並み。丘陵地帯に住宅が広がる)

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 今では小樽市合併してしまったが、かつては高島郡高島村が存在した(写真2:旧高島町役場庁舎。現在は小樽高島診療所)f:id:shimamukwansei:20090916111752j:image:left

  高島にはかつてアイヌの人が暮らしていた。江戸時代、場所請負制によって高島場所を受け持った西川伝右衛門によって、高島場所が開かれた。高島はニシン漁で栄え、アイヌの人に和人がニシンの漁法やホタテ、サケの塩蔵などを教えていた。出稼ぎの漁民もたくさん本州から渡ってきて、高島は漁業が大変栄えていた。ニシン漁の時期には、古着屋、煮売り屋、髪結所なども開店していた。しかし、ニシン漁の時期を除いて高島に残る和人はいなかった。和人は春に来て秋に帰ってしまい、冬季はわずかな人数の番人を残すだけであった。アイヌの人たちは数箇所にまとまり、ずっと暮らしていた。

 その後、場所請負制の廃止、明治維新によって人の流れが自由になると、高島にも移民がやってきた。高島村としては明治二年に十三戸、四十四人が移住してきた。高島への移住者は、越中越後佐渡、庄内、出羽津軽など北陸東北地方の人がほとんどである。聞き取りによれば、今でも年配の住民の方は、自分たちのことをご先祖様の出身地である土地をつけて「〜衆」と呼ぶそうである。高島がひとつの行政としての町でなくなってしまった今でも、彼らは自分たちのルーツを強く意識しているのである。小樽市ではあるが小樽ではない雰囲気をそこに感じた(写真3:高島の町並み)

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(2)移住者が伝えたもの

 さて、高島に移住してきた人たちはそれぞれの土地の文化もそこに伝えた。北海道小京都松前町に京風の文化が今でも残るように、北前舟はモノ、人だけではなく、土地の風習や行事も一緒に運んできたのである。その中でも高島には興味深い伝統行事が今でも残る。

 まず、七夕行事というものがある。これは青森秋田ねぶたねぷたというものが移住者とともに伝わったものである。これについては後で詳しく述べる。

 次に越後盆踊りというものがある。これは名前のとおり、越後衆によってもたらされたものである。これも後ほど詳しく述べる。さらに、越中から伝わったといわれる山車をぶつけ合うお祭りが、昭和のはじめまで残っていた。行事を主催するのはそれぞれの土地出身者である。自分たちの先祖の土地より運んできた行事を主催し、それを町の人全員で楽しむ、これが高島のスタイルである。

第2章 高島にともる七夕の灯

(1)七夕行事の概要

 高島に伝わる七夕行事は、上でも述べたように東北地方から伝えられた。毎年の八月六日、七日に青森津軽地方の「ねぶた」さながらの人形ねぶたや、扇の形をしたねぶたが町内をねり歩くのである(写真4:青森の特徴を持ったねぶた、5:町内を練り歩く「やま」高島郷土館ホームページより)

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ねぶたの形によって、青森のどこのねぶたに似ているというものがある。津軽五所川原などの特徴を持った形のねぶたが存在する。この行事はやはり、いまでも青森津軽出身者の子孫の方たちによって主催されている。

 高島の人たちはこのねぶたのことを「やま」と呼んでいる。この「やま」を夏休みになると、地元の子供から大人まで、みんなで協力して作るのである。昔は細い木などで作った角形の城や塔など、そしてねぶたに描かれるようなデザインが多かったそうであるが、最近ではテレビや漫画の主人公をくみ上げたものが多い(写真6:ピカチュウカレーパンマン

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特に人気があるのはポケモンアンパンマンといったキャラクターである。この「やま」昔は垂木で組んだ櫓の上に乗せて四人で担ぎ、やぐらの中の一人は歩きながら太鼓をたたいた。後の子供たちは、絵や文字が描かれ、ろうそくを灯された灯籠を持って、「やま」の前を歩く。そして、太鼓の音に合わせて掛け声を出し、ほかの「やま」とすれ違うときにはやし立てるのである。しかし、時代の流れとともに行事も変わっていった。近年は担いで歩くこともなく、リヤカー軽自動車にのせ、ローソクも電球に変わってしまった。

 かつて、「やま」に使うローソクは子供たちが集めていた。家々を回って、ろうそくを自分たちで集めるのである。高島の人たちも、夕方から家の前で子供たちを待ち、「やま」の出来栄えを褒め、ローソクを用意して、お金やお菓子とともに渡すことが習慣になっていた。そのときに、かつては子供たちがローソクもらいの歌を歌っていたそうだ。「ローソク出せ、出せよ、出さねば、かっちゃくぞ」といった具合に。しかし、このローソクもらいというものは今ではもうその形を変えてしまった。かつては高島の地区だけではなく、手宮から小樽の市外まで「やま」を引っ下げて出かけていたものの、ローソクをもらって歩くことが、物乞い、物貰いのようであるといった声を受けて、高島地区から町外へ「やま」が出て行くことはなくなってしまった。博物館の清掃員の方に伺った話では、十年から二十年ぐらい前になくなったとのことであった。

 そのかわりに、高島町会の青少年部が中心となって、町内パレードと「やま」コンクールが実施されるようになった。コンクールでは立派な「やま」に対して、賞が授与されていた。パレードだけではつまらないから、コンクールをするということになったということであった。

 高島でも少子化が進み、かつては五十基以上の「やま」が集まる、住民にとっての一大イベントであった七夕祭りも、だんだんとその存在意義が問われることになってきた。そして平成十年、祭りの中止とともに、七夕の灯は消えてしまった。

 しかし、五年後の平成十五年夏、高島小学校創立百二十周年記念にあわせて、保護者たちが七夕祭りを再現して校区内をパレードしたことがきっかけとなり、祭りが復活することとなった。山作りの技術を子供たちに伝えようと、七夕の前に講習会が行われることになった。子供も大人も競うように「やま」を作り、高島の町をパレードしたのである。かつての賑やかさには及ばないが、高島の町に再び灯がともったのである。

 

(2)大黒さんと高島

 上で述べた話は高島町会会長の大黒昭さんに伺ったものである

大黒さんは元小学校教諭で、ご先祖様は青森津軽出身。高島に来て、四代目の方である。生まれは東京だが、二歳のときに高島に移り住んだ。それ以来、ずっと高島に暮らしている高島っ子である。ではその大黒さんと高島のかかわりについて見ていきたい。

 大黒さんのご先祖様は廻船問屋の仕事に従事していた。明治二年に船が難破、遭難し、新天地を求めて蝦夷地に渡ってきた。なるほど、大黒屋といえば廻船問屋の響きを感じる。私だけであろうか。

 大黒さんは教師として教壇に立つ傍ら、郷土の伝統を守るための活動をしてこられた人である。具体的にはたこ作りがあげられる。大黒さんは小さいころから祖父にたこ作りを教わったそうだ。そのたこというものは津軽伝統工芸品である。ご先祖様が高島に伝えたものを、今でも大黒さんは地域の子供たちに指導している。たこ作りの名人で小樽職人の会の一人にも数えられる。

 私は大黒さんに、かつて高島に暮らしたアイヌの人たちはどこへ行ってしまったのですかと聞いた。アイヌの伝説が残るなど、アイヌの人たちの存在が高島にもたらしたものは多い。高島大黒さんの話では、かつて氏の同級生にもアイヌの人はいたそうだ。肌が透き通るように白く、髪は大変黒く、長い。それはもう大変な美人だったそうだ。そんなアイヌの人たちも、時代の流れとともに同化してしまって、今では区別がつかなくなってしまったとのことだった。ただ、アイヌにルーツを持つ人はいるということだった。

 さて、そんな大黒さんであるが、彼はずっと七夕祭りを見守り続けてきた。七夕祭りがなくなったときは大変悲しかったそうだ。しかし、大黒さんの高島に対する思いは熱いものであった。高島町会会長として、七夕祭りの復活に向け奔走した。そのかいあって、七夕祭りは復活した。高島の七夕祭りを復活できたのは、大黒さんの役割が大きかったのである。

 大黒さんは今でも高島のために活動している。高島町会会長として、七夕祭りはもとより、盆踊りや十月に開催される町民文化祭にも関わっている。私が彼を訪ねたときは、大変多忙な日程の合間を縫って、私に対して詳しく、そして熱く高島について語ってくれた。大変気さくな方で、私の質問に対して熱心に答えてくれた。本当に感謝したい。

第3章 高島と越後の調べ

(1)越後から高島へ

 高島には津軽出身者とともに、越後出身者が多い。どこから来た人が多いというところまではっきりしている。移住してきた人の出身地は、新潟県北蒲原郡紫雲寺町からの人が多い。現在の新潟県北蒲原郡紫雲寺町市町村合併によって、新発田市になっている。この地域は日本海側の海岸線に沿って半農半漁の村々が点在していた。これらの村々では、明治の初期のころから高島に少しずつ移住が行われていた。特に明治十年頃、藤塚浜で村の三分の二が消失するという大火があり、これを契機に大量の移住者が出たとのことである。現在、高島には「須貝、本間、小林」といったせいが大変多いそうであるが、これらの方々の先祖は、この藤塚浜からの移住者であるという。

 私はこの北海道から帰った翌月、実際に新潟県北蒲原郡紫雲寺町を訪れた(写真8:新潟県北蒲原郡紫雲寺町藤塚浜地区)

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現在は新発田市になっていたが、藤塚浜の地名は残っていた。そこで集落を注意しながら歩いていると、確かに「須貝、本間」といった性が多かった(写真9:藤塚浜の町並み。須貝、本間の姓が多い)

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とても静かな集落であった。しかし、どこか高島に似たような雰囲気を私は感じた。集落から宿泊している民宿に帰り、民宿の御主人に事の次第を話した。すると御主人は戦前から戦後すぐの紫雲寺町北海道とのつながりについて話してくれた。

 新潟県北部北蒲原郡は当時としては大変人口が多いところであった。この町だけに限らず、新潟県は人口が多かった。戦前から戦後の食糧難の時代に、この土地の人たちは北海道に出稼ぎに出かけて言った。家族を養うために。御主人の親戚の方も北海道に出稼ぎに向かい、帰還した際には塩鮭、塩カレイなどの塩魚をお土産にもらったという。これらの出稼ぎに向かった人は、かつて彼らに先駆けて北海道に向かった人たちの後を追いかけていったのである。藤塚浜の人たちは、生きるために北海道に向かったのである(写真:新発田市に現在も残る、戦後の名残を残す公設露天市場。出稼ぎに行った人たちはこういったところで商いをしていたのであろうか。)f:id:shimamukwansei:20091013120547j:image:left


(2)高島越後盆踊り

 故郷を遠くはなれ、北の果ての漁村高島での生活を始めた移住者たちは、お盆になると先祖たちが眠る藤塚浜に思いをはせながら、故郷の盆踊りを踊った。それが現在の高島越後盆踊りである。つまり、移住者たちの故郷、藤塚浜は高島越後盆踊り発祥の地である。

 高島盆踊りとはどのようなものなのであろうか。詳しく見ていきたい。越後でこの盆踊りが始まったのはいつごろか定かではないが、おおよそ江戸時代初期ということらしい。当初は笛だけで踊っていたが、後に囃子唄を伴った踊りが加わり、今日のような笛と太鼓だけで踊る「高台寺踊り」と呼ばれるものと、太鼓の囃子と盆唄で踊るゆっくりとした踊りの二種類が高島に移住者とともに伝えられたということである(写真10、11:高島にある高島越後盆踊り記念碑)

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 高島越後盆踊りの歌詞を実際に見た(写真12:越後高島盆踊りの歌詞)

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その内容は故郷への思いや、若者の恋の歌、漁の安全を祈る歌まで様々なものがあった。七夕祭りの話を聞いた大黒さんによれば、盆踊りの場は男女の出会いの場であったそうだ。普段はなかなか声をかけることができない、気に入った娘と懇ろになるチャンスであり、大変盛り上がったという話である。娘と話がまとまれば盆踊りを抜け出して、浜に降りていって一夜を共にすることもあった。このようなこともあり、その娯楽性の強さから、第二次世界大戦中は盆踊りが中止の憂き目に会った。戦後はいち早く復活したが、もはや昔のものとは変わってしまったという。

 平成十三年、高島越後盆踊り小樽市の無形民俗文化財に指定され、同十六年、北海道文化財保護功労賞を受賞した。近年では都市を追うごとに行事も活発になってきており、高島地区以外の人たちも参加し、大変な盛り上がりを見せている(写真13:盆踊りの様子。高島郷土館ホームページより)

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 先ほど述べたように、私は実際に藤塚浜を含む新潟県中部から北部を訪れた。民宿のご主人は私が宿を出る朝、興味深いものを持ってきてくれた。それは約十年前、藤塚浜の老人ホームで行われた敬老会における、盆踊り大会の音声を録音したものであった。カセットテープから流れてくる越後の調べは、私が高島で聞いたもの、また大黒さんに資料としていただいた、CDROMに収録されていた高島における盆踊りの調べとまったく同じものだったのである。私は正直なところ、多少は新潟と高島で音の響きというものが違うであろうと思っていた。しかし、メロディーからお囃子の調子まで、まったく同じだったのである。確かに後日、新高島町史を読み直したところ、平成十六年に藤塚浜の住民が高島を訪れて、一緒に盆踊りを踊ったところ、一度もあわせたことがないのに、笛や太鼓のリズムも、踊りの振りもまったく同じであったということが記述してあった。大黒さんもそう述べていた。

 はるか故郷を離れても、盆踊りを踊るたびに故郷のことを思い出したと高島のある人は言っていた。そのつながりを示すがもうひとつある。それはかつて、いや未だに高島の越後出身者の中には越後に本籍を残している人が多いということである。かつて、大黒さんが教壇に立っていたとき、クラスの生徒の本籍地はほとんどが新潟県北蒲原郡、すなわち彼らのご先祖様の出身地であったそうだ。これはいまでも移住者が故郷とのつながりを持っている証拠である。やはり故郷との縁は切っても切れないものなのであろうか。

第4章 伝統行事の再生

(1)変化する伝統行事

 今までに述べてきた七夕祭り、高島越後盆踊りといった伝統行事というものは、今でも形の上では伝統行事として残っているが、もうかつての姿ではない。少子化による祭りの担い手の減少や、時代の流れとともに祭りの姿は大きく変わってしまった。かつて住民たちは自分たちの故郷のことを思い、伝統行事にも精を出していた。しかし、だんだんと自分たちのアイデンティティーを意識する人たちが少なくなってきたことによって、このような行事も規模が小さくなり、新しいものに生まれ変わってきている。そして、今では観光客もこれらの行事に参加している。つまり、これらの祭りのあり方が、地区内の人たちのアイデンティティーを保つ、忘れないようにするという本来の目的から、伝統行事によって、希薄になった人のつながりや子供とのふれあいというものを再構築しようというものに変化してきているのである。さらにこれに観光客を呼び込むなどの外向きの要素が加わっている。七夕祭り、越後盆踊りはその本質を変えながらも、現在に引き継がれているのである。

まとめ

 高島の伝統行事は、その本来の目的、姿というものは変わってしまったが、現在でもしっかりと住民の人たちによって執り行われている。大黒さんをはじめとした、地元の方の高島に対する思いはとても熱い。誰よりも自分たちの郷土を愛している。大黒さんは私にこう言った。

「たとえ伝統行事本来の意義を失っていたとしても、伝統行事が地域の人の心をつなぐものであり、また、若い人たちに伝統を伝えていくきっかけになればいい」と。

 私は高島において、彼をはじめとした伝統を守ろうと奔走する人を見た。「消えそうになった灯」をみて、自分たちのアイデンティティーを再認識し、それを次世代につなごうとする人を。

「自分は高島の人間です。」

高島に誇りを持って生きる彼らの姿を見て私は郷土を思うということはこういうことなのかと実感した。それと同時に、自分が生まれ育った町に誇りを持てるということは、すばらしいことだなと思った。

高島の公民館(写真14:高島の公民館、高島会館)

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を私が訪れたとき、小学校くらいのお子さんであろうか、地元のお子さんが私に挨拶をしてくれた。大黒さんの目は、高島の伝統の灯は消えないこの子達がいつの日か、きっと伝統を受け継いでくれる、そんな目をしているように思えた。

 またいつの日か、高島を訪れたい。七夕に町中を「やま」が行きかい、夏の夜に越後の調べが鳴り響く、そんな高島を。

最後に

今回の調査では、小樽市立総合博物館学芸員の先生方、高島町会会長の大黒さんをはめとした高島のみなさんのご好意によって、お話をうかがわせていただき、様々な面で協力していただいた。私のために時間を割いていただき、大変貴重なお話をしてくださったことに、最後になってしまったが、この場を借りて感謝を申し上げたい。

文献一覧

天野 武

 1996 『子供の歳時記−祭りと儀礼』岩田書店

大黒 昭

 2009 『自分史 日々是好日(定年後の日々)大黒 昭 

 2005 『新高島町史 改訂増補版』大黒 昭

小田嶋 政子

 1996 『北海道の年中行事』北海道新聞社

新人物往来社

 2008 「歴史読本2009年1月号」新人物往来社

新谷 尚紀

 1999 『読む・知る・楽しむ 民俗学がわかる辞典』日本実業出版社

 インターネット資料

高島郷土館

http://www17.tok2.com/home2/takashimakyodokan/index.html

お話を伺った人

高島町会会長 大黒 昭さん

高島の住民のみなさん

小樽市総合博物館学芸員の先生方

小樽遊廓史

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小樽遊廓史

永田 拓也

第1章 遊廓の誕生

(1)遊廓が生まれるまで

 17世紀末から、幕府を中心とした農業の振興政策によって、農業の肥料であるに鰊粕の需要が急激に伸び、北海道各地には、鰊の漁場として人々が集まるようになった。

出稼ぎ人が多く集まるところ、漁場には、自らの性を売る女が現れだし、その流れで遊廓が生まれるのは一般的である。特に小樽北海道屈指の漁場であって、出稼ぎ人も多く集まっていたので、そういった地理的要因からも遊廓が出現していてもおかしくなかった。しかし、当時の神威岬には「女人渡海禁制」という掟があったのである。「神威岬より北を「神地」」と呼び、「神地は女人の通行を絶対に許さず、妻子を伴った移民も漁夫も、これより北方へは移動することはできなかった」のである。また、「松前藩はその通行を許さなかったのは、奥地の資源を知られることを恐れ、こうした渡海禁止の政策をとった」のだ(小寺1974:124−125)。そのため、小樽には出稼ぎ人や滞在者が増えても、なかなか遊女が出現しなかったのである。いや、できなかったと言ったほうが正しい。この神威岬以北渡海禁止の掟は、安政3年(1856)に解かれ、次第に小樽にも女が入ってくるようになる。「浜千鳥」(小寺1974)と呼ばれる賎妓が現れだしたのもこの頃である。 

 「安政四年(1857)二月、蝦夷地奥への道路の開鑿が急速に進められた。開かれた道路付近では、開墾希望者や旅人宿等の営業を希望する者には出願を許し、入 稼者に課してきた入役銭を免除し、旅客の通行を自由とするなどの優遇処置を講じ」(「小樽の女性史」編集委員会編1999:33)ることで、海岸一帯はすぐに土着する人々の数を増やしていき、漁場を中心に大きな集落が形成されていって、居酒屋、旅篭屋なども見られるようになっていった。また、万延2年(1861)、海岸での荷揚げを簡単にするために、場所請負人である岡田家などを中心とした裕福な商人たちによって、 入船川河口辺りから現在の信香町方面へ埋立、道路を開削(2007 小樽観光大学校運営委員会編:73)することによって、その地一帯は市街地化していった。

 このように、安定した漁場としての実績があったことは、小樽に遊女を発生させる起因となったことは言うまでもないが、他の土地に比べその発生が遅れたのは、安政三年まで存在した神威岬以北の女性渡海禁止の掟に由来する。

(2)官営遊廓の誕生

 先に述べたように、急速に人口が増加した当時の小樽には、続々と居酒屋、旅篭が開かれていった。当時の旅篭の多くには、酌取、飯盛りなどと呼ばれる娼婦が置かれているのが常で、人口の増加に相まって、遊女屋として開業する店が目立ち始め、やがて町を形成するほどまで栄えるようになった。これが、小樽における官営遊廓発祥の地「金曇町」である。神威岬以北の女人渡海禁制が解かれてからは、金曇通りがまず遊女街になった。遊女屋や居酒屋などは、15、6戸もあったそうだ。金曇通りとは、臨港線から信香会館までの道路のことである(写真1)。f:id:shimamukwansei:20090917104445j:image

金曇町となったのは明治になってからのことであるが、この金曇町は勝内川河口付近(現 信香町)に存在した。当時、北前船は勝内川河口に船を休め、乗客や積荷を下ろしていくというのが常であった。

一方、明治2年(1869)に「北海道」と名づけられ、それと同時に発足した開拓史は、北海道の開拓を進め、労働力の確保のためには遊女屋も必要との思惑から、明治4年(1871)に金曇町を遊廓として公認したのである。町としての発展とともに、遊廓も発展していった。北海道新聞社が編集した『小樽のアルバムから』で、昭和56年8月21日付の北海道新聞の記事中には、このような記述もある。

   青楼「南部屋」は、住ノ江町時代まで北海道随一のにぎわいをみせていた。抱えの女性約七十人、ニシンの盛漁中、一日の収入は約三千円(今の金額で約五千万円)。女性の収入は、筆頭者が月七百円(同約千百万円)であったといわれている。

   (市立小樽図書館1991:「7.旅館兼業の遊廓」)

実際に、信香町を歩いてみると、現存する遊廓に関連した建造物は残っておらず、全体的に閑散としているといった印象を受けたが、町は碁盤の目上に整備されていて、通りはかなり広く(写真1)、当時この辺り一帯が栄えていたことを十分に示している。信香町にあり、明治14年開業「小町湯」の女将さんに話を聞く機会があったのだが、小町湯はその当時蕎麦屋であり、1日に500杯もの蕎麦を遊廓に届けていたのだそうだ。その数の多さを聞いても、金曇町の遊廓が栄えていたことがうかがえる。

第2章 住ノ江遊廓

 明治14年(1877)「札幌小樽貸座敷並ニ芸娼妓営業規則」が発布され、貸座敷は旅篭と分離されるようになり、その地域も金曇町と新地町に限定された。しかし、実際には入舟町などには「あいまいな女」を置いている料理屋が存在するというのが実状であったそうだ(「小樽の女性史」編集委員会編1999:37)。さらに、貸座敷が商家と軒を連ねているのは、風紀上や取締上にかなり問題があるということで、市民の間からは移転陳情も強まっていくことになる。ここで、明治14年(1881)5月21日に、現在の信香町一帯で旧11カ町が焼失するほどの大火が発生し、金曇町の遊廓も丸焼けとなった。当時の俗謡では、「かわい金曇町何にして焼けた 寝てて金取った其の罪で 三十三軒ばらっと焼けた」(小寺1974:132)と歌われた。この明治14年の大火を契機として、遊廓は住ノ江町に移転し、明治16年(1883)に移転は完了し、以前にも優る歓楽街ができあがった。当時の住ノ江町は畑地であり、中央通り22メートル、小路14メートルの区画を整備し、移転を渋る業者に公金を貸し付けて奨励を図った。また、小樽における中心街も金曇町があった勝内方面より西側で、山手方面の入舟方面に移っていった。

 ここで、重要になるのが、以前は中心地に存在した遊廓が、当時畑地であった住ノ江町に移されたという点である。これは、「旧小樽の十一ヶ町五百六十有余戸を稀有に帰した」(小寺1974:132)明治14年の大火を教訓にした、風紀・取締りを強化しようという開拓史の考えが読み取れる。そのため、遊廓の市街地からの隔離ともとれる、住ノ江町への移転を断行したのである。

 以下は、『北海道遊里史考』で、その頃名のあった貸座敷について記された文章である。

  

   「貸座敷南部屋」

    明治十四年の大火のあと、住吉裏の遊廓営業指定地に、移転したのは南部屋であるが、    当時ここには南部屋が二軒あった。一つを大南部、一つのを小南部と呼んでいたとい     う。札幌県から三万円の貸付を受け、四層楼であった。この頃は三菱と共同運輸との海    運競争時代で、官吏の往復が繁く、南部屋は旅館としても隆盛を極めたものであった。

    四層の楼は洋風館であり、異彩を放ち楼上には「南部」と書いた額を掲げ、また岩村長    官等の「呑海楼」の扁額もあったと伝えられている。楼主の南部てつは医師中井杏庵の    女で、南部屋の養女となり、当時の有名な芸妓の一人であった。

   (小寺1974:132−133)

   「丸立」

    顕官もしくは府県から来遊する人々は、海路窮屈な旅を終えると、蘇生の思いで小樽に    上陸した。そして上陸早々に豪遊したことは上下尊卑の別がなかったが、特に顕官紳商    などが、遊興ふけったのは、丸立であったとされる。(小寺1974:133)

第3章 南廓

 先にも述べたように、明治16年(1883)に遊廓は住ノ江町に移り、その後小樽の市街地も信香方面から、入舟、色内と北に移動し、明治30年ごろには遊廓があった住ノ江町近辺も市街地化されていった。そのため、遊廓と一般の民家が隣接する形となり、またもや風紀上の問題が浮上してきた。それと同時に、明治29年(1896)4月27日夜、住ノ江遊廓からの出火が原因で、旧小樽の7ヶ町を全焼させてしまうほどの大火が発生したのを機に、13年間もの間栄華を極めた住ノ江遊廓は、天狗山山麓の、人里離れた山奥の入舟町の奥、松ヶ枝町へと移されることになる。明治40年に誕生した梅ヶ枝町の遊廓と存在した時期が重なるため、この松ヶ枝町の遊廓が「南廓」、対して梅ヶ枝町の遊廓は「北廓」とも呼ばれる。

 写真3、写真4を見てもわかるように、大火の教訓があってか、松ヶ枝町の通りは広すぎるほどの道幅を持ち、町並みは整然とした印象を受ける。大門を抜けると、手前から順に、柳町、京町、仲町、弁天町羽衣町と名付けられる町が存在し、これは江戸吉原にも京町、仲町の名があるので、吉原になぞらえたものだといわれる。この南廓には計18軒の廓があったという(木村2007:38)。花街にふさわしい彩りを添えようという考えから、遊廓の移転と同じ頃に入舟川に沿って植樹された桜並木は、閑静な住宅街となったこの辺りではちょっとした桜名所となっていた(小樽なつかし写真帖編集委員会編2009:第58号)そうだが、私が調査を行った2009年9月頃には見確認することはできず、無くなったものと思われる。

 また、松ヶ枝町という地域は、前述したように、タクシーが無いとたどり着けないような、坂を上ったところ、天狗山の山麓にあり、当時は人里離れた地域であった。バスもタクシーも無い時代にそのような辺鄙な場所に移転した理由としては、風紀上の問題が挙げられるのだが、その当時の遊廓の名残を感じさせるものに、「洗心橋」という橋がある(写真5)。f:id:shimamukwansei:20090915162259j:image

南廓に向かうには、今の南小樽駅辺りから入船町を通っていくルートと、手宮方面から今の緑山手線を通っていくルートの2通りがあったが、洗心橋は後者の場合に、当時の男衆たちが通ったものと考えられる。「当時遊廓で心置きなく遊んだ男衆たちが、せめて心だけでもきれいに洗って帰ろう」、ということから洗心橋という名がついたという説がある。同様に、遊廓に入る前にしばし考え、思案するということから名付けられたとされる、長崎県は丸山遊廓の入り口にある「思案橋」も有名な話である。

 風紀上の問題のため、天狗山の麓に移された遊廓であったが、交通の便の悪さから客足が減少し、業者らは明治39年(1906)、色内川上への再移転を陳情するが、一般市民の反対に合い、結局、再移転は許可されなかった(北海道新聞社編1984)。戦後まもなく遊廓が廃止され、松ヶ枝町一帯は現在の閑静な住宅街へと次第に姿を変えていった。

第4章 北廓

 これまでに述べてきた、小樽における遊廓の移り変わりの理由には、一定の原則が読み取れる。それは、「小樽が発展していく中で各遊廓での風紀・取締上の問題が浮上し、大火が起きたのを契機として、移転されていく」という流れであり、金曇町に誕生した遊廓からの住ノ江町遊廓への移転、また住ノ江遊廓からの松ヶ枝町遊廓(南廓)への移転のいずれにも該当するのである。しかし、この第4章で触れる梅ヶ枝町の遊廓の誕生理由は、他と一線を画しているのである。

 

(1)北廓誕生の要因

住ノ江町から松ヶ枝町へと遊廓が移転した一方で、明治40年(1907)3月、手宮

・現梅ヶ枝町の一部に遊廓が設けられた。これが北廓である。この北廓の誕生は、明治13年(1880)に開通した小樽札幌間の鉄道に大きく起因する。その始発駅となった手宮は、以後鉄道とともに大きく発展していった。当時小さな漁村が存在するだけであった町が鉄道敷設によって、界隈の様子を一変させることになったのである。鉄道開通とともに、小樽経済機能は一気に北に傾き、内外の船舶は手宮方面に集中し、人の動きも活発化、それに伴って飲食店が続々と開かれ、密娼の数も増加をたどり、風紀上の問題が浮上し、こうした問題の対応策として遊郭が誕生するに至ったのである。その名も梅ヶ枝町と命名され、これが「北廓」である(写真6)。f:id:shimamukwansei:20090917152455j:image

誕生の翌年には、16戸もの楼が立ち並び、各楼の抱え娼妓の数は130人にも及び、別世界を現出した。やがて廓内には「駆黴院(性病対策医院)」が設けられた。(「小樽の女性史」編集委員会編1999:39)

 また、鉄道開通によって、当時まだ未開の沢地であった手宮の地には、急激に経済発展する。それによって、多大な労働人口を必要としたはずだ。そのため、労働者をつなぎとめておくためにも、やはり遊廓やそれに近いあいまい屋が必要であったと考えられなくもない。実際に、最盛期の手宮タヌキ小路(写真9)には、40〜50軒もの店が軒を連ねていたそうだ。f:id:shimamukwansei:20090917180017j:image

戦後にこの遊廓は、現在の梅ヶ枝町はマンションや住宅が立ち並び、閑静な住宅街へと様変わりしている。

(2)当時の様子

 今回の調査にあたり、遊廓が存在する時期に梅ヶ枝町周辺で生活していた方に話を聞くことができたので、その情報を基にしながら、北廓を中心に当時の様子について述べる。しかし、注意点として、以下に述べる記述は、すべて当時のことを知る者からの聞き取りによるものだが、それを証明するものがないため、すべてが正確な情報であるとは断定できない、ということは先に記しておく必要がおる。

 当時、そこには高さ10メートルほどでレンガ造りの大門があり、数多くの妓楼が立ち並んでいたのだという。火事が頻繁に起こり、その原因のほとんどが「寝タバコ」による布団への引火によるものだったという。午前3、4時ごろ、火事が起きると、男女問わず、真っ裸の人々が、逃れようと楼の2階から飛び出してくるさまはとても印象に残っているという。

妓楼の配置としては、現在手宮川通線となっている道路の真ん中には手宮川が通っていて、現在の済生会小樽病院が位置する場所(写真8)f:id:shimamukwansei:20090917160744j:image

には「越治楼」、坂を少し上り、現在の梅ヶ枝郵便局のあたりに「日の出楼」、その向かい(写真7)f:id:shimamukwansei:20090917150005j:image

には「勢州楼」があり、「日の出楼」の隣には「音羽楼」、その向かいには「第二越治楼」があったという。

 また、当時の遊廓には、比較的安価なものから、高級なものがあったという。北廓があった梅ヶ枝町を例にすれば、先に記した大門の周辺や手宮の辺りに比較的安価な店が置かれていて、大門を抜けて坂を上がれば上がるほど、店も高級になっていたそうだ。

手宮タヌキ小路の中には、人身売買や出稼ぎに来た朝鮮中国人しか抱えていない店も存在していたそうだ。よって、当時開拓に従事していた男衆たちは手宮大門周辺辺りに通い、高官などは高級な店に通っていたものと思われる。楼の中は、まず入り口にその店で抱えの遊女の写真がかけられていて、女を選ぶと、2階に通されるという流れであり、遊女は、15〜16ほどの若いものから、さまざまだったそうだ。

 当時手宮や梅ヶ枝町に隣接する豊川町あたりは、ほとんどが長屋であったらしく、それは労働者が多く住む手宮という地域性を感じさせるものである。長屋に住む労働者たちの中には、生活苦のためか「長男だけいればいい」という風潮があったらしく、娘が生まれると、金を得るために実の娘を売る者もいたそうだ。

聞き取りに協力して頂いた方々の中には、戦後の赤線時代に、そういった店に客を呼び込むというアルバイトをしたことがあるという方がいた。内容としては、町角に立って客に女を紹介し、客がその紹介した女で遊べば、報酬が与えられるというものである。もし、泊まりの客を捕まえることができれば約50円(現在の2、3000円ほど)、泊まりでないならば3〜5円の報酬があったそうだ。

さらに、当時このような店は「立ちんぼ」や「パンパン(屋)」「線香」と呼ばれていたらしく、当時の平均月給が3000円の時代に、1000〜1500円もする店もあったのだという。

 「聞き取りに協力して頂いた方々」

・ 梅ヶ枝町在住、男性、66歳

・ 梅ヶ枝町在住、男性、年齢不明

豊川町、男性、82歳 

第5章 遊廓の終焉

(1)遊廓消滅までの流れ

 これまで述べてきたように、風紀上の問題と大火を契機として、小樽において遊廓は誕生、消滅を繰り返して、最終的に松ヶ枝町の南廓と梅ヶ枝町周辺の北廓とに至ったのであるが、戦後昭和21年(1946)にはGHQによって公娼制度が廃止され、この南・北廓も消滅することになる。しかし、公娼制度が廃止されたが、全国的に「赤線」といわれる私娼地域が発生するようになった。小樽も例外ではない。「赤線」についてさらに詳しく述べると、「集団的な管理売春(組織売春)を黙認するかたちで、戦前の遊郭や私娼街の業者を風俗営業として許可し、営業場所を指定した地区。地域によっては店舗の商業統計上の分類が「特殊飲食店」(「特飲店」と略される)や「特殊喫茶店」とされたことから、特殊飲食店街(「特飲街」と略される)と呼ばれることもあった。特に旧遊廓の貸座敷の一階部分に喫茶室やダンスホールを設えるなどの部分的な改善をほどこし、特殊飲食店として使用される例が多かった。」(加藤2009:17)というもので、赤線が設置された背景には、占領軍のための「性的慰安施設」など、国策が関っていたそうである(加藤2009:22−38)。

 小樽赤線時代については、『全国女性街・ガイド』(渡辺1955)において、次のような記述があるため、昭和30年代の小樽のようすを知ることができる。

    情熱のプロ作家小林多喜二が色内町の私娼婦田口滝子を十年にわたって愛し

   たことはあまりにも有名な話。最近は北方輸出不振で小樽の色街は火の消えた

よう。

 市内の都通り裏や勝内川沿いの新地にも赤線はあるが、小樽で圧倒的に有名な

のは、町端れの手宮手宮川を渡った右側に曖昧屋が百軒ほど密集している。田口滝子ではないが色白で丸顔の、おとなしい女が多い。部屋は汚いが北海道では湯ノ川の芸者とここの酌婦が一番いい。

 青線が最近発展し、駅前右側の西六丁目あたりから花園町の裏側、ずつとはずれて南小樽駅附近の「もつきり屋」(一ぱいのみ屋)で女に当りをつけるか、かく巻ばば(婆)が町角に立つているからそれに当ればよい。泊り千円からである。

(渡辺1955)

   

 しかし、この赤線時代も昭和31年(1956)の「売春防止法」に伴って廃止された。

売春防止法施行後も、小樽では10年ほど尾を引いていたそうだが、その後はあまり見られなくなった。

(2)小樽歓楽街

 赤線時代に見られた手宮周辺、新地、南小樽駅付近の特殊飲食店は完全に無くなり、小樽経済の衰退とともに、現在の小樽の歓楽街は、花園町に限られているが、その花園町自体も衰退の一途をたどっている。写真11を見てもわかるように、花園にはスナック、飲み屋などが狭い地域に密集していた。実際に調査として歩いたのだが、昼からカラオケがあちこちの店から聞こえ、何とも哀愁を感じさせる町であった。風俗店もあまり発見することができず、一軒発見するのがやっとであった。

さいごに

 全国の遊廓と比較しても、小樽のように、これほどまで遊廓が移転をくりかえすという地域はあまりない。1〜5章までで述べてきたように、小樽遊廓の移転には、経済発展による市街地化にともなって浮上してきた風紀上の問題点と、頻繁に起こる大火が影響している。それが、小樽遊廓史の特徴なのである。(写真15)

 

文献一覧

小樽観光大学校運営委員会

 2007 『おたる案内人−小樽観光大学校認定 検定試験公式テキストブック−』、

      小樽観光大学校。

小樽なつかし写真帖編集委員会

 2009 『小樽なつかし写真帖』、どうしん小樽販売所会。

小樽の女性史」編集委員会

 1999 『小樽の女性史』、小樽市男女共同参画プラン推進協議会。

加藤政洋

 2009 『敗戦と赤線―国策売春の時代―』、光文社。 

木村聡

 2007 『赤線跡を歩く 完結編』、自由国民社

小寺平吉

 1974 『北海道遊里史考』、北書房。

渡辺寛

 1955 『全国女性街・ガイド』、季節風書店。

北海道新聞社

 1984 『おたる再発見』、北海道新聞社

1991 『小樽のアルバムから』、市立小樽図書館