竹富島で山本義一の展示が決まりました!感謝と御礼3・募金のお願い

 2月22日は、自転車で鶴岡真弓松嶋健さんの3人で竹富島をまわった。

 島を日帰りで訪れる観光客はとても多い。ひっきりなしに港から集落、浜へ向かう観光バスが、朝から船のある夕方までピストン輸送しているけれども、わたしは断然、島の民宿に泊まることをおすすめする。数時間の滞在では、竹富島はあまりにもったいない。せまいけれども深い島・・。竹富島ではゆっくりと島時間を味わってこそ、ふしぎな時空の裂け目から、天からの啓示にも似たプレゼントがもたらされるからだ。
 それはたとえば、島の石垣から天に向かって生えてくる小さな多肉植物であったり、御嶽のくらがりからあらわれるオオゴマダラであったり、汗をかきつつ自転車をこいでいく先にみえてくる、翡翠色とコバルトブルーの海の色、白い星砂であったり。おばあの話、おじいの三線、しまんちゅとゆんたくできる幸せが、かならず誰にでも訪れるだろうからだ。
 まずは港近くの「ゆがふ館」を訪ねる。ここは、西表石垣国立公園竹富島の自然や祭祀・芸能、伝統文化などおおまかに島のことをつかむのにはもってこいの施設で、映像で、音声で、立体的に竹富島を紹介している。
 ここのギャラリーで、シアター上映時間以外は、4月29日から約1か月のあいだ父・山本義一の『竹富島の赤瓦屋根の集落と星砂の道』シリーズの油絵を展示してもらえるようになったのである。

 鶴岡さんをいざない、ギャラリーに向かう。壁に持参した6号の絵を掲げて、展示するときの位置を確認する。スタッフの方は汚れなどを心配してガラスに入れることを提案されていたが、鶴岡さんの意見もあり、油絵の質感を生かすために、あえてガラスでなく(コラージュ作品1点は除く)額装することに決めた。
 その記念写真を、松嶋健さんに撮影してもらった。

 スタッフの阿佐伊さんが言っていたように百号の絵を展示できれば、ギャラリーの正面に飾ることができて、確かにインパクトがある。しかし、問題は額装費用や運搬費用だ。しかも準備にあまり時間がない。
 そこで、あつかましくも『額縁募金』なるものをみなさまに広くお願いすることにした。
 ご寄付くださった方には、山本義一の絵で作った絵はがきをお送りさせていただくことでしか、いまのところ恩返しはできないのであるけれども、なんとかみなさまのお力をお借りして展示ができるようになれば、こんなにありがたいことはない。
 どうかよろしくお願いいたします。

 昨年の種子取祭の日は、父親が亡くなってまだ十日しかたっていなかった。
 しかし、うつ病回復後にまた再開した種子取祭通いを続けたい。
 父が描いた竹富島でお世話になった方々に、いまこそ御礼を伝えたい。
 しかし、このような喪中に行っていいものかどうか・・。悩みに悩んだが、思い切ってネットでチケットを予約しようとパソコンを開くと、そこには八重山取材の依頼のメールがあった。
 お世話になってきた『コーラルウエイ』の編集長武田さんからで、内容は、2月開催のハーブサミット前に、JTBパブリッシングの『ノジュール』2月号で、島ハーブについての特集取材と竹富島紹介記事の依頼であった。
 なんというタイミングだろう。夜遅かったが、編集部に連絡すると武田さんは仕事をしていた。もしメールを先にチェックしなかったら、自費でチケット予約をするところだったと話すと、「キャンセル代、かかっちゃうところだったね」とおっしゃった。
 なんと、絶妙のタイミングで八重山取材の仕事が入り、仕事の前にわたしは種子取祭に来ることができたのであった。
 祭の芸能奉納二日目には、世持御嶽の神前で、神司たちに健康のニンガイ(願い)をしてもらう。
 このときに父親が亡くなったこと、平成8年に絵を描きに滞在した折、島人にお世話になったことを話すと、神司たちはやさしい言葉をかけてくれた。新田初さん、与那国光子さん、新しく就任されたふたりの司たち。島仲由美子さんは炎天下で絵を描く父親に休憩場所を提供してくれた人だ。ほんとうにありがたいことであった。
 そしてユークイの夜、わたしは父親の遺影と父の描いた絵で作った絵はがきをもって参加した。島のみなさまに、むーやまやーやまの神々にお礼を伝えるためだ。
 徹夜のユークイの朝、夜が明けてきたころ、主事の家、阿佐伊拓さんの家の座敷にあがり、みんなで唄をうたい、庭に降りたとき、写真家 大塚勝久さんが声をかけてくれた。
 もうずっと毎年毎年、種子取祭で会ってきた大塚さんである。昨年の種子取祭でも、8年ぶりに会い、これまでのうつ病体験とその回復のことを伝えてはいたと思う。
 このとき、わたしは小浜の成底トヨさんが織った着物を羽織っていた。
 小浜島織物取材の時に成底さんから譲ってもらった紺の絣の八重山上布。それをもったまま石垣島白保を訪ねたとき、唄者 大島保克のおばあが縫ってくれた着物である。織り手も縫い手も、いまは故人となった。昨年、偶然石垣空港でばったり保克の母ヨリ子さんに会ったとき、大島のおばあが亡くなったことを知った。
 「ヨシエさん、あの着物はおばあが縫ったものだからよ、大事にしてよ」と言われていたのである。
 島の着物は、島の植物から糸を紡ぎ、植物で染めた、女のセジ(霊力)が込められたもの。
 この着物に竹富島のミンサー帯を締めて、ユークイに参列しようと決めていたのであった。
 大塚さんは、そんなわたしの話を聞いて、記念写真を撮ってくれた。
 いつも取材者の立場で種子取祭に来ているので、実は自分の写真は、あまりない。
 父の遺影をかかげ、絵はがきを手に、島の織物をまとい、八重山料理の『潭亭』主人 宮城礼子さん手作りの島の古布で作ったバッグを掛けたわたし。なんともお恥ずかしい限りであるが、額縁募金のお願いには、ぴったりの絵柄かもしれないと思い、ホームページ上で公開させていただくことにした。
 みなさま、どうか額縁募金へのご協力をよろしくお願いいたします。
                                吉江真理子 拝