父の命日に間に合って「山の絵つなぐサイト」に出展しました。

本日、11月5日は、父 山本義一の命日です。

 ギリギリ、命日までに父が遺した大量の絵のなかから、日本山岳救助機構『山の絵つなぐサイト』に出展が間に合った。

 山の絵は、探してみると、三階アトリエに西東京市在住時代の丹沢の絵から、二宮町で描いた吾妻山まで、いろいろあった。

 しかし、山の名前が特定できず、一緒に旅行雑誌企画で山に連れていってくれた女性登山家の方に写真を送るもわからず、春と秋に山に絵を描きに行ったお弟子さんの奈良淑子さんにみてもらい、なんとか確定。

 奈良さんと意見が一致しておもしろいと思う絵は、「ほんとうにこんなにカラフルでした」という秋の八ヶ岳の白樺林風景の絵や、雪の残る丹沢を背景に春の雨に打たれる畑の葱坊主の絵。

 と、これが、出展すべく良く見ると、なんと、四隅に穴があいているではないか。

 奈良さんに聞くと、この釘穴は、絵が乾かないうちにもって帰るために、釘を打って二枚の絵のあいだに隙間を作って運んだから、という。

 事務局に確認したが、やはり穴の空いた絵はそのままでは出展できず、修復を依頼するとかなんらかの方法を講じなくてはならず、今回は断念せざるを得なかった。

 しかし、そういう穴空きの絵に実にいい、おもしろい絵があって、複雑な気持ちになる。

 ちゃんと、ステンレス製の専用のカンバスハサミみたいなものは、三階アトリエにあるのに。

「先生は、絵を描くのがとにかく早くて、午前中わたしたちが一枚描く頃には、もう二枚仕上げているという感じなんですよ」と奈良さん。

 カンバスを挟む器具が足りなくなるほどいっぱい描いたからなのか、面倒だからなのか、不思議ではある。

 いい絵であっても、サイトを通して販売となると、商品として成り立つのか。ことわって納得してもらって、それでも希望する方がいたらぜひ、もらっていただきたいという気持ちにもなる…。

 実は自宅マンションで水漏れ事件が発生し、さまざまあって、サイトにアップできたことをFacebookなどに投稿したのが命日前夜の夜中。本日は、墓参りの予定だったが、なぜか電車が途中なんどか遅れが出てしまい、もう日没。

 一応、菩提寺のある大磯駅のホームに降りてお寺に電話したが、あいにく誰もでないので、明日の朝、墓参りに行こう❗

 命日に間に合って、「山の絵つなぐサイト」に出展できたタイミングに感謝❗

 お父さん、よかったね。

「山の絵つなぐサイト」https://yamanoe.jp/artists/3989

 

父の命日に間に合って「山の絵つなぐサイト」に出展しました。

本日、11月5日は、父 山本義一の命日です。ギリギリ、命日までに父が遺した大量の絵のなかから、日本山岳救助機構『山の絵つなぐサイト』に出展が間に合いました。

 山の絵は、探してみると、三階アトリエに西東京市在住時代からの昔えがいたものから、二宮町で描いた吾妻山まで、いろいろありました。

 しかし、山の名前が特定できず、一緒に旅行雑誌企画で山に連れていってくれた女性登山家の方や、父と春と秋に山に絵を描きに行ったお弟子さんの奈良淑子さんにみてもらい、なんとか確定。

 奈良さんと意見が一致しておもしろいと思う絵、ほんとうにこんなにカラフルでした、という秋の八ヶ岳の白樺林風景の絵には、四隅に穴が。

 奈良さんに聞くと、この釘穴は、絵が乾かないうちにもって帰るために、釘を打って二枚の隙間を作り運んだから、という。

 事務局に確認したが、やはり穴の空いた絵は出展できず、なんらかの方法を講じなくてはならず今回は断念したが、そういう穴空きの絵に実にいい、おもしろい絵があって、複雑な気持ちになる。

 ちゃんと、ステンレス製の専用のカンバスハサミみたいなものは、あるのに。

「先生は、絵を描くのがとにかく早くて、午前中わたしたちが一枚描く頃にはもう二枚仕上げるという感じなんです」と奈良さん。

 カンバスハサミが足りなくなるほと、いっぱい描いたから、なのか、面倒だからなのか、不思議ではある。いい絵であっても、サイトを通して販売となると、商品として成り立つのか。ことわって納得してもらって、それでも希望する方がいたらぜひ、という気持ちになる…。

 実は自宅マンションで水漏れ事件が発生し、さまざまあって、サイトにアップできたことをFacebookなどに投稿したのが命日前夜の夜中。本日は、墓参りの予定だったが、なぜか電車が途中なんどか遅れてしまい、もう日没。一応、ホームに降りてお寺に電話したが誰もでないので、明日の朝、墓参りに行こう❗

 命日に間に合って、「山の絵つなぐサイト」に出展できたタイミンに感謝❗❗

 お父さん、よかったね。

 

ロシアのウクライナ侵攻で、父の気持ちがわかった、気がした。

 2022年2月24日にはじまったロシアのウクライナ侵攻は、あまりにも唐突だった。

 2月28日になっても侵攻は続き、首都キエフは持ちこたえている。

 しかし、ウクライナの大統領が市民に徹底抗戦を呼びかけ、首都での戦いに備えて男性は出国を禁止されているため、ポーランドへ出国するウクライナ人女性と子どもたち、お年寄りの姿が報じられている。

 これは、まさに父 山本義一が描いた満洲での戦争体験を描いた『噫、牡丹江よ!』の世界ではないか。

 それも、カーキ色の『噫、牡丹江よ!』のエスキースの世界だ。

 この絵については、先日、その絵のモティーフになったのではないかと思われるイラク戦争の新聞記事を二宮の実家の父のアトリエでみつけたので、またあらためて書きたいと思っているが、エスキースは、ソ連軍が侵攻し命からがら逃げていく子どもとたちと母親、その背景には武器をもたずに整然と直立不動で立っている兵士たちの姿—―、というどこか異様な感じのする衝撃的な絵だ。

 兵士たちの顔つきと身長からソ連兵かと思えるのだが、それにしては武器をもっていないし、命令で整列しているようでもあり、前を行く女性と子どもたちをなすすべもなく見ている、という不思議な構図である。

 西新宿の平和祈念展示資料館に収蔵されることになって、学芸員の方と話したときには、この兵士たちは日本兵で、侵攻してきたソ連兵に武器放棄を命じられて銃をもたず、まさにこれからシベリア行の列車にのせられていくところではないか、ということだった。

 この絵がどんなシーンであるのか、本人に聞いていなかったので、真相はわからない。

 しかし、いま新聞やテレビ、SNSで報じられている、ウクライナの市民の姿に、この絵がどうしても重なってくる。

 そして、思ったのだ。

 ああ、父は、イラク戦争の報道を見て、いま、このわたしがそうであるように、「ちむわさわさ~して」、つまり胸が苦しくなるような思いで戦争体験をよびさまされ、胸の奥底に抑圧したままであった記憶に、60年以上たって向きあうことにしたのだ、と。

 いや、向き合うも何も、いま自分になにができるか、戦争を体験し生き延びて80代になった自分がなにかを伝えなくてはならない、という衝動に突き動かされるようにして絵筆をとったのではないだろうか、と。

 それは、このわたしが父の描いた二枚の戦争体験画『噫、牡丹江よ!』を、その来歴を、父の軍歴を、父の人生を、知ってしまったという『体験』から、このように久しぶりにブログを書こうと思ったり、Facebookに『噫、牡丹江よ!』の絵をアップしたりしたことと、また重なってくる・・。

 父の戦争体験を知った今のわたしと、知らなかったわたしとでは、ロシアのウクライナ侵攻に対する思いの、温度がまったく違うのだ。

 もちろん、父は絵を描こうというその衝動の後、冷静に構図を考えるなかで、どのように自分のいいたいことを「表現」するか、試行錯誤したかもしれない。しかし、複数のエスキースは存在せず、残っているのは鉛筆で描いた母子の姿の部分デッサン2枚のみだ。

 そして、このカーキ色の『噫、牡丹江よ!』をエスキースのまま、いわば描きかけにしたまま、まったく異なるモティーフである青の『噫、牡丹江よ!』の120号のカンバスにあらたに向かったのだろう。

 カーキ色の『噫、牡丹江よ!』には、静と動、逃げる母子と動かぬ兵、その対比から異様なまでの緊迫感が伝わってくる。

 唐突に戦争がはじまり、状況が一変し、こけつまろびつ逃げまどう市民と、手も足も出ない(日ソどちらかはわからないが)兵士という図は、戦争の実相を思わせる。

 ソ連に攻撃されるウクライナの母子たち、お年寄りたち、市民のことが案じられて、こころがざわざわとしている、春・・。

 昨日は父の誕生日であった。

 生きていれば102歳。

 父は後生で、ソ連ウクライナ侵攻をみて、どう思っているのか。

 祈らずにいられない。

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カーキ色の『噫、牡丹江よ!』
(#平和祈念展示資料館

 

 

生まれたばかりのわたしを抱いた母、父方の祖父母、母方の祖父母、父の兄一家との記念撮影写真がみつかりました。

 
 
日曜日のマンション役員会のあと、実家の二宮へ。寒~い日だった。翌日、父の墓参りに行く前に、仏壇のある和室の桐の箪笥の上に、ほこりをかぶった、たくさんのアルバムを発見。
 そのなかには、父の実家、南伊豆一条の山本家の階段に並ぶ集合記念写真が。
 生まれたばかりのわたしを抱いた母親が中央に。右側に、なんと母方の清水の祖母、後ろに祖父。左側に、山本の祖父が、孫であるいとこの肩に手を置いている。後ろには祖母の顔がみえる。
 両脇に立つ父の長兄(叔父)と兄嫁(叔母)。叔母が抱いているのは、わたしのいとこ。
 撮影したのは、父親か。
 このとき、山本製糸場は、はたして操業していたのか?操業を終わっていたのか?
 その操業期間の年月日を知りたい。

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山本義一の生家の階段で、山本家の祖父母、母方佐藤家の祖父母、父の兄一家とともに。


『夜明け前のうた  消された沖縄の障害者』の上映中止をめぐるフォーラムに行ってきました。

12月25日 18:49 
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映画『夜明け前のうた 消された沖縄の障害者』に、文化庁は11月2日、映画賞を授与。
 しかし4日後に記念上映を取り止めている。
 この決定に抗して、記念上映が行われる予定だったスペースFS汐留で、原義和監督主催で行われた上映会&言論フォーラム『上映中止を問う なぜ隠すのか』に遅刻しながらも、駆けつけた。
 この映画のことは、藤井誠二さんの記事、石川真生さんの投稿で「私宅監置」という制度があったことを知り、現存している小屋の写真に衝撃を受けていたので、知人からメールがあり、あわてて上映会に申し込んだ次第であった。
 ことの次第は監督自身の報告によれば、那覇市で映画上映後に、映画に登場する方の遺族のひとりから
①映画制作のことは聞いていなかった 
②島の方が涙ながらに語る「私宅監置犠牲者の長男(故人)が島に戻りたくても(家は解体され更地になり)戻れない、辛いと思う」という、その語り手の主観が「事実と異なる」ので削除を求めている
 という申し立てがあったという。
 フォーラムに登壇した沖縄YMCA会長は、沖縄での上映後に受付にて、遺族からそのように言われた、と語っていた。映画館でまず表明し、そのあと文化庁に伝えたのだろう。
 文化庁は遺族からの申し立てがあり、「遺族の人権を傷つける可能性がある」と判断して、記念上映を取り止めた…。
 しかしながら、この私宅監置当事者のお孫さんが、監督がこのテーマについて語るテレビ番組を見て「自分の祖父の話ではないか」と連絡してきたのである。さらに映画のなかで、お孫さんが自身のルーツ探しのように初めて島を訪れ、件の、涙する島の方に、祖父について話を聞くシーンもまた、映画に登場する。
 映画化にあたり、監督はこのお孫さんからほかにも当事者の兄弟(叔父)がいることを聞き、連絡先を尋ねたがわからず、島の方々にも教えてもらえなかったと言った。 
 フォーラム登壇者の弁護士は「虚偽の内容があれば死者にたいして名誉毀損、人権侵害として法的に問題になるが、虚偽ではない」こと、「社会的信用を落とすとは法的に言えない」ことから、映画は人権侵害にはならないと語っている。
 法的に、というのであれば、むしろ、ここで重要なのは、1900年の精神病者監護法によって、こころの病を発症した方を、身内の恥として「座敷牢」にいれることを法で認めた、ということだ。
 患者の受け皿となる施設がなかったことが大きいが、精神医学の父とされる呉秀三東大医学部教授の医師が1918年に「(病という不幸と)この邦に生まれたるの不幸を重ぬるもの」と指摘しているように、身内の恥という考え方が日本に根強くあるのは、法と世間がシンクロしているからだと、わたしはハンセン病と同じ構造をここに感じる。
 戦争に突き進むときには、生産人でないこと、戦力にならないことは役に立たないとして、国家が自らに都合のよい法律を施行して、人権侵害を堂々と侵すのだ。
 1950年、本土では精神衛生法が施行され、私宅監置は禁止となる。
 しかし、沖縄では1972年の復帰まで続き、「沖縄に生まれたという三重の不幸を背負っている」状態が看過された…。
 沖縄では精神病の患者さんは本土の2倍だという。ハンセン病回復者の方の数もまた多い。
 これは明らかに地上戦が行われた唯一の地が、沖縄であるからだ。
 ハンセン病の隔離政策にまっこうから異を唱えた医師 京大医学部教授の小笠原登の指摘によれば、栄養状態、体質が大きく発症に関係しているという。
 戦後、ハンセン病、さらにはマラリアなどの感染症は、極度の栄養失調と衛生面の悪化のみられただろう沖縄で病を多く発症させ、抵抗力のない者の命をうばった。
 戦争によるトラウマが帰還兵のこころを蝕むこと、兵士でなくとも戦争体験が、発症と関わることは、蟻塚亮二先生も述べておられる。
 ハンセン病も、精神疾患も、感染症も、戦争の二次被害だとわたしは思う。
 文化庁が映画監督と遺族、当事者同士で話し合え、それまでは上映を見合わせる、というのは、フォーラムでも述べられていたが、「文化庁の意図⁉️」かと勘ぐりたくもなる。私宅監置という制度に対する検証をすべきなのに、その問題から目をそらさせようというのは、問題を矮小化しているのでは⁉️と首を傾げたくなる。
 いつも、そうなのだ。
 国家が自己検証を棚にあげ、住民同士で対立させようとする、そのやり方をまた、(辺野古とまさに同じく)ここで見る思いがして、情けない気持ちになった。
 また、自身が精神病院に入院した経験者で人権センターの活動をしている登壇者の方は、1950年以降は、「社会的入院」という問題があると指摘した。
 本人の許諾なく家族が認めれば入院させる、あるいは退院させない、というのである。
 症状が収まっても仕事ができない、家で暮らせない、家族の受け入れがない、などの理由で、いわば病院に監禁されたまま、ということなのだ。
 本土の許諾なく、というのがコワイ。
 知人は、いきなり羽交い締めにされて病院に入院させられたことのショックを語ってくれたとき、涙ぐんでいた…。ほかの方は、目が覚めたら、病院のベッドに縛りつけられていて「なにかわたし、悪いことしたの?」と思った、と。
 病院でのこれらの対応は、父が心臓弁膜症で救急搬送され、大学病院入院中、ベッドに両手、お腹をくくりつけられていた「拘束」をおもいださせる。
 95才の元日本軍兵士である頑健だった父が、ナースコールをせず?忙しい看護師がなかなか来ないので自分でトイレに行こうとした、それだけで拘束されたのだ。
 拘束を解いてくれるよう主治医に頼むとき、わたしはハンセン病回復者のかたがたが、みな一様に隔離によって自由を奪われたつらさを語っていた、と述べた。
 若い医師は察しがよく、翌日拘束を解かれた父は、わたしにスケッチブックとクレヨンをもってきてくれと言った。
 こころの傷を癒すように、サンルームから大磯の海を、緑の山を描いた。
 病院の廊下を描いた絵もあった。
 廊下の先に病室があり、そこは紫色がかった色で暗い影になっていた…。
 今日は、拙著『島唄の奇跡 白百合が奏でる恋物語、そしてハンセン病』の主人公の恋人から「アンダンスーを送った」と電話があった。
 数ヶ月前、転倒して動けないとSOSコールがあり、わたしはあわてて介護認定のため市役所に連絡をとったのだが、足腰の痛みもいまは落ち着いている、とうれしい報告があったのである。
 わたしの場合は、出版にあたり、また出版後、彼女が当事者のまわりの人たちの意識を「いまは時代が変わった、偏見をもたないで受け止めてあげよう」という方向に自身が行為で示し働きかけてくれたことで、ずいぶん助かった、といまにして思う。書かせてもらった、という意識がわたしにはある。
 しかし、出版後、当事者がカミングアウトして新しい人生を歩き始めようとすることに反対する遠い親戚もあらわれ、なかなかシリアスな、補償金をめぐる周囲のやっかみもあって、予測できない成り行きにも直面した。
 フォーラム登壇者の「津久井やまゆり園事件を考え続ける会」の方は、出版後に沖縄での講演会でわたしが話した内容と同じことを言っていた。
「世間、というのは、わたしたち自身なんです」
 その世間の意識は、法によってつくられがちだ。世間を変えていくには、法を、国家が自己検証してみせなくては。
 家族同士、家族と表現者だけの問題にするのは問題のすり替えであり、矮小化であり、家族を責めたり争いあう状況、対立し合う状況を作るのは、卑怯というものだ。
 世間の偏見となる法をつくったのだから、世間の意識を変えるための努力を国が示してほしい、と切に願う。
4人、立っている人の画像のようです
 
 
 
鈴木 雅子、山上 博信、他10人
 
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山本義一遺作展 いままでの展示の履歴

 山本義一遺作展に関しては、父の絵を紹介するサイトもデザイナーに作ってもらったのだが、現在デザイン変更にともない、途中まで「工事中」。

 そこで、自分の覚書としてもそれまでの山本義一遺作展の履歴を以下に表わしてみたいと思う。

  

 2014年 11月5日死去

 2015年 4月26日~6月末 竹富島『ゆがふ館」 山本義一遺作展 竹富島の風景画

 2015年 8月22日~9月20日 沖縄愛楽園『交流会館』ギャラリー 山本義一遺作展                                                                                     

              戦争体験画と竹富島風景画

 2015年 9月23日~25日 琉球新報天久本社ギャラリー 同

 2015年 9月26日~28日 那覇市ぶんかテンブス館   同

 2015年 10月6日~11日 二宮町生涯学習センター「ラディアン」ギャラリー

              山本義一遺作展Vol.1

 2016年 10月4日~7日 二宮町生涯学習センター「ラディアン」ギャラリー

              山本義一遺作展vol.2

  2016年  10月9日~16日 二宮町ふたみ記念館 山本義一遺作展

      10月19~30日 二宮町ふたみ記念館 山本義一遺作展&仲間たち展  

      11月5日    二宮町「ラディアン」おきなわんナイト

 2017年 5月6日~7日   二宮町「ラディアン」ギャラリー 山本義一遺作展

      5月6日      沖縄フェスティバル 細川貂々講演会                       

 2019年 9月19日~23日 二宮町「ラディアン」山本義一遺作展vol.3 

             二枚の戦争体験画と二宮の風景画 室田元美講演会