死刑廃止を考えるときに〜犯罪とはなにか?

沖縄タイムズに連載しているコラムで、木村草太・首都大学東京教授が、日弁連が10月7日に採択した、
「死刑制度の廃止を含む刑罰制度全体の改革を求める宣言」を取り上げている。
宣言全文は日弁連のホームページで読める。
http://www.nichibenren.or.jp/library/ja/civil_liberties/data/2016_1007_03.pdf

木村教授は、以下のように指摘する。
≪一般に、死刑制度の果たす機能として(1)重大犯罪の抑止(2)社会の応報感情の満足(3)被害者
の感情への配慮
−の三つが指摘されている。
 このうち、(1)犯罪抑止は、終身拘禁刑などで代替できるとの統計データがある。また、(2)犯罪と無
関係な一般人の感情的満足のために、人を殺すことが正当化されるとの議論に、説得力を感じる人は多
くないだろう。
 となると、死刑の最も重要な機能は、(3)被害者の感情のケアだということになる。これが十分でなけれ
ば、死刑廃止の訴えは共感を得られない。
死刑廃止を目指すなら、被害者支援が欠かせない。それには、法整備を拡充するだけではなく、国民の
理解が不可欠だ。≫

学者の立場からするとこういう発想になるのだろう。
が、具体的な犯罪で加害者、被害者どちらの立場にも関わることのある弁護士からすると、こういう考え
方でいいのか、大いに疑問だ。加害者家族の問題を同時並行で考える必要があると思う。

実際の事件では、「被害者はかわいそうな人、加害者はひどい人」と単純な対立構図に割り切れない。
事件の登場人物の相互関係は、被害者が殺されて当然ということはもちろんないのだけれど、そこに至る
経過を遡ると、マスコミ報道に出て来るような単純な関係でないことが多い。なのに、マスコミが、いつも、
事件を善VS悪という単純すぎる構図(鋳型)にはめ込み続けているために、人々の思考は、「被害者側の
人はかわいそう、加害者側の人たちはひどい」
に発展し固定してしまっている。

ごくごく例外的なケースでは、家族全員が殺人にぐるみで関わっていることがあるが、ほとんどは、家族が
知らないところで、家族の一員が殺人を実行している。家族だって一人ひとりの人生としてみれば、殺人犯
とは他人だ。なのに、世の人々はそうみてくれない。殺人犯の家族は加害者側の人! 
とんでもない。殺人犯は警察の留置場や拘置所、刑務所に入ることで、外からの攻撃(マスコミ報道や近
隣、学校、職場などでの非難、排除などによる攻撃、社会生活上の攻撃)から守ってもらえる。しかし、留
置場、拘置所、刑務所に入らず、それまでどおりの社会生活を続けたい殺人犯の家族は、それをさせて
もらえない。

降って湧いた悲劇は、事件に巻き込まれた者という脈絡では、被害者側と共通するものがある。その視
点が被害者保護(制度)にはない。

被害者(側)と加害者(側)が全く無関係の通り魔的事件も稀にはあるが、多くは、もともとは親しい人間関
係だったり、一緒に仕事をしていたり、同じ社会の中でなにがしかの関わりを持っていた人同士だ。それが
壊れて殺人事件になってしまった。だれのせいだ。真相を詳しく知っている者ほど、深く深く悔い、悩むに違
いない。それは現象面に現れる加害者と被害者ではない、第三の人物かもしれない。

しかし、被害者とは別人である被害者側の人々は、世の中に受け入れてもらうために、世の中の人々の
イメージに合う「被害者」を演じ続けなければならない。

そうすることで、被害者側の人々は棘の道を歩む如き苦悩の中を生きることをしないで、加害者側の人々
を憎しみ続けるだけでいいという安住の地を得る。