荒岡保志の志賀公江論(連載6)

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荒岡保志の志賀公江論(連載6)

70年代少女漫画に於ける志賀公江の役割(その⑥)
60年代後半〜70年代へ!少女漫画の変遷を検証する


志賀公江先生と日野日出志先生。日芸清水正研究室にて。撮影・清水正


ここで、志賀公江が「走れ!かもしか」で少女漫画に登場した1967年から、「スマッシュをきめろ!」、「狼の条件」を発表した1970年までの少女漫画の変遷を検証したい。1970年代に入って起こる一大少女漫画ブームの、基盤が築かれた重要な時期である。

60年代後半というと、前述した「少女クラブ」誌上の「マンガスクール」開校により、女流漫画家が続々とデビューする。それと同時に、少女漫画誌も続々と創刊される時期でもある。

60年代前半、1964年まで発行されていた少女漫画誌は、「少女クラブ」から改題した講談社の「少女フレンド」、同じく講談社の「なかよし」、集英社の「りぼん」、同じく集英社の「週刊マーガレット」、「別冊マーガレット」、即ち、事実上講談社集英社の二社が独占していた訳である。

そして、1965年に講談社から「別冊少女フレンド」、1966年に集英社から「別冊りぼん」、1967年に集英社から「デラックスマーガレット」と、既存誌の別冊、増刊版が創刊され、同年、虫プロ商事から「COM」が創刊される。1968年には小学館が少女漫画誌に再び参入、「少女コミック」を創刊するが、これは1960年に創刊された「少女サンデー」を改題したものと考えていいだろう。同年、主婦と生活社から「ティーンルック」、集英社から「週刊セブンティーン」、「りぼんコミックス」が、1969年には集英社から「別冊セブンティーン」、虫プロ商事から「ファニー」が創刊される。
多くの女流漫画家のデビューにより、少女漫画の市場がいきなり拡大したのだ。

60年代後半にデビューした代表的な女流漫画家を挙げてみよう。

志賀公江のデビューより一年遡るが、1966年、作品「どろぼう天使」で「大和和紀」が「週刊少女フレンド」で、作品「死亡0の日」で「浦野千賀子」が「別冊マーガレット」でデビューする。志賀公江がデビューする1967年には、作品「よわむし先生」で「岸裕子」が「週刊マーガレット増刊」で、これも前述したが作品「バラ屋敷の少女」で「池田理代子」が同じく「週刊マーガレット増刊」で、作品「夏の日のコーラ」で「忠津陽子」が「別冊マーガレット」で、作品「山と月と子だぬきと」で「美内すずえ」が同じく「別冊マーガレット」でデビューする。錚々たる顔ぶれであることは言うまでもない。

更に、1968年には、作品「幸子の星」で「津雲むつみ」が「週刊少女フレンド」で、作品「りんごの罪」で「竹宮惠子」が「週刊マーガレット増刊」で、作品「ポーラの涙」で「大島弓子」が同じく「週刊マーダレット増刊」で、作品「雪のセレナーデ」で「一条ゆかり」が「りぼん」でデビュー、1969年には、作品「海とルコックちゃん」で「庄司陽子」が「週刊少女フレンド増刊」で、作品「こっちむいてママ」で「木原敏江」が「別冊マーガレット」で、作品「サチコの子犬」で「河あきら」が同じく「別冊マーガレット」で、作品「ライトアンドレフト」で「山岸涼子」が「りぼんコミック」で、そして作品「ルルとミミ」で「萩尾望都」が「なかよし増刊」でデビューする。
ここで、現代の少女漫画、否、日本少女漫画を語るには欠かせない大御所、ビッグネームが揃うのである。

女流漫画家の台頭により、少女漫画の黎明に携わって来た男性漫画家陣、「手塚治虫」、「石ノ森章太郎」、「ちばてつや」、「赤塚不二夫」らが少女漫画を離れ始めるのもこの時期である。ここで、少女漫画誌は、初めて女流漫画家を中心に構成されるようになるのだ。そして、少女漫画と少年漫画に圧倒的な差異が生じ、1970年に黄金期を迎えるに至るのである。

60年代後半、少女漫画に影響を与えた事件を検証しよう。

1967年、志賀公江がデビューするまでの少女漫画史については冒頭で触れたが、その二年前の1965年、少女漫画に、エポックメイキングと言える事件が起きる。それは、「少女クラブ」の「マンガスクール」で志賀公江と言わばクラスメイトであった「西谷祥子」の、「週刊マーガレット」に発表された「マリイ・ルウ」、そして1966年、同じく「週刊マーガレット」に発表された「レモンとさくらんぼ」である。

それは、一つは「学園漫画」、そしてもう一つは「ラブコメ」という、現代少女漫画の重要なカテゴリーを構築したということである。少女の、青春期の揺れ動く感情、学園生活での友情、恋、また家族などを等身大に表現したその作品は、今まで子供のものだった少女漫画の読者層の年齢を一気に引き上げたのだ。この「西谷祥子」の作品は、志賀公江の「スマッシュをきめろ!」を始め、1970年代少女漫画、否、現代少女漫画に多大な影響を与え続け、少女漫画と少年漫画が一線を引くことになる大事件だったと言っていい。

そして、1967年、志賀公江が「走れ!かもしか」でデビューするが、何と、この作品は、志賀公江デビュー作品にして、本格少女スポーツ根性漫画の先駆的作品となる。
少年漫画でさえ、本格的なスポーツ根性漫画というと、一年前の1966年に発表された「川崎のぼる」の「巨人の星」になる訳だから、この時期に題材として陸上競技を選んだ志賀公江は、日本国民が一丸となって熱い声援を送ったあの「東京オリンピック」の微熱が覚めることなく続いていた、そしてご自身がスポーツウーマンだったのだろうと想像する。

少年漫画では、この1967年に、やはり「少年マガジン」に連載が開始された「ちばてつや」の「あしたのジョー」が大人気を博し、「巨人の星」と双頭を成して一大スポーツ漫画ブームの真っ只中にあった時期ではあった。しかしながら、志賀公江が、そのブームに乗るという発想で「走れ!かもしか」を描いたとは思えない。何故なら、その後発表する志賀漫画であるが、「スマッシュをきめろ!」のテニスだけではなく、「はつこい宣言」の野球、「亜子とサムライたち」の水泳、「燃えろ!太陽」のボクシング、「真っ赤なストローク」の再びテニス、「青春フルコース」のサッカー、そして体操と、題材になるスポーツが多岐に渡り、しかも、そのスポーツの特性をドラマティックなストーリーに見事に融合している点に尽きる。志賀公江はスポーツウーマンだったのだ。このことが、志賀公江をスポーツ少女漫画家と位置付け、更に、代表作を「スマッシュにきめろ!」と印象付けることに一役買っているのだ。翌年の1968年に、「浦野千賀子」の「アタックNO・1」が発表され、少女漫画にもスポーツ根性漫画ブームが起きる。このことも、70年代の少女漫画に影響を与えた事件と言っていい。
ご周知の通り、この作品はテレビアニメ化もされ、そのブームに乗るように、「望月あきら」が「サインはV!」を発表、これもテレビドラマ化され人気番組となる。この二大ヒット作に続けと、「井出ちかえ」の「ビバ!バレーボール」、「灘しげみ」の「勝利にアタック!」などのバレーボールを題材とした作品が発表され、また、バレーボール以外でも、水泳を題材にした「藤原栄子」の「ただいまの記録2分20秒5」、「細野みち子」の「金メダルへのターン」、「横山まさみち」の「若あゆのうた」などが次々と発表される。スポーツ根性少女漫画の題材が、バレーボール、水泳に偏っていたのは、やはり「東京オリンピック」の余韻が残っていたということだ。

ただし、「アタックNO・1」は、明らかに少年漫画に起きたスポーツ根性漫画ブームをそのまま主人公を少女に、題材をバレーボールに置き換えて描かれたものだ。そして、「西谷祥子」の学園漫画を背景に採用し、少女スポーツ根性漫画という新しいカテゴリーを成すのである。

確かに、「アタックNO・1」が少女スポーツ根性漫画の草分けであることは間違いない。
しかしながら、この「志賀公江論」の「少女漫画史、志賀公江デビューまで」で、「スマッシュをきめろ!」が「アタックNO・1」が起こした少女スポーツ根性漫画を継承する、と書いたが、それは、1969年という発表された年度からそうカテゴライズされているに過ぎないこと気付く。
「スマッシュをきめろ!」の誕生に、少女スポーツ根性漫画ブームは必要なかったはずである。「アタックNO・1」が発表されなくても、「スマッシュをきめろ!」は間違いなく描かれていただろう。それは、志賀公江が根っからのスポーツウーマンだからである。

1969年に起こった事件は、「週刊セブンティーン」に発表された「水野英子」の「ファイヤー」であろう。「水野英子」と言えば、大御所中の大御所と紹介したが、何と、あの「トキワ荘」出身で、前述した通り、同じトキワ荘出身の「石森章太郎」と共に「少女クラブ」の「マンガスクール」を監修していた天才である。
「ファイヤー」の題材はロックである。既に、70年代に起こるロックミュージックブームを予見しているかのようであり、更に、この作品で取り扱うのは、ドラッグにセックス、60年代に発表された少女漫画の限界に到達したと言っても過言ではないだろう。この「ファイヤー」で、「水野英子」は、表現者として確立したのである。

そして、70年代へ、少女漫画の黄金期を迎える基盤は整ったのだ。

志賀公江論の資料を手にする荒岡保志さん。「水郷」にて。撮影・清水正
荒岡 保志(アラオカ ヤスシ)のプロフィール
漫画評論家。1961年7月23日、東京都武蔵野市吉祥寺生まれ。獅子座、血液型O型。私立桐朋学園高等学校卒業、青山学院大学経済学部中退。 現在、千葉県我孫子市在住。執筆活動と同時に、広告代理店を経営する実業家でもある。
漫画評論家デビューは、2006年、D文学研究会発行の研究情報誌「D文学通信」1104号に発表された「偏愛的漫画家論 山田花子論」である。その後、「児嶋 都論」、「東陽片岡論」、「泉 昌之論」、「華 倫変論」、「ねこぢる論」、「山野 一論」などを同誌に連載する。