清水正・ドストエフスキー論全集 第六巻

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清水正ドストエフスキー論全集 第六巻
今回は神話学的・心理学的側面からの考察を紹介します。

神話学的・心理学的側面からの考察
 『悪霊』を何回も何回も執拗に読んでいると、主人公格の存在が次々と変容していく。始めニコライ・スタヴローギンが主人公かと思っていると、次に、ニコライの師ステパンが、かと思っているとステパン先生の保護者ヴァルヴァーラが、しかしヴァルヴァーラ夫人はスクヴォレーシニキという大地に呪縛された存在ではないのかと思うと、突然、このスクヴォレーシニキという領地がとてつもなく大きな意味を持って迫ってくる。
 わたしたちは、ヴァルヴァーラ夫人の詳しい生立ちを知らない。彼女がある富裕な専売商人の一人娘であることは知っていても、彼女が所有することとなったこの広大な領地スクヴォレーシニキについてはほとんど情報を与えられていない。とりあえずわたしは、スクヴォレーシニキを歴史的地理的空間ととらえる前に、神話的心理学的空間と見て考察をすすめていきたいと思う。そうすると、このスクヴォレーシニキは、ユング派の心理学者たちの言うウロボロス的空間・大地の貌を浮きあがらせてこよう。
 エーリッヒ・ノイマンは『意識の起源史』(林道義訳。紀伊國屋書店)の中で「始源に位置するものは完全性と全体性である」とし「始源にはいつも一つのシンボル〔=ウロボロス〕が置かれるが、このシンボルは恐ろしく多様な意味を持ち、規定されず、規定しえないものであることが最大の特徴である」と記す。スクヴォレーシニキを始源の一つのシンボル=ウロボロスと見れば、この領地もまた多様な意味を持つ。スクヴォレーシニキは専売商人の父からヴァルヴァーラ夫人に受け継がれた領地であり、同時に『悪霊』という物語を産み出した原母である。
ウロボロス=スクヴォレーシニキの中央には太母ヴァルヴァーラが位置し、スクヴォレーシニキは彼女を自らの司祭者のごとくとりこんでいる。ウロボロス=スクヴォレーシニキと太母ヴァルヴァーラは混然一体となって物語の人物を生み出し、育成し、まとわりつき、呑みこんでしまう。スクヴォレーシニキは創造し育成し庇護する愛と光の大地であると同時に、呪縛して離さず、自ら産み出した者の成熟を許さず、最後には血の犠牲を強いる邪悪な闇の妖力を発揮する大地でもある。この闇と光の両犠牲を深く秘め隠したまま、ウロボロス=スクヴォレーシニキは不気味な静かさを漂わせて、未だその全貌を現わしてはいない。ウロボロス=スクヴォレーシニキは太母ヴァルヴァーラを産み出し、彼女に気付かれぬまま、自らの両義的な霊的意志の支配下に治めているかのようである。
ヴァルヴァーラ夫人は現実的レベルでは、当県の政治的黒幕、社交界の女王、学問と芸術の保護育成者、敏腕な経営者の貌を持つが、神話的心理学的レベルではウロボロス=スクヴォレーシニキの両義的意志を体現する太母であり、このウロボロス的大地が産み出した一人子なのである。ヴァルヴァーラ夫人はスタヴローギン中将の妻として、ニコライの母として、ステパン先生の庇護者としての現実的貌を持ちながら、実は神話的心理学的次元で読み解けば、彼らを自らの内部にとりこみ、骨の髄まで吸引し、死へと溶化する魔的力を秘めた恐るべき貌を隠し持った、ウロボロス的大地スクヴォレーシニキに君臨する太母なのである。
 ノイマンは「ウロボロスは、沼と同じように、永遠の自己−内−完結をなす無限の輪の中で子をつくり、産み、殺すのである。この目覚めつつある人類−自我によって体験される世界は、バッハオーフェン母権制の世界、母なる運命の女神の世界である。貪り食う悪い母も、養う良い母も、この心的段階を支配するウロボロス的な大いなる母神の両面なのである」として、次のように続ける。

 無意識の威圧的な姿は呑み込み破壊する側面に由来し、またそうしたものとして自らを明かしもするが、この側面は悪い母としてイメージされ、具体的には死・ペスト・飢饉・洪水・本能の猛威・奈落へ引きずり込む甘美さ・などを司る残酷な女主人としてイメージされる。一方、良い母としての側面は、豊かに贈り与える世界であり、生に至福を与える幸福の授け手、自然の豊饒な大地、産み出す子宮としての豊満の角である。これは本能に包まれた状態の中で体験される世界の深みであり美であって、救済と再生、蘇生と新生を日々約束し成就する、創造的な根源の慈悲であり恩寵である。
 これらすべてに対して、自我・意識・個人は小さく無力なままである。彼は自らが無防備かつ微小であり、包み込まれていて情ないほどに依存的であり、無限に広い原=大海に漂う小島であると感じる。この段階においては意識はまだ、打ち寄せる無意識の存在に対して、自らが立つべき確たる地盤を戦い取っていない。幼い自我にとって、すべてはなお底なしの奈落に隠されており、自我はこの奈落の渦の中で方角も距離もわからず、無気味な生命力を持つ原=渦に対してほとんど無防備のまま、木の葉のように翻弄される。この原=渦はそれ自身の深みと世界の深みの両方からたえず新たに自我を圧倒するのである。(上・82〜83)

 ヴァルヴァーラ夫人が「貪り食う悪い母」と「養う良い母」の両面を備えたウロボロス的太母であり、ステパン先生はこの太母に「包み込まれていて情ないほどに依存的」な「五十歳の赤ん坊」であることは言うまでもない。ステパン先生がウロボロス的大地スクヴォレーシニキ=太母ヴァルヴァーラを離れた途端、どれほど自分自身を「無限に広い原=大海に漂う小島」と感じて「無防備のまま、木の葉のように翻弄」されたか、それは先に見た通りである。スクヴォレーシニキにおける太母ヴァルヴァーラとの二十二年間の生活は、ステパン先生にとっては子宮内の平穏安逸な生存であり、彼は永遠にこの子宮にとりこまれて、そこからの脱出を許されていない胎児なのである。街道に出て、百姓夫婦と出会ったときのステパン先生のしどろもどろの対応は、彼が未熟児のまま産み落とされた存在、未だウロボロス的大地スクヴォレーシニキからの臍帯を切ることのできなかった存在であることを如実に示している。
ステパン先生は彼の空想の勝った観念の上で、ロシアを、ロシアの民衆を、ロシアの神を想うばかりで、未だそれらの本当の姿と出会うことはできない。しかし、ステパン先生がウロボロス的大地スクヴォレーシニキから飛び出て、湖のほとりウスチェヴォ村で息を引きとったことはきわめて暗示的なことだ。もし彼が、ウスチェヴォからソフィヤ・マトヴェーヴナと共に湖を渡り、スパーソフへと到り着けば、そのとき彼はウロボロス的大地スクヴォレーシニキと太母ヴァルヴァーラの支配から脱して、古代異教徒的汎神論的信条からキリスト教的信仰へと、紛れもない回心をはたしたはずである。スクヴォレーシニキは「円をなす蛇、自らの尾を咬む始源の原蛇、自らのうちで自己生殖するウロボロス」であり、このウロボロスは「自らを殺し、自らとつがい、自らを孕ませる」蛇であり、この蛇は「男でありながら女であり、孕ませる者でありながら孕む者であり、呑み込みかつ産み出し、能動的でありながら受動的である」両義的存在である。
 一方、ウスチェヴォ村の湖はどうであろうか。アントン君はステパン先生がソフィヤ・マトヴェーヴナと共にウスチェヴォ村の百姓家に落ち着いたとき、彼が「百姓家から二十メートルほどのところからはじまっている広大な湖を窓ごしに眺めることさえしなかった」と書いている。ステパン先生がこの広大な湖に気づくのは、二日も続いた意識喪失から一時的に覚醒した朝、ヴァルヴァーラ夫人がウスチェヴォに乗り込んできた日の朝である。この「広大な湖」は、スパーソフ(キリスト)へと到る湖であり、ウロボロス的大地や太母に見られた暗黒の側面はない。ステパン先生は意識喪失の直前にソフィヤ・マトヴェーヴナに向かって「病人は癒えて、《イエスの足もとにすわる》」云々といった言葉を発しており、これはステパン先生の回心の予告ともなっている。が、ステパン先生がスパーソフ(キリスト)へと到る「広大な湖」の存在に気付いた直後に、呑み込む太母ヴァルヴァーラが乗り込んできたということは何を意味するのだろうか(このことはドストエフスキーの信仰を考える上できわめて重要である)。
 ステパン先生は遺体とはいえ、再びスクヴォレーシニキへと連れ戻された。このステパン先生のウロボロス的大地スクヴォレーシニキへの帰還は何を意味するのだろうか。

 ウロボロス近親相姦は、母の中へ入り込み母と一体化する一つの形態であり、近親相姦のその他の後期の形態とは異なる。ウロボロス近親相姦における一体化は心地よさと愛を特徴とするが、これは能動的なものではなく、むしろ溶け込み吸い込まれようとする試みである。この一体化は奪われるという受け身の体験であり、プレローマの中に沈み込むこと、快楽の海と愛による死の中で消滅することである。太母は幼児的な小さなものを自らの内に取り入れ取り戻す。そして死はいつも変わらず最終的な溶解という、すなわち母との一体化という、ウロボロス近親相姦の特徴をおびている。(上・52)

 病的希求や憧憬の多くの形態はこの回帰・自己溶解のウロボロス近親相姦・を意味しており、聖徒の《神秘的合一》に始まり、酒呑みの我を忘れんとする欲求、ゲルマン民族の死のロマン主義にまで及ぶ。われわれがウロボロス近親相姦と呼ぶ近親相姦は自己放棄と回帰である。これは、まだ母親から離れられずいまだ自分自身に到達していない幼児的自我の近親相姦形態であるが、同時に神経症患者の病的自我の近親相姦形態でもありうるし、また自らを実現した後に再び母のもとへ帰る、後期の疲弊した自我のそれでもありうる。(上・52〜53)

 ステパン先生と太母ヴァルヴァーラとの関係は、ノイマンの言う「自己放棄と回帰」のウロボロス的近親相姦にそのままあてはまるであろう。五十歳になったステパン先生、四〇年代を代表する西欧派の論客ステパン先生も、心理学的次元で見れば「まだ母親から離れられずいまだ自分自身に到達していない幼児的自我」の段階にとどまっている。ステパン先生は太母ヴァルヴァーラと共にあるときのみ「心地よさと愛」を保証されている。アントン君はステパン氏外伝においてすでにはっきりと書いていた「世の中には奇妙な友情がある。友だち二人、おたがい相手を取って食ってもあきたりぬといった仲で、生涯そんなふうに暮らしながら、そのくせ別れることができない。いや別れるどころの段ではなく、かりにそんな事態になりでもしたら、まずは、ひょんな気まぐれから絶交に踏みきった当人のほうが病にとりつかれ、果ては悶死もしかねない騒ぎなのだ」と。さらにアントン君はステパン先生の擬似コレラめいた持病の発作についても「彼特有のこの発作は、たいていの場合、強度の神経的ショックを受けたとき、彼がたどりつくお定まりのコースで、これがまた彼の本質の一風変った特徴ともなっていた」と書いていた。すでに見た通り、ステパン先生はヴァルヴァーラ夫人の家から飛び出してすぐに擬似コレラにかかって熱を出して意識喪失に陥り、あげくのはてに彼を追いかけてきたヴァルヴァーラ夫人に見とられて息を引き取っている。ステパン先生にとっては福音書売りの女性ソフィヤ・マトヴェーヴナでさえ、ヴァルヴァーラ夫人がウスチェヴォに到り着くまでのつなぎでしかなかったのである。アントン君はステパン先生とヴァルヴァーラ夫人との関係を「奇妙な友情」と形容しているが、この二人の関係は誰が見ても、母と息子それもかなり親ばかの母(過保護の母)と甘えん坊の息子のそれである。
 アントン君は二人の関係について次のように書いていた。

 ヴァルヴァーラ夫人が何度となく彼に対して本気で憎悪を感じたことは、事実である。しかし、一つだけ、ついに彼が最後まで見抜けなかったことがあった。それは、彼が結局のところ、夫人の息子同然、つまり彼女の創造物、いや、むしろ発明品とさえいえるものになりおおせていたことである。彼は、夫人と血肉を分けた存在になり、彼女が彼の面倒を見る、いや、今後とも見つづけるのも、けっして「彼の才能に対するやっかみ」からだけとは言えなくなった。もしこんな憶測を耳にしたら、さぞかし彼女はひどい侮辱を感じたことだろう! 彼女の心の中には、彼に対する不断の憎悪、嫉妬、軽蔑の気持ちにまじって、やむにやまれない愛情が秘められていた。夫人は二十二年このかた、塵っぱひとつ彼の身にかからぬようにと、それこそ乳母のように彼の世話をやいてきた。もし問題が、詩人としての、学者としての、市民的活動家としての彼の名声にかかわることでもあれば、夫人は心労のあまり、夜もおちおち眠れないほどであった。彼女は、自分の頭の中で彼を創り出し、その想像の所産をまず自身が真っ先に信じたのである。彼は夫人にとって、いわば夢にもひとしい存在であった……ただしその代償として、夫人は実に多くのことを、時には奴隷的服従をまで彼に要求した。彼女が想像を絶するほど執念深い性格だったこともある。

 このアントン君の分析で、ステパン先生とヴァルヴァーラ夫人の関係はほぼ言い尽くされている。ステパン先生はニコライの家庭教師として雇われてきたというよりは、ヴァルヴァーラ夫人の「息子同然」「創造物」「発明品」「夢」として、また知的ペットとして保護され大切にされてきたにすぎない。様々なヴェールに包まれているとはいえ、彼ら二人の「奇妙な友情」関係は主人と奴隷の域を真に脱することはできなかった。ヴァルヴァーラ夫人は「乳母」として「芸術保護者」として「専制君主」としてしかステパン先生に関係を持つことができなかった。遂に、二人の間には、大人同士の男と女の愛情関係は成立しなかった。アントン君がきちんと語っていたように、二人の間には二十二年もの間、何らの肉体関係も存しなかったのである。ヴァルヴァーラ夫人と先夫スタヴローギン中将との関係は不明であるが、どうも彼女は一人前の、つまり乳離れのした人格的に独立した男性を愛することのできない女性であったらしい。「乳母」ヴァルヴァーラは五十歳を過ぎても「赤ん坊」のステパン先生を必要としていたのであり、もしステパン先生が人格的に独立した一人前の男性としてヴァルヴァーラ夫人の前に立ったとしたら、彼女はたじろぎを見せたかも知れない。換言すれば、ヴァルヴァーラ夫人は「赤ん坊」や「永遠の少年」に対してのみ、自らの「夢」をふくらませ、「専制君主」としてたちいふるまうことができるのであり、もし一人前の魅力ある男性に対面するようなことがあれば、彼女は逆に呑み込みの恐怖にうち慄えたかもしれない。ヴァルヴァーラ夫人はニコライやステパン先生に対して、太母的両義性を存分に発揮したが、彼女自らもまたウロボロス的大地スクヴォレーシニキに呑み込まれた「永遠の少女」であったことを忘れるわけにはいかないだろう。ウロボロス的大地スクヴォレーシニキ(ここでスクヴォレーシニキは地理的空間を超えた神話的心理学的空間として捉えていることを忘れないように)はニコライ、シャートフ、レビャートキン兄妹、フェージカ、キリーロフ等多くの人物たちの血を呑み込んだ。が、見ようによっては、このウロボロス的大地スクヴォレーシニキの女王・女神・魔女・竜であるヴァルヴァーラこそが最大の犠牲者であったかも知れないのである。
 ステパン先生とヴァルヴァーラ夫人の関係は心理学的次元で見ればウロボロス近親相姦の段階にとどまり、その実現はステパン先生の死によって成就されたと言える。ステパン先生はヴァルヴァーラ夫人に見とられ死ぬことによって、つまりノイマンの言葉を借りれば「快楽の海と愛による死の中で消滅すること」で「母との一体化」を成就したのである。わたしたちは、ステパン先生の死がソフィヤ・マトヴェーヴナではなくヴァルヴァーラ夫人によって見とられたことを絶対に忘れてはならないだろう。ステパン先生が「広大な湖」のほとりウスチェヴォ村で、古代異教徒的信条からキリスト教へ回心したとしても、その回心と死が太母ヴァルヴァーラの立会いのもとに行われたことは、彼の信仰がウロボロス的近親相姦・「母との一体化」であったことを如実に示している。未だ描かれたかぎりでのステパン先生は、《イエスの足元に》すわってはいないのである。ステパン先生はスパーソフ(キリスト)の一歩手前、ウスチェヴォで倒れてしまった。ステパン先生の生涯を支配し包み込んでいたのは「永遠に女性的なるもの」それもダーリヤやリーザやソフィヤ・マトヴェーヴナではなく、太母ヴァルヴァーラ、乳母ヴァルヴァーラであった。ステパン先生は彼をキリストの前へと導くソフィヤよりも、ウロボロス的大地スクヴォレーシニキへと連れ戻す太母ヴァルヴァーラをこそ求めたのである。先にも指摘したように、ステパン先生は未だスパーソフ(キリスト)へ行く「準備ができておられなお」(チーホン神父のニコライに対する言葉)のである。
 ステパン先生が真に父なる存在に出会う前に、太母ヴァルヴァーラに吸引されてしまったということは、いったいどういうことであろうか。さらにノイマンから引こう。

 太母のウロボロス的な性格は、たとえばキプロス島カルタゴにおけるように、彼女が両性具有として、ひげのある女神の姿で崇拝されるところではいたるところに認められる。ひげや男根をつけた女性は、男性性と女性性を分離していない点でウロボロスの性格を表わしている。後になって初めてこの両性体は性的に一義的な姿と交代するが、この両性的−両義的性格は原初の段階を示しており、そこから後になって初めて対立物が分化する。
 幼児的な意識は、自らを産んだ母なる基盤と結ばれていることや、そこに依存していることを絶えず感じているが、しだいに独立した体系となる。すなわち意識が自己−意識となる、つまり自らを知る反省的な自我が生まれて意識の中心となる。中心に自我ができる前にすでに意識が存在する点は、自我−意識が現われる前の乳飲み子に意識的な行為が観察されるのと同じである。しかし自我が自らを無意識と区別して、それとは対立する何か別のものと感ずる時に初めて、胎児段階は踏み越えられ、自らの独自性にのっとる独立した意識体系が形成される。この初期段階の意識と無意識の関係を反映しているのが、息子=愛人と母神の関係を描いた神話である。アッティス、アドニス、タムズ、オシリスといった近東文化圏の神々は、母によって産み出されたというだけではないものをもっている。むしろこの性質は完全に背後に退き、彼らは母の愛人となり、彼女に愛され、殺され、葬られ、悲しまれ、再び産み返される。この息子=愛人の像は胎児と幼児の次の段階を示している。無意識とはちがう性質・男性的な他−在というあり方・が強化されると、彼は母性的無意識の同伴者に近くなり、息子でありながら愛人となる。しかし彼はこの母性的−女性的なものにまだ太刀打ちできず、それに敗れて死に、そこへ回帰し、それに呑み込まれる。母=愛人が恐ろしい死の女神に変貌するのである。いまだ彼女は息子を・彼の生と死を・弄ばんばかりであり、彼の再生さえもいまだ彼女の威力のうちに握られている。若者神が死んで蘇える神として大地の豊饒や植物的なあり方と結びついているところでは、地母神の側の優位が明白であり、その分だけ少年神の独立性が疑わしくなる。男性はここではまだ母性−女性に対して父親としての同権を獲得しておらず、少年−思春期に留まっており、母胎および幼児的依存関係から自らを解放すべく独自の発達を始めたばかりである。(上・91〜92)

 アントン君はヴァルヴァーラ夫人のプロフィールを「背が高く、黄色っぽく、骨張った感じの女性で、馬面というか、むやみと顔が長かった」と紹介していた。どう見ても、このスクヴォレーシニキの女地主ヴァルヴァーラ夫人は可愛い女性のイメージからはほど遠い。やはりヴァルヴァーラ夫人はノイマンの描く「両性具有」としての「ひげのある女神」の肖像に近似した存在である。もはや言うまでもなく、ヴァルヴァーラ夫人とステパン先生の関係は神話的次元では「息子=愛人と母親」の関係であり、ステパン先生はヴァルヴァーラ夫人の「愛人となり、彼女に愛され、殺され、葬られ、悲しまれ、再び産み返される」運命を一身に負っているのである。ステパン先生が「母性的−女性的なものにまだ太刀打ちできず、それに敗れて死に、そこへ回帰し、それに呑み込まれ」た存在であったことをもはや誰も疑うことはできないだろう。だが同時に、「母=愛人」としてのヴァルヴァーラ夫人が「恐ろしい死の女神」としてステパン先生を呑み込んだのでもないことも確かである。むしろ、「恐ろしい死の女神」によって呑み込まれてしまったのは実の息子ニコライである。「いまだ彼女は息子を・彼の生と死を・弄ばんばかりであり、彼の再生さえもいまだ彼女の威力のうちに握られている」とは、まさに母ヴァルヴァーラと息子ニコライの関係を明確に語っているのであろう。ニコライは「まだ母性=女性に対して父親としての同権を獲得しておらず、少年―思春期に留まっており、母胎および幼児的依存関係から自らを解放」することなく、ウロボロス的大地スクヴォレーシニキ=太母ヴァルヴァーラへと回帰し、自らの首を吊って果てたのである。ニコライの「生と死を弄ばんばかり」であった太母ヴァルヴァーラが、息子の「再生」をいかに果たすか、『悪霊』はヴァルヴァーラ夫人の太母的「威力」のさらなる展開を待たずして幕を降ろしてしまった。
 ノイマンは「母から愛人に選ばれた少年は、確かに母に授精し、豊饒神の性格さえもつが、実際には彼らは太母に連れ添う男根にすぎず、女王蜂に仕える雄蜜蜂と同じで、授精の務めを果たすと殺される」と記し、その後、母神の愛人たちに共通する特徴を次のように書いている。

 母神の愛人たちはみな共通の特徴を持っている。彼らは少年であるのに、その美しさと愛らしさ、それに自己愛的な性格が際立っている。彼らは繊細な花であり、神話ではアネモネ水仙・ヒヤシンス・スミレによって象徴されているが、これらの花はわれわれの男性的−父権的心性ならばむしろ若い娘と結びつけるはずのものである。これらの少年がどう呼ばれているにせよ、彼らには特徴と言えるほどのものは一つしかなく、彼らはその身体的な美しさによって女神の恋心を惹きつけるだけである。それを抜きにすれば、彼らは神話の英雄たちとは対照的に、力も特色もなく、個性と行動力に欠けている。これはいかなる意味においても「お気に入りの少年」であり、自己愛的な自己関係性は明らかである。自己関係性とは、ナルキッソスの神話に最も明瞭に表わされているように、自分の身体への関わりである。そして特にこの少年段階に特徴的なのは、身体と自己愛的な人格の化身として、男根が自己愛的に強調されていることである。(上・95〜96)

 若い頃のステパン先生は「すこぶるつきの好男子」であったそうだから、詩人クーコリニコフの肖像画に一目惚れしてしまうようなヴァルヴァーラ夫人にとっては格好の愛人候補であった。ステパン先生はヴァルヴァーラ夫人の着せ替え人形のような存在であり、知的ペットであったわけだが、神話的心理学的次元では「太母に連れ添う男根」でもあったわけである。アントン君が読者に注意していたように、二十二年の間、彼らの間に肉体的関係はなかったが、ヴァルヴァーラ夫人の心理の底を覗いてみれば、彼女が求めていたのは「授精の務めを果たす雄蜜蜂」であり「授精する男根」ということになる。ノイマンは「太母にとって本来重要なのは少年ではなく、彼が持っている男根」とまで言い切っている。
 ところで、ステパン先生とヴァルヴァーラ夫人の関係に照明をあてなおせば、ヴァルヴァーラ夫人がこの「授精する男根」ステパンを一人占めにしようとしたことは明白である。ヴァルヴァーラ夫人はステパン先生に養女ダーリヤとの結婚を自分ですすめておきながら、彼が少しでもその気になると烈しい嫉妬と怒りにかられる女性である。従ってヴァルヴァーラ夫人が「授精する男根」ステパンを一人占めにするためには、彼を去勢するしかなかった(何しろ彼女は自分自身が誰よりも「男根」を求めていることを認めてはいないのだから)。その結果ステパン先生は太母ヴァルヴァーラに仕える「授精する男根」の単なるシンボルとして、二十二年もの間「授精の務め」を果たさぬまま逝ってしまった。
 ステパン先生がヴァルヴァーラ夫人に対して授精能力のない「男根」であったということは、わたしたちに太母ヴァルヴァーラの再生力(ニコライとステパン先生を再生させる力)を疑わしめることにもなる。太母ヴァルヴァーラは二人の息子=愛人であったニコライとステパン先生を自らの内に呑み込み溶化させてしまった。しかし、二人の息子=愛人は二人して太母に授精する能力を備えてはいなかった。ということは彼ら二人はウロボロス的大地スクヴォレーシニキ=太母ヴァルヴァーラに呑み込まれてしまっただけで、蘇生する可能性を持っていなかったことになりはしないだろうか。太母ヴァルヴァーラは呑み込み溶化するだけで彼ら二人の息子=愛人を再生する力を授けられていなかったとすれば、より深い悲しみと嘆きは太母の側にこそあるというべきであろう。
 太母ヴァルヴァーラはウロボロス的大地スクヴォレーシニキに取り込まれているが、ヴァルヴァーラをこの大地から解放するためには、ウロボロス的大地と一体化してその大地の守護神と化した竜・ヴァルヴァーラと闘い、彼女を殺す英雄が出現しなければならない。その竜殺しの英雄的使命を負わされていたのが実の息子ニコライであったことは言うまでもない。が、ニコライは太母ヴァルヴァーラから必死の逃亡を企り、何度も反逆を試みながら、結局は自らの首を吊るという形で太母に呑み込まれてしまった。ヴァルヴァーラ夫人はアフロディテやパイドラと同様「恋する息子を追い回し、反抗されて殺す」太母と言ってよいが、彼女自身がその太母的両義性に自足していたわけではない。英雄ニコライが闘わなければならない究極の敵は、竜の姿をかりた太母ヴァルヴァーラではなく、彼女を取り込み呪縛しているウロボロス的大地スクヴォレーシニキなのではないか。ニコライにおける母殺しとは、実は太母ヴァルヴァーラに授精するということではないのか。この母への授精ということは、「母の中へ入り込み母と一体化する」ウロボロス近親相姦の形態としてではなく、母との臍帯を断ち切って一人前となった真の英雄としての授精である。この授精によってこそ、ヴァルヴァーラは太母的両義性から解放され得るのではなかろうか。つまり問題は、太母殺しにあるのではなく、ウロボロス的大地スクヴォレーシニキの呪縛の環を切断し、その環の中から母を救い出すことにこそあるのではないか。ここでわたしたちが、その広大な領地スクヴォレーシニキが専売商人の父から一人娘ヴァルヴァーラに受け渡されたものであることを忘れないならば、太母ヴァルヴァーラは「永遠の少女」のまま父に取り込まれてしまった犠牲者の貌を浮き彫りにするだろう。従ってニコライの太母殺しのテーマは、実は太母を支配する彼女の父を殺すことであったということになる。
太母・竜との闘いに、もしニコライが勝利していれば、ヴァルヴァーラは父の呪縛から解放された「女性」(この点に関しては後で再び言及する)に立ち返ることができたであろう。同時にウロボロス的大地スクヴォレーシニキはその両義的な環を解き放ったであろう。

 大地の母胎は授精されることを望み、また授精されねばならない。そして血の供物と屍体は彼女の大好物である。これは大地の性格の恐ろしい側面、死の側面である。最初期の豊饒の祭礼では聖なる生贄は八ツ裂きにされ、その血まみれの各部分が高価な宝として分配されて大地に捧げられ、大地の豊饒性を作り出した。(上・102)

 ウロボロス的大地スクヴォレーシニキは多くの犠牲者を呑みこんだ。が、はたしてスクヴォレーシニキはそのことによって豊饒性を作り出すことができるのだろうか。『悪霊』の舞台となったスクヴォレーシニキの呑み込む吸引力は途方もなく強く思える。この底なしの貪欲さは、ただ呑み込み溶化し破滅させるだけで、何らの再生力も永遠に発揮しないようにさえ見える。どのような英雄が現われても、遂に、この自らの尾を咬む蛇の環(ウロボロス)を切断することは不可能のように見える。未だ『悪霊』の英雄候補者には、太母ヴァルヴァーラの背後にひそむ者の正体が見えず、従って幻影の敵・太母ヴァルヴァーラに翻弄され自滅するしか途はなかった。
 もはやわたしたちに理念的な迷いはない。ステパン先生はソフィヤ・マトヴェーヴナとともに「広大な湖」を渡り、スパーソフ(キリスト)へと到り着けばよい。スパーソフでステパン先生が《イエスの足もとにすわる》とき、そのときがウロボロス的大地スクヴォレーシニキの円環の輪が溶化し、その大地に呪縛されていた守護神・女王・女神・竜であったヴァルヴァーラ夫人が解放されるときなのである。ここでわたしたちは、もう一度、ソフィヤ・マトヴェーヴナをスパーソフへ連れていくと約束していた女地主ナジェージダ・エゴーロヴナ・スヴェトリーツィナを想い出しておこう。もうおわかりだろう。もし、ステパン先生がスパーソフへと到り着けば、ウロボロス的大地の中心に存在するヴァルヴァーラ夫人がその瞬間、〈ナジェージダ・エゴーロヴナ・スヴェトリーツィナ〉に変容するということである。このナジェージダが聖母マリヤ的存在であることはもはや言うまでもない。
 ところで、ステパン先生が湖を前にしながら、ウスチェヴォの百姓家で息を引きとってしまったという事実をまげることはできない。太母ヴァルヴァーラはステパン先生の遺体を、そしてソフィヤ・マトヴェーヴナをスクヴォレーシニキへと連れ帰り、そのあげく息子ニコライの死を一番最初に確認しなければならない。養女ダーリヤも福音書売りソフィヤ・マトヴェーヴナも、この太母ヴァルヴァーラを前にすると、何とたよりなげな存在と化してしまうのであろうか。ニコライが自分の「看護婦」として希求し、ステパン先生がソフィヤ・マトヴェーヴナに永遠に女性的なるものを見出しながら、結局、彼女たち二人は、ソーニャ・マルメラードヴァの信仰に裏打ちされた力強さを備え持つことができない。青白くやせた、運命に従順な、何らの反抗の手段も持たなかった十八歳のソーニャ・マルメラードヴァはシベリヤの囚人たちからも「お母さん」と呼ばれて頼りにされた。が、ダーリヤもソフィヤ・マトヴェーヴナも、彼女たちを支配しているのは太母ヴァルヴァーラであって、未だそれを超える存在ではない。だから、わたしたちは、ここで誰よりも太母ヴァルヴァーラに照明をあてなければならない。
太母ヴァルヴァーラが喪ったものを考えてみればいい。二十二年もの間「奇妙な友情」関係にあったステパン先生の死、それに続くニコライの死、シャートフやリーザやマリヤ・シャートヴァの子(この子供はヴァルヴァーラ夫人の孫である)の死の確認と続けば、この外見上、気丈夫な太母ヴァルヴァーラの絶望ははかり知れない。太母ヴァルヴァーラは自分を殺す(救済する)英雄を呑み込んでしまうほどに恐るべき存在であるが、もはや彼女はわたしの眼に炎を吐く悪竜でもなければ巻きこみしめ殺す大蛇でもない。ヴァルヴァーラ夫人は真の英雄を、つまり彼女自身を呪縛して離さないウロボロス的大地スクヴォレーシニキの霊的存在(父)をうち倒す力を持った英雄の現出を待望している「永遠の少女」なのである。見間違えてはならない。「ひげのある女神」太母ヴァルヴァーラが実は父的存在にとらわれた「永遠の少女」(犠牲者)と映れば、男子たる者、どうにかして彼女を救い出さんと試みずにはおれないはずである。
ドストエフスキーの読者なら、当然ここで「おかみさん」のムーリンとカチェリーナとオルドゥイノフの三角関係を想起するだろう。ムーリンの呪縛されたカチェリーナとは、ウロボロス的大地スクヴォレーシニキに呪縛されたヴァルヴァーラ夫人であり、オルドゥイノフとはニコライ・ステパン先生に他ならない。もはや自明のように、太母との闘いは、実は父との闘いであり、太母殺しとは実は父殺しであって、父殺しに成功してはじめて太母は太母の外皮の中から一人の解放された女性として蘇生するのである。が、すでに見てきた通り、ステパン先生もニコライも太母ヴァルヴァーラの息子=愛人の域にとどまり、太母に呑み込まれることでしか「母との一体化」をはかれなかった。
 それでは、太母ヴァルヴァーラの前にもはや“英雄”として出現してくる男子の可能性は全くなくなったのであろうか。ノイマンは「殺害と生贄、八ツ裂きと血の奉納は豊饒の魔術の道具であり、大地の豊饒性を保持するものである」「大地は妊娠するためには血を飲まねばならない」「恐ろしい地母元型の背後には死の体験があり、この死によって大地は自らが産んだものを死者として取り戻し、死者を引き裂き溶かし込んで、それによって自らが受胎する」と書いている。ステパン先生・ニコライを呑み込んで、もし太母ヴァルヴァーラが受胎しているとすれば、彼女が産み出す“英雄”は〈あの人〉をおいて他には考えられないだろう。
 つまり、わたしの言いたいことは次のようなことだ。太母ヴァルヴァーラは二人の息子=愛人によっては、ウロボロス的大地スクヴォレーシニキから解放されなかったが、二人の女性(ダーリヤとソフィヤ・マトヴェーヴナ)によって、もしかしたら聖母マリヤ的な存在に高められていったかもしれないということである。そしてまた、ヴァルヴァーラ・ペトローヴナがナジェージダ・エゴーロヴナ・スヴェトリーツィナに変容し得る可能性を残している以上、彼女が二人の「息子」を死者として取り戻すことによって受胎し産み出す子供は、真の英雄、即ち〈イエス・キリスト〉をおいて他には考えられないということである。
 『悪霊』では、太母ヴァルヴァーラはウロボロス的大地スクヴォレーシニキという父性の霊によって授精し、負のキリストともいうべきニコライを産み出し、さらに古代異教徒的信条を保持したままキリストの必要を説く、いわばキリストもどきのステパン先生を息子=愛人としたにとどまった。太母ヴァルヴァーラの使命は、この二人のできそこないのキリストを「死者として取り戻し」、ダーリヤとソフィヤの力をかりて、再び真の英雄、真のキリストを産み出すことにある。
 『悪霊』は「殺害と生贄、八ツ裂きと血の奉納」によって幕を閉じた。「キリスト」がヴァルヴァーラ夫人に受胎したかどうかはあくまでも不明だが、もし受胎しており、誕生ということにでもなれば、『悪霊』は第二部の開幕、即ち、イエスとピョートル・ヴェルホーヴェンスキーを主役とした舞台が展開されることになるだろう。


目次
『悪霊』論  ドストエフスキーの作品世界

政治的季節の『悪霊』
罪の感覚 
『悪霊』の主人公 
平凡社版『悪霊』 
人物の表記法 
『悪霊』というタイトル 
『悪霊』の人物たち 
悪鬼どもとムイシュキン公爵 
ムイシュキン公爵の危険性 

ステパン先生の肖像画 
ステパン先生の精神的血縁者 
『悪霊』と『ステパンチコヴォ村とその住人』 
『失意の学徒』と少年ニコライ 
ステパン先生の都落ち 
ステパン先生とエララーシュ 
ステパン先生とヴァルヴァーラ夫人 
「学問の受難者」の理想主義 
私生児性と浮遊物的存在 
ステパン先生の警鐘 
企業心の魔 
「自分自身の労働」と」旧ロシア的たわごと」 
ステパン先生の講義内容 
ステパン先生の“神” 
ステパン先生の劇詩における汎神論的《生の饗宴》 
内在神と超越神 62

ベリンスキーとゴーゴリの往復書簡をめぐって 
四〇年代のドストエフスキー・師ベリンスキーとの関係 
革命家ドストエフスキー 
師ベリンスキーの影響と愛憎劇 
初期作品に対するベリンスキー批評 
ロシアとロシアの民衆をめぐって 
ロシアの民衆と貴族 

シャートフの思想と肖像をめぐって
シャートフとドストエフスキーの“転向” 

キリーロフの思想と肖像をめぐって 
人神思想――ラスコーリニコフ、イッポリートからキリーロフへ 
永久調和の瞬間 
キリーロフの“死”をめぐって 

ガリョフ理論をめぐって 

政治的陰謀家ピョートルの肖像――父親ステパンとの関係において
ペテン師ピョートルの“思想” 
社会主義批判とピョートルの表層的役割 
天才的な使嗾者ピョートル 
シャートフ殺害と憎悪の哲学 
謎を秘めた政治的人間の役割 
美を愛するニヒリストの道化と陰謀 
政治的道化師ピョートルの陰謀と破綻 

ピョートルの“秘密” 
秘密工作員ピョートル 
      スパイの典型 
虚無の演戯者 

偶像化されすぎたニコライ・スタヴローギン  


ドストエフスキー『悪霊』の世界
ニコライ・スタヴローギンの肖像
ニコライの精神分裂
ニコライの暴挙・スキャンダル
息子ニコライと太母ヴァルヴァーラ
ひき裂かれた自己
仮面(にせ―自己)としてのニコライの虚無
分裂病質者ニコライの不安と恐怖

太母に対する第一次反抗
太母に対する第二次反抗
太母殺しの挫折の唯一性の奪回へ向けて
ニコライの帰郷と呪縛霊ヴァルヴァーラ
美男子ニコライ
ニコライの狭量と倨傲
ニコライの現在時と空虚な内的自己
太母と息子ニコライの対決
敗残者ニコライの茶番劇
ペテルブルクでのニコライ

アントン君のニコライ観
ニコライの堕落と虚偽
ニコライの耐える意志
買いかぶられすぎたニコライ
ニコライの卑小さ
なまぬるき者ニコライ

ニコライとスヴィドリガイロフ
罪の感覚
ニコライの病理的傾向(サド・マゾ)
善悪観念の磨滅
マトリョーシャの現出・ニコライの悔恨

ニコライとヴァルヴァーラ
アントン君の注釈
描かれざる少女陵辱・セックス
ニコライとマトリョーシャ
陵辱後の足どり
神殺しの秘儀
ニコライの鏡像・マトリョーシャとヴァルヴァーラ

赤い蜘蛛
「赤い蜘蛛」と「巨大ないやらしい蜘蛛」
「赤い蜘蛛」と太母ヴァルヴァーラ
“神”を試みる実験
黄金時代の夢
楽園からの失墜
またしても「赤い蜘蛛」の現出

ニコライの実験と分裂・未だ親交は遠く
新しい犯罪
アントン君による告白の解剖
チーホンによる告白の解剖から
ニコライに赦罪は可能か
チーホン対ニコライ
チーホンの肖像・聖と俗の混交
チーホンとポルフィーリイ

罪と回心
回心と死と天国
回心の不可能と懐疑
チーホンの語られざる罪
宗教的経験の諸相(回心をめぐって)
ニコライと分身・悪霊
ニコライとチーホンの“傲慢”

スピノザの神をめぐって
スピノザドストエフスキーの人神論者達
神=自然の認識と信仰
死の勝利と復活・スピノザとイッポリート
スピノザの反キリスト教的性格とニコライ
人神キリスト・スピノザとキリーロフ
スピノザの神の認識と信仰

スピノザからサド侯爵の閨房哲学へ
道楽者ニコライ
悪徳の栄え―サド侯爵の悪徳漢とドストエフスキーの人神論者たち
サド文学の危険性(楽天性)
サド侯爵の想像力の質(神=自然との一体化)
無垢と怪物性―アリョーシャ・ヴァルコフスキーをめぐって
悪の哲学者・ヴァルコフスキー公爵
「気紛れ」と「恥さらし」
秘中の秘
悪の哲学と実践―サド侯爵とヴァルコフスキー公爵

地下男の誕生
悪の語り手
屈辱の快感―サディストになりそこなったマゾヒスト
自然の法則の二義性
「自然の神」と虚無の戯れ
醜悪な恥ずべき犯罪・地下男とニコライ
嫌悪を抱かせる穴蔵男
地下男が想定した読者
神=自然への挑戦と甘え
オルゴールの釘

神の試みから回心へむけて
ステパン先生の放浪―街道と百姓
百姓の指示―ハートヴォからウスチェヴォへ、そしてスパーソフへ
ソフィヤとの出会いと福音書
名前にこめられた意味

ルカ福音書(ゲラサの豚)と『悪霊』
「ひとりの男」とイエス―汚れた霊と神性の顕現
豚の死と生き延びたレギオン
奇蹟―悪鬼追放の一大イベント
奇蹟―おびえとメシア待望

未だ来ぬイエス
ステパン先生の回心
太母ヴァルヴァーラの呑み込み
太母とソフィヤ

神話学的・心理学的側面からの考察


『悪霊』の日付をめぐって―数・曜日の神秘的運命性
ニコライの運命にまとわりつく三、六、九
一八七〇年八月、九月、十月の旧ロシア暦表
『悪霊』の足取り
ステパン先生の遍歴の足取り
『悪霊』のモデル表
『悪霊』の三角関係図

あとがき


『悪霊』の謎
第Ⅰ部 『悪霊』の謎――ドストエフスキー文学の深層――

第一章 リーザの罪と罰
第二章 《征服者》リーザと忠実な騎士マヴリーキー
第三章 『罪と罰』の聖痴女
第四章 マリヤ・レビャートキナの神=自然
第五章 マリヤ・レビャートキナの聖母=大地信仰
第六章 狂女マリヤの透視と「汚れた霊」
第七章 マリヤ殺害者フェージカ
第八章 〈太母〉対〈聖母〉の勝利者に向けて
第九章 『悪霊の作者アントン君をめぐって

第Ⅱ部 坂口安吾ドストエフスキー

坂口安吾ドストエフスキー
 ――『吹雪物語』と『悪霊』を中心に
坂口安吾と地下生活者