小林リズムの紙のむだづかい(連載93)

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紙のむだづかい(連載93)
小林リズム

【ノリ方がわからん】


「あ、この曲知ってる」
「中学生くらいの頃に流行ってたね」
 飲食店でバイトをいていたころ、店内に流す曲をそれぞれが適当にCDを見繕って持ってきていた。同年代の学生の子たちが多かったから、自然とみんなが知っている曲がかかるようになって、それが数年前のものだったりすると懐かしさに盛り上がったりしていた。
 「よく文化祭で使われてたよね」とか「この曲聞きながら受験勉強してたなぁ」という思い出話に花を咲かせているとき、一応は笑顔を浮かべておきながらも、次の展開を想像してひやひやし始める。うわ、盛り上がっちゃってるよ、これってくるパターン?やめてくれ、早く次の話題を…と願うも、案の定、予測した通りの流れになってしまうのだ。
「ふんふーん♪ふふふふーん♪」
ひとりがBGMに乗って鼻歌をうたいだす。それを皮切りに、他の子たちも便乗し、鼻歌は次第に歌詞をつけて本格化する。ますます乗ってきた彼らは身体まで揺らしだし、乗りに乗りまくるのだった。みんなが楽しそうに懐メロに酔っているときに、私は迷ってしまう。あれ、ここであたしも乗ったほうがいい…?でも、どうやって…?誰も気にしていないのに自意識が邪魔をする。
 曲のサビの部分が近づくとどんどんヒートアップする。別世界に行ってしまいそうな彼らに自分もついていくべきなのか、それともここでへらへらと薄笑いを浮かべ帰ってくるのを待つべきなのか、判断しかねる。曲と流れに乗れないつまらない人だと思われたくない、けれど間違えた乗り方をしてしまって恥ずかしい思いをするのも嫌。どうしよう、とりあえず手拍子でも打っておこうか。でも手拍子なんてださいのかもしれない…。
 そうこうしているうちに曲は終わり、次の曲が始まる。結局何もできずに立ち尽くしていた自分を後悔しているときには、すでに周りはもう各自の仕事に舞い戻っている。突然別世界へ飛んでいき、マッハの速さで帰ってくる、そんな彼らの柔軟性とさっぱりとした輝きがいつも眩しかった。テキパキと仕事を勧めている彼らを横目に、世界の差を見せつけられた私はいつまでも切り替えができない。

 十代の頃は自意識を持て余しすぎて、いつも大変だった。些細なことさえ、一日に何度も頭のなかで再生し、やるせなさと情けなさでいっぱいになる。
 自身の惨めな思いのぶつけ先に困って、私はよく自分と似た家族のイタい行動に八つ当たりしていた。父が喫茶店ですぐにアイスコーヒーを飲み終えてしまうことや、飲み終わったのにまだストローを間違って吸っているときなんか、恥ずかしくて腹立たしくて仕方なかった。今ではそんな父を可愛く思えるけれど、そのときの自分には余裕という言葉がどこにもなかったのだ。

 自意識から開放されるには、とにかく何も考えないことがいい。自身にベクトルが向いているから苦しくなる。感情を鈍くして、まわりに目を向ける。私にはそれが何より必要なことだった。そうやって毎日少しずつ慣れていくうちに、コツをつかんだ。カラオケではとりあえず身体を左右に大きく振る。イメージは時計の振子。若干ほほえむことも忘れない。クラブでは行き場のない手を隠すべく片手でお酒を持ち、もう片方の手は適当に天井にあげて適当に身体を揺らしておく。途中で「ふぉー!」とか「いえーい」と言えるくらい酔えればなお良し。おかげでだいぶ生きやすくなった。

 自意識をできるだけ遠ざけようとすることは、私にとってはとても大事で、生きやすい生活はすごく欲しかったものだ。けれど、自意識過剰で自己愛と自己嫌悪にまみれている自分のことも本当は嫌いじゃなかったのかもしれない。なんていうのは、過ぎた今だから言えるのかもしれないけれど。

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