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清水正ブログ

2013-10-17

ユッキーの紙ごはん(連載19)



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ユッキーの紙ごはん(連載19)

【可愛いという才能】

ユッキー


「見て ねえ見てよ

ちゃんと見てて

あなたが私を殺すんだから」

これは私が最近見たドラマで、主人公の女が終盤、愛する男に向かって叫ぶ台詞だ。ドラマの原作は、辻村深月『鍵の無い夢を見る』という直木賞を受賞した作品である。

先週金曜日、清水先生のゼミの授業で、チェーホフ『可愛い女』という短編を読んだ。

この主人公であるオーレンカ、彼女の何が可愛いかと言えば、清水先生の解説を借りつつ端的に言えば、「自分の傍にいる一人の男だけを見つめて全力で愛するところ」だろう。

 要は、「元彼はもっとこまめに連絡してくれたのに」「他の男友達はいつも奢ってくれるもん」「性格は彼のほうが好きだけど、職業とか収入はアッチの彼のほうが良いんだよね……」とか言う女は可愛くないってこと。他の男となんか比べるな、スペックなんかで見るな! ということです。

オーレンカは「しょっちゅうだれかしら好きでたまらない人があって、それがないではいられない女」であり、それだけでも可愛いのに、彼女はいつだって愛する男に影響され、男がどんな仕事をしていようとも「なんて立派な人でしょうね!」と言って、彼女自身もその仕事を快く手助けする。

1人目の夫に先立たれ、2人目の夫にも先立たれ、その後には友達一家を自分の家に住まわせてやって、全くの他人である友達一家の息子を自分の子同様に愛する。

彼女は愛する人間を過去や他人と比べたりしないし、そっけない態度を取られても相手にひたすら愛情を注ぐ。

冒頭にあげた『鍵の無い夢を見る』1話目の主人公・未玖も、「可愛い女」だった。

 大学で出会った男と恋仲になるが、実のところ男は非現実的な子供っぽい夢を追いかけ、大した才能もなく努力もせず、未玖を振り回し、金をせびる身勝手な人間。それでも未玖は彼を愛し続ける。

男はその後、自分に単位をくれない大学教授を殺してしまう。未玖に一方的に別れを告げていたにも関わらず、逃亡中の彼は「愛してる。会いたい」と未玖をホテルに呼び出す。

男は「万が一捕まっても、一人殺したくらいじゃ死刑にはならない」と高をくくっている。「警察に行こう」と訴える未玖を男は鬱陶しそうに振り払い、一人で逃げようとする。未玖が「私も一緒に連れて行って」と縋っても、お前から足がついたら困るといって立ち去ってしまった。

外階段を使ってさっさと地上に降りてしまった男に向かって、未玖は数階上から叫ぶ。冒頭の台詞を。

そして飛び降りながら、彼女はこう祈る。

「どうか死刑になりますように

どうか死刑になりますように

あなたが生きる世界はこの世のどこにもない」

ゼミでの授業。星エリナちゃんにも私にも、オーレンカは不評だった。

「重い」「なんか怖い」「男に捨てられたら刺してきそう」という理由で。

オーレンカも未玖も、「可愛い女」だ。どんな人間であっても一度愛した男には一途な愛を注ぐ。「可愛くない女」の私には理解できない感情。

 しかし後者の女は、可愛いままではいられなかった。それは彼女のせいだろうか。

 いや、愛した男が彼女の手元にさえいれば、その相手がどんなにダメな男でも、彼女は可愛い女のままでいられたと思う。

”自分の傍にいるならば、どんなあなたでも愛しましょう

自分から離れていくならば、あなたが生きる世界なんかどこにもないほうがいい”

これが彼女たちの思考回路なのかもしれないと、ドラマを見て、オーレンカを思い出し、鳥肌を立てながらそう思った。

「可愛い女」が可愛いままでいられるかは、愛した男次第なのかも。

肖像写真は本人の許可を得て撮影・掲載しています。無断転用は固くお断りいたします。

清水正著『ドストエフスキー「白痴」の世界』(鳥影社)の紹介(2)

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この本に収録された『白痴』論は1985年12月23日に書き始め1987年5月11日に書き終えた。すでに二十六、七年も過ぎた。『アンナ・カレーニナ』論を含め、刊行したのが1991年11月。先日久しぶりに読み返したが、今度『清水正ドストエフスキー論全集』第七巻に収録したいと考えている。

清水正著『ドストエフスキー「白痴」の世界』(鳥影社)から目次と一部分を何回かにわたって紹介する

目次

第吃堯愬鮹圈戮寮こ

『白痴へ向けて――純粋の結末――7

ムイシュキンは境(граница)を超えてやって来た 25

идиот・新しい物語 38

ホルバインのキリスト像をめぐって 55

復活したキリストの無力 76

ムイシュキンの魔 92

ナスターシャ・フィリポヴナの肖像 121

レーベジェフの肖像 159

トーツキイのプチジョー 171

ムイシュキンの多義性――異人論の地平から――177


第局堯アンナ・カレーニナ』の世界アンナの跳躍と死をめぐって 197

  ――死と復活の秘儀――

第一章 美の宿命 197

第二章 宿命的な邂逅 200

第三章 偽善(ファリシーヴィ)と不幸 203

第四章 不吉な兆 205

第五章 二人だけの秘密・偶然の魔の神秘 207

第六章 アンナの内なる悪魔 213

第七章 不倫の契約と自己欺瞞 218

第八章 ラスコーリニコフのあれとアンナの跳躍 221

第九章 跳躍の軌跡・アンナとゴリャートキン 224

第十章 ある何ものかの意志・神の使者イスタプニーク

第十一章 死と復活の秘儀・アンナの“罪と罰” 242

第十二章 赤い手さげ袋(красный мешочек) 244

第十三章 ゴリャートキンの発狂とアンナの死・自由と復活 247

第十四章 ラスコーリニコフの踏み越え 250

第十五章 ラスコーリニコフの復活とアンナの死 250

第十六章 アンナの死とイッポリートの「死」 252

第十七章 もう一人のアンナ=ナスターシャ・フィリポヴナ 256

第十八章 神の使徒・ひげぼうぼうの百姓とムイシュキン公爵 257

残された者たち 259  ――復活を待つセリョージャ――

あとがき 271

ムイシュキンは境(граница)を越えてやって来た

罪と罰』は七月初旬の夕方、一人の青年が又借りしている屋根裏部屋から通りへ出て来る所から始まる。次作『白痴』は「十一月も末、ある珍しく寒のゆるんだ雪どけ日和の朝九時ごろ、ペテルブルク・ワルシャワ鉄道の一列車が、全速力でペテルブルクへ近づいていた」で始まっている。この書き出しで明らかなように、『白痴』は前作『罪と罰』をきちんと踏まえたうえで書かれている。七月初旬から四カ月後の十一月末……この季節を表す数字(四)をラスコーリニコフの歳(二十三歳)にプラスすれば、『白痴』の男性主人公二人の青年の歳になる(尤もムイシュキンの年齢は二十六、七歳と正確に記されてはいない)。四は死と再生を意味する数字であり、『白痴』が『罪と罰』開始の四カ月後から開幕されたことは予め作者の裡で計算されていたことである。九時ごろとはイエス・キリストの死去時刻であり、従って十一月末の朝九時とは、数の象徴的次元でいえばイエスの死と復活の秘儀の時そのものである。『白痴』の文章は「とても湿っぽく霧のふかい日だったので、あたりはようやく明るくなりかけたところだった」と続くが、これは単に十一月末の雪どけ日和りの光景を描いているのではなく、まさに“死”から“再生”へと映りゆく、その一大奇跡の象徴的描写でもある。

(一)復活したキリスト

 ちょっと立ち停まってタイトルを眺める。『白痴』……идиот。アホ、バカ、マヌケ、お目出たき人、おばかさん、痴呆……一つの言葉идиотが多様な貌を見せはじめる。その多様さが重要なのではない。多様な貌がたった一つの言葉идиотで一義性を確立している、そのこと自体が重要である。ドストエフスキーが真実美しい人・キリストの具現化を試みたとき、なぜその人をидиотと名付けなければならなかったのか、その謎を解いてみるのでなければ『白痴』という世界に踏み込む理由は半減する。私は『白痴』について書くとは、идиотにどこまでせまれるか、という背筋がぞっとするような内的霊的冒険の旅の軌跡なのだ。

 “ペテルブルク・ワルシャワ鉄道の一列車”が、ペテルブルクから“外国”へ向けて出発したのではない。この一列車はまさにペテルブルクへと到達しつつある。やがて全能の無形の語り手は、その一列車の、三等車の一座席に向かい合わせに座っている二人の青年に照明をあてていくことになるが、その前に彼(語り手)はさりげなく「乗客のなかに外国帰りの人」がいることをもらしている。

 ここまでは『白痴』の日本語訳文庫本でも一頁を費していない。この一頁に充たない描写に、たとえば十五分の時間をかけても撮りきれない映像の世界を見たり、一人の舞踏家の舞いを見ればよい。あたりがようやく明るくなりかけた雪どけ日和の朝九時、あなたの耳に、全速力でペテルブルクに近づいてくる一列車の音はどのように聴こえるか、汽笛は、噴煙は……。そうだここで読者は一人の有能な映画監督と化せばよい。鉄道の停車場で、列車の到着を待つ一人の男に照明をあてれば、彼の耳に列車の近づく轟音がどのように響いているかは説明するまでもない。それはまさに音の遠近法というにふさわしく臨場感にあふれたものとなるであろう。さらに細かいことをいえば、この停車場にたたずんで列車を待つ一人の男が、どのような内的情況にあるかで事情は異なってこよう。

 しかしここでわれわれは新たなる“小説”を書きはじめるのではないから、それなりの想像力を発揮したならば、もう一度、作品の描写場面に立ち帰ってみよう。すると面白いことに気付く。それはどういうことかというと、この最初の描写にはまず音がない。鉄路を力強く走り抜ける轟音も、汽笛もいっこうに聴こえてこない。さらに映像も明確でない。語り手は「とても湿っぽく霧のふかい日だったので……車窓から十歩も離れたところは、線路の右も左も、まだ何ひとつ見わけることができなかった」と記している。つまりこの場面の描写には音も映像もない。強いていえば濃い霧のたちこめた無音で灰色の光景が存在するだけである。まず読者はこの灰色一色で塗りこめられた場面を凝視し、その灰色の奥に“ペテルブルク・ワルシャワ鉄道”の一列車がペテルブルクに近づきつつあるのだということを実感しなければならない。その手続きを終えてはじめてわれわれは、語り手が照明を与えた三等車の光景を見ることが許される。

 少数に外国帰り、そして大部分をしめる身分の低い町人や商人たちの群……しかしここでも、映像が明確になってきたにも拘らず、依然として音は存在しないままである。三等車に乗りこんだ商人たちの話し声はおろか、彼らの呼吸音さえ聴こえてこない。語り手は描写を続ける「みんなは当然のことながら疲れきっていて、一晩のうちにはれた眼をどんよりさせ、腹の底まで凍えきっていた。どの顔も霧の色にまぎれて、蒼白く黄ばんで見えた」と。ここまで読んでくれば明らかである。場面は全速力でペテルブルクに近づきつつある一列車を登場させておきながら、いっさいの流動感を欠いている。ただ無音の世界で濃霧が徐々に晴れていくだけのことである。この無音の濃霧の世界は“死”の世界といっても同じことである。濃霧が晴れ三等車に座をしめた乗客達の“蒼白く黄ばんだ”顔は死の貌に他ならない。

 そこでわれわれは漸くこの章のタイトルにした“ムイシュキンは境を越えてやって来た”を問題にすることができる。『白痴』導入部の描写場面においてムイシュキンという青年は未だ一切ふれられていないが、ただわれわれは“外国帰りの人”という言葉に留意しておかなければならないだろう。いずれ明らかになることだが、彼ムイシュキンは物理的地理的次元ではスイスからペテルブルクに帰ってきたことになっている。従って彼は紛うことなきれっきとした“外国帰り”である。今、私がここで問うことは地理的次元のことではない。ムイシュキンはиз‐за границы(外国帰り)であるが、この場合のграница(ゞ、分界国境8続Α埒)が問題である。ムイシュキンは単に“スイス”から“ペテルブルク”にやって来たのではない。彼は“死”から“生”へと、“白痴”から“正気”へと、“天国”から“地獄”へと……やってきた一人の青年だということである。従って“ペテルブルク・ワルシャワ鉄道の一列車”は、地理的物理的時間・空間を超脱した狭間としての境(граница)を、全速力で走っていたということになり、それを描写した『白痴』の導入部が灰色一色の無音の世界であるのは当然である。

 時のない、距離のない鉄路を全速力で走る一列車とは、だから死の世界を走る幽霊列車であり、乗客はすべて死者である。そして、今、まさにこの多くの死者たちを乗せた幽霊列車は“ペテルブルク”という“生”の世界へと到達(復帰・復活)しつつあるのだ。そう思って再び三たびこの『白痴』の導入場面を読み直せば、いかにこの作品が神秘的黙示的雰囲気をかもし出しているかが触感されるだろう。われわれが『罪と罰』のエピローグで見せられた、突然の、唐突な殺人者の復活劇ではない。ドストエフスキーは『罪と罰』で主人公たち(ラスコーリニコフソーニャ)を客体的に扱うことで彼らの“復活”を描き得た。主人公たちの“復活”それ自体は多くの読者の感動を誘ったわけだが、作家ドストエフスキーにしてみれば、それ(復活)を主人公の内部世界によりそって、否、入りこんで描ききるのでなければ自己欺瞞的な気分をぬぐい去ることはできなかったであろう。だから当然のこととして、ドストエフスキーは“復活”の秘儀そのものの内実を描きたかったに違いない。だがはたしてそんなだいそれたことが可能なのか。それを可能にするのは“神”をおいて他になく、いかなる天才芸術家もその秘儀そのものの内実に照明をあてることはできないのではなかろうか。

 そう思ってまた、『白痴』という物語の世界をふり返ってみれば、ことは明白である。読者の誰もが、なぜ、どのようにして、ムイシュキンが“白痴”になったのか、そして“白痴”から“正気”にもどったのか、それを知ることはできない。ただ物語全編を通して、正気にもどってペテルブルクに帰ってきた一人の西南が再帰不能の“白痴”にもどっていかざるを得なかった、その痛ましくも滑稽な経過だけが明白であり、その内実は依然として謎だということである。

 私はすでに主人公を“ムイシュキン”として書き記しているが、先に触れたように、作者は初めから主人公の名を明かしてはいない。この手法は『罪と罰』のラスコーリニコフと同じであるが、『白痴』においてはさらに重要な意味を持っていよう。何しろこの作品は“死”から“生”へと、その狭間(граница)を徐々に超え出てくる所から出発した物語であり、登場人物もその正体を徐々に浮彫りにする手法が効果的なのである。

 それではいよいよわれわれも語り手のあてた照明にそって『白痴』の主要二人物のプロフィールに注目してみよう。まず気づくのはムイシュキンとロゴージンが全く正反対の体格風貌を持っていることである。前者は「明るいブロンドの髪」「真っ白な顎ひげ」「大きな空色の瞳」で象徴されるように、その身体的特徴からして純潔・無垢の人を思わせる。後者ロゴージンは「髪はほとんど真っ黒」「小さくて灰色の瞳」「薄い唇」といったように前者とはまるで正反対である。こういった余りにも図式的な人物紹介の仕方は一見、漫画的でとうてい高級な手法とは思えないが、ではこれだけ単純に図式的に紹介された二人物がかつて明確に把捉されたことがあったかと問えば、残念ながら依然として今日まで、この二人物は無傷のまま『白痴』の世界に居すわり続けているのである。

 ムイシュキンは「とても大きな頭布のついた、かなりだぶだぶの、厚手のマント」を着、持ち物といえば身のまわり品をいれた包み一つきりである。語り手はいう「何から何までロシア的ではなかった」と。作者がムイシュキンに賦与したイメージは明らかだ。ムイシュキンの身につけたマント(плащ)はплащаница(棺中のキリストを描いた布・棺覆い)に他なるまい。つまりムイシュキンは復活したキリストとしてペテルブルクに帰ってきたのである。ここで少し先走ったことをいえば、ドストエフスキーの作品の結末は、その導入部においてすでに予告されている場合が多く、『白痴』もまたその例外ではないということである。ムイシュキンの身につけたマントについて作者は「イタリアでは役にたち十分その目的をはたしたものも、ロシアではからっきし役にたたなかったわけである」と書いている。『白痴』全編を読み終わっている読者にはぞくっとする予告である。墓場から蘇った“キリスト”ムイシュキンの伝道はロシアではまるっきり無力であったということだ。だとすれば作者は予め“具現化したキリスト”のロシアでの無力を悟っていたとでもいうのであろうか。作者は自らの作品の結末を凝視して、この導入部分を描いている。そう思わなければ、このことばを納得することはできない。作品を読む面白さは常に恐怖と裏腹である。ロシアでは丸っきり役に立たなかったплащを着こんでムイシュキンはペテルブルクに降り立ったのである。

小林リズムの紙のむだづかい(連載203)

小林リズムの紙のむだづかい(連載203)

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小林リズムさんが八月九日「ミスID」2014にファイナリスト35人中に選ばれました。

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小林リズムの紙のむだづかい(連載203)

小林リズム

 【レイトショーのち、エレベーターにて】

   ひとり映画をよくする。この頃は割り引かれるし空いているので、もっぱら平日レイトショー。近くの映画館は閑散としているから、隣の席も、そのまた隣の席も空いていて快適。お気に入りのコンソメフライドポテトも気にせずにパクパクと食べられるし、感動的な場面でうるっときても気にしないで済む。そして夜の映画は感情を揺すられやすいからなおさら、朝に観るよりも染みると思う。

 平日のレイトショーを観に来るひとは、仕事帰りのOLだったり、二日酔いの頭でぼうっとしていそうな男子大学生とか、映画が好きそうなおじさん、アフターファイブのデート中のカップルとさまざまな属性で、ふつうに毎日を送っていたら通り過ぎてしまいそうな人が多い。独身の人が多いんだろうなぁ、と勝手に思っている。自分専用の自由な時間が持てて、家で自分の帰りを待っている人もいない。次の日は仕事や学校があるけれど、でもちょっとだけ時間が惜しい…という感じの。

 大学生のころは、ひとり映画をするたびに「ひとりで映画を観ている男の子と運命的な出会いとかないかな」と妄想をふくらませていたのだけれど、今ではすっかりひとりで映画を観るという行為にハマってしまい、むしろ自分と同世代くらいの異性がいると「どうか同じ列じゃありませんように」と祈る。とことん映画に没頭したいので、ラブラブなカップルとか、ちょっと雰囲気のいい男の子なんかにそれを妨害されたくないのだった。カップルの会話とか様子なんて、ついつい気になってしまうので意識が逸れてしまう。それでもやっぱり、映画を観終えたあとは誰かと分かち合いたくなる。

 この間、エンドロールが流れたあともぼうっとして、なかなか余韻から抜けられない邦画を観た。ふわーっとする意識のまま映画館を出てエレベーターに乗り込むと、乗っていた人たちはみんな同じ映画を観たレイトショー組のひとたちだった。どの人も同じようにさっきまで観ていた映像に頭が取り残されているみたいだった。みんなひとりで、みんな無言で、だけど同じものを共有したのだという連帯感や安心感が充満した空間で、誰かひとりでも「映画、よかったですね」という言葉などを発したら、溢れてしまいそうだった。きっとあと20秒も長くエレベーターに乗っていたら、そうなっていただろうなと思う。エレベーターの扉が開いて、みんながバラバラに、それぞれの目的の場所へと歩いて行った。赤の他人同士がたったひとつのものを共有し、寄り添った瞬間って、あんなふうになるのだなぁ。言葉は必要ないと思った。誰も何もしゃべらなくてよかったと思った。

小林リズムのブログもぜひご覧ください「ゆとりはお呼びでないですか?」

http://ameblo.jp/nanto-kana/

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