星エリナのほろよいハイボール(連載32)

清水正への原稿・講演依頼は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。


ここをクリックしてください。清水正研究室http://shimi-masa.com/

四六判並製160頁 定価1200円+税

京都造形芸術大学での特別講座が紹介されていますので、是非ご覧ください。
ドラえもん』の凄さがわかります。
http://www.youtube.com/watch?v=1GaA-9vEkPg&feature=plcp


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星エリナのほろよいハイボール(連載32)


やばい遅刻遅刻!

碁を習う
 大学につくとエレベーターの「↑」ボタンを押す。けれどもエレベーターは七階にいて、一階まで降りてくるのに時間がかかる。五階に行きたいのだけれど、私は慌てて階段を選んだ。五階につくころにはぜーぜー息を切らしていて、それでも必死に授業が行われている教室へ向かう。
「すいませーん、遅刻しまし、た・・・・・・」
 この実習、六人はいたはずなのに、教室には先生と男の子が一対一。向かい合っちゃってあらまぁなにしてんのって、二人の間には碁盤があった。私が入ってきたことはあまり気にせず、二人はそのまま囲碁を続けていた。無視されるの、ちょっと寂しいよ、おじいちゃん。
 立ち続けていたってしょうがない。とりあえずいつもの位置に座って、二人の囲碁を見ていた。
 私は囲碁をしたことがない。中学生くらいのとき流行った囲碁アニメを見て囲碁の存在を知った程度。ルールなんてまったく知らなかった。よく聞いていると、その男の子も初心者だった模様。どこに打てば良いか考えてみろ、といった感じ。初心者にそれはちょっときついけど、しっかり考え込んでいる彼、真面目なんだかなんなんだか。
 こうして終わった第一局。白と黒の石を片付けると、先生は次に私を見て言った。
「じゃ、次」
 ん? 私? 囲碁ですか? ノーアイキャント!
「教えるから。うん。知っていたほうがいいよ、囲碁。うん」
 気がついたらもう準備されていて、私はさきほどまで男の子が座っていたところに座り、はい、二局目スタート。全くの初心者相手に特に説明もなかった。とにかくやってみたほうがわかりやすいよっていうのは、少しでいいから最初に説明をしてから言ってほしいセリフだ。とにかく明らかに説明不足。私が知っているルールといえば白い石と黒い石を交互に置いていくことだけ。
 そして囲碁が終わって、どっちが勝ったかを計算した。とりあえず私が負けた。当たり前ながら手加減をしていただいたため僅差で負けた。
囲碁はねー、できたほうがいいよー」
 と繰り返す先生。正直、よくわかんなかったです。でもきっと、ちゃんと理解して、同じくらいの実力の人と対戦できたら楽しいんだろうなー、と思った。もしよかったら誰か、私に囲碁をゆっくりと教えてください。そして、対戦いたしましょう。
 私、ボードゲームはとても弱いです。人生ゲーム以外、とても弱いです。
 


※肖像写真は本人の許可を得て撮影・掲載しています。無断転用は固くお断りいたします。

ユッキーの紙ごはん(連載20)

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ユッキーの紙ごはん(連載20)


【おまじないは万能じゃない】

ユッキー




ツポビラウスキー症候群。
ピンときた人は私と漫画の趣味が合うと思います。

 『Q.E.D. 証明終了』という推理漫画のある一話は、こんな話で始まる。
昔、まだ街灯も何もなかった頃、人は闇が怖かった。だから闇の中に妖怪を夢想し名前をつけ、恐怖を和らげた。名前を付ければ闇を封じることができる、と。

そして推理漫画らしく事件があるのだけど、自分が犯した殺人に酔いしれる犯人に向かって、登場人物の一人である医師は「お前はツポビラウスキー症候群だ」と告げる。

「無秩序を得意がり、人を傷つけることに喜びを感じる。世界中で発症している典型的な症状だ」

医師はこう言って、自分を特別だと恍惚に浸る犯人の思い込みを壊す。誰かを攻撃する自分を特別だと誇るな、ありきたりな病気だと。
そんな彼は、主人公達に「ツポビラウスキー症候群は、闇を封じ地獄に落とすまじないだ」と説明する。

名前を付けてしまえば、闇は闇でなくなる。

最近、本当にいろいろな造語が出回っている。
中二病」、派生して「小二病」「大二病」、「メンヘラ」「ヤンデレ」「ツンデレ」、「どや顔」、独特な絵と斬新なネタで流行したブログ『地獄のミサワ』から取った「ミサワ」、あるいは「リア充」「キョロ充」「ぼっち」……など。

こうした造語や、またその由来となる現実のあるあるネタは、たしかに面白い。よく観察してるなあとか、言い得て妙だなあと笑うこともある。
けれど、多用されすぎるのもどうなんだろうと、自省も込めて思う。

たとえば、俳優が得意げな笑みや真剣な表情を見せれば「どや顔」、アンダーグラウンドな世界や自分物を描いたものがあれば「中二病」、恋愛に真剣になっている女の子がいれば「メンヘラ」。

映像作品でも文学作品でも現実でも、自分が共感できないものにすぐ何かしらの名前をつけて、記号化して笑う。そうやって言葉を使っている場面をよく見かけるようになった。

闇は闇で取っておいたほうがいいこともある。闇が全く無くなったらそれはそれでつまらないし、それに、知った気で中途半端に闇を照らして見てみたらとんでもないものが出てきてパクリとやられてしまうかもしれない。

他人が造った言葉を使って闇を封じた気になっていると、いつか痛い目を見そうな気がする。
なんてことを、日が落ちるのが早くなってきた最近、思うのだった。


※肖像写真は本人の許可を得て撮影・掲載しています。無断転用は固くお断りいたします。

小林リズムの紙のむだづかい(連載212)

小林リズムの紙のむだづかい(連載212)
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D文学研究会発行の著作は直接メール(qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp) で申込むことができます。住所、電話番号、氏名、購読希望の著書名、冊数を書いて申し込んでください。振込先のゆうちよ銀行の番号などをお知らせします。既刊の『清水正ドストエフスキー論全集』第一巻〜第六巻はすべて定価3500円(送料無料)でお送りします。D文学研究会発行の著作は絶版本以外はすべて定価(送料無料)でお送りします。なおД文学研究会発行の限定私家版を希望の方はお問い合わせください。
清水正の著作はここをクリックしてください。

http://d.hatena.ne.jp/shimizumasashi/searchdiary?word=%2A%5B%C0%B6%BF%E5%C0%B5%A4%CE%C3%F8%BA%EE%CC%DC%CF%BF%5D

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小林リズムさんが八月九日「ミスID」2014にファイナリスト35人中に選ばれました。
http://www.transit-web.com/miss-id/

小林リズムの紙のむだづかい(連載212)
小林リズム
  【どうしたのガールへの道のり】
   


 相手に好印象を持ってもらうためには、相手の名前をひたすら連呼すればいいと何かのコラムで読んだのだけれど、それを見てああそういえばと思い出した子がいた。彼女はいわゆるモテ子で、それも「モテたい!」という願望がからきしないように見える得するタイプで、それでいて素直で邪気がないように感じさせる生まれながらにしてモテの宿命を背負わされた子なのだけれど、彼女は異性にだけでなく同性にも人気なのだった。この子をどうしても好いてしまう理由はなんだろうと考えてみたら、その魅力のひとつに彼女がしきりに「リズムちゃん、これ飲む?」とか「リズムちゃん、これどう?」とか名前を入れてくれることに気づいた。モテ子ちゃんは、名前を呼ぶのよ、それもかなりの頻度で。

 たとえば授業中に友達とおしゃべりをしているときでも、先生が突然自分の名前を呼んだら気づく。友達と話しているときに、別のグループの枠で自分の名前を出されたときにも気づいていないふうを装いながら、自然と耳がダンボになって内容をキャッチしようとしてしまう。人って自分の名前に、思っている以上に敏感に反応するようにできているのかもしれない。名前を呼ばれるということは存在を認識されているみたいで、他の誰でもない自分を指名してくれているようで、そしてそのかけがえのないワタシをないがしろにされない時点で、名前を呼んでくれる人の印象っていいよね、思いやりを感じる。

 それと同じような理屈で、名前を呼んだときにどうリアクションをされるのが「萌える」のかというのも話し合ってみた。「なに?」とか「はーい?」とか「ん?」とか、むしろ見つめるだけで無言とか、人によって名前を呼んだ時の反応はいろいろあるのだけれど、男女ともに評価が高いのって「どうしたの?」だよねっていう結論になった。もっというと、男性は「どした?」と軽やかに語尾をあげて優しさに満ちた感じで尋ねられるのがいいよね。そして女性は「どうしたの?」とこれまた優しげに首をかしげながら目をちょっと開いているのが可愛いよね。

 わたしはもっぱら「え、なに?」という色気のないリアクションが多くて、お母さんに文句を言われる。特に要件もないけれど話したくなって電話をかけたときに「え、なに?」なんて言われたらちょっと萎える。「何か用?」も冷たい。どうしたの?は相手の様子を伺うようで思いやりにあふれている感じが萌えるのかもしれない。「なに?」だったら自然と「何って…。何かないと電話しちゃいけないの!?」とイライラしがちだけれど、「どした?」だったら「えっとね、声が聞きたかったの…」なんて素直に言えたりするかもね。

 というわけでそこのところを気を付けて、これからは「どうしたのガール」でいこうと思います。え?そんな怪訝そうな顔して…どうしたの?

小林リズムのブログもぜひご覧ください「ゆとりはお呼びでないですか?」
http://ameblo.jp/nanto-kana/

twitter:@rizuko21


※肖像写真は本人の許可を得て撮影・掲載しています。無断転用は固くお断りいたします。

清水正著『ドストエフスキー「白痴」の世界』(鳥影社)の紹介(5)


この本に収録された『白痴』論は1985年12月23日に書き始め1987年5月11日に書き終えた。すでに二十六、七年も過ぎた。『アンナ・カレーニナ』論を含め、刊行したのが1991年11月。先日久しぶりに読み返したが、今度『清水正ドストエフスキー論全集』第七巻に収録したいと考えている。

清水正著『ドストエフスキー「白痴」の世界』(鳥影社)から内容の一部分を何回かにわたって紹介する

ムイシュキンは境(граница)を超えてやって来た


(四)カインとしてのロゴージン 

ロゴージンの「父親殺し」に関連して、もう一つ問題になるのは彼の弟セミョン・セミョノヴィチ・ロゴージンの存在である。ロゴージンは弟に対して「このおれを誰よりもいちばんひどい目にあわせたのは弟のやつなんだ」「弟のやつは死んだ親父におれのことをさんざん中傷しやがってね」と語っている。この、父親を主柱とする兄と弟の確執、敵対関係は、われわれにカインとアベルの物語を想起させる。ロゴージンの語るわずかの話を聴いただけでも、弟のセミョンは両親の信頼を愛を一身に受けた存在であることがわかる。父親の死後、ロゴージン家を支配していたのは弟のセミョンであり、セミョンは「熱病」で「親父の死目にもあえない」兄パルフョンに代って一家をとりしきっていた。一方、ロゴージンは父親が急死したというのに「弟のやつもおふくろも、金を送ってもこなければ、知らせてもこない! まるで犬ころ扱いさ!」と語っているように、ロゴージン家のやっかい者、つまりロゴージン家から追放された「除け者」的存在だった。だがロゴージンにしてみれば、父の寵愛を一身に受けていた弟のセミョンは実は「親父の棺桶にかかっていた金襴の覆いから金糸の房を切りとって、『こんなものにえらく金がかかっているんだな』とぬかす」ような傲慢不遜な男であり、ロゴージン家の正当な後継者は彼自身を置いて他にはいないと確信していたのである。
 そこでわれわれは改めて、弟セミョンに照明をあててみる必要がある。半年ぶりにペテルブルクに戻ってきたムイシュキンは初めて訪れたロゴージン家の書斎でパルフョンに問う「弟さんはどこに暮しているの?」と。パルフョンは「弟のセミョンは離れにいるのさ」と応える。このロゴージンの弟をめぐる短い会話をひとはおそらく読みとばしていくだろう。だが先にも指摘したように、『白痴』本編を通してパルフョンの弟セミョンはその姿を現わすことがないのである。設定された筋書き通りに読めば、弟のセミョンはムイシュキン、ナスターシャ、ロゴージンの物語が幕を降ろした後、つまり第四篇第十二章の終局(заключение)においてロゴージン家の莫大な全財産の相続者として再登場するまで、ひたすら離れに引っ込んで沈黙を守っていたことになる。しかしこの物語をロゴージンの深層心理的側面から読んでいけば、弟のセミョンは父のセミョンと同様、彼パルフョン・ロゴージンによってすでに葬り去られていたのである。
 われわれ読者はロゴージンによるただ一件の殺人、つまりナスターシャ殺害のみを舞台上に見せられたにすぎない。否、厳密にいえばそれさえ闇の中で実行されたのである。ナスターシャ殺害の現場を知っているのは二人の当事者と、それを視ていたロゴージンの父の肖像画だけだ。殺人後の現場を訪れるムイシュキンも、そしてわれわれ読者も、ロゴージンとナスターシャの二人だけの“現場”からは見事に排除されてしまったのである。だがその闇の“現場”を凝視すれば、ナスターシャ殺害の奥に、弟セミョンの殺害が、さらにその奥に父セミョンの殺害が幻視されてくるはずである。
 ムイシュキンは単にナスターシャ殺害の共犯者としてロゴージンの側にたたずんでいるのではない。彼らは誰よりも深く、父殺しの共犯者として、否、父殺しの挫折者として今、同等の“罪”を負うているのである。

注 大塚義孝氏は“カイン疾患としての「てんかん」——その運命像と人間的危機構造−”(『てんかん人間学』所収)の第2章「カイン(e)の現象形態像」において次のように述べている。《e因子の本質は「カイン」(Kain)である。/カインとは、いうまでもなく聖書にみるアダムとイヴの長男で、その従順で善良な弟アベルを殺害した神話上の人物のことである。フロイトがエディプスの概念を導き出したように、ソンディは、このカインが、弟を殺害しようとして憤怒にかられ、興奮する過程、そして事実、殺害していった、その運命的意義に、e因子の本質を見出し、これを象徴的に「カイン」と呼称したのである。したがって、てんかん患者の発作と激情に内在する本質的な意味内容は、この憤怒と憎悪、猜疑と嫉妬にかられ、殺人に至ろうとするカインそのものにある。しかしまた、このe因子の本質は、この荒々しい人間の憤怒や猜疑にかられた精神の興奮を抑制し、殺意を禁止し、善良たらんとする忍耐と正義、敬虔と安寧、さらには宗教をも惹起させようとするモーゼ的欲求をも始源させる意義をももつ。e因子における「アベル化されたカイン(der abelisierte Kain)の意義である。》
 ロゴージンが「カイン」的役割を、ムイシュキンが「アベル化されたカイン」的役割を荷なった存在であることは、この引用文によって明白である。重要なことはロゴージンが「カイン」の運命を生きたように、ムイシュキンもまたアベル化された「カイン」の運命を生きざるを得なかったことであろう。《アベル化されたカインとしての健康な現象形態像は、その性格的側面では、善良さ、寛大性、温情深さ、律儀さ等、いわゆる良心性を強調する姿となって確認される》としても、ムイシュキンの生は不断に自らの内なる「悪魔」(カイン)に襲撃される危機的情況に置かれており、その生の様態は《健康な現象形態像》と《病的な現象形態像》(不安、恐怖、猜疑、殺意、意識の混濁、徘徊等)の間をままぐるしく揺れ動いていたのである。ムイシュキンは自らの内なるカインを完全に超脱してアベルとなったのではなく、アベルという仮面を被ったカインの運命を生きたのである。ムイシュキンは内なるカインを認識することができないまま、そのカイン因子によって自らの存在を爆破してしまった、それが彼の“白痴”への突入、否、“白痴”への呑み込まれであることはもはや言うまでもなかろう。