小林リズムの紙のむだづかい(連載213)

小林リズムの紙のむだづかい(連載213)
清水正への原稿・講演依頼は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演などを引き受けます。

D文学研究会発行の著作は直接メール(qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp) で申込むことができます。住所、電話番号、氏名、購読希望の著書名、冊数を書いて申し込んでください。振込先のゆうちよ銀行の番号などをお知らせします。既刊の『清水正ドストエフスキー論全集』第一巻〜第六巻はすべて定価3500円(送料無料)でお送りします。D文学研究会発行の著作は絶版本以外はすべて定価(送料無料)でお送りします。なおД文学研究会発行の限定私家版を希望の方はお問い合わせください。
清水正の著作はここをクリックしてください。

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ここをクリックしてください。清水正研究室http://shimi-masa.com/


四六判並製160頁 定価1200円+税

京都造形芸術大学での特別講座が紹介されていますので、是非ご覧ください。
ドラえもん』の凄さがわかります。
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清水正へのレポート提出は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお送りください。


小林リズムさんが八月九日「ミスID」2014にファイナリスト35人中に選ばれました。
http://www.transit-web.com/miss-id/

小林リズムの紙のむだづかい(連載213)
小林リズム
  【思い通りになる世界】


    朝はただでさえ眠い。ぼうっとした思考を野放しにして外の世界を受け入れたくないのに、駅前ではしょっちゅう選挙の演説をしていて否応なしに耳に入り込んでくる。繰り返される「○○党をよろしくお願いします」という一方的な訴えは雑音にしかならない。うるさいからやめてほしい。旗を立てマイクを持った状態でラッシュ時に自己主張されたって聞く気にならない。やたらとカラフルなポスターになんて見向きもしたくない。目がちかちかする。自分ばかりが頑張ってるとか、日本を変えられるとか、思うなよ。
 朝活をする予定が二度寝をして朝の時間を無駄にしてしまった日のわたしはものすごく機嫌が悪い。ゆえに性格の悪さも割り増しされる。

朝活 <アサ・カツ>
出勤前の早朝を使い、学習会や交流会に参加するなどして勉強や趣味、スポーツに励むこと。「朝の活動」の意味。以下省略 ―引用元:コトバンク

 朝活。その単語をはじめて耳にしたのは大学生のころだった。なにも面白いことがない退屈な日々が目の前に陳列される生活のなかで、自分のテンションを無理やりあげようと啓発本を読み漁っていた時期に出会った。アサカツ?なにそれ。シューカツだとかコンカツだとか、なんでもカツカツつければいいと思って…。と最初こそ馬鹿にしていたのだけれど、“朝4時起きで人生を変える!”というその大袈裟なタイトルに惹かれて購入していた。朝の1時間は夜の3時間に匹敵するほどの集中力を発揮するだとか、だらだらと過ごしていた時間を活用すれば有意義な毎日を過ごせるようになるだとか、わくわくするような朝の世界がてんこ盛りだった。

 何事にも影響を受けやすいわたしはさっそく朝4時半起きに挑戦した。確か2日間続けられた、ような気がする。確かに思考がクリアな状態で慌てることなく限られた朝の時間を有効に使えるので気分がいい。けれどやっぱり眠りの誘惑は強敵すぎて、目覚まし時計をみるたびに「あと15分だけ…」が続いて、結局いつも通りの時間に目覚めることになる。

 フリーターになってから、朝活を再開した。7時に起きて15分メイクを完成させ、ご飯を食べて近くのカフェに寄る。そこで10時くらいまで文章を書く。わたしを追い立てるものは朝活の心地よさではなくて、朝活をしないことによる危機感なのだと思う。このまま日々が通り過ぎてしまうことへの恐怖感。でも、習慣化はできていない。前の日の夜が飲み会だったりすると眠気のヤツに負けてぎりぎりまで眠ってしまう。起きたときの気怠さと罪悪感といったら…。

 そのぶん、朝活をした日は機嫌がいい。

 駅前で選挙の演説をしているおじさんにエールを送りたくなる。「おはようございます」とはきはきした声で丁寧に頭を下げている彼に、「おはようございます」をお返しする。ついでに心のなかでファイト!とつぶやく。派手なポスターもポップで印象がいい。あくびひとつせずに朝から情熱を注いでいるところも、しっかりと両足で立っているところも素敵。

 世界って自分の思う通りにできている気がして不思議。


小林リズムのブログもぜひご覧ください「ゆとりはお呼びでないですか?」
http://ameblo.jp/nanto-kana/

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柏の「日本海」でホッピーを飲みながら三島由紀夫の「美について」を読む

柏の「日本海」でホッピーを飲みながら三島由紀夫の「美について」を読む。太平書林のゾッキ本コーナーにおいてあった新潮社「三島由紀夫選集」の第五巻「魔群の通過」に収められている。タイトルの〈魔群の通過〉とはおそれいった。目次をみると、このタイトルの作品があった。後で読んでみようか。さて、私は三島の愛読者ではないが、まったく関心がないわけではない。韓国に留学した際に「仮面の告白」について書き、日本に帰って完成し『三島由紀夫・文学と事件―予言書『仮面の告白』を読む』(2005年9月 D文学研究会)という本まで刊行した。三島はおそらくドストエフスキーの愛読者ではない。『罪と罰』も本当に最後まで読んだのか疑問に思っている。
そんな三島が「美について」でドストエフスキーにも触れていたので引用してみよう。



 ーードストエフスキーにあつては、美は人間存在の避くべからざる存在形式であり、存在形式それ自体が謎なのであり、これが彼の神学の酵母となつてゐる。なぜなら彼は美を神と対置させたり(ワイルド)対決させたり(ボオドレエル)する代りに、美の観念の次元を高め、人間存在の内に行はれる神と悪魔との争ひをも美といふ存在形式で包括したからである。

 ジッドはドストエフスキーの内部の複雑なアンタゴニズムを救つたのは、福音書の自己抛棄、自己犠牲の精神によるものと説く。この宗教的救済と美との関係の二重性は何であらうか? ドストエフスキーの美の観念には異教的色彩があり、神ならぬものに対する憧憬的な畏怖がある。人間性の深淵をうかがつた者の、救済をねがはぬ傲慢な肯定がある。美は彼にとつて救済の拒否を意味しなかつたか? たとへ一瞬でも。



 私が三島の文章を引用しようと思ったのは「美は彼にとつて救済の拒否を意味しなかつたか? たとへ一瞬でも。」が眼に焼き付いたからである。
 今度、『清水正ドストエフスキー論全集』の第七巻に『白痴』論を収めるつもりでいるのだが、殺される運命を生ききったナスターシャ・フィリッポヴナや、自殺する運命を生ききったアンナ・カレーニナのことなどを考えると、美と救済の問題は一筋縄ではいかない。美はやはり救済を拒んで破綻の途へと突き進むしかない。ムイシュキンの、ロゴージンの情熱(страсть)にもまさる憐憫の情(жалость)をもってしてもナスターシャを救済することはできなかった。ムイシュキンの哀れみの情は、ナスターシャの破綻を彼自身が白痴にもどることで共有するほかはなかった。美は畢竟、破綻へと飛び込むほかはないが、ロゴージンの情熱も、そしてムイシュキンの憐憫もそれを徹底すれば破綻に終わるのである。三島は三島なりに救済を拒否する〈美〉に突入したとは言えるだろう。が、ドストエフスキーの描いた美と、三島が生きた美とは性格を異にする。前者における、美の実存を生ききったナスターシャに三島における演技性はない。ナスターシャ・フィリッポヴナもアンナ・カレーニナも、神のもとに生きた人物であるが、三島の場合、彼を厳しく裁く神の存在はない。