中嶋悠理『熊谷元一 感想』

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『熊谷元一 感想』
中嶋悠理

 正直なところ、はじめ熊谷元一の取り組みのすごさというものが、いまいちピンとこなかった。私たちの時代、黒板に落書きをするくらい当たり前のことだし、それを写真に収めることは多少珍しいかもしれないが、手の込んだ黒板の落書きを写真に撮ったものならネット上に案外ありふれている。しかしよくよく考えてみると、本当はすごいことだったのに、現代の私たちにすごくないと思わせること自体、とんでもなくすごいことなのだ。
 つまりそれほど時代の方が変化してしまったというわけである。先生が生徒を殴ることはしなくなったし、写真だってもう白黒ではない。見たところ写真の男の子はだいたいみんな坊主頭だったようだが、今ではそんな髪型の子の方が珍しいくらいだろう。それほどまでに変わってしまった現在の、変わる前を知らない私のような人間が見て「普通だな」と思うということは、当時の熊谷の試みは数十年時代の先を行っていたということだ。
 そんな写真の内容だが、そこに描かれている絵そのものはさほど特異なものではない。遠近法を使わない平べったい絵など、どんなに絵の上手い人でも幼い頃一度は通った道であり、これには世代を超越した親しみを覚える。初めて見た時には白黒で描かれた正体不明の化け物のイラストに出くわして度肝を抜かれたが、怪獣への憧れもまた男の子のお約束である。注目するべきなのは、絵を描いた子供の名前がひとつの絵につき複数書かれていることが多い点だろう。子供たちの黒板へのお絵かきは、時として共同作業の性質を帯びた。黒板があくまで教室にひとつしかないことと、描いた作品が写真に残されることなど考えれば共作が出てくることは当然なのかもしれないが、教育という面ではきっと素晴らしい効果があったのではないだろうか。国数理社など基本の科目の中で、子供たちが共同作業をする機会は限られている。熊谷が教壇に立っていた時代であれば、なおのこと少なかったのではないだろうか。それを授業外で、しかも子供たちにとって何らやらされているという意識を与えない方法で実践したという意味ではただただ驚くばかりだ。
 熊谷によって解放された黒板はこうして共同作業の場と化した。それはただ協調性を学ばせるためにだけ機能しただろうか。おそらくそうではない。私はこの黒板が持つシステムに、現代のインターネットにも通じる性質さえ感じる。ツイッターフェイスブックなど、昨今のメディアは多様化し、双方向化した。インターネットでは誰かが作ったコンテンツを提供するばかりではなく、ユーザー同士の交流のための広場を提供する、そんなようなサービスが主流だ。熊谷の黒板には、まさにそうした広場的性質が宿っている。
 誰かが描き始めた絵を、後からやってきた別の生徒が書き足す。あるいは最初から二人で書き始めて、ひとつの黒板の中にそれぞれが望むものを競うように描いていったのだろうか。作業がいかなる経過をたどったのか、そこまでは写真の中から読み取ることはできないが、結果としてできあがった混沌とした作品の数々を見ていると、そこに創造的なコミュニケーションが生じていたことが容易に察せられる。言葉ではなく、互いが描いたものが黒板というフィールドの中で対話する。しかもそうして絵として具体化した対話の記録が、教師熊谷の手によって写真の中に納められるのだ。当時の子供たちの対話、彼らが欲していたもの、憧れたものの内容が、今でも写真の中に息づいている。通常、写真の中に会話を収めることはできない。会話とは瞬間のできごとではないからだ。しかし熊谷の写真の中には、瞬間化された会話の軌跡が確かに見て取れるのである。
 熊谷の黒板解放が先駆的であったことについては疑いはない。しかし熊谷の教育が現代教育と比べてどのように優れ、あるいは劣っているのか、私にはよく分からない。詰め込み型の教育が創造性という面では発展性がない一方、知識なくして創造することができないのもまた事実だ。それとも熊谷のように教師が授業外で子供と向き合ってくれるような状況が成立しづらくなったことこそ問題の本質であろうか。子供には同年代の友人が必要であることはもちろん、年長者との深い交流もまた不可欠である。カメラという一枚のガラスを隔てて、しかし確実に傍にいるという距離感は、果たして熊谷が当初から予定していたものなのだろうか、私には教育者として絶妙の位置取りであるように思われる。
 熊谷の取り組みは確かに広く世に知られるべきだ。これは昨今の教育の在り方に対して重要な問いかけとなるだろう。だが、私はこの問いかけを教育者である大人たちにだけ投げかければ良いとは思わない。教育における本当の主人公、子供たちにこそ熊谷の取り組みを知ってもらい、これに魅力を感じるか否か、素直に答えてもらうのが何よりの近道だと思う。教育を施す側と受け取る側、双方で問題を共有してこそ、新しい教育の道が探し出せるのではないか。