「畑中純の世界」展を見て(連載4)

畑中純の世界」展を観て

畑中純の世界」展を見て
大野純弥(文芸学科四年)


     

太い線が伸びる。生命力を全身に帯びた、まるで大樹の根の様に力強い線が紙いっぱいに拡がっていく。
畑中純の作品には生きとし生けるものの躍動と、同時に繊細な息吹もどこか感じられる。緻密な血脈が張り巡って人間が成り立つ様に、一本一本の筆跡がお互いに牽制し作用し合いながら一枚の絵を構成しているのだ。それは即ち「生きる」という潔いまでの有りのままの姿が大胆に描かれているということに他ならない。

「純」とは何か?
私はずっと考え続けている。
名前に「純」の文字を背負う者は誰しも宿命的に抱えるテーマであろう。きっと畑中純もこの命題と常に戦い続けていたに違いない。
「純」という言葉は本質的に矛盾を孕んだ言葉である。混じり気のない、そのものであるという事は決して汚れがないという事ではない。人間が世間に染まり「純」度を薄めるという事は、濁る事と同意ではない。それは時に洗練されるとか、成長するとも言い換えられる事であり、「純」とは必ずしも美しいものではない。「純」は場合によって狂気であり醜悪たり得るものなのだ。
しかし、人は「純」な自分という幻影を追い求めている。それこそが真の自己だと信じられている。

良太は畑中純の理想の人格かもしれないと眞由美夫人は仰っていた。良太の社交性や明るさがこう在りたい(在るべき)という畑中純自己実現欲求の表れだとすれば正に「まんだら屋の良太」は「純」を描いた作品という事になる。
「まんだら屋の良太」を読んだ学生達の反応は大きく別れていたように感じた。性描写の露骨さ、短絡的で卑猥な表現。良太は満面の笑みを浮かべ喜び、青筋を立てて怒り、鼻息荒く股間を熱くする。これが畑中純潜在的な理想像なのか、在りし日の畑中純自身なのかはわからないが、畑中純の「純」を司る一つの人格であることは間違いない。先述の通り「純」とは時として醜く、愚劣なものであり、半数の学生達はその余りに真正面からの来襲に戸惑ってしまったのであろう。
御子息の畑中元氏も実の父親の包み隠すことのない「純」に嫌悪を抱いたというのも無理はない。息子にとって父親とはそびえ立つ山でなくてはならないが、畑中純は流動し続ける波であり、海であった。形を持たず真理を求める姿は芸術家としては良いが、越えるべき父親としてはあまりに不可解であったに違いない。

しかし「純」を表現する為には和やかに一貫性を保つものだけ描くのでは虚像になってしまう。良太の愚直さ、傲慢さを描ききって初めて、彼の根底に流れる絶えない優しさを偽りなく写し出せるのだ。
また、それこそが畑中純の「純」になるのだ。

後年、畑中純宮沢賢治の世界を描いた。
「純」を背負う者の自己探求の旅はイーハトーブへと繋がっていったということであろうか。版画で描かれた賢治の銀河は息をのむ美しさを誇っていた。
私はあの小宇宙の中に確かに畑中純が辿り着いた「純」を見た。畑中純の生命は静かに此の世を離れ、「元」へと回帰する。そう考えると何やら上手く出来すぎているとさえ感じた。=