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清水正ブログ

2018-02-21

「ドストエフスキー曼陀羅」8号に掲載した原稿の一部を紹介。加藤澪「まだ見ぬ紫式部よ!」



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清水正が薦める動画「ドストエフスキー罪と罰』における死と復活のドラマ」

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

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新刊本の紹介

ドストエフスキー曼陀羅」8号に掲載した原稿の一部を紹介します。

まだ見ぬ紫式部よ!

 加藤 澪

先日、久しぶりに清水正氏にお会いする機会があった。

所用を済ませてから電車に揺られて江古田駅に着くと、学生達がひしめきあいながら改札を通り抜けて行った。何も変わることなく、多くの夢と野望と挫折が転がっている江古田駅。そんなもう日が暮れるのも早い冬の江古田の一角に座する中華料理店。その四千年の香りに包まれて、先生は泰然と紹興酒を呑んでいた。

ややあって「書いているか?」と尋ねられ、私は「エエ、まア」などと返した。書き続けた方がいい、一日でも書くのを止めれば腕が鈍ってしまうとおっしゃる姿は変わらず文学への求道心旺盛で、その筆勢を微塵もゆるめることない様子であった。

書くことは己との戦いである。それを毎日続けるというのはどれほどの精神力が必要であろうか。常に論じ、常に評す。そこから生まれる言葉たちは魂が宿っている。

しかし烏龍ハイを口にしていた私は、次に先生の話し始めた言葉に驚いた。

光源氏をどう思う?」……まさか、あのドストエフスキーの清水御大から源氏物語の話が聞けるとは思わなかったのである!

おもわず酒を呑む手を止め、先生の顔を見た。そして四千年の歴史漂う空間に、一気に愛憎渦巻く宮中の絵巻物が紐解かれたのだった。。。

源氏物語といえば、様々な女性が入れ替わり立ち代わり登場する。母の面影を重ね、藤壺に恋焦がれる光の君の模索の日々。そこでまず、源氏物語に登場する女性といえば誰を思い浮かべるであろうか?

光の母桐壷、初恋の女性藤壺、若紫に明石の君、六条御息所だろうか。源氏物語を読んだ経験がある人ならば一度は誰が好きかの議論をする。私は光源氏を振ったともいえる自由奔放かつ規則に縛られた朧月夜の名前を出すが、しかし、先生が語る女性は意外な人であった――王命婦藤壺中宮の侍女、その人である。

命婦と聞いてすぐにああ、あの人ねと思い浮かべられる源氏物語読者は多くはない。しかし彼女こそが最も源氏物語史上最大のキーパーソンであると先生は指摘する。時の朝廷の妃と関係を持つなど、都一番のタブーを犯す光源氏であるが、拒み続けた藤壺の部屋へ光源氏の侵入を許してしまったのが何を隠そう王命婦なのだ。何故読んだことがあるのにこんなにも重要な人物を思い出せなかったのだろうと不思議に思う位、大それたことをしでかしてしまっている。都を轟かせる事件の陰に女あり、しかし女の裏には必ず色恋が付き纏う。先生に言われて目から鱗が落ちた。なるほど、王命婦もただ二人の仲を取り次いだわけではないのだ。光源氏といえばその名を知らぬものはいない、眉目秀麗、文武両道、光彩奪目の貴人である。その男に恋に落ちぬ女はいない。王命婦もまた、光の君を前にすれば女だったのであろう。勿論、王命婦と光の君に肉体関係があった事実は作中では示唆されていない。しかし、行間を読む天才にかかれば、紫式部が行間に隠した秘密でさえ暴かれてしまうのだ。

また、先生はこうも言う。果たして、藤壺中宮と光源氏による不義を知っていたのは王命婦を合わせた三人だけだったのであろうか、と。平安時代の御簾は重要なスキャンダルをしっかり覆えていたのだろうかと。答えは否。宮中は女社会である。噂好きの女中たちが御簾越しに囁いている。王命婦は自分の小さなその肩にだけその秘密を隠せたであろうか。もしくは、宮仕えの誰もがその秘密を知っていたのではないか。知っていて誰もが恐れ多すぎるその秘密に見てみぬふりをしていたのではないだろうか。源氏物語という壮大な物語の根幹を揺るがす論である。だとすれば知らぬは朱雀帝ばかりである。

そう考えると、源氏物語の雅だけではない部分が見えてくる。名のある登場人物達ばかりではなく、だが確かに物語に存在している人物達が行間の隙間からこちらを覗いているのだ。その人物達の視点からも源氏物語は語ることが出来る。観点の移動こそが評論を続けてきた先生の成せる妙技なのかもしれない。

そこまで聞いて、黒酢酢豚が運ばれてきた。京の都に居た私の前から宮廷絵巻は霧散し、油っぽい中華料理店がただ目の前にあるだけだった。凄い評論とは時代や場所すらも凌駕するのだろう。

昔、上野国立東京博物館の常設展示にて、上村松園六条御息所の生霊を描いた『焔』の絵を見た事がある。それは想像以上に大きな絵で、目の前に立つ者の身の毛を全身震わせるような気迫があった。着物に描かれた蜘蛛の巣にこれから絡め捕られてしまうような錯覚すら感じたものである。清水先生は更にこれからこの源氏物語を絡め取って行くと話す。それは膨大な時間、気が遠くなるほど長い年月をかけて紫式部と向き合っていくという決意でもある。ドストエフスキー論全集の刊行が進む中、新たに歳月を賭けるという信念の強さに私は頭を垂れてしまう。ここに書き続ける探求の神あり。まだ出会わぬ清水正御大の紫式部はどんな顔をしているのだろう。今からとても楽しみである。

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