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清水正ブログ

2012-05-30

「世界文学の中の『ドラえもん』」第二部(連載8)

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「世界文学の中の『ドラえもん』」第二部(連載8)

アポロンの地獄』論からの出立

清水正

オイディプス王』においてはさまざまな人物がそれ相応の〈嘘〉を自らにも他者にもつきながら、身を処している。〈事実〉を正確に把捉することは決して容易ではない。

 オイディプスを殺すことを命じられた従僕は、ライオスが殺される場面の目撃者となり、最後にはオイディプスにことの真実を問いつめられる者となっている。隠されているのは従僕の第一と第二の〈報告〉である。従僕は最後の報告を除いて、〈嘘〉の報告をしていることはほぼ確実である。この従僕(馭者)は、オイディプスがテーバイの王に就くことになったとき、暇願いを乞うて許されている。ライオスが殺されてからどの位の期間を置いてオイディプスが王位に就いたのかは不明だが、映画を観る限り一年もたっているようには見えない。否、数日も経っていないように見える。ライオス王殺害の現場を岩陰から目撃していた従僕が、オイディプスの顔を忘れるわけもない。つまり従僕は新たに王となったオイディプスが、かつて自分が人跡未踏の山奥に捨て去ったライオス=イオカステの赤ん坊であること、ライオス王を殺害した張本人であることを知っていながら、そのことを秘して暇乞いをしたということである。『オイディプス王』のテキスト表層を読む限りにおいて、オイディプス王の秘密をすべて握っていたのがこの従僕ということになる。彼はオイディプス王統治のテーバイから遠く離れ、羊飼いとして老後を過ごしている。この老羊飼いの内面に参入すれば、オイディプス王の嘆きも怒りも色あせかねない。

現実的次元で『オイディプス王』を読む限り、イオカステの弟クレオンが最も陰謀家の臭いを漂わせている。王ライオスが亡き後、王位継承者に最も近かったのがクレオンである。そこに立ちはだかったのがスフィンクスの謎を解いて、イオカステを妻に迎えたオイディプスであった。もしクレオンが執念深い陰謀家であったなら、執拗にオイディプス失脚のチャンスを狙っていたことだろう。そして今、テーバイの都に数々の災厄が押し寄せてきたこの時こそが、最大のチャンスであったということになる。災厄の原因究明に乗り出したオイディプスは、クレオンアポロンの神殿に遣わす。その結果、災厄の原因はオイディプス自身にあることが判明する。が、オイディプスはクレオンの言葉を受け入れず、逆に彼を王位を狙う陰謀家と見なして激しく誹謗する。クレオンは「はばかりながらこのわたしは、実益のある結構な身分をすててまで、他の栄誉をほしがるほど血迷ってはいないつもり」などと、巧みに弁明を展開するが、その完璧な弁明そのものが、彼の不断の野望を証しているかのようにも見える。『オイディプス王』にその詳細は描かれていないが、テーバイの実質的な行政はクレオンが掌握していたのではないかと思わせる。コロスの長などのセリフを聞いていると、彼ら〈官僚〉とクレオンは密接な関係を結んでいて、オイディプスは単なる飾りの王であったとすら見える。

 クレオンがオイディプス失脚を謀った陰謀家と見なされた理由の一つに、彼が災厄の原因はオイディプスにあると宣告した予言者テイレシアスを呼び寄せるようにオイディプスに進言したことがあげられる。テイレシアスはコロスの長によって〈ポイボスの君とほぼかわりなき、もの見る力の持ち主〉〈神にも匹敵する予言者〉〈心に真理を宿しているお人〉と言われている。テイレシアス自身は自分ことを〈何ぴとの支配も受けぬ者〉と言っている。

オイディプスはこの予言者テイレシアスに初めて会った時に「言葉に語りうるもの、語りえないもの、天の不思議、地の神秘、すべてを洞察してやまぬ予言者よ、たといその目はみえずとも、国がいまどのような災厄に襲われているかは、おんみの心にはよくわかっていよう。この災厄から国を守り、救うことのできる者は、偉大なる予言者よ、ただひとりおんみあるのみ」と言っていた。しかし、災厄の原因はオイディプスにあるという言葉を耳にするや、怒り心頭に発したオイディプスは〈偉大なる予言者〉を〈ライオス殺害の一味〉と見なし、〈策を弄するいかさま師〉〈奸知にたけた乞食坊主〉と罵り倒す。スフィンクスの謎を解いたオイディプスの英知は、テイレシアスの〈奸知〉とクレオンの〈謀りごと〉を看破する。しかし作者は、オイディプスの烈しく揺れ動く疑心暗鬼の内心の声を遠慮なく吐き出させながらも、クレオンとテイレシアスの〈陰謀〉をどこまでも否定する立場を貫いている。オイディプスの怒りの言葉は作者によって弁護されることはない。非難されているのはオイディプスの傲慢な英知であり〈神にも匹敵する予言者〉の言葉を素直に聞き入れないその反抗的な言動である。テイレシアスの言葉に反逆することは〈神〉に反逆することと同じであり、作者はこのオイディプスの反逆の正当性にスポットライトを当てることはない。

 が、批評はテキストに対して執拗な揺さぶりをかけづけずにはおれない。テキストのどこにスポットライトを当てるかで、批評は真逆の光景を照らし出す。オイディプスのテイレシアスに対する最大の疑問は「さあ、言えるなら言ってみよ。お前はいったいいつどこで、自分がまことの予言者であることを示したか。かのスフィンクスがこの地にあって、謎を歌っていたときに、なぜお前は何ごとかを告げて、この町の人々を救わなかったのか? しかもあの謎たるや、とても行きずりの人間に解けるものではなく、まさに予言の力こそが必要であったのに──」である。テイレシアスはこの疑問に答えていない。オイディプスもまた自らの疑問を執拗にテイレシアスに迫ることがなかった。なぜならテイレシアスの説明を待つまでもなく、オイディプスはテイレシアスが〈神にも匹敵する予言者〉ではないこと、つまりスフィンクスの謎を解くことのできない、単なる〈奸知にたけた乞食坊主〉でしかないと結論づけてしまったからである。オイディプスにとって〈神にも匹敵する予言者〉とまで言われるテイレシアスが解けなかった謎を解いた以上、テイレシアスの〈予言力〉よりも自らの〈知恵〉の方が上だと思うのは仕方がない。オイディプスは誰もが解けなかったスフィンクスの謎を解いた知恵者としてテイレシアスの〈予言力〉の無力を愚弄してはばからない。

 はたしてこのオイディプスの〈英知〉を否定できる者がいるのであろうか。テーバイの民が怪物スフィクスに苦しめられているまさにその時、この〈神にも匹敵する予言者〉はいったいどこで何をしていたのだろうか。否、そればかりではない。テイレシアスが〈神にも匹敵する予言者〉であるなら、ライオス王に下された〈お告げ〉、殺せと命じられた従僕がオイディプスを殺さなかったこと、従僕が王と王妃に嘘の報告をしたこと、オイディプスがコリントスの王に育てられたこと、成人に達したオイディプスがポイボスの神殿に巡礼し、呪われた〈お告げ〉を受けて放浪の旅にでたこと、三叉路で何度も〈偶然〉に身を任せたにもかかわらず、一本道で出くわしたライオスを実の父親とも知らずに殺害したこと、スフィンクスの謎を解いてテーバイの新たな王となったこと、先王の妻イオカステを娶ってその間に子供をつくったこと、これらすべてを知っていたことになる。知っていながら何故、長いあいだ沈黙を守り通していたのか。

 はっきり言えることは〈神にも匹敵する予言者〉テイレシアスにオイディプスの〈運命〉を変える力はなかったということである。テイレシアスはコロスの長によって〈神にも匹敵する予言者〉などと言われていても、神が賦与した運命に関しては完全に無力なのである。

2012-05-29

「世界文学の中の『ドラえもん』」第二部(連載7)

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「世界文学の中の『ドラえもん』」第二部(連載7)

アポロンの地獄』論からの出立

清水正

さて、神アポロンのオイディプスに下した〈お告げ〉について考えてみよう。神アポロンは巫女の口を通して、オイディプスにその呪われた運命を告知するが、だからと言って、アポロンがその〈運命〉を定めたとはどこにも書かれていない。オイディプスの〈運命〉に神アポロンがどこまで関与しているのか。それともアポロンといえども定められた〈運命〉を変更することはできないのか。

 ギリシャにおいては人格神としての唯一絶対の《神》が存在していたわけではない。アポロンギリシャの神々のうちの一神でしかない。格の次元で言えばゼウス神が存在する。なぜオイディプスの運命はゼウスではなくアポロンの神によって告げられたのか。アポロンのお告げが絶対性を獲得するためには、他の神々、特にゼウスの同調が必要とされる。アポロンの〈お告げ〉がゼウスによって否定ないしは変更されてしまえば、アポロンの威信はたちまち失墜してしまう。否、ひとりアポロンの威信ばかりではなく、ギリシャの神々の威信が根底から崩れさることになる。従ってアポロンの〈お告げ〉はゼウスの後ろ盾によっていたと解釈するほかはない。

 オイディプスの〈運命〉が呪われたものだとすれば、古代ギリシャにおいてすでに父親を殺し、母親と肉体関係を持つことがタブー視されていたことになる。ここに一人のあらゆる先入観念から解放された無垢な者が「なぜ父親を殺し、母親と情をむすんではいけないのか」と問えば、おそらくこの問に十全な回答を提示できる者は存在しないのではなかろうか。いずれにせよ、オイディプスは父を殺し、母と情を結ぶことを罪悪と見なす価値観が支配する社会のうちにあって、神アポロンの〈お告げ〉を聞いたことになる。オイディプスが人殺しそのものを罪悪と感じていないことは、衛兵四人を殺し、王を殺した場面で明らかである。古代ギリシャにおいて戦闘場面での殺人を否定する思想は存在しない。オイディプスはあくまでも父殺し・母と関係を結ぶという〈運命〉に関して苦悩したのであって、人が人を殺して生きざるを得ないその運命に苦悩することはなかった。

 オイディプスには〈呪われた運命〉を変換する視点はない。オイディプスは父を殺し、母と情を結ぶ自らの運命を祝福する、ニーチェ的運命全肯定の立場にたつことはできなかった。

 さて、なぜライオス王は息子に殺され、オイディプスは父ライオスを殺さなければならなかったのか。そこに介在するのは妻であり、母であるイオカステの存在がある。パゾリーニは、息子が誕生した時の父親の顔の表情をアップしてとらえている。そこには血を分けた息子の誕生を喜び祝福する微塵の感情もない。この父親は、その存在自体で母を、母の乳房を求める息子を、自らのライバルと見なし、憎悪を押さえ込んだ胡散臭そうな眼差しを向ける。

 ライオスのその専横的な性格は、自らを相対としてとらえることはできない。愛する対象を分けあうことはできない。ライオスはアポロン神殿に巡礼には行くが、神のその絶対性にひれ伏しているのではない。アポロンによって、息子に殺され、妻を息子に奪われるという、その呪われたお告げに接したとき、彼が選んだのは息子殺しである。彼が息子によって殺される前に、息子を殺そうと図ったこと自体が、神に対する反逆である。この反逆に加担したのが妻のイオカステであり、〈息子殺し〉に関しては王と王妃は同罪である。罪深さの点で言えば、イオカステの罪はライオスの比ではない。

 イオカステは自分の眼でオイディプスの死を確認してはいない。彼女は殺しを命じた従僕の言葉をはたしてどこまで信じたであろうか。ライオスの死に関して、オイディプスが殺害者であることは、時系列に従った映画の観客には明白だが、イオカステにとっては霧の中である。彼女にもたらされた情報はどんなものであったのか。だれがいつどこでどのように〈事実〉を伝えたのか。

 映画を見る限り、オイディプスがライオス一行を殺害し、スフィンクスを倒して、テーバイの新たな王に迎えられるまでの時間があまりにも詰まっているように感じられる。イオカステはなぜオイディプスを新たな夫として迎え入れたのか。そこに至るまでの心理心情が完全に省略されている。ライオスに似た顔と体、その専横的な性格、それよりなにより、アポロンの〈お告げ〉が脳裏に刻印されていたはずである。イオカステはなにもかも知っていて息子オイディプスを受け入れたと言ってもいいだろう。描かれていないだけに、イオカステの性格は複雑怪奇で怪しい魅力を放っている。パゾリーニはこのイオカステに関してはかなりその深部に肉薄した演出をしている。

 『オイディプス王』を批評した時に、わたしが注目した人物の一人にライオス王の従僕がいる。映画の中でこの従僕役を演じた役者は、この人物の臆病・卑劣・罪深さをよく演じていた。彼はコリントスの羊飼いがオイディプスを拾っていくことを承知の上で、オイディプスを置き去りにした。従僕と羊飼いがすれ違う場面の、その時の従僕の表情は、王妃の命令に背いた〈罪〉の感覚と、自らの良心に従った、〈祈り〉の感覚が混じりあって、観る者の胸に強く訴えてくる。彼はテーバイに戻ってライオスとイオカステにどのような報告をしたのであろうか。その詳細をソポクレスは書かず、パゾリーニは映像化しなかった。この作品は膨大な省略の上に成り立っている。

 オイディプスのライオス殺しの場面において、この従僕は馭者として登場する。彼はライオス殺害の場面において〈御者〉としての役割は何もはたしていない。彼は殺しの現場から逃亡し、身を隠して目撃者となり、帰国して報告者となっている。その〈報告〉を読者も観客も現在進行形で聞くことはできない。その〈報告〉は当事者ではない第三者の口を通してさまざまに語り継がれることになる。その代表的な噂として、複数の盗賊によって殺されたというのがある。この噂がまことしやかに流布していったのは、おそらく唯一の目撃者〈従僕=馭者〉の最初の報告に嘘があったからであろう。なにしろこの従僕はオイディプス殺しに関しても嘘の報告をして自己保身をはかるような小心者であるから、自分に都合の悪い報告をするわけはない。行きずりのたった一人の若者に、衛兵四人と王ライオスが殺され、自分だけが無傷で戻ってきたなどという〈事実〉を報告すれば、彼が王を助けることもなく逃げ戻った臆病者として厳しく弾劾されることは眼に見えている。

2012-05-28

「世界文学の中の『ドラえもん』」第二部(連載6)

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「世界文学の中の『ドラえもん』」第二部(連載6)

アポロンの地獄』論からの出立

清水正

el  青年となったオイディプスは円盤競技で不正を働き、怒った若者が「お前は捨て子だ。運命の女神の子だ。両親ともいないんだ」と言い放つ。オイディプスは〈不吉な夢〉の中で〈神々のお告げ〉を聞くが、それをはっきりと思い出すことができない。オイディプスはアポロンの神のところへ巡礼に行くことを決め、父ポリュボスと母メロペの許可を得て、翌日の早朝ひとりコリントス市を旅立つ。オイディプスは皮袋を背負い、青銅の刀を胸に下げ、つばの広い大きな皮の帽子を被って庇の大きな帽子をかぶり、大股で歩き出す。目指すはデルポイの神殿である。

 オイディプスが〈神〉のお告げを聞く場面をシナリオで見ておこう。

  順番が来て進み出たオイディプス、膝をついて仰ぎ見ると、一団の中央には人間の形と顔を彫った冠のような面を被った大女の巫女が唇だけを見せて立っている。巫女が手を叩くと後ろの神官が大きな碗をいくつか用意する。その場に座って、物凄い量の食物を前に、手掴みで先ず米飯を食べ始める。

  何も理解できないように驚いてその様子を見ていたオイディプス、緊張した心から解放されて、滑稽感が顔に出てしまう。

 巫女「神託によると、お前は父親を殺し、母親と情を通じるだろう」

  オイディプス、呆気にとられてちょっと笑う。

  大食いを続ける巫女、挑むように、

 巫女「お前の運命が書き記されている。お前は父親を殺し、母と夜を共にする。神のお告げにまちがいはない。立ち去れ。この土地の人々を穢すな」

  淫猥に大笑いして身をのけぞらす大女。直截な直な巫女の言葉に、一瞬にして青春の凍結を悟ったかのように、神託を待つ人々の群へ、生命の地獄と祝祭のどよめきの中を、自動人形のように戻って行くオイディプス。

 アポロンの神が直接に〈お告げ〉を下すわけではない。アポロンは巫女の口を通してオイディプスの呪われた運命を告げる。大きな口を開けて米飯を頬ばる巫女の姿は豊穣紳の化身かとも思わせるが、その大げさな身振りにはマンガチックな滑稽感もある。いずれにせよ、これでオイディプスは夢の中の〈お告げ〉をはっきりと知ることになった。彼は神の〈お告げ〉を笑い飛ばすこともできなければ、怒りを露わにすることもない。彼は父ライオスが〈お告げ〉を回避しようとしたように、ひたすら逃亡をはかる。まず彼は、足下にある"コリントス"への道標を見ると、すぐに踝を返して、一目散に駆け出す。シナリオでは「涙にぬれて歩き出す。神託から逃げること、それには歩き続けねばならない。畑も荒地も山も遠くの村も、いま自分が歩いている所は異境の地なのだ、これからずっと彷徨が続くのだ、という実感が込み上げて来る」とある。

 さて、映画を観るかぎり、オイディプスは単純な青年で、『罪と罰』のロジオンとは真逆のタイプと言っていい。いったいオイディプスには微塵の懐疑精神も宿っていなかったのであろうか。彼が足下の〈コリントス〉の道標を見て、いきなり反対の方向へと走り出したのは、コリントスの王と王妃を自分の本当の父と母と思っていたということを示している。が、オイディプスは同年齢の若者からはっきりと「お前は捨て子だ。運命の女神の子だ。両親ともいないんだ」と罵られた。オイディプスは若者を殴り倒し、酔いしれたようにバカ笑いをしてその場を去る。彼は両親に真実を問いただす前に、アポロンの神殿に巡礼し、神の〈お告げ〉を聞く途を選んでいる。

 それにしても、オイディプスは〈お告げ〉を聞いてまず確かめなければならないことは、コリントスの王と王妃が実際の両親であるのかないのかであったはずである。しかし、彼はそれを確かめる前にコリントスから逃げ出すことしか考えていない。真実を知りたいという欲求は、アポロンの神殿を訪ね、巫女から神の〈お告げ〉を聞く時点で終わっている。彼は〈お告げ〉を受けて、神に反逆することもないし、呪われた運命を受け入れることもできず、ただひたすら逃げる。

 運命を変えることはできない。だからこその運命であって、変更可能な運命は運命とは言えない。映画のカメラはそれを冷酷に告知している。

 ○三叉路にさしかかる

   オイディプス、目を両手で覆い、ぐるぐる廻って足の向いた方向の道を歩いていく。“テーバイ”への矢印のある道標が足下に立っている。

 オイディプスは何度も三叉路で偶然に身をまかせるが、結局はテーバイの道標の示す方向へと向かってしまう。偶然もまた必然であるということの恐ろしさがひしひしと伝わってくる場面である。『オイディプス王』においても映画『アポロンの地獄』においても、オイディプスが必然と偶然、運命と自由に関して思いをめぐらす場面はない。そこがロジオンと違うところで、ロジオンは犯罪に関する論文を投稿したり、〈踏み越え〉に至るまでに何度も「おれにアレができるだろうか」と考える。ある時、ロジオンはこの呪われた思いを払拭し、はてしない自由の感覚を満喫したりもするが、しかし結局はある種の神秘的でデモーニッシュな力の作用によって二人の女性を殺してしまう。ロジオンの〈踏み越え〉のドラマ、その〈老婆アリョーナ殺し〉から始まって〈リザヴェータ殺し〉、〈ソーニャへの告白〉、〈自首〉、そしてエピローグでの〈復活の曙光〉という最終的な〈踏み越え〉に至る全過程がまるごとあらかじめ決定されていたということである。ロジオンにおける〈自由〉もまた〈必然〉であったということ、そのことを『罪と罰』一篇は見事に描き尽くしている。

 パゾリーニもまた、呪われた運命から逃れようと偶然に賭けるオイディプスの、逃れることのできない必然を〈テーバイの道標〉一つで端的に描き出している。この石標は三叉路で目を瞑ってぐるぐる廻るオイディプスをあざ笑っているようにすら見える。

 ついにオイディプスはライオス王と出くわしてしまう。その場面をシナリオで見ておこう。

 ○四度、三叉路にさしかかる

  オイディプス、小枝を顔にかざして、目を閉じて廻ろうとして、道の一方を見ると、衛兵を乗せた馬車が土埃を立てて走ってくる。道を空けようとしないオイディプスに近づいて、馬車は速度を落す。馭者はキタイロンの山にオイディプスを捨てた羊飼いである。中に座っていた高貴だが頑固そうな風貌の老人ライオス王がどなり散らす。

 ライオス「退け! 退け、乞食め!」

  オイディプスに怒りが込上げてくる。

 ライオス「行け! 行け! 道を空けろ! 馬鹿もの!」

  目まで隠れた兜を被った衛兵四人が馬車から降りて、一人が前に出る。オイディプス、大きな石をその衛兵の膝にぶっつけて、叫びながら逃げだす。あとの三人は追いかけさせてばせばらにし、一人づつ刀で打ち、首を絞め、刺し殺していく。

  オイディプスが馬車の所に戻って来ると、ライオス王、高い金の王冠を破る。それを見て、オイディプス、ゲラゲラ笑い出す。片方の足を傷つけられた衛兵がオイディプスに向って来ようとするが、もう一方の膝にも石をぶっつけられて倒れる。

  馭社、怯えて逃げ出し、近くの岩陰に隠れる。

  オイディプス、笑いながら怒りを込めて、馬車の上のライオス王の胸を何度も刺す。

  続いて馬車の前に倒れている衛兵の背中を刺し、青銅のかぶと冑を外すと、まだあどけない少年が口から血を流している。オイディプス、その冑を自分の頭に被り、ガチャガチャいわせながら、足下を見ない、“テーバイ”への道を辿る。

 この場面で際だっているのはライオスとオイディプスの傲慢な性格の一致である。王ライオスは一本道で出くわした若者に道を譲る気持ちの微塵もなく、オイディプスもまたたとえ相手が衛兵四人を同行した身分のある者とと見ても、自らの進む道を変更する気持ちなどさらさらない。両者の衝突は目に見えている。ライオスにとって旅の若者は〈乞食〉であり、自分の進むべき道を空けなければならない〈馬鹿もの〉である。

 オイディプスは、衛兵四人をいっぺんに相手にするのではなく、最初の一人の膝に大きな石を投げつけて倒し、次いでその場から離れて、追って来る一人ひとりを刺し殺す方法をとっている。コリントスで青年期を迎えるまでに戦闘の仕方なども学んでいたことを伺わせる。

 が、注目すべきはオイディプスの戦闘の仕方よりは、殺しの瞬間における太陽光線の烈しい反射である。パゾリーニはオイディプスの衛兵殺しの場面をまばゆい太陽光線で覆っている。オイディプスが自らの意志によって衛兵を殺したというよりは、まさに太陽光線が衛兵の命を奪い取っているという感じである。オイディプスは太陽に呪われている。想起するのは「太陽のせい」でアラビア人を殺したムルソーである。アルベール・カミュが『異邦人』で主人公としたムルソーにおける〈太陽〉は太陽そのものと言ってもいいが、オイディプスの人殺しにまとわりつく太陽光線は明らかにその背後に〈アポロン神〉の存在がはり付いている。

2012-05-24

「世界文学の中の『ドラえもん』」第二部(連載5)

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アポロンの地獄』論からの出立

清水正

イオカステの声の中に、わが子を失う嘆きや悲しみは伝わってこない。それがなにより不思議だ。ここで『アポロンの地獄』の大詰めの場面、オイディプスを殺さずにテーバイへと戻ってきた従僕の証言に耳を傾けてみよう。

 オイディプス「言え、赤児を山へ運んでいかなかったのか」

 従僕「運びました。ああ、おれはあの日に死んでしまえばよかったんだ」

 オイディプス「誰に頼まれた子だ。お前の子だったのか」

 従僕「私のではなく、ある人に頼まれた子です」

 オイディプス「誰にだ」 

 従僕「お願いです。それ以上はお聞きにならないで下さい」

 オイディプス「もう一度尋ねさせたら、死罪だぞ」

 従僕「ライオス王です」

 オイディプス「王の奴隷のか、それとも王の実子か」

 従僕「それは申し上げられません」

 オイディプス「私だって聞きたくない、だが聞かねばならぬ」

 従僕「実のお子様でした。王妃イオカステ様が一番よくご存知のはずです」

 オイディプス「王妃がその子を?」

 従僕「私にお預けになって」

 オイディプス「どんな命令を?」

 従僕「殺せと」

 『オイディプス王』には省略された場面が多く、細部を知ろうとする読者はさまざまな憶測を働かせなければならなくなる。誰が、オイディプス殺害を命じたのか、その重要な一点に限ってもさまざまな解釈ができる。ふつうに考えれば王ライオスが命じたとなるが、パゾリーニはあえてイオカステを前面に出している。従僕は確かに王妃イオカステに「殺せ」と命じられたことをオイディプスに証言している。王ライオスは息子オイディプスと同様に、自分を絶対視する傲慢で単純な性格の持ち主だが、イオカステはこの王の陰に潜んで陰謀をたくらむような貌を見せている。映画に登場するライオス王はまるででくの坊のように見えるが、王妃イオカステの方は妖艶な仮面の下に得たいの知れない複雑怪奇な貌を隠している。『オイディプス王』の真の主役はこの王妃イオカステではないのかとさえ思わせる。

 従僕にとって王(ならびに王妃)の命令は絶対であり、反抗することは許されない。従僕は赤ん坊を槍の柄にくくりつけて山奥へと向かう。が、最後の瞬間において、彼は王(王妃)の命令に背いてしまった。

 王ライオスと王妃イオカステはオイディプス殺害命令に関しては共犯関係にある。彼らは等しく神アポロンのお告げに反抗の意志を示した。アポロン神にお伺いはたてても、そのお告げを絶対視していたわけではない。彼らは自分に都合の悪い、呪われた〈運命〉は自分たちの意志によって変更することができると考えている。だからこそ彼らは従僕に息子オイディプスの殺害を命じた。しかし、ここには彼らの神アポロンに対する脅えの心理も働いている。彼らは自らの手で、直接息子を葬ろうとはしなかった。従僕という第三者の手によって殺害を果たそうとしている。従僕もまた、最後の最後で王(王妃)の命令に背いたのは、単なる憐憫が働いたというよりも、神アポロンのお告げに対する冒涜から逃れようとする心理が働いていたと見たほうが説得力がある。神アポロンの〈お告げ〉に対して畏怖と脅えを感じていたのは王ライオスと王妃イオカステばかりではなく、従僕もまたそうであったと見ることができる。〈お告げ〉からまず逃げようとしたのがライオスでありイオカステであり、そして従僕であった。神の〈お告げ〉から逃げようとしても、その逃げようとする気持ちも含めて〈お告げ〉のうちに含まれているのであるから、結局なにをしても同じである。

 ライオスが神に対する決定的な反逆者でなかったことは、彼が自らの手でオイディプスを殺害しなかったことで明白である。オイディプスはコリントスの羊飼いに拾われ、ポリュボス王の子として育てられることになる。オイディプスは神の〈お告げ〉通り、生き延びて実の父ライオスを殺すことになる。

2012-05-20

「世界文学の中の『ドラえもん』」第二部(連載4)

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「世界文学の中の『ドラえもん』」第二部(連載4)

アポロンの地獄』論からの出立

清水正

 映画は〈現代〉(『アポロンの地獄』の脚本を掲載した「映画芸術」1968年12月号の記事によれば、「一九二0−三0年代の北イタリアの片田舎」)において、一人の男の子が誕生する産室を外側から映し出す場面から始まる。パゾリーニにしてみれば、オイディプスの運命はソポクレスの時代に特定されるものではないことを予め宣言しておきたかったのであろうか。すでにフロイトエディプス・コンプレックスはすべての男の子に共通した普遍的な心理であることを指摘していた。生まれてきた男の子は無心に母親の乳を吸うが、父親の子を見る眼差しに嫉妬と憎悪の感情が混じることで、子の顔にもそれに対応する、将来の運命(父を殺し、母と情を結ぶという)を先取りするような不気味で不遜な表情も見え隠れする。若い父親は我が子に対する激しい嫉妬心を深く押さえ込んで妻をベッドに押し倒す。妻の仮面のような表情は、単純化せずには炎上してしまう複雑怪奇な感情を幾重にも畳み込んで妖しいオーラを発している。

 最初に観た時から、ライオスやオイディプスを演じた役者には役不足の感を否めなかったが、イオカステを演じた女優には〈女性〉や〈母性〉を超えた何か得体の知れない秘められた力を感じた。眉を塗りつぶした、その能面のようなメークが東洋的な神秘を感じさせ、親和と違和の混じりあった奇妙な感情を起こさせる。

 画面は〈現代〉から古代ギリシャのキタイロンの山岳地帯へと変わる。その場面をシナリオから引用する。

  太陽に焼けただれ、赤茶けた土地を、テーバイの羊飼がやって来る。担いだ槍には、赤ん坊が裸のまま手足を縛り付けられて泣き叫んでいる。

  近くにいたコリントスの羊飼いの老人が赤ん坊の鳴き声を聞きつけて、いぶかし気に声の方に歩いて行く。

  テーバイの羊飼、槍から下した赤ん坊を突き殺そうとするがどうしてもできない。荒涼とした一帯は、鷲や蛇の棲息地である。老人、困惑しているが思い切ってその場を離れる。

  コリントスの羊飼が近づいて来るのに出合い、お互いにみつめ合う。テーバイの羊飼、相手の男に信頼の微笑を投げかけて、急ぎ足に立去る。

  コリントスの老人は岩陰に赤ん坊を見つけ、嬉しそうに駈け寄る。急いで手足を縛った皮紐を解いてやり、足をさすって唇を触れる。

 羊飼「足がこんなに腫れちまってる。何てきつく縛ったんだろう。泣くじゃない。泣かんでいいんだよ」

  老人、赤ん坊を抱き上げると急いで山を下りて行く。

 映画では父親が赤ん坊の両足踝を強く握りしめた場面から、古代ギリシャの荒涼とした風景へと変換する。〈現代〉の父親が息子の両足首を強く握りしめたことは、彼の息子に対する殺意の現れであり、それが実際に行使されたかどうかは別として、象徴レベルでは子殺しは全うされたことになる。

 が、古代ギリシャを舞台としたオイディプス劇においては、息子オイディプスはアポロンの神のお告げ通り、生き延びて、やがて父親を殺し、母親と肉の結合をはたすことになる。テーバイの羊飼いはオイディプス殺害を命じられていたにもかかわらず、不憫を感じて殺すことができなかった。たまたま居合わせたコリントスの羊飼いが、いわば荒野に捨ておかれた赤ん坊を拾い上げ、子供に恵まれなかった自国の王ポリュボスに差し出すことになる。

 ここで、いったん立ち止まろう。疑問は数かぎりなく潜んでいる。いったいだれがオイディプス殺害を命じたのか。『オイディプス王』(藤沢令夫訳。岩波文庫。特に断らない限りこのテキストから引用する)からイオカステの証言をまずは引いてみよう。

  以前あるとき、ライオスにひとつの神託が下されたことがありました。わたくしはそれを、アポロン直きじきの御神託とは申しますまい。そのお社に仕えるかたがたから、告げ聞かされたものでございます。そのお告げにによりますと、わたくしとあのかたとの間に子供が生まれたならば、ライオスはその子の手にかかって、殺される運命にあるということでございました。ところが、ライオスのほうはある日、噂によれば他国の盗賊どもの手にかかって、三筋の道の合わさるところで命を落されました。一方子供はいえば、生まれてまだ三日もたたぬとき、ライオスが留金で両のくるぶしを差し貫いたうえで、人手に託して人跡なき山奥に捨てさせてあったのでございます。

  こうして神アポロンは、先のお告げにあったようなことを、何も実現させたまいませんでした。あの子が父親の殺害者となるということも、またライオスがおそれてやまなかった、みずからの子の手にかかって死ぬという凶事も──。(60〜61)

 

 このイオカステの言葉には実に多く〈声〉が埋め込まれている。まず言えるのは、彼女にとってアポロンの神託はどうやら絶対ではないということである。しかも彼女はそのことを面と向かって言うような女ではない。彼女は「アポロン直きじきの御神託とは申しますまい」というような言い方をする。予め逃げ隠れできる場所を確保した上での物言いである。わたしは今回『アポロンの地獄』を批評するにあたって最も興味を牽かれているのがイオカステである。この女はライオスやオイディプスの単純な頭脳をもってしてはとらえがたい大いなる曲者である。

 いったい誰がオイディプスの死を命じたのか。ふつうに考えれば、アポロンの神託を恐れたライオスということになろう。イオカステの証言によれば、ライオスは赤ん坊の両くるぶしを留金で差し貫いたうえで、人跡なき山奥に捨てさせた、ということになる。

 ここでわたしは、どこまで現実的に想像力を働かしたらいいのだろうかとふと思う。映画では赤ん坊の両手両足は縄できつく縛られて、羊飼いの担ぐ槍に吊されていた。映画を観ながら、この赤ん坊を炎天下の撮影現場に提供した母親のことなど思って不快な気分にもなった場面である。もし、原作通りに赤ん坊の両足踝を留金で差し貫けば人権侵害で問題になるだろう。

 さて、生後三日もたたぬ赤ん坊が、その両くるぶしを留金で差し貫かれ、槍に吊されて人跡なき山奥に運ばれれば、もうそれだけで命を存続させることは不可能ではなかろうか。もし奇跡的に助かったとしても、成長したオイディプスは満足に歩行もできなかったはずである。映画では同年輩の若者たちと競技などして大地を駆け回っているが、そんなこともまた不可能なはずである。

 それよりなにより、イオカステの証言からは、我が子に対するうめきがまったく聞こえてこない。最初の子供が、夫ライオスの手によって両のくるぶしを差し貫かれ、人跡未踏の山奥に捨てられるというのに、この女からは嘆きの声も怒りの声も聞こえてこないのだ。王ライオスが決定したことは絶対であり、その絶対性の前ではどんな悲しみも怒りも押さえ込まれてしまったというのであろうか。

 ここで、さらなる疑問の前に立ち止まろう。王ライオスはわざわざアポロンの神託を乞うているわけだから、単純に考えれば王ライオスの絶対性より神アポロンの絶対性の方が優位性を持っていることになる。ライオスが息子オイディプスを山奥に捨て去ることを従僕に命じたことは、つまり王の神に対する反逆を意味しており、イオカステは夫のその反逆に同調したことを意味している。

 イオカステはアポロン神に従う女である前に、夫であるライオス王に従う女であったことはしっかりおさえておく必要がある。原作『オイディプス王』においても映画『アポロンの地獄』においても、イオカステがわが子オイディプスを助けようと心乱すことはなく、夫にあがらう場面もない。

 映画でライオス王の従僕がオイディプスを槍にぶら下げて熱い日差しを浴びながら荒野を歩いていく場面を観ると、牧畜民族にとって赤ん坊は四肢動物と同じような存在なのかと思ってしまう。赤ん坊のオイディプスは子豚のように四つ足をきつく縛られ、槍に吊されている。もし泣き声が聞こえなければ、オイディプスが人間であるということさえ確かに伝わってこないかもしれない。わたしはヨブ記を読んだときにも、亡くなった子供に対する賠償が、まるで牛や羊と同じような扱いをされていることに違和感をおぼえた。三人の子供を奪った神は、新たに三人の子供を与えれば、それですむような書き方であった。イリューシャ少年を亡くしたスネギリョフにとって、イリューシャに代わる子供はいないのだ。『ヨブ記』に多大な影響を受けたドストエフスキーは『ヨブ記』をさらに深く越えて人間の悲嘆と憤怒の究極に迫った。