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清水正ブログ

2014-10-29

大阪芸術大学で特別講義

本日は午後一時二十分より大阪芸術大学で特別講義。百名余りの受講生相手に「ドラえもん」「オイディプス王」、森田拳次丸出だめ夫」、阪本牙城「タンク・タンクロー」、ハイデガー存在と時間」などを語った。

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2013-07-20

『オイディプス王』論のあとがきを書く

清水正への原稿・講演依頼は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。


清水正『世界文学の中のドラえもん』『日野日出志を読む』は電子書籍イーブックで読むことができます。ここをクリックしてください。http://www.ebookjapan.jp/ebj/title/190266.html


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四六判並製160頁 定価1200円+税



土曜日は恒例の柏「日本海」でホッピー。本日、探していた「新潮」四月号を書斎で発見。なにしろ記憶がぼけているので、台湾で読み終わった山城小林秀雄」論について何か書いておこうと思っていたのだが、ここ一カ月以上も行方不明、捜しに捜したが見つからなかったのが、今日、物置状態になっている書斎で発見。ホッピー飲みながら再読しようと思って持参したが、結果はようやく校正を終えた『オイディプス王』論のあとがきを書くことになった。このあとがきもながくなりそうだ

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2013-07-14

焼き鳥と鉄火巻きをつまみに紀野一義の『こころの故里』を読む

本日は喫茶店で『オイディプス王』論の校正が終わったので、柏の古書店「太平書林」に寄った後、居酒屋「日本海」でお決まりのホッピー白。焼き鳥と鉄火巻きをつまみに紀野一義の『こころの故里』を読む。わたしは紀野氏の文章に強く心を揺さぶられる。魂に染みるいい文章で、心が洗われる思いである。博識でありながら純朴な精神を保持した文章で、素直に共感できる。f:id:shimizumasashi:20130714212041j:image

2012-05-30

「世界文学の中の『ドラえもん』」第二部(連載8)

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「世界文学の中の『ドラえもん』」第二部(連載8)

『アポロンの地獄』論からの出立

清水正

オイディプス王』においてはさまざまな人物がそれ相応の〈嘘〉を自らにも他者にもつきながら、身を処している。〈事実〉を正確に把捉することは決して容易ではない。

 オイディプスを殺すことを命じられた従僕は、ライオスが殺される場面の目撃者となり、最後にはオイディプスにことの真実を問いつめられる者となっている。隠されているのは従僕の第一と第二の〈報告〉である。従僕は最後の報告を除いて、〈嘘〉の報告をしていることはほぼ確実である。この従僕(馭者)は、オイディプスがテーバイの王に就くことになったとき、暇願いを乞うて許されている。ライオスが殺されてからどの位の期間を置いてオイディプスが王位に就いたのかは不明だが、映画を観る限り一年もたっているようには見えない。否、数日も経っていないように見える。ライオス王殺害の現場を岩陰から目撃していた従僕が、オイディプスの顔を忘れるわけもない。つまり従僕は新たに王となったオイディプスが、かつて自分が人跡未踏の山奥に捨て去ったライオス=イオカステの赤ん坊であること、ライオス王を殺害した張本人であることを知っていながら、そのことを秘して暇乞いをしたということである。『オイディプス王』のテキスト表層を読む限りにおいて、オイディプス王の秘密をすべて握っていたのがこの従僕ということになる。彼はオイディプス王統治のテーバイから遠く離れ、羊飼いとして老後を過ごしている。この老羊飼いの内面に参入すれば、オイディプス王の嘆きも怒りも色あせかねない。

現実的次元で『オイディプス王』を読む限り、イオカステの弟クレオンが最も陰謀家の臭いを漂わせている。王ライオスが亡き後、王位継承者に最も近かったのがクレオンである。そこに立ちはだかったのがスフィンクスの謎を解いて、イオカステを妻に迎えたオイディプスであった。もしクレオンが執念深い陰謀家であったなら、執拗にオイディプス失脚のチャンスを狙っていたことだろう。そして今、テーバイの都に数々の災厄が押し寄せてきたこの時こそが、最大のチャンスであったということになる。災厄の原因究明に乗り出したオイディプスは、クレオンをアポロンの神殿に遣わす。その結果、災厄の原因はオイディプス自身にあることが判明する。が、オイディプスはクレオンの言葉を受け入れず、逆に彼を王位を狙う陰謀家と見なして激しく誹謗する。クレオンは「はばかりながらこのわたしは、実益のある結構な身分をすててまで、他の栄誉をほしがるほど血迷ってはいないつもり」などと、巧みに弁明を展開するが、その完璧な弁明そのものが、彼の不断の野望を証しているかのようにも見える。『オイディプス王』にその詳細は描かれていないが、テーバイの実質的な行政はクレオンが掌握していたのではないかと思わせる。コロスの長などのセリフを聞いていると、彼ら〈官僚〉とクレオンは密接な関係を結んでいて、オイディプスは単なる飾りの王であったとすら見える。

 クレオンがオイディプス失脚を謀った陰謀家と見なされた理由の一つに、彼が災厄の原因はオイディプスにあると宣告した予言者テイレシアスを呼び寄せるようにオイディプスに進言したことがあげられる。テイレシアスはコロスの長によって〈ポイボスの君とほぼかわりなき、もの見る力の持ち主〉〈神にも匹敵する予言者〉〈心に真理を宿しているお人〉と言われている。テイレシアス自身は自分ことを〈何ぴとの支配も受けぬ者〉と言っている。

オイディプスはこの予言者テイレシアスに初めて会った時に「言葉に語りうるもの、語りえないもの、天の不思議、地の神秘、すべてを洞察してやまぬ予言者よ、たといその目はみえずとも、国がいまどのような災厄に襲われているかは、おんみの心にはよくわかっていよう。この災厄から国を守り、救うことのできる者は、偉大なる予言者よ、ただひとりおんみあるのみ」と言っていた。しかし、災厄の原因はオイディプスにあるという言葉を耳にするや、怒り心頭に発したオイディプスは〈偉大なる予言者〉を〈ライオス殺害の一味〉と見なし、〈策を弄するいかさま師〉〈奸知にたけた乞食坊主〉と罵り倒す。スフィンクスの謎を解いたオイディプスの英知は、テイレシアスの〈奸知〉とクレオンの〈謀りごと〉を看破する。しかし作者は、オイディプスの烈しく揺れ動く疑心暗鬼の内心の声を遠慮なく吐き出させながらも、クレオンとテイレシアスの〈陰謀〉をどこまでも否定する立場を貫いている。オイディプスの怒りの言葉は作者によって弁護されることはない。非難されているのはオイディプスの傲慢な英知であり〈神にも匹敵する予言者〉の言葉を素直に聞き入れないその反抗的な言動である。テイレシアスの言葉に反逆することは〈神〉に反逆することと同じであり、作者はこのオイディプスの反逆の正当性にスポットライトを当てることはない。

 が、批評はテキストに対して執拗な揺さぶりをかけづけずにはおれない。テキストのどこにスポットライトを当てるかで、批評は真逆の光景を照らし出す。オイディプスのテイレシアスに対する最大の疑問は「さあ、言えるなら言ってみよ。お前はいったいいつどこで、自分がまことの予言者であることを示したか。かのスフィンクスがこの地にあって、謎を歌っていたときに、なぜお前は何ごとかを告げて、この町の人々を救わなかったのか? しかもあの謎たるや、とても行きずりの人間に解けるものではなく、まさに予言の力こそが必要であったのに──」である。テイレシアスはこの疑問に答えていない。オイディプスもまた自らの疑問を執拗にテイレシアスに迫ることがなかった。なぜならテイレシアスの説明を待つまでもなく、オイディプスはテイレシアスが〈神にも匹敵する予言者〉ではないこと、つまりスフィンクスの謎を解くことのできない、単なる〈奸知にたけた乞食坊主〉でしかないと結論づけてしまったからである。オイディプスにとって〈神にも匹敵する予言者〉とまで言われるテイレシアスが解けなかった謎を解いた以上、テイレシアスの〈予言力〉よりも自らの〈知恵〉の方が上だと思うのは仕方がない。オイディプスは誰もが解けなかったスフィンクスの謎を解いた知恵者としてテイレシアスの〈予言力〉の無力を愚弄してはばからない。

 はたしてこのオイディプスの〈英知〉を否定できる者がいるのであろうか。テーバイの民が怪物スフィクスに苦しめられているまさにその時、この〈神にも匹敵する予言者〉はいったいどこで何をしていたのだろうか。否、そればかりではない。テイレシアスが〈神にも匹敵する予言者〉であるなら、ライオス王に下された〈お告げ〉、殺せと命じられた従僕がオイディプスを殺さなかったこと、従僕が王と王妃に嘘の報告をしたこと、オイディプスがコリントスの王に育てられたこと、成人に達したオイディプスがポイボスの神殿に巡礼し、呪われた〈お告げ〉を受けて放浪の旅にでたこと、三叉路で何度も〈偶然〉に身を任せたにもかかわらず、一本道で出くわしたライオスを実の父親とも知らずに殺害したこと、スフィンクスの謎を解いてテーバイの新たな王となったこと、先王の妻イオカステを娶ってその間に子供をつくったこと、これらすべてを知っていたことになる。知っていながら何故、長いあいだ沈黙を守り通していたのか。

 はっきり言えることは〈神にも匹敵する予言者〉テイレシアスにオイディプスの〈運命〉を変える力はなかったということである。テイレシアスはコロスの長によって〈神にも匹敵する予言者〉などと言われていても、神が賦与した運命に関しては完全に無力なのである。

2012-05-29

「世界文学の中の『ドラえもん』」第二部(連載7)

清水正への原稿・講演依頼は qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。

ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。

ここをクリックしてください エデンの南   清水正の林芙美子『浮雲』論連載    清水正研究室  

清水正の著作   D文学研究会発行本   グッドプロフェッサー

「世界文学の中の『ドラえもん』」第二部(連載7)

『アポロンの地獄』論からの出立

清水正

さて、神アポロンのオイディプスに下した〈お告げ〉について考えてみよう。神アポロンは巫女の口を通して、オイディプスにその呪われた運命を告知するが、だからと言って、アポロンがその〈運命〉を定めたとはどこにも書かれていない。オイディプスの〈運命〉に神アポロンがどこまで関与しているのか。それともアポロンといえども定められた〈運命〉を変更することはできないのか。

 ギリシャにおいては人格神としての唯一絶対の《神》が存在していたわけではない。アポロンはギリシャの神々のうちの一神でしかない。格の次元で言えばゼウス神が存在する。なぜオイディプスの運命はゼウスではなくアポロンの神によって告げられたのか。アポロンのお告げが絶対性を獲得するためには、他の神々、特にゼウスの同調が必要とされる。アポロンの〈お告げ〉がゼウスによって否定ないしは変更されてしまえば、アポロンの威信はたちまち失墜してしまう。否、ひとりアポロンの威信ばかりではなく、ギリシャの神々の威信が根底から崩れさることになる。従ってアポロンの〈お告げ〉はゼウスの後ろ盾によっていたと解釈するほかはない。

 オイディプスの〈運命〉が呪われたものだとすれば、古代ギリシャにおいてすでに父親を殺し、母親と肉体関係を持つことがタブー視されていたことになる。ここに一人のあらゆる先入観念から解放された無垢な者が「なぜ父親を殺し、母親と情をむすんではいけないのか」と問えば、おそらくこの問に十全な回答を提示できる者は存在しないのではなかろうか。いずれにせよ、オイディプスは父を殺し、母と情を結ぶことを罪悪と見なす価値観が支配する社会のうちにあって、神アポロンの〈お告げ〉を聞いたことになる。オイディプスが人殺しそのものを罪悪と感じていないことは、衛兵四人を殺し、王を殺した場面で明らかである。古代ギリシャにおいて戦闘場面での殺人を否定する思想は存在しない。オイディプスはあくまでも父殺し・母と関係を結ぶという〈運命〉に関して苦悩したのであって、人が人を殺して生きざるを得ないその運命に苦悩することはなかった。

 オイディプスには〈呪われた運命〉を変換する視点はない。オイディプスは父を殺し、母と情を結ぶ自らの運命を祝福する、ニーチェ的運命全肯定の立場にたつことはできなかった。

 さて、なぜライオス王は息子に殺され、オイディプスは父ライオスを殺さなければならなかったのか。そこに介在するのは妻であり、母であるイオカステの存在がある。パゾリーニは、息子が誕生した時の父親の顔の表情をアップしてとらえている。そこには血を分けた息子の誕生を喜び祝福する微塵の感情もない。この父親は、その存在自体で母を、母の乳房を求める息子を、自らのライバルと見なし、憎悪を押さえ込んだ胡散臭そうな眼差しを向ける。

 ライオスのその専横的な性格は、自らを相対としてとらえることはできない。愛する対象を分けあうことはできない。ライオスはアポロン神殿に巡礼には行くが、神のその絶対性にひれ伏しているのではない。アポロンによって、息子に殺され、妻を息子に奪われるという、その呪われたお告げに接したとき、彼が選んだのは息子殺しである。彼が息子によって殺される前に、息子を殺そうと図ったこと自体が、神に対する反逆である。この反逆に加担したのが妻のイオカステであり、〈息子殺し〉に関しては王と王妃は同罪である。罪深さの点で言えば、イオカステの罪はライオスの比ではない。

 イオカステは自分の眼でオイディプスの死を確認してはいない。彼女は殺しを命じた従僕の言葉をはたしてどこまで信じたであろうか。ライオスの死に関して、オイディプスが殺害者であることは、時系列に従った映画の観客には明白だが、イオカステにとっては霧の中である。彼女にもたらされた情報はどんなものであったのか。だれがいつどこでどのように〈事実〉を伝えたのか。

 映画を見る限り、オイディプスがライオス一行を殺害し、スフィンクスを倒して、テーバイの新たな王に迎えられるまでの時間があまりにも詰まっているように感じられる。イオカステはなぜオイディプスを新たな夫として迎え入れたのか。そこに至るまでの心理心情が完全に省略されている。ライオスに似た顔と体、その専横的な性格、それよりなにより、アポロンの〈お告げ〉が脳裏に刻印されていたはずである。イオカステはなにもかも知っていて息子オイディプスを受け入れたと言ってもいいだろう。描かれていないだけに、イオカステの性格は複雑怪奇で怪しい魅力を放っている。パゾリーニはこのイオカステに関してはかなりその深部に肉薄した演出をしている。

 『オイディプス王』を批評した時に、わたしが注目した人物の一人にライオス王の従僕がいる。映画の中でこの従僕役を演じた役者は、この人物の臆病・卑劣・罪深さをよく演じていた。彼はコリントスの羊飼いがオイディプスを拾っていくことを承知の上で、オイディプスを置き去りにした。従僕と羊飼いがすれ違う場面の、その時の従僕の表情は、王妃の命令に背いた〈罪〉の感覚と、自らの良心に従った、〈祈り〉の感覚が混じりあって、観る者の胸に強く訴えてくる。彼はテーバイに戻ってライオスとイオカステにどのような報告をしたのであろうか。その詳細をソポクレスは書かず、パゾリーニは映像化しなかった。この作品は膨大な省略の上に成り立っている。

 オイディプスのライオス殺しの場面において、この従僕は馭者として登場する。彼はライオス殺害の場面において〈御者〉としての役割は何もはたしていない。彼は殺しの現場から逃亡し、身を隠して目撃者となり、帰国して報告者となっている。その〈報告〉を読者も観客も現在進行形で聞くことはできない。その〈報告〉は当事者ではない第三者の口を通してさまざまに語り継がれることになる。その代表的な噂として、複数の盗賊によって殺されたというのがある。この噂がまことしやかに流布していったのは、おそらく唯一の目撃者〈従僕=馭者〉の最初の報告に嘘があったからであろう。なにしろこの従僕はオイディプス殺しに関しても嘘の報告をして自己保身をはかるような小心者であるから、自分に都合の悪い報告をするわけはない。行きずりのたった一人の若者に、衛兵四人と王ライオスが殺され、自分だけが無傷で戻ってきたなどという〈事実〉を報告すれば、彼が王を助けることもなく逃げ戻った臆病者として厳しく弾劾されることは眼に見えている。