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清水正ブログ

2012-04-24

角田光代論

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先日、角田光代論を鼎書房にメールで送信した。三十枚ほど書いたものを依頼の九枚に縮めて送信した。最初に書きあげた角田光代論を紹介する。

角田光代の小説「だれかのいとしいひと」をめぐって

清水正

角田光代の小説「だれかのいとしいひと」を読むと浮かんでくるイメージは真空の世界を浮き沈むするクラゲだな。だが、このクラゲはつかもうとするとすぐに消えてしまう。実体のない浮遊物のようだな。

平成24年2月16日(木)

 日芸文芸学科の卒論制作は小説、詩歌、戯曲、絵本、マンガなど多彩だが、今回担当した十五編のうち論文は二編、ほかはすべて小説であった。文芸学専攻の修士論文は林芙美子研究とドストエフスキー研究の二編。これらを読み、講評し、面接試験をして採点。学部で担当する専門科目の「マンガ論」「雑誌論」「文芸批評論」の後期レポート百五十本を読んで採点。図書館長としての職務遂行。執行部会議・学部運営協議会・人事委員会・入試委員会・教授会・分科委員会・大学院委員会・学科会議・図書委員会などの諸会議。共同研究会での打ち合わせ、一年間の研究業績記入、学部・大学院の担当講座のシラバス作成、それに各種の入試が数度ある。一月から二月にかけて大学教師は目の回るような日程のただ中にある。研究のための読書や執筆の時間は大学にいる時はほとんどまったくない。原稿執筆は電車の中と喫茶店、たまにビールを飲みながら居酒屋のカウンターに決めている。

 去年も鼎書房から「よしもとばなな」の作品に関して執筆依頼を受け、批評を展開したのが三月であった。今年は酒を飲んで夜遅く帰ると「角田光代」についての執筆依頼の封書がテーブルの上に置いてあった。

 わたしが去年の十二月から書いているのは「世界文学の中の『ドラえもん』」で、今はその第二部としてソポクレスの『オイディプス王』について、パゾリーニ監督の映画『アポロンの地獄』やドストエフスキーの『罪と罰』などと関連づけて批評を展開している。『ドラえもん』はひとまずおくとして『オイディプス王』や『罪と罰』は世界文学を代表する作品で、人間の謎を徹底的に追求している。そこでは人間と神の問題が垂直的に掘り下げられている。必然と偶然、神の意志と人間の自由の問題などがとりあげられ、これらの作品を読んだ者は、この無限の深さをもった巨大な穴から抜け出すことができなくなる。

平成24年2月17日(金) 

 わたしは十代の後半からずっとドストエフスキーを読み続けてきたが、二十代の頃は何回挑戦してもトルストイを読むことができなかった。トルストイを読めるようになったのは三十歳をすぎてからで、そのときは『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』を文字通り寝食を忘れて読んだ。チェーホフはさらに遅く、四十代も後半に入ってから読んだ。ドストエフスキーの怒濤のような精神の荒波に揺られることに慣れた脳髄に、チェーホフ文体が入り込む余地はなかった。ドストエフスキーの作中人物たちは神があるかないかを常に問題にしている。彼らは顔をつき合わせては口角泡をとばして饒舌な議論を戦わせたりする。が、チェーホフの場合はそんなことは「どうでもいいさ」と軽くかわして、虚無の川を平然と泳いでいく。

 ところで角田光代の「だれかのいとしいひと」を一読した印象はチェーホフよりもはるかに軽かった。ドストエフスキーの『悪霊』のニコライ・スタヴローギンはいわば虚無の権化であるが、彼は神の存在をめぐってのたうちまわっている。チェーホフの人物たちは虚無の世界をさまよっているが、神の存在も含めて「どうでもいいさ」(フショー・ラヴノー)という気分が根底に流れている。いずれにしてもチェーホフの人物たちの胸には「虚無」という名札が似合う。

 ところで角田光代の「だれかのいとしいひと」であるが、この作品に登場する人物たちには「虚無」を「キョム」「きょむ」と表記しても、そこからスッとぬけでてしまう、どうにも名付けることのできない浮遊するものを感じる。「いとしいひと」はかろうじていとしいひととしてせいりつしているのであって、誰か特定の「愛しい人」になりえない。それは石鹸水につけたストローに軽く息を吹き込み、玉になったものが何秒間か宙をさまよって消えていくものに似ている。このはかなく消えていくシャボン玉には「愛しい人」という確固たる表記は似合わない。それは名付けられないもの、名付けたくないものであり、しかたなくつけるとすれば「いとしいひと」となる。しかもこの「いとしいひと」は「わたしの」でもなく「あなたの」でもなく、あくまでも「だれかの」というあいまいな言い方でしか表現できないものなのである。

 「だれかのいとしいひと」はギタギタの油絵ではもちろんなく、かといって淡い水彩画ともいえない。強いて言えば、霧が薄くたちこめた部屋に飾られた水彩画のように見える。が、近づけば輪郭がはっきり見えてくるといった水彩画ではない。

 ドストエフスキーの諸作品やソポクレスの『オイディプス王』などは、人物の輪郭がはっきりしているし、彼らが問題にしていることもはっきりしている。彼らは神と人間の問題に苦しんでいる。彼らの顔の表情は沈痛であり、憂いに満ちている。彼らの額には「苦悩」とか「悲痛」の札がよく似合う。が、「だれかのいとしいひと」の人物の額にはどのような札もはりつけられない。貼ってもすぐにはがれてしまう。たとえばひらがな表記で「むなしい」「かなしい」「せつない」「はかない」などという札を作ったとしても、このひらがな自体がすぐに溶けて消えてしまいそうである。

 朝靄のなかを飛び交う蝶々のイメージもある。が、この蝶々は決して捕虫網でとらえることはできない。とらえようとしても、とらえた瞬間に姿を消してしまう。が、次の瞬間にはなにごともなかったかのように再び宙を飛んでいる。この類の蝶々は捕まえて、解剖したり、分類したりできないもので、見ているよりほかはない。

 泣いたり、わめいたり、叫んだり、はしゃいだりといった青春期によくある過剰な感情の発露がない。そんなものは自分たちが生まれてくる前の、とうの昔に存在した人間にみられたものである、といった感じである。ドストエフスキートルストイの人物になら精神内部の暗い闇を探るといった批評も可能だが、角田光代の「だれかのいとしいひと」に登場する人物には、そもそも闇をはらんだ厚みのある精神が存在しているように見えない。針でプスッと腹を刺してもなんか得たいのしれない気体がほんの少し漏れ出てくる感じで、いな、その気体さえ出てこないかもしれない。

 ヨハネ黙示録には「熱いか冷たいかどちらかであってほしい。おまえは生ぬるいのでわが口から吐き出そう」という言葉が記されている。こういった分類を当てはめれば角田光代の人物は「生ぬるい」ということになるが、しかし実はどうもかれらはその範疇からも漏れ出てしまう。かれらは熱くも冷たくもないが、さらに生ぬるくもない。いったい食べてみたらどんな味がするのだろうか。

 ところで角田光代の小説は、わたしが長年親しんできたドストエフスキー文学とはまったく違うが、しかしはっきり言えばこういう小説はきらいではない。わたしは生理的に反応する人間で好き嫌いがはっきりしているが、この小説は気にいった。半端な理屈がないのがいい。理屈を展開するならドストエフスキー並に限りなく徹底してやってくれなくては話にならない。読み終わって、主人公のおんなを抱きしめたくなる感情もわいたが、空気を抱きしめるような滑稽な事態になることは目に見えている。

 わたしのなかでは、両目をつぶして闇の世界をさまようオイディプスも、ある神秘的でデモーニッシュな力の作用に支配され二人の女の頭上に斧を打ち下ろしたロジオンも、「確固とした関係性を持つ」ことのできない「私」も同等の存在感をもって浮遊している。前二者に対しては、蛸の執念をもって迫るが、「だれかのいとしいひと」の〈私〉とは重力から解放された真空でともに浮遊していたい。

 わたしが読んだテキストは文春文庫『だれかのいとしいひと』に所収のもので、角田はあとがきで「恋愛、だとか、友情だとか、幸だとか不幸だとか、くっきりとした輪郭を持ったものにあてはまらない、あてはめてみてもどうしてもはみでてしまう何ごとかがある。その何ごとかの周辺にいる男子と女子について書いた。それは、夢と現実のごっちゃになった記憶の掘りかえす作業と、どことなく似ていて」云々と書いている。まさにその通りで、異論はない。ここ五、六年とくに感じることだが、今の学生にリアリティを感じない。「青春とは青い春だぜ、心底から怒ったり、泣いたり、わめいたり、もだえたりするのが青春だぜ。きみらは今、青春しているか」などといくら熱く語っても、その挑発にのってくる学生はいない。妙に冷静で、まさに熱くも冷たくもないのだが、生ぬるくもないのである。かつて団塊世代の後に新人類と称される若者たちが現れたが、この新人類の子供たちが今の大学生にあたる。

 よく考えてみれば、新々人類のような若者たちに共通しているのは、あえて言えば誠実かもしれない。連合赤軍オウム真理教、ホリエモンの末路をしかと見てしまったかれらは、革命も宗教も金も信じていない。金や権力はほしいだろうが、それでもってなにか偉大なことが可能だなんてまったく思っていないだろう。しかもそのことを大きな声で主張する根拠もないので、聞いたようなポーズはとり続けるがイエスともノーとも言わない。まさに角田の言うように、かれらには「くっきりとした輪郭を持ったもの」がないので、主張するに値するものもないのである。かれらの話を聞いていると、まさにたわいもないおしゃべりといったもので、確固たる目的に向かって努力精進する精神のかけらも感じられない。かれらははじめから善悪観念の摩滅した世界に生み出され、その世界で生きているから、世界を荒野と感じることもないし、絶望したり、苦悶したりすることもない。悩み事といえば、就職が決まらないとかいった程度のことで、それが彼らにはなによりもしんこくななやみなのである。わたしは文章を続けるてまえ、「〜である」などと書いたが、おそらくかれらには「である」で閉められる精神の扉はない。扉はそもそもないか、あっても開けっ放しの扉で、その扉に注意を払うものもない。

 「私」は姪のチカ(千夏)には「しいちゃん」と呼ばれている。チカは自分が「マフェット」と呼ばれることを望んでいる。「私」のこいびとらしい男は「ツネマサ」という名前だが漢字でどうかくのかはわからない。「ツネマサ」は「私」を「コンドウ」と呼んでいるが、彼女の苗字も漢字表記されることはない。漢字で表記されるのはペットショップで売れないまま成犬になってしまった雄犬の「山本」、父親の恋人だった「長岡昌子」ぐらいだが、長岡は「ナガオカマサコ」とカタカナ表記もされている。長岡は「私」の父親を「コンドウくん」と呼んでいる。「コンドウくん」は家父長制時代の父親からはるか遠くの野原にけ飛ばされたマリのように軽く、四、五歳であった「私」の目にも「おとうさん」ではない。「私」は父親からナガオカマサコの前では「パパ」と呼ぶように言われるが、この父親は父親らしい姿をなにひとつ「私」の心に刻むことはなかった。幼稚園の年長か小学一年くらいのころ、「私」はひとりで長岡昌子のアパートをたずねる。すると「いつも父が座っていた場所」に「知らない男の人」が座っている。長岡は「知らない男の人」を「私のお兄さん」と紹介し、男は長岡を「ぼくのスウィート・ハニー」と言い、言われた長岡は男の肩を何度もたたいて「ばか笑い」する。

 小さな子供は、その時、自分の目の前で展開されたおとなたちのやりとりを理解できなくても、その場面をしっかりと覚えてさえいれば、後からその関係の内実を的確に知ることができる。「私」は成人してすべてを了解するが、そのことをあえて分析したり批評したり、ましてや裁いたりはしない。長岡と愛人関係にあった「おとうさん」が家庭のなかで母親とどんな暮らし方をしていたのか、どんな事情で長岡と別れることになったのか、長岡と「男」はどこで出会い、どんな関係を結んでいたのか……。「私」はなにひとつ言及しない。「私」は人の心理や感情の動きに無関心ではないが、あえて詮索しようとはしない。成人した「私」はツネマサとどこで出会い、どんな関係を積み上げてきたのかについて説明しようとしない。「私」は過ぎ去った過去を断片的に想起して現在の時空に重ね合わせたりはするが、過去を冷静に客観的に把捉して現在と未来に結びつけようとはしない。「私」がツネマサとの関係についてコメントするのは、たとえば

  もうそろそろ終わるんじゃないか、と数か月前から私は思っていて、きっとツネマサもそう思っているとほぼ確信している。終わる、の主語がなんなのかはよくわからない。私たちのつきあい、といえばそうなんだろうし、関係、という言葉もぴんとはこないが間違ってはいない。いや、主語は不明だがとにかく終わる、私とツネマサは近いうちにまったくの無関係になる。超能力者みたいにはっきりわかる。

  どうしても性格ーー生活習慣でもいいし金銭感覚だっていいーーがあわない、ある一言やある喧嘩が発端であいてをどうしても許せなくなる、ほかに好きな人ができてしまう、あるいはもっと単純にあきた、そういうことならよく知っている。けれど私とツネマサの場合はどれもあてはまらない。理由は思いあたらない。胸の奥の、だれにも触れさせない部分にこっそり訊いてみても、やっぱり思いあたらないのだ。

  もし神さまというだれかがいたとして、私たちのいろんなことを決定しているとして、その人に急にある時点で「はい、そこまでね」、と言い渡された感じ。それがもっとも近い。

 である。

 男と女の関係を描く方法はさまざまだが、出会いと別れの間の出来事を描写することを抜きにすることはできない。この小説においてもその枠を越えてはいない。が、ここに引用した言葉は神の断定に似て、二人の関係の終わりはあっさりと決定されてしまった。変更はきかない。読者は「私」のコメントを神の言葉として聞き入れるほかはない。悲痛なまでの未練、殺傷事件にまで発展しかねない執着など、どこを捜してもない。コップ一杯のジュースを二人で飲み干したといった関係の終焉賞味期限の年月日を二人がそれとなく目にしてしまったという感じで、そのことに逆らう感情はどこからもわき上がってこない。

平成24年2月20日(月曜)

 さて、タイトルの「だれかのいとしいひと」の〈だれかの〉に注意してみよう。この〈だれか〉は主人公の〈私〉でもあり姪の〈チカ〉でもある。〈いとしいひと〉とは〈私〉にとっての〈ツネマサ〉であり、〈チカ〉にとっての〈ツネマサ〉である。と同時に「だれかのいとしいひと」は〈おとうさん〉にとっての〈ナガオカマサコ〉であり、〈私〉にとっての〈長岡昌子さん〉だったり〈知らない男〉(長岡昌子の家に居た「すっきりした顔立ちの、背の高い、痩せた、指の長い男の人」)でもある。さらに〈ナガオカ〉にとっての〈コンドウくん〉や〈私のおにいさん〉、〈ツネマサ〉にとっての〈コンドウ〉や〈チカ〉であったりもする。

 一人の誰かが一人の相手をかけがえのない〈いとしいひと〉と言っているのではない。人物の名前がさまざまに表記されることで明らかなように、人物は関係する相手によって異なった貌を見せる。〈私〉の父親は〈おとうさん〉であり〈パパ〉であるが、〈ナガオカ〉にとっては〈コンドウくん〉である。人物間の関係性は不動ではなく、不断に生成流動している。四、五歳で父親の愛人との関係に立ち会っていた〈私〉、小学生になってひとりで訪れた長岡昌子さんの部屋に居た〈知らない男〉などを通して、〈私〉は関係性の危うさを体感的に知る。この世になに一つとして確固不動のものごとは存在しない。この思いはしかし、諦念という重い表記と重なることはない。この小説に登場する人物を捕虫網でとらえることはできない。

 この小説を読んで人物間の関係性をアナログ的、連続的に追跡し検証しようとする思いにかられることはない。この小説に描かれる場面はデジタル的に映像化され、消去される。読者はその断片的な画像をつなげて、生きてあることのはかなさやせつなさを感じるが、その思いをギュッと抱きしめようとすると、その画面自体がどこかへと消えてしまう。否、パソコン映像を映し出す堅い表面にツルッとかわされてしまう。〈私〉は消えてしまった画像に執着することはない。画像(過去の場面)は思い起こす主体の意志によって操作されるというよりは、画像自体の気まぐれによって主体の意識のなかにフワッとした感じでよみがえってきたりきえていったりする。

  遠く、巨大なもみの木の下で、小さな子どたちが落ち葉をかき集め、それをまき散らして遊んでいる。風はないのに、両腕を広げたような銀杏の木から、はらはらと黄色い葉が落ちていく。雪みたいに。涙みたいに。

 画像は現れ出たり消えたりするが、しかしけして消えることのない光景もある。ここに引用した光景は散文家のまなざしというよりは、かなしみの原質をかかえた詩人のまなざしがとらえた光景といえようか。


小さな子どもも恋をする

 この小説のひとつの魅力にチカの存在がある。チカは千夏と書くが、その説明が一度あったきりで、あとはチカと表記される。現在は七歳で、一年半前から〈私〉とツネマサのデートに同伴するようになる。読み進むに連れて、チカ同伴の理由や、チカのツネマサに対する〈恋心〉の内実がわかってくる。〈私〉は醒めたまなざしでチカのこと、ツネマサと自分との関係などをみつめている。

 女の子は七歳にもなれば大人顔負けの恋心を抱く。チカの初恋のひとは〈私〉の恋人ツネマサである。〈私〉のまなざしはチカのツネマサにたいする感情をよく理解している。それは〈私〉自身にもそういった経験があるからだ。

 

  私は長岡昌子さんの部屋で男の人に会ったことがある。兄よ、おにいさん。長岡昌子さんはそう言った。

 〈私〉の父親を〈コンドウくん〉と呼ぶ、父親の愛人〈ナガオカマサコ〉を〈私〉は〈長岡昌子さん〉と書いている。ふと、わたしの脳裡をよぎったのは『罪と罰』のソーニャが継母のことを決して〈お母さん〉とは呼ばずに〈カチェリーナ・イヴァーノヴナ〉と名と父称で呼んでいたこと。〈私〉は父親の愛人〈ナガオカマサコ〉を他人行儀に〈長岡昌子さん〉と書いて、そこに微妙な娘心ともう一つの決して描かれることのなかった〈知らない男の人〉にたいする感情をひそませている。小学校にあがったばかりの、「学校のすべてになじめず、そこから逃げ出すことばかり考えて」いた〈私〉が久しぶりに訪れた長岡昌子さんの家で出会った〈知らない男の人〉にたいする思いを〈私〉は具体的にはなにも書いていないが、しかしその〈男のひと〉は「すっきりした顔立ちの、背の高い、痩せた、指の長い男の人だった」と書かれることで、微妙な〈女〉心は伝わってくる。今、〈私〉はチカを醒めたまなざしで観察することで、七歳の頃におぼえた〈男の人〉にたいする感情をよみがえらせているとも思える。

 〈私〉は過去の思い出に執着しない。過去のある場面は現在の光景と関連づけられてよみがえってはくるが、その場面に執着しない。これはなんだろう。〈私〉は自覚もないままに断念することを身につけてしまったのだろうか。〈私〉は父親の愛人のことを母親には言わない。〈私〉は父親と共犯関係を結んで母親をあざむきつづけてきた少女だったのだろうか。

 

  夜になって、近くのバス停まで長岡昌子さんが送ってきてくれて、どのような手筈が整えられていたのか、会社帰りのおとうさんに引き渡された。長岡昌子さんとおとうさんはあんまり言葉を交わさなかった。家に向かうバスのなかで、おとうさんは私に何も訊かなかった。その日はすばらしい一日だったけれど、もうあの場所へははいっちゃいけないんだとなぜだか私はまっすぐに理解した。

 「まっすぐに理解」する少女に疑惑もなければ詮索もない。こういう少女のまなざしは半端な絵描きなどよりはるかにデッサン力が身に備わっている。この少女がとらえた父親と長岡さんの姿だけで、あとはなんの説明もいらない。〈コンドウくん〉と〈ナガオカマサコ〉の間で取り交わされたであろう別れ話や、新しい男の出現をめぐってのごたごたなど、なにひとつ描かなくても読者は丸ごとわかってしまう。小説に説明はいらない。必要なのはたしかな描写だけで、小説家に求められるのはそのデッサン力である。〈私〉のまなざしがこのデッサン力を備えているので、作者がしゃしゃりでてくる隙間はない。

 相手の気持ちがすぐにわかって、その気持ちにさしでがましい分析的な言葉を投げかけることのないひとのまなざしは、しずかに自然の風景に向けられる。この小説で読者の心に迫ってくるのは、そういった光景である。

 たとえば、〈私〉とツネマサがベンチに腰かけ、公園で遊んでいるチカを眺めながら……〈私〉が見る自然の光景を

  公園内の銀杏の木はかろうじて黄色い葉を残し、まばらな黄色い点々の向こうに澄んだ高い空がある。雲はなく、風もない。首を傾けてじっと頭上を見ていると、黄色い葉はぴたりと動かず、まるで世界すべてが静止してしまったように思える。

 たとえば、長岡さんの家で〈知らない男の人〉と出会ったその日、

  おもては晴れていた。長岡昌子さんの部屋には大きな窓があって、ずいぶん立派な木が見えた。桜の花はとうに散って、薄緑の葉が陽を受けてちかちか笑うみたいに光っていた。

 時、もはやなかるべしの時空、に陽が注いでいる光景、こんな光景をみてしまう〈私〉のまなざしに注意すれば、この小説の出だしを改めてみてみたくなる。

  休日の午前中だというのに駅のホームにあまりひとけはなく、陽の光は金のリボンみたいに幾筋も静かに降りそそいでいる。電車はいってしまったばかりで、あと十分は待たなくてはいけないらしい。私はベンチに腰かけて、自分の格好と、隣で脚をぶらつかせているチカの格好をときおり見比べてみたりする。

 〈私〉はベンチに腰かけて自分とチカの姿を見ている。見ているのは確かに〈私〉だ。が、はてしてそうなのか。この最初の叙述場面は先に引用した自然の光景描写を通過してみると、〈私〉の視点によるものだとばかりは見えない。〈私〉という人間(被造物)を超えたあるもののまなざしが重なっているように見える。描かれている〈現在〉のすべてが〈過去〉とも言える。つまり〈現在の場面〉を未だ到来していない未来の視点から眺める視点を備えている。これはまさにチェーホフ的なまなざしと言っていい。それだけではない。〈私〉のまなざしには、超越者のまなざしが重なっている。この次元でこの小説をとらえれば、「だれかのいとしいひと」の〈だれか〉とは〈神〉となり、〈いとしいひと〉とはすべての神による〈被造物〉となる。角田光代という名前を持つ小説家のまなざしはかぎりなくやさしい。このまなざしは西洋の神とはちがってけして裁かない。生きてある人間たちの諸相にかぎりなくよりそい、ともに呼吸するかみである。

 この〈かみ〉のまなざしで〈私〉は七歳の少女チカをながめている。

平成24年2月21日(火曜)

恋する少女(幼女)はおしゃれする。

  チカは白いもこもこしたコート、その下にピンク色のフレアスカートをはいて、黄に一列苺の絵柄が入った白いタイツをはいている。足元はアニメのキャラクターのズックだ。私はといえば、着古したスタジャンに、よれよれのジーンズで、しかも両方ともツネマサのお古である。

  もこもこコートの下にチカは襟にフリルのついたブラウスと、モヘアの花の縫い取りがたくさん施されたピンクのセーターを着ている。しかもセーターの内側にセーラームーンのペンダントをしているのを私は知っている。コートを脱いだとき、ピンクのセーターにピンクのスカート、という出立ちは多少やりすぎの感もあるが、彼女にとってこれほど気合いの入ったおしゃれはないのだ。しかも彼女はこの格好を獲得するために、数十分を母親とのバトルに費やさなければらなかった。

平成24年2月22日(水)

 チカは七歳、十分におんなである。〈私〉よりもはるかにおんなと言ってもいい。好きになって、将来お嫁さんになることをきめたツネマサにたいしてチカはおんなを全面におしだしてくる。チカを幼女と思ってみくびってはいけない。チカは全存在をかけてツネマサの前でおんなとして振る舞っている。ツネマサとのデートに一回として手抜きはしない。〈気合いの入ったおしゃれ〉をするために数十分もかけて母親とバトルすることも厭わない。これはツネマサとのデートに服装のことなど〈かまわない〉〈私〉と対照的である。チカは自己主張する子どもであり、相手がだれであっても妥協することはない。

 チカは〈私〉にママのいないところでは〈マフェット〉と呼んでくれと言い、〈私〉に爪をきらきらさせるものを持っていないかなどと訊いたりする。チカはママのいないところでは、ひとりのおんな〈マフェット〉として美しく着飾り、ツネマサにおんなとしての存在感をアピールしたいのである。

  待ち合わせの駅から目的地のK公園まで歩いて約十分、私の数メートル先を、ツネマサとチカは並んで歩く。チカはツネマサを見上げて夢中で何か話し、ツネマサはチカの声が聞きとりやすいよう斜めに腰を折り曲げてときおりうなずいている。あんな漫画があったなあ、と、片手にお菓子の入った紙袋、片手にどでかい保温ポット、背中に自分のリュックを背負って歩く私はぼんやりと思う。あんまり好きじゃなかったけれど恋人同士の漫画で、背の高い男の子と背の低い女の子はいつもあんな姿勢でおしゃべりしていたっけなあ。

 この短い叙述場面に、チカとツネマサと〈私〉の関係の実相が的確に現れている。ここではチカとツネマサが〈恋人同士〉であり、〈私〉は彼らについている侍女のような存在でしかない。舞台の中央にいて脚光を浴びているのがチカとツネマサで、〈私〉は舞台の袖に控えたマネージャーであり、よく言っても保護者的役割を演じているに過ぎない。思えば、〈私〉は父親に連れられていった長岡さんの家でも、一人で訪ねた長岡さんの家でも、その当事者になることはできず、いつも傍観者の立場にあってその部屋での光景をよく記憶にとどめている。〈私〉は〈しいちゃん〉として舞台上で強烈な個性を発揮する〈人物〉というより、照明、録音、撮影といった機能を備えた〈語り手〉としての役割を果たしている。〈私〉はいつも自分が生きている生の現場の傍らに、頭上に、何台ものカメラを設置している映像監督のように呼吸している。〈私〉は〈しいちゃん〉との間にも一定の距離を置いて接している。〈私〉は〈私〉をかなぐり捨てて、生きてある生の現場に没入することができない。

 〈私〉は生の現場にたいして謎のような言葉をきざむことがある。きざむとは言っても、実は空気壷のインクをつけた筆で記すようなやりかたなのであるが。

  チカはきっともうツネマサに会うことはないだろう。チカが彼をどんなに好きでも、自分からたずねていかないかぎりもう二度と会えない。けれどきっと、それを憂うより先にチカは忘れてしまう、ツネマサという名前も、おしゃれするために母親とくりひろげたバトルも、ツネマサの大きな掌の感触も、三人ですごした時間も。それであるとき、ーーだれかをどうしようもなく好きになったり、それでもどうにもならないということがあるんだと知ったあとで、土に埋もれた幼い宝物を見つけるように思い出すに違いない。ひどく短い時期、ともにときをすごしただれかと、そのだれかのいとしい人と、何も知らずにそこにいた自分自身を。

 ここで書かれている〈チカ〉を、七歳の頃の〈私〉と置き換え、〈ツネマサ〉を長岡昌子の家でぐうぜん出会うことになった〈知らない男の人〉と置き換えて読むこともできる。〈私〉はしゃいで、自分の感情を露骨にさらすことがないので、心の諸相が霧の中をただよう淡いシャボン玉のように感じられる。

 〈私〉はここで「土に埋もれた幼い宝物を見つけるように思い出すに違いない」と書いているが、前にも同じような文章を記している。「長岡昌子さん。子どものころに埋めたビー玉を土のなかに発見するときのような驚きで、私は長いこと思い出しもしなかったその名前を思い出す」。土に埋めた〈幼い宝物〉〈ビー玉〉は、まさか長岡昌子ではあるまい。長岡が父親の後に恋人にした〈知らない男の人〉にたいする淡い恋心を〈私〉は土に埋めたということであろう。小学校に入ったばかりの七歳の女の子が抱く恋心を〈幼い宝物〉〈ビー玉〉と表現する〈私〉のデリケートに好意がもてる。いな、わたしがこの小説を読んで最後に言いたかったことはそんなことではない。

 小説の終幕場面を見よう。

 ゴミをかたづけて、私たちは芝生をあとにする。芝生の向こうに水の広場があるんだって、そこにいく? それとも鳥の広場? えー鳥の広場って鳥がいるの? チカとツネマサは公園の地図を広げて言葉を交わす。チカはツネマサの手を右手で握りしめ、左手を伸ばしてきて私の手をとろうとする。私はそれをふりはらう。

 「私はチカとは手をつながない! 私もツネマサとつなぐ!」私はわざと声をはりあげて言い、チカの反対側にまわってツネマサの手を強く握った。ツネマサは驚いたような顔をして私を見る。かまわない。

 「えーずるーい、チカ、まんなかがいい!」

 「だーめ、まんなかはツネマサ! そうすればずるくないでしょ? 私たちは二人ともツネマサと手をつなげるでしょ?」

 「そうだけどおー、なんかずるーい」

 「ずるくないってば、マフェットちゃん」

 「なんだ、おまえら。ひょっとしておれもてもて?」私たちは笑う。手をつないだまま、惜しみのない陽射しを受けて、背をまるめ、声をあたりに響かせて、この一瞬、世界じゅうで一番幸福な家族みたいに笑い続ける。

 この微笑ましい場面の裏に空恐ろしい場面が控えているのではない。この微笑ましい場面そのものが空恐ろしいのだ。いったい〈私〉は、将来のチカに、すばらしい〈幼い宝物〉を土の中から発見させるために、チカの手をはらい、わざと声をはりあげてツネマサの手を強く握ったりしたのだろうか。掘り出された〈幼い宝物〉に鮮烈な思い出がよみがえるように。それにしても、「この一瞬、世界じゅうで一番幸福な家族みたいに笑い続ける」場面を演出した〈私〉に果てしのない悪意のようなものも同時にかんじる。「世界じゅうで一番幸福な家族」を演出、演じた〈私〉はツネマサと別れることを確信している。〈一番幸福な家族〉の演出家は次の瞬間の離散を前もって抱え持っている。

 〈私〉の父親と母親が離婚したのかどうか、長岡昌子と若い男がその後別れたのかどうか、〈私〉はそういったことに関してはなにも触れない。〈私〉は人間関係の具体的な諸相を事細かに描写しようとする意思はない。〈私〉は確固たる存在や確固たる人間関係(親子関係、夫婦関係、恋愛関係など)を信じてはいないし、「信じていない」と大声で叫ぶこともない。この〈私〉はたとえ男を熱烈に愛したにしても「あなたが欲しい」という叫び声のなかにどうすることもできない「むなしさ」の粉がまぎれこんでいることを知っている。ツネマサの手をぎゅっと握りしめても、それは愛の確認や持続を求める心の証とはならない。別離を確信した者だけが握りしめることのできる握りしめ方で、その一瞬の〈演技〉を生きるのである。

 「同じ色のマフラーを首にぐるぐる巻きにしたカップル」が自転車に二人乗りして奇声を発していた。長岡さんは知らない男の人におおいかぶさって馬鹿笑いをしていた。今、〈私〉とツネマサとチカは手をつなぎ、世界じゅうで一番幸福な家族みたいに笑い続けている。現在の中に過去が紛れ込み、現在は未来からのまなざしでとらえ返される。〈私〉の意識は過去・現在、未来の時空を気ままに浮遊し、現在を生きながら多様な時空の膨らみに遊泳する。〈私〉は〈 〉をはずした私として、喜怒哀楽の渦潮に全身をゆだねることができず、不断に明晰な〈意識〉が機能し続ける飛行風船にのって表現しつづける。

「この一瞬、世界じゅうで一番幸福な家族みたいに笑い続ける」その光景を俯瞰しているのは〈私〉で、その〈私〉をさらに背後から眺めて表現操作しているのは作者であるが、その作者は「角田光代」という名札をつけて現実社会で小説家としての役割をはたしながら生きている。小説家は現実の世界に生きて、同時に時空を超えるまなざしを獲得していなければならない。現実の場面を俯瞰することのできるまなざしは、世界を凍結させることも、世界の時空から逸脱することもできる。角田光代の「だれかのいとしいひと」を読むと、作者が死者のまなざしをもってこの世の出来事に寄り添っていることが伝わってくる。〈私〉のまなざしがこの世に注ぐ創造主の光と融合して世界をながめている。そんな場面が確かにあったが、あえて引用はしない。

 「世界文学の中の『ドラえもん』」を執筆し終え、引き続き『オイディプス王』論を書いていたわたしに「だれかのいとしいひと」論の依頼があったことは偶然だが必然のうちのことであった。