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清水正ブログ

2018-05-19

動物で読み解く『罪と罰』の深層

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江古田文学97号(2018年3月)に掲載したドストエフスキー論を何回かに分けて紹介しておきます。第8回目。

動物で読み解く『罪と罰』の深層

清水正




失楽園』の神とサタンはまさにドストエフスキーがドミートリイの口を通して言わせた、広すぎるくらい広い人間の心に内在する〈神〉(бог)と〈悪魔〉(черт)である。ドストエフスキーの場合、この〈神〉と〈悪魔〉は決着のつかない永遠の戦いを続行しなければならない運命にあるが、ミルトンの場合は神の勝利を前提にした戦いということになる。

 サタンの言葉を引こう。

 思うに、支配するということは、充分野心の目標たりうる、―たとえ、地獄においてもだ。天国において奴隷たるよりは、地獄の支配者たる方が、どれほどよいことか!(上・21)

 サタンの野望は支配であり、自由である。神のもとにあって大天使としていくら優遇されようとも、神の支配下にあることは間違いない。サタンは神の配下にあること自体に我慢がならない。とうぜんサタンの内には神を打倒し、神に代わってすべてのものに対する支配権を獲得しようとする野望が煮え立つ。そして遂に反逆の時を迎え、全力を尽くして戦った結末が敗北であり、地獄への追放であった。しかし神を絶対的な存在と見なさないサタンは、さらに反逆の牙を剥かずにはおれない。サタンは奴隷の安穏よりは地獄での自由を求める。自分の力を頼むサタンは、心持ち次第で地獄をも天国に劣らぬ世界へと変容させることができると思っている。サタンは神を恐れぬ英雄であり、一度や二度の敗北によっては、神の意志(怒りと寛容)を受け入れることはない。まさにミルトンのサタンは神を殺害した後の現代人にふさわしい英雄とも見える。このサタンはドストエフスキーの人神論者よりも冷徹な、謂わばニーチェの反キリスト者の虚無と絶望を経た超人の如き神への反逆者、ないしは神を見下す傲慢者の貌を備えている。サタンをミルトンの前提(神の全知全能性)から解放すれば、彼は無傷のままに現代に蘇るであろう。

 サタン軍には誇り高き者が揃っている。笏を持った王モーロックもその一人である。ミルトンは次のように書いている。

 彼こそは、天において戦った天使のうち最も強く、最も獰猛な者であったが、今では絶望の余りさらに獰猛になっていた。そして、力において永遠者と同等と認められていると確信し、もし永遠者より劣るなら、むしろ生存しないことを願っていた。生存の意欲が失われると共に、恐怖心も全く失われていた。(上・57)

 モーロックは〈悔改め〉を断固として拒み、永遠者(神)に対する〈公然たる戦い〉を主張する。サタンもモーロックも、自分を神と同等の力を備えた者として認識している。神との戦いに敗北したことを必然ではなく偶然として捕らえている。彼らは自分を王として、本来は永遠者として崇められ奉られる存在と見なしている。従って神との戦いに敗北したことの衝撃は大きかったが、しかし彼らの不撓不屈の精神は今再び神と一戦を交えることを決意させる。サタンにしろモーロックにしろ、彼らは自分たちが神よりも劣るなどということを認めることは絶対にできない。それを認めるよりは死を選ぶというのが彼らのプライドなのである。

 それにしても神の国にあっては大天使であった彼らは、いったい何が不満で反逆行為を起こしたのであろうか。天使もまた人間と同じように神の被造物でしかないのなら、創造者に反逆を起こしても初めから勝ち目がないのは当然ではなかろうか。『失楽園』の神が『創世記』の全知全能の神と同様の性格を賦与されているなら、この神はすべてをお見通しの上でサタンたちの反逆に立ち向かっていたと言えよう。この神は反逆者サタンたちに、彼らが神と同等の力を備えていると確信させるほどの余裕を持って戦いに望んでいる。傍目には接戦に見える激戦(読者にとってはスペクタクル映画を観るようなハラハラドキドキの戦闘シーンが続く)を演出し、存分に楽しんでいるのが『失楽園』の神である。もしミルトンが神の絶対性という前提を払いのけていれば、まさに神とサタンたちの戦いは文字通りの激戦となったであろう。

 わたしたちが読んでいる『失楽園』の神は、プロレス興業における、絶対的立場を保持するプロデューサーの如き存在で、レスラーたちは彼の書いたシナリオ通りに事を運ばなければならない。サタン軍の闘将たちも、見えざる神のシナリオ通りに考え、行動しているに過ぎないのだが、彼らはこの神のシナリオを意識するようには設定されていなかった。その意味でサタンたちは、神の意志によって創造された被造物であるにも関わらず、自分たちには誰にも侵すことの出来ない自由意志が備わっていると確信している傲慢な現代人にも通ずる人間臭さがある。おそらく『失楽園』の読者を魅了するのは人間くさい欲望、反逆精神に満ち溢れた自由人サタンの精神世界とその大胆不敵な行動力であって、永遠の座に君臨する神ではない。

 ロジオンロマーノヴィチ・ラスコーリニコフ(666)は、本文において最初の〈踏み越え〉(殺人)をなすことはできたが、その後〈踏み越え〉の重荷に耐えきれずに苦しむ。この〈苦しみ〉は二人の女の頭を叩き割ったことに対する〈罪〉意識の襲撃ではなく、自分が〈非凡人〉ではなく〈凡人〉の範疇に属する人間であることを認めざるを得なかったことに起因する。つまりロジオンは彼の名前が示すような〈薔薇〉(美・力・聖)、〈英雄〉、〈太陽〉でもなければ〈非凡人〉(ナポレオン=666)でもなく、単なる凡人としての〈殺人者〉でしかなかった。この無罪意識に苦しむ〈殺人者〉(убийца)で〈神の冒瀆者〉(богохульник)ロジオンが、〈淫売婦〉(блудница)で〈狂信者〉(юродивая)ソーニャの信じる〈神〉(бог)の愛に包まれることで『罪と罰』は幕を下ろすことになる。

 ロジオンロマーノヴィチ・ラスコーリニコフは〈神〉に反逆し、徹底して戦う〈蛇〉(змей)でも〈竜〉(дракон)でも〈獣〉(зверь)でもなく、〈悪魔〉(черт)に誘惑されて殺人を犯してしまった臆病な思弁家であり凡人であり、最終的にはマルメラードフやソーニャの信じる〈神〉に帰依することになった。ロジオンという、作者によって額に悪魔の数字を刻印されていた青年は、殺人後、分裂した意識と葛藤にもがき苦しむが、結局は〈神〉の愛と赦しに包摂されて物語の舞台から去っていく。が、このことで『罪と罰』における〈神〉の問題がすべて解決したわけではない。

 引用テキストは『聖書』(新改訳聖書刊行会)、『カラマーゾフの兄弟』(江川卓訳 集英社 愛蔵版世界文学全集19)、『罪と罰』(米川正夫訳 世界文学全集18 河出書房新社江川卓訳 岩波文庫。一部私訳)、『失楽園』(平井正穂訳 岩波文庫)に拠った。




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2018-05-16

動物で読み解く『罪と罰』の深層 連載7





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江古田文学97号(2018年3月)に掲載したドストエフスキー論を何回かに分けて紹介しておきます。第7回目。

動物で読み解く『罪と罰』の深層

清水正


 ミルトンの時代にあって神を相対化すること自体がタブーであったのかどうかは別として、彼の詩神は神の絶対性をも超脱して自在に飛翔する。神と同等のサタンを設定することによって、神はその絶対性を試みられる。ドストエフスキーの場合は、イワン・カラマーゾフの「神の存在は信じるが、神の創造した不条理に満ちたこの世界を認めるわけにはいかない」という言葉に端的に示されたように、神は地上世界における真理・正義・公平を体現しなければならない存在として想定され、それらを体現しない神は反逆、抗議の対象となる。

 ミルトンドストエフスキーの人神論者たちが神に求めた真理・正義・公平などを問題にしていない。特に『失楽園』前編で問題にされているのは、神とサタンの闘争である。この闘争は人間の世界における政治的な主導権争い、それも仲間内の壮絶な争いを容易に連想させる。設定上、『失楽園』の神は絶対性を剥奪されることはなかろうが、天使たちによって反逆された時点で、すでにその相対的存在であることを暴露されている。が、ミルトンの詩神は、神の絶対性を保持することを前提に想像力を飛翔させている。神がサタンによってその玉座を奪われるかもしれないというハラハラドキドキは予め封印されている。そこに異教徒であるわたしなどは物足りなさを感じるが、ミルトンの内に神を相対化する異教徒の眼差しがあったことは否めないであろう。詩神に魅入られた者は、既成の神をも超脱する力を賦与されており、詩神は神よりはむしろサタンに加担するものなのである。ミルトンの場合、サタンと結託する詩神の本来の力をミルトン自身がかなり意識的に抑制していたと見ることもできる。ミルトンは『失楽園』執筆にあたって想像力を存分に発揮しながら同時に〈前提〉(神の絶対性の保持)から逸脱しないよう慎重に抑止力を行使している。

 神に反逆し、敗北したサタン軍は地獄へと突き落とされる。ここでもわたしの興味のあるのは神の意志とサタンの意志とである。ミルトンは神の意志を〈一切を統べ給う神の意志〉と書いている。神はサタンの陰険な策謀を分かっていて見逃していた。ミルトンの神は、厳しく禁じた知恵の実をアダムとエバが食することを予め知っていながら、敢えて彼らの自由な意志にまかせた『創世記』の神と同様な性格を賦与されている。神には〈無限の善と恩寵と慈悲〉が備わっているが、同時に〈言語に絶する破滅と憤怒と復讐〉の念もたぎっている。

 ミルトンにとって神は〈絶対性〉を保持する者として描き出されるが、サタンはその〈絶対性〉を認めない。サタンにとって神の〈絶対性〉は自らの〈絶対性〉を否定することにはならない。サタンは神と同等の〈理性〉と〈力〉を備えた者として認識されている。

 サタンは自身を神と同等のものと見なしている。神との戦いに敗れたのもたまたまそうなったのであって、戦略を充分に練り直せば勝利も可能と考えている。「彼がわたしより偉大だというのは、雷霆をもっていたからにすぎぬ」とサタンはひとりごちる。サタンは神がこの〈雷霆〉を持っていること自体が、神のサタンに対する絶対的優位性を備えているのだとは考えていない。サタンは神のもとにあって、神と共に安穏な生活をしようとは思わない。サタンにとって神と共にあることは、神への服従を意味している。サタンは神と共にある平穏な生活にあっては自らの自由を思う存分発揮することはできなかったのである。本来、神の国にあって大天使の地位にあったサタンは神の腹心であり、神の寵愛を一身に受けていたはずである。にもかかわらず、サタンは寵愛よりも自由を欲したのである。

 サタンにおいて自由であることは、神の支配統治からの離脱を意味していた。それは神に対する反逆ということになる。サタンの反逆は神の王国の秩序を根底から突き崩し、世界を混沌へと変えることになる。サタンは世界全体をカオスの渦へと巻き込むことによって新たなる世界構築を望んでいたかのようである。つまり、サタンは現存する神を殺し、自らが新たなる神となって再生することを願っていたことになる。『失楽園』前半における神の軍団とサタンの軍団による壮絶な戦いは、地上世界における権力奪取をめぐる人間の戦いを色濃く反映している。『失楽園』の神は、地上世界における人間(権力者)の貌を超越していない。この神は生々しいほどに権力欲に支配された人間の闘争心、復讐心、統治心、そして絶対的な勝利を確信しているときのみに寛容な心をかいま見せる。

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2018-05-15

動物で読み解く『罪と罰』の深層 連載6





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動物で読み解く『罪と罰』の深層

清水正

〈神〉が相対化されているという点ではミルトンの『失楽園』も基本的には同じである。

失楽園』は次のように始まる。

 神に対する人間の最初の叛逆と、また、あの禁断の木の実について(人間がこれを食べたために、この世に死とわれわれのあらゆる苦悩がもたらされ、エデンの園が失われ、そしてやがて一人の大いなる人が現われ、われわれを贖い、楽しき住処を回復し給うのだが)―おお、天にいます詩神よ、願わくばこれらのことについて歌い給わらんことを!(上・7)

 ミルトンは存分に詩神に導かれて〈神に対する人間の最初の叛逆〉と〈禁断の木の実〉について想像力を飛翔させた。『失楽園』を読んでいる間中、わたしは一編の壮大なスペクタクル映画を観ているような興奮を味わった。『失楽園』を忠実に映画化しようとすれば何十、何百億もの予算を計上しなければならないだろうが、脳内映像ですませば予算はゼロである。わたしは十分に脳内映像で満足した。

 ミルトンは神をどのように捕らえていたのか。この神は絶対の衣装を纏わされた相対的存在である。が、相対的存在でありながらあくまでも絶対の座から追放されることはない。もともとユダヤ・キリスト教の神は人間くさい要素を多分に持っている。この神は人間の現実世界において権力の座についた者の臆病、邪心、嫉妬、憎悪を余すところなく備えており、反逆者に対しては徹底的に容赦なく反撃する。神に反逆したサタンに対する攻撃はそれを証明している。神が相対化を免れた絶対存在であるなら、天使たちの反逆など最初からあり得ない。

カラマーゾフの兄弟』のドミートリイは人間の心は神と悪魔の永遠の戦場だと語っていたが、まさにミルトンの描く『失楽園』の世界もまた神とサタンの永劫の戦場を活写している。サタンは神との戦いにおいて敗北するが、彼らの精神は神に屈服していない。彼らサタンは神に反抗する精神の自由を満喫しているかのように大胆に振る舞っている。サタンは、絶対の衣装を纏った神よりははるかに人間的な躍動する精神世界を生きている。神が、サタン並に振る舞うのでなければ、ただ絶対性を賦与されただけの人工的な、作り物の印象を免れない。ミルトンの想像力はサタンの側に与することによって大胆に刺激的に飛翔する。

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2018-05-13

動物で読み解く『罪と罰』の深層 連載5





江古田文学97号(2018年3月)に掲載したドストエフスキー論を何回かに分けて紹介しておきます。第5回目。

動物で読み解く『罪と罰』の深層

清水正

 ロジオンの父称の一つロマーノヌィチ(Романыч)を〈Роман=小説の〉と解釈するとロジオンの父親は〈小説〉となるが、その〈小説〉を書いているのは作家であるから、まさにロジオンの生みの親はドストエフスキーとなる。ドストエフスキーはロジオンのみならず、すべての登場人物の生みの親であり、被造物である人物たちは作家の意志を超えることはできない。ロジオンは殺人を犯し、ソーニャと出会い、そしてエピローグでは復活の曙光に輝く。わたしは『罪と罰』を半世紀にわたって読み続けているが、未だにロジオンの高利貸しアリョーナ、リザヴェータ殺しから復活に至るまでの〈踏み越え〉を納得できないでいる。十七歳で「馬鹿ばかりが行動できる」という〈地下室人〉の言葉に共鳴を覚えたわたしは、思弁の人、屋根裏部屋の空想家ロジオンが殺人という行動を起こしたことが不思議でならなかった。不断に精神の分裂を抱えている自意識過剰の青年が、殺人という一義的行動に走ったことが腑に落ちなかった。こういった青年は大学教授か文筆業に従事することは可能でも、殺人などというだいそれた一義的行動家になることはあり得ないと思っていたのである。が、一読者でしかないわたしがこんな不満をもらしたところでどうしようもない。人物たちの言動に関して決定権を握っているのは作家なのであるから。しかし、作品を解体しその再構築化をはかることが読者に禁じられているわけではない。この批評行為は作品の〈絶対性〉に揺さぶりをかけるということで、ある種の〈信者〉のような読者にとっては冒瀆と見なされる行為である。

 ロジオンに最初の〈踏み越え〉(殺人)がなければ、最後の〈復活〉もあり得ない。作者が書きたかったのは単なる屋根裏部屋の空想家ではなかった。作者はタイトル通り、〈踏み越え〉(преступление)と〈罰〉(наказание)を描きたかったのだ。最も行動家から遠く離れたかのような空想家・思弁家を作者は殺人者として描いた。わたしは自分に照らして空想家・思弁家のイメージを作り上げ、そのことに固執していた。〈地下室〉に閉じこもって、政治的な活動家を愚弄していたわたしは殺人を実行したロジオンに何か納得できないものを感じ続けていた。が、思弁家=非行動家という図式を振り捨てて、作品に描かれたロジオンを冷静に見つめ直すと、彼はわたしが勝手に思いこんでいたような青年ではないことも分かってきた。彼の言動(現存在諸様態)はゴリャートキン(第二作『分身』の主人公)の如く正真正銘の狂気に陥るほど深刻とは言えないにしても、〈突然〉(вдруг)に支配されていたことは明らかである。思弁は論理的展開を前提とするが、ここに〈突然〉が現出すると、論理が破綻する。「わたしにアレができるだろうか?」という疑問は未だ論理の枠内に収まっている。アレ(表層的にはアリョーナ殺し)が論理の枠内に収まっている限り、思弁の主体を行動に駆り立てることはできない。

 ロジオンは雑誌に「犯罪に関する論文」を寄稿するほどのインテリであるから、彼の思考は論理的である。はたして論理的思考によって行動家となれるのであろうか。もしかしたらこういったわたしの疑問そのものに疑問を抱く者が少なからずいるかもしれない。わたしが二十歳の頃、まさに日本は政治的な季節を迎えており、過激な革命運動に身を呈する者は珍しくなかった。おそらく彼らは自分たちの行動に確信を持っていたのだろう。が、連合赤軍の凄惨なリンチ事件の発覚、続く浅間山荘事件をもって日本における革命運動は実質的に幕を下ろした。わたしは十七歳で『地下生活者の手記』を読み、ドストエフスキー文学の凄まじい自意識の洗礼を受けたので、革命思想の絶対性など微塵も信じていなかった。当時の活動家たちはおそらくドストエフスキーなど読んでいなかっただろうから、革命思想を根底から覆す思想に直面することもなく、活動に専心することができたのであろう。彼らの革命運動の実態を、ドストエフスキーは『悪霊』において百年以上も前に描き尽くしていた。事件を起こした後で、それを知ることになった革命家たちはいったいどのように総括するのであろうか。

 若者たちを一義的な行動に駆り立てる革命思想がある。従って論理的思考がその主体者を行動から遠ざけるということにはならない。もしロジオンの思弁が革命に絶対正義を見いだしていれば、彼は迷うことなく革命家の途を選んだであろう。が、『罪と罰』の最初の場面を読めば明白なように、ロジオンは思いまどっている青年として描かれている。作者はロジオンの〈惑い〉の内実(革命か神か)について触れていないが、これは当時の検閲官の目をたぶらかすためである。十九世紀ロシア中葉に生きるインテリ青年で革命に関心を持たなかった者はいない。が、ドストエフスキーはロジオンに過激な革命家の接近を封じている。作中に登場するロシア最新思想の持ち主と言えば、穏健な活動に甘んじているレベジャートニコフただ一人である。しかもドストエフスキーはこのレベジャートニコフにすらロジオンとの〈革命をめぐる〉対話を許さなかった。読者はよほど注意して読み進まないと『罪と罰』に秘められた〈革命〉の要素を発見することができない。

 ロジオンは殺人の道具としてどうして〈斧〉にこだわったのか。〈斧〉は皇帝殺しの象徴的な道具として当時の急進的な革命家たちによって檄文などに記された。つまり〈斧〉はロジオンに秘められた革命思想を体現している。さらに問題となるのは、当初予定されていなかった〈リザヴェータ殺し〉をなぜドストエフスキーは設定したのかということである。ここには目的を達成するためには手段を選ばずという革命思想の根幹が示されている。ロジオンは「わたしにアレができるだろうか」と考えるが、〈アレ〉は単なる〈高利貸しアリョーナ殺し〉だけではなく〈皇帝殺し〉をも意味していた。因みにこういった点に関しては今までに執筆した『罪と罰』論、特に「『罪と罰』再読」(「ドストエフスキー曼荼羅」8号 二〇一八年一月)で詳細に考察したので興味のある方はぜひご一読ください。

 ロジオンの〈666〉に関しては実に多様な解釈が可能であり一筋縄ではいかない。犯罪に関する論文において、非凡人には「良心に照らして血を流すことが許されている」と書いたロジオンは、確かに論文執筆時においては自分を〈ナポレオン〉と同等の〈非凡人〉の範疇に入れていた可能性もある。その時彼は未だ単なる屋根裏部屋の一思弁家にすぎなかったが、しかしそれにも関わらず自分を世界を変えうる英雄と見なしていたとは言えるだろう。ああでもないこうでもないとはてしなくしゃべり続けるたわいもない空想家にとどまるか、それとも〈英雄〉として〈非凡人〉として自分自身の第一歩を踏み出すべきか。ロジオンは〈アレ〉を前にして迷いに迷う。そうだ、この迷い自体が彼の〈凡人性〉を証明しているが、それに気づくのは犯行後のことである。

 ロジオンは『創世記』のエバのように〈蛇〉(змей)に誘惑されるのではない。ロジオンにおける〈蛇〉はすでに彼自身の内部に深く侵入しており、いわばそれは彼自身と言ってもいいほどである。ロジオンの内部に〈英雄〉と〈蛇〉が存在し、はてしのない会話を交わしているようなものだが、まさにある神秘的でデモーニッシュな力が働いてロジオンは〈蛇〉に呑みこまれてしまうのである。これをソーニャに言わせれば「あなたは神さまから離れたのです。それで神さまがあなたをこらしめて、悪魔にお渡しにになったのです!」(От бога вы отшли, и вас бог поразил, дьяволу предал!)ということになる。これに対してロジオンは「そうそう、ソーニャ、それはぼくが暗やみに寝そべって、あのいっさいが見えてきたときさ、あれは悪魔がぼくを迷わせていたんだね? そうだね?」(Кстати, Соня, это когда я в темноте-то лежал и мне все представлялось, это ведь дьявол смущал меня? а?)と応える。ここでの〈悪魔〉は両者ともに〈дьявол〉である。が、ロジオンは次のセリフでは「黙ってくれ、ソーニャ、ぼくは何もひやかしちゃいない。だってぼくは、自分でも悪魔に引っぱって行かれたことを知っているんだ」(я ведь и сам знаю, что меня черт тащилу.)と言って〈悪魔〉を〈черт〉で表している。

 因みに、『カラマーゾフの兄弟』でドミートリイ・カラマーゾフは「ここでは悪魔と神が戦っている、で、その戦場は―人間の心なんだ」(Тут дьявол с богом борется, а поле битвы―сердца людей.)と言っているが、ここで〈悪魔〉は〈дьявол〉である。また同作品の第十一編・九の「悪魔・イワン・フョードロヴィチの悪夢」(ЧЕРТ. КОШМАР ИВАНА ФЕДОРОВИЧА)では〈悪魔〉は〈черт〉で、本文でイワンが口にしている〈悪魔〉も〈черт〉である。イワンは幻影の〈悪魔〉がローマ詩人テレンティウスの句「Satan sum et nihil humanum a me alienum puto(ぼくはサタンだ。人間のことで無縁なものは何もない)」を口にしたときも、〈Satan〉を〈сатана〉(サタン)ではなく〈черт〉に置き換えている。 ドストエフスキーは『悪霊』で「ゲラサの豚」を取り上げたときは、〈悪霊〉を聖書通り〈бес〉で表している。以上〈悪魔〉はドストエフスキーの場合〈дьявол〉〈черт〉〈бес〉で表記される。それでは『創世記』に登場する〈蛇〉(змей)は登場しないかというと、『カラマーゾフの兄弟』でスネギリョフ退役二等大尉とイリューシャ少年が〈大きな石〉のある場所にたどり着いたとき、空に飛んでいる三十ばかりの〈凧〉〈змей〉として現れている。

 ドストエフスキーは〈神〉(бог)に対する〈悪魔〉として『創世記』の〈蛇〉(змей)を特に意識してはいなかったのであろうか。〈神〉(бог)の化身としての〈悪魔〉(змей)という見方をした場合、〈神〉(бог)と〈悪魔〉(змей=дракон)の戦いという構想は成立しない。ドミートリイやイワンにとっての〈悪魔〉(дьявол,черт)ははたして〈神〉(бог)と同格のものとして扱われていたのであろうか。彼らにとっての〈神〉は、〈дьявол〉や〈черт〉と戦う時点ですでに相対化されていたと見ることができる。

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2018-05-12

動物で読み解く『罪と罰』の深層 連載4



江古田文学97号(2018年3月)に掲載したドストエフスキー論を何回かに分けて紹介しておきます。第4回目。

動物で読み解く『罪と罰』の深層

清水正


 次に問題にしたいのは〈獣〉(Зверь)に力と位と権威を与えた〈竜〉(Дракон)である。この〈竜〉を『創世記』における〈蛇〉(Змей)と見る解釈がある。〈蛇〉は「さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった」(Змей был хитрее всех зверей полевых, которых создал Господь Бог. )(3章1節)と書かれている。〈蛇〉は女に神が食べてはならないと命じた木の実を食べることをすすめる。〈蛇〉は言う「あなたがたは決して死にません。あなたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです」(нет, не умрете; Но знает Бог, что в день, в который вы вкусите их, откроются глаза ваши, и вы будете, как боги, знающие добро и зло.)(3章4〜5節)と。

〈蛇〉は狡猾な動物であり人間を誘惑するものであるが、全能の〈神〉(Бог)によって造られた被造物であることに間違いはない。被造物である〈蛇〉が誘惑し、被造物である〈人〉(エバとアダム)が〈神〉の命令に背いてその誘惑にのってしまう、この誘惑劇をどのように理解すればいいのか。『創世記』の〈神〉は自らが創造したものに対し、試み、裁き、罰するものとして描かれている。異教徒にとってこの全能の〈神〉を神として信じることはとうていできない。〈神〉が全能であるなら、被造物である狡猾な〈蛇〉が誘惑し、〈人〉が禁断の〈木の実〉を口にすることを予め分かっていたであろう。予め分かっているのに、敢えて試みるということ自体が滑稽である。脚本通りに演技している舞台俳優に、とつぜん監督が現れて罰したり裁いたりする理不尽と同じである。

創世記』の〈神〉は被造物である〈蛇〉や〈人〉に自分と同等の自由意志を賦与したというのであろうか。〈蛇〉は自分の意志で〈人〉を誘惑し、〈人〉もまた自分の意志で禁断の〈木の実〉を口にした。書かれた限りのことで読めば、〈蛇〉も〈人〉も自由な意志を持っているように見える。が、被造物の意志をコントロールできない〈神〉を全能と言えるのだろうか。それにたとえ自由意志を〈神〉から与えられていたにしても、被造物である物は〈神〉の裁き、断罪を一方的に受ける身であって、〈神〉と同等の位置を占めることはできない。ドストエフスキーのリアリズム文学を読むように『創世記』を読めば、〈神〉は退屈の余り一人遊びを始めたようにしか見えない。〈人〉を恐るべき言葉で誘惑する〈蛇〉は〈神〉の化身であり、〈人〉が誘惑に落ちることを予め分かっていながら誘惑せずにおれないこの〈神〉は、組織の頂点に立った人間(たとえば独裁者)の不安や恐怖を体現した存在とも見える。一神教の〈神〉は人間の様々な要素をたっぷりと備え持った存在であり、不断に試み、裁き、罰せずには自らの権威を絶対化できない存在なのである。

 いずれにしても、〈神〉から自由意志を与えられた〈蛇〉や〈人〉は、〈神〉に従属することに我慢がならず、〈神〉に反逆し、〈神〉と戦うことになる。〈神〉は絶対的な存在ではなく、その地位は代替可能な相対的な存在と見なされる。そもそも〈神〉が絶対的な存在であるなら、被造物から戦いをのぞまれるなどという屈辱的なことはあり得ない。が、一神教の世界では創造者である全能の絶対的な〈神〉と〈被造物〉でしかない〈蛇=竜〉の戦いが様々なかたちで描かれてきた。この戦いの場に〈神〉が登場した時点で〈神〉は絶対の玉座から相対の座に引きずり落とされているが、一神教の支配する世界では、最終的には〈神〉が勝利を収めることで、その絶対性はかろうじて守られることになる。〈神〉と〈蛇=竜〉の壮絶な戦いをミルトンは『失楽園』で想像力豊かに華麗にビジュアルに描いているが、しかしここにも相対性にまみれた〈神〉の絶対性、全能性を根本から問う視点は見られない。

罪と罰』の主人公〈一人の青年〉の額に〈666〉という〈獣〉の数字を刻印したのは誰か。まずは『創世記』の〈蛇〉(Змей)として考えてみよう。この〈蛇〉はある種の人間、つまり自分を非凡人や絶対者と考えるような人間の心を鷲掴みするような誘惑の言葉を発していた。

〈蛇〉は神が禁じた〈木の実〉を食べると、〈人〉が〈神〉のようになり、善悪を知るようになると言う。被造物の〈人〉が全能の創造者〈神〉となることができるというのであるから、〈蛇〉は実に恐るべき誘惑の言葉を発していたことになる。この誘惑の言葉に〈女=エバ〉がまず反応し、〈木の実〉を食し、次いで〈男=アダム〉も食する。つまり〈人〉は〈蛇〉の誘惑に乗って〈神〉になる途を選んだことになる。〈蛇〉はどのようなことを言えば〈人〉が〈神〉の命令に背いて禁断の〈木の実〉を食するかを予め知っていたことになる。

 エデンの園での〈蛇〉と〈女〉の会話から分かることを列記しておこう。〈人〉は〈神〉のような存在になりたいと思っていた。〈神〉は〈人〉が自分と同じようになることを望んでいなかった。〈蛇〉は〈神〉の真意を理解していたが、〈神〉に反逆して〈女〉を誘惑することに成功した。

 さて、ここで素朴な疑問を呈しておこう。〈女〉によれば、園の中央にある〈木の実〉を触れても食べてもいけないのは「あなたがたが死ぬといけないからだ」ということであった。しかし、エバもアダムも〈木の実〉を食べてもただちに死ぬことはなかった。この時点で〈神〉の言葉はその絶対性を奪われ、〈神〉の言葉より、〈蛇〉の言葉の方が説得力を獲得する。

 次に問題にしたいのが、〈神〉のようになると「善悪を知るようになる」という〈蛇〉の言葉である。ドストエフスキーは『悪霊』のニコライ・スタヴローギンにおいて〈善悪観念の摩滅〉という問題を提起した。スタヴローギンは言わば理知の極限において、何が善であり悪であるかを判断できない虚無の領域に入り込んでしまった。理性、理知、思弁の次元にとどまる限り、絶対的な善や悪を知ることはできない。つまり〈木の実〉を食したことによって〈賢さ〉を手に入れた〈人〉は、「善悪を知る」こととは全く逆に、スタヴローギンと同じ途をたどることになる。

〈蛇〉の言葉をそのままに受け止めれば、『創世記』の〈神〉は〈善悪〉を知っている。換言すれば〈善悪〉を決定できるということである。人間の理性や知性は〈善〉〈悪〉を限りなく相対化することはできるが、そこに唯一絶対性を付与することはできない。ロジオンは言わば禁断の〈木の実〉を食した〈666〉であり、賢い思弁家である。が、ロジオンの知性は、ソーニャの信じている〈神〉(бог)の絶対性を獲得することはできない。ロジオンは〈蛇〉の誘惑に乗って〈木の実〉を食し〈賢さ〉を手に入れたが、〈神〉のように〈善悪〉を知ることができず、〈思弁〉(диалектика)からイエス・キリストの〈命〉(жизнь)へと向かわざるを得なかった。

 いずれにせよ、『創世記』の〈神〉と『罪と罰』の〈神〉とを同一視することはできない。前者は試み、裁き、罰する〈神〉であるが、後者はマルメラードフの告白で語られるように裁きの後で赦す〈神〉であり、額に獣の数字〈666〉を刻印されたロジオンさえ赦す〈神〉なのである。

 ロジオンは〈666〉としてローマ皇帝の息子としての薔薇であり英雄であり太陽である。が、ロジオン皇帝ネロのように、ナポレオンのように〈666〉としての力、権威を発揮することはできなかった。ロジオンは開幕時からすでに〈革命か神〉かの深い惑いの中にあり、〈踏み越え〉(アリョーナ殺しとリザヴェータ殺し)の後にはさらに分裂の度合いを深めている。ロジオンは最初の犯行において、斧の刃先を自分の額に向けて振り上げており、これはアリョーナ殺しの前に〈666〉を叩き割った隠喩と受け止めることもできる。つまり、この解釈でいけば、ロジオンは〈666〉としてではなく、〈666〉から解放された直後にアリョーナの頭を叩き割ったことになる。

 アリョーナ殺しは意識朦朧状態で斧の峯を使っているが、目撃者リザヴェータの場合は明晰な意識を保持したまま斧の刃先で叩き殺している。〈666〉を叩き割った後でのこの殺人行為をどう受け止めたらいいのか。ロジオンは〈666〉から解放されたのではなく、より深く〈666〉との関係を強めてしまったのであろうか。ロジオンは後に、犯行はある神秘的でデモーニッシュな力の作用によって行われたのだと思う。まさにロジオンは自分の力では統御できない〈悪魔〉の誘惑に乗ってしまったのだ。が、この〈悪魔〉は、〈神〉に対立する存在とは思えない。ロジオンの最初の〈踏み越え〉は〈殺人〉であるが、最終的な〈踏み越え〉は〈復活〉である。ロジオンに殺人を促した神秘的でデモーニッシュな力の作用とは、言わば〈悪魔〉に化身した〈神〉のものではなかったのかとも思わせる。

 が、ロジオンは二人の女を殺しながら〈罪〉の意識に襲われることはなかった。罪意識のないまま、ロジオンは復活の曙光に輝く。作者は「思弁の代わりに命が到来した」と書いて、ロジオンの復活を保証するのだが、殺された二人の女の苦痛や恐怖をいったいだれがどのように贖うというのであろうか。

 信者にとって聖書は絶対であるが、そうでない者にとっては聖書文学書として読むこともできる。『創世記』において〈神〉は絶対として描かれるが、その絶対からしてすでに相対的である。被造物である〈蛇〉や〈人〉に〈神〉の命令に背く自由意志が与えられた時点で彼は相対化の世界に落ちたことになる。聖書文学作品と見れば、〈全能の神〉を創作した作家こそが〈神〉の上位に位置することになろう。このことに関しては当然反論もあろうが、今は不問に伏して先に進むことにする。

清水正ドストエフスキー論全集第10巻が刊行された。

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