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清水正ブログ

2018-06-12

赤塚りえ子さんから『バカボンのパパよりバカなパパ』(幻冬舎文庫)が送られてきた

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先週の金曜日、研究室に赤塚りえ子さんから『バカボンのパパよりバカなパパ』(幻冬舎文庫)が送られてきた。さっそく読み始め、さきほど読み終えた。何年か前、テレビで赤塚不二夫特集に出演していたりえ子さんの言葉「パパを水槽で飼っていたい」を聞いて、理屈を超えた至上の愛を感じた。わたしは赤塚マンガの神髄は愛だと思っている。それもひらがな表記のあいが一番合っていると思っている。このあいはひらがな表記のきょむと裏表の関係にあり、そこから赤塚流のギャグが噴出する。

今回、りえ子さんの著書を読みながら何度も胸が詰まった。あいがいっぱい。かなしみがいっぱい。特にあいするママやパパの死に立ち会わなければならなかった時の描写は涙なくしては読めなかった。この著書のすばらしさは、単なる伝記的な事柄を越えて一級のギャグ論、赤塚不二夫論になっていることである。ここで詳しくは語らないが、とにかくあいに裏打ちされた赤塚論のすごさがにじみ出ている。

特に印象に残った文章を引用しておこう。

 井上陽水は「傘がない」だが、赤塚不二夫は「意味がない」のだ。(202)


 「赤塚マンガは、内容的には悲しい話にも楽しい話にも、どちらにもなり得るんだ」

  湿度を抜いていくと、ギャグになる。悲しい方向へ行こうと思えばいくらでも行けるけれど、そこは湿度を抜いていく。カラカラにして笑い話にする。(210)


 赤塚マンガの奥底には悲しみの記憶が潜んでいるようにも思う。(214)


 「最愛の人の死」という強烈なショックを打ち消す圧倒的な刺激で自分をドライブし続け、パパは「空っぽの世界」をひたすら突っ走るしかなかったのかもしれない。(214)


  パパは常識を知っているからこそ、常識を超えたり壊したりできる。常識を意図的に実験的に壊すことができるのだ。

  「ギャグ」という衝撃で「理屈」や「意味」や「常識」が破壊されるとき、この「ナンセンス」の飛距離があればあるほどバカバカしくてくだらない。見えなくなるほど遠くに飛んだときに「ナンセンス」は「シュール」なギャグに変わり、それがあの『レッツラゴン』なんじゃないか。(217)

 言葉では言い表せないほど悲しい思いをいっぱいして、その大量の悲しみを大量の笑いに反転した。

  笑いはパパの生きる表現なんだ。(219)

 理屈じゃない何かが、パパを、パパの作品を守らなきゃと思わせた。(310)

 わたしの最大のモチベーションはずっと恋しかったパパへの想い、それだけなのだ。(310〜311)

 わたしは赤塚不二夫全部を肯定している。(350)


 以上で引用は終える。ぜひこの著書を読んで欲しい。あいに裏打ちされた本物の著作である。

わざわざ著作をお送りいただいた赤塚りえ子さんに感謝申し上げます。

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2015-01-22

どうでもいいのだ

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──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載55)


清水正


〈読み物〉と〈芸術〉


 今まで書いてきたことを念頭において、先に触れた『談志 名跡問答』 (2012年4月 扶桑社)における談志ドストエフスキー発言を具体的に見ていくことにしたい。



 談志 今考えている芸術論があってーーまだ解決はしていないんですけどもーー福田さんがどういう解釈をするか分からないけど、日本人にとって外国の文学絵画、音楽、芸能は、それを見て感動はあるかもしれないけど、芸術とは違うんじゃないかなと思って。やっぱり育った場所というのが大事なんじゃないかと考えているんです。

  今年の二百十日はどう吹くかとか、赤いベベ着た妹の手を引いて、鎮守の祭りへ行って、今年の祭りはようできた、とかね‥‥‥そこからはじまる芸能というのは、日本人にとって芸術になり得るでしょうけど、そうでないものはな得ない。例えば神社のお神楽だとかいろいろなものが芸能とつながってきたけども、それも時代が変わって大衆と離れていっちゃう。落語なんかはやっとつながっているんじゃないのかなと思うんだけど。

  いくらアメリカの、またはスペインの、イタリーの、そういうものを観たとする。やれカルメンオペラだって、感動する人もいるでしょう。だけど、それは感動であって、“品物”としては見世物だというのが俺の意見。ドストエフスキーでも結構な作品ではあるけど、日本人にとっては読み物だというんだ。荷風はやっぱり読み物ではすまないんじゃないのかなという気がする。これはいつ壊れるかもしれない一つの意見ですから、反論されると、ああそうかなと思うことがあるでしょう。でも曲げたくないですね。

 福田 ドストエフスキーは、日本人にとっては読み物だけれども、ロシア人にとっては芸術だということですか。

 談志 そうです、彼らにとって、ロシア人にとっては芸術なんですよ。それと同じように、アメリカのハリウッドでつくったいいものはアメリカ人にとって芸術。だけど、それをドイツ人が見たって分からないと思うんですよ。インディアンが見ても分からないと思いますね。それだね、芸術というのは。

  今もずいぶん真似っこが流行って、何だっていうと日本人は真似をしましたよね。ロシア舞踊がくればロシア舞踊の真似をする。バイオリンでもピアノでも、それに溺れる人もいていいと思うんですよ、鑑賞して素晴らしいなと思って。だけどやっぱり芸術という、くどいようだけど“美”へつながっているものとはす違うな。どうぞ反論があったら、どう思いますか。



 談志が言わず、福田が確認していないので、談志ドストエフスキーのどの作品を読んだのかは、この対談を読む限りは分からない。ここでの談志の発した言葉に限って言えば、ドストエフスキーの“品物”(作品)は、いくら日本人が読んで感動したにしても、それは所詮“見世物”であって“読み物”の次元を超えることはできない。ドストエフスキーロシア人にとっては“芸術”だが、日本人にとっては“読み物”でしかない。と、まあ、こういったことになる。

 ところで、ドストエフスキーの『罪と罰』の前半が明治二十五年に内田魯庵によって英訳から日本語に移されて以来、ドストエフスキー文学は熱狂的に読まれ続けた。

内田魯庵は「初めて『罪と罰』を翻譯した頃」で「私は今でもドストエーフスキイを時々讀んでゐる。しかし、讀み度くなつて本を机の上に置いて、いざ頁を繰り擴げようとする時、丁度劇藥を飮む時のやうな、一種の恐怖を感ぜずにはゐられない。(中略)ドストエーフスキイの小説は、忽ち讀者の魂に喰うひ入つて、巨きな手でその魂を掴んでしまふ。小説そのものの善惡は別として、ドストエーフスキイほどの力ある作家は、上下一千年間に又と出ては來まいと思はれる」と書き、新城和一は「ドストエーフスキイ禮讃」で「おゝ、大ドストエーフスキイ、彼こそは深淵中の深淵を極め、高峯中の高峯を極め盡したものである。彼こそは偉大なるものゝの中の偉大なるものである」と書いている。

 いちいち引用はしないが、二葉亭四迷北村透谷葛西善蔵島崎藤村萩原朔太郎坂口安吾小林秀雄横光利一野間宏椎名麟三武田泰淳などの詩人小説家、文芸批評家はドストエフスキー文学を深刻に受け止めてきたと言っても間違いではない。ひらたく言えば、日本の文学者たちはドストエフスキー文学を文字通り“芸術”と受け止めてきたのである。

 その一種の反動として五木寛之が「面白おかしいドストエフスキー」を唱え、江川卓がその線に沿って謎解きシリーズを「新潮」誌上に展開した。この謎解きシリーズは多くの読者に受け入れられ今日に至っている。つまり、日本の読者はようやく深刻なドストエフスキーから解放され、ドストエフスキーを“芸術”ではなく“読み物”としても楽しめる段階に至ったことになる。

 談志はその意味では“芸術”と“読み物”の概念を取り違えている。

 ところで、ドストエフスキーの日本人読者とは言っても、一括りできるほど単純ではない。ドストエフスキーを読んでキリスト教徒になった者もいるし、小説家詩人、批評家、ロシア文学研究家、翻訳家になった者もいる。かと思えば、深刻、暗さ

、病的なものを感じて生理的に受け付けない者もいる。ざっと読んで、あまり影響を受けない者もいる。わたしのように五十年近くも繰り返し読み、批評しても飽きない者もいる。要するに千差万別で、〈日本人〉という大枠ではとらえきれない。

 一般論として談志の言うことがわからない訳ではないが、今や日本人でも世界的に活躍するピアニストヴァイオリニスト、舞踊家、声楽家、西洋画家、彫刻家がおり、逆に日本人以外の人々による日本文化・スポーツの継承者が現に存在している。現在(2015年1月現在)大相撲横綱三人がモンゴル人であり、柔道家空手家も世界中に存在する。民族独自の芸能・文化と言っても、大いなる時間のうちでは他民族の影響を受け、それらは融合・継承・発展していくものであり、決して固定化されるものではない。ロシア文学の影響を受けた日本人の読者は、本国ロシア人の読者以上にそれを理解しているかもしれない。

 まあ、こういったことを了解した上で、談志が日本人にとってドストエフスキーの作品は“読み物”であって“芸術”にはなり得ないと主張しているのであれば、それはそれで分からないことはない。ロシア正教の伝統の中で育ってきたロシア民衆の信仰、心情を日本人が体感的に理解することは困難であろう。が、同じ十九世紀ロシア人とは言っても、読み書きもできない農奴とロシア語よりもフランス語を正確に話したという貴族とを一括りにはできないだろう。ドストエフスキーなど一度も読んだことのないロシア人がおり、日本人なのにドストエフスキーを生涯をかけて読む者がいる。

 ドストエフスキー文学談志が言う意味でなく“読み物”として読む時代に入っていることは確かだが、まさにそのことがドストエフスキーの“芸術”(本質)から離れていくことにもなっていると言えるだろう。



 

 


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2015-01-21

どうでもいいのだ──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載54)

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──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載54)


清水正


談志のイルージョン


 ドストエフスキーはストラーホフ宛の手紙(一八六九年二月二十六日)で次のように書いている(引用は新潮社版「ドストエフスキー全集」22。1980年2月。江川卓訳に拠る)。


  私は現実というものについて(現実における)独特の見方をしていて、多くの人がほとんどファンタスチックで例外的と呼んでいるものが、私にとってはどうかすると現実的なもののいちばんの本質をなすことになるのです。その現象がありふれたものであることや、それに対する公式的な見方は、私に言わせれば、まだリアリズムではなく、むしろその反対です。ーー新聞のどの号を見ても、きわめて現実的な事実、きわめて異様な事実の報道に接することができます。わが作家たちにとっては、それらがファンタスチックなのです。たとえば作家たちがそれらに関心をそそられないとしても、やはりそれらは現実なのです。なぜといって、それらは事実なのですから。だれがそれらを認め、解明し、書きとめるのでしょう?(中略)だれが事実を見てとり、その深奥をきわめるのでしょう? ツルゲーネフの中編については話す気にもなれません。あれはいったい何事ですか! はたしてファンタスチックな私の『白痴』こそが現実ではないのでしょうか、しかももっともありふれた現実では!(75〜76)


 現実を凝視すれば、その極点の果てに幻想が現れる。なんでも突き詰めれば狂気じみてくる。談志は、その〈狂気〉に突入できずに苛立っている。天空に張られた綱の上でおふざけはできても、綱から落ちてみせることはできない。換言すれば、談志は今一歩というところで狂気の深淵から拒まれている。ここに談志の滑稽な悲喜劇が生じる。

 イルージョンとは別に新規な概念ではない。ゴーゴリの『狂人日記』『鼻』にもドストエフスキーの『分身』にも、カフカの『変身』にもイルージョンはたっぷり含まれている。宮沢賢治の童話などはイルージョンの宝庫である。宮沢賢治の愛読者であった漫画家畑中純の代表作『まんだら屋の良太』にもイルージョンが溢れている。また、つげ義春の『ねじ式』『ゲンセン館主人』、蛭子能収の一連の不条理漫画などにもイルージョンを視ることができる。

 談志歌謡曲や映画だけでなく、ここに取り上げた文芸作品や漫画に触れていれば、もう少し突っ込んだ議論が可能になったのではなかろうかと思う。

 

 


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──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載54)


清水正



 

 


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2015-01-20

どうでもいいのだ──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載53)

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──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載53)


清水正


統括する意識と演技者ピエロ


 『分身』のゴリャートキンに至っては、当初から狂気の壷へと陥った存在であった。彼は小説の幕開けからすでに被害妄想者として登場し、自らの醜悪な分身と出会い(自己像幻視)、結局は自己破綻へと突進してしまう。

談志は自らのピエロ性を十分に自覚している。決して彼はゴリャートキンのように狂気に陥った存在ではない。談志は自らの〈狂気〉を不断に意識し、統括する〈意識〉を保持している。その意味で彼は、自らのピエロ(道化人形)を巧みに操作する操り人形師とも言える。

 もし、このピエロが糸を操る人形師の手を振りきって一本立ちしようとすれば、たちまちその生命力を失うことになる。人形師の巧みな操作なくしてピエロは一時も〈生きる〉ことができない。比喩を変えれば、人形師(統括する意識)から解放されたピエロは狂気の領域へと突進することになる。談志はその誘惑にかられはしたろうが、ついに統括する意識の呪縛から解放されることはなかった。

 談志は〈統括する意識=演出・構成家〉を観客から隠して、〈ピエロ〉(落語家=演技者)に徹することができなかった。むしろ前者と後者のちぐはぐな会話をそのまま観客に晒してしまう。そういった本来、楽屋裏でしか許されないようなことを、高座でやってしまう。これは〈芸〉と言うよりは、一種の〈やけっぱち〉と言ったほうがいい。傲慢と甘えをミックスした〈やけっぱち〉で、それを受け入れる観客も同質の〈やけっぱち〉を抱え込んでいるのだろう。極端な言い方をすれば、演じ手と観客が同胞意識を持って一つの場に集まって〈やけっぱち〉を楽しんでいるということだ。

 

 


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2015-01-19

どうでもいいのだ──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載52)

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──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載52)


清水正


談志の急所

 この本(『談志 名跡問答』 2012年4月 扶桑社)で石原慎太郎談志の思い出を語っているが、その中で三木のり平とのやりとりを紹介している。

  談志の十八番と言えば「芝浜」だろうが、かつて三木のり平さんと高座を聴きに行ったときのこと。寄席をはねてから飲みに出、その場で「芝浜」の出来について、身体性が全然感じられず、「アーティキュレーション(articulation=発声の明瞭度、歯切れ)だけがいい」と率直に言うと、談志は「今日のは出来がよくねえ」と言い訳した。

 「ねえ、のり平さん、どう思いました」と稀代の珍優、名優にふると、彼がボソッと「慎太郎さんの言うの、わかるんだよなあ。談志さん、なんで押しばっかりなのかね。引きがない、間がない」。

  言われてそのひと言で談志がガクンとなってしまった。名人が名人を小太刀で斬り倒したような趣があって、傍目に興味深い瞬間だったが、そのあと談志はすっかり悪酔いしてしまい大変だった。(412)

 三木のり平の指摘は的確で談志落語の急所をさりげなく容赦なく突いている。談志には談志なりの咄の“間”があるのだろうが、三木のり平と同じく、わたしの耳にもそれが“間”とは感じない。前にも指摘したように、談志にとっての観客は他在の他者というよりは、想定された〈他者〉、鏡像としての〈他者〉であり、彼が投げた球は鏡面に当たってはねかえってくる。つまり談志の言葉は限りなく自意識過剰な屈折したピエロのような内的対話と化している。

 ドストエフスキーの読者なら『貧しき人々』のマカール・ジェーヴシキン、『分身』のゴリャートキン、『ポルズンコフ』の半職業的道化師ポルズンコフなどが発する言葉をすぐに想起するだろう。彼らの言葉は内的対話の構造を抱えたまま他在の他者に向けられる。こういう言葉を受け取る側は、発する者以上の当惑を覚える。この当惑を最も簡単に解消するために、ひとは〈狂気〉という判断を下す。

 ワルワーラに去られた後のマカール・ジェーヴシキンはもはや手紙を書く主体にはなり得ない。彼は実存的な対話的原理から頽落して内的対話者(手記の主体)とならざるを得なかった。愛する他者を喪失した者が、依然として〈愛する者〉を烈しく希求するときに内的対話の壷にはまりこむのである。この壷は蜜をたっぷり蓄えた地獄の壷であり、もはや二度と元の現実的な地平へと立ち戻ることはできない。

 

 


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