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雑想ノオト - 良いモノに触れたときの感動は代替不可能だから このページをアンテナに追加 RSSフィード

2017-01-08

中原清一郎『カノン』評

【作者情報】 中原清一郎(なかはら・せいいちろう)

1953年生。元朝日新聞の編集局長。在職中よりノンフィクションを手がける。同社を早期退職後、中原清一郎名義で小説を執筆。『カノン』はその第一作。


【作品情報】 カノン

カノン (河出文庫)

カノン (河出文庫)

ジャンル:小説

初出:「文藝2014年春号」(2014年河出書房新社)、単行本(2014年、河出)、文庫(2016年河出文庫

個人評価:★★☆☆☆(星2つ)


【コメント】

記憶を司ると言われる脳の器官「海馬」。その海馬を生体間で移植し、「肉体」と「人格」を交換することが出来たならば――。言葉にするだけで凄まじいテーマと、何よりオビのお二方(佐藤優氏&中条省平氏)の推薦文に惹かれて、帰省新幹線の往路を使って一気読み。一気読みしたぐらいだから面白かったのかと問われれば確かにそうだったんだが、肩透かしを喰らったことも認めねばならぬ。

58才の男の脳が32才の女の身体に移植されたら・・という究極の「if」がこの小説の原動力であり、それを成立させるために用意された無数のパーツが面白い。小説前半部では、初老を迎える男が、若い女の身体に「入り」、新たな人格を獲得していく過程が描かれる。術後間もなくはシナプスがつながりきっていないから脳に負担なのでゆっくりお休みくださいとか、似非科学もいいところなんだが、それに何故だかリアリティを感じてしまうのは、脳関係以外の部分が非常にしっかりしているということもあるだろう。海馬移植という「if」、つまり現実には起こりえない「たった一つの嘘」を成立させるために、医学的な説明に比重を置くのではなく、それが現実のものとしてある社会とそこに生きる人間を、一定のリアリティを持って描くという点は、この小説が面白く読める大きな理由の一つだと思う。

32才の女の身体へ「入る」主人公は、事前の取り決めにより、女として、母親として生を全うしなければならい。今後、どのような生を送るにしろ、言葉遣いや仕草、化粧のやり方やファッションまで、女性になりきらないといけないという。そうした主人公に対するケアを受け持つ、大学病院チームスタッフが何人もいて、彼を女性にしていく。ジェンダー論者や女形歌舞伎役者による指導、3Dによる動作分析等々、「たった一つの嘘」を成立させるための、数多くの嘘科学(ないしは実在の科学)に、妙な説得力があり面白く読ませる。

海馬を移植して意識や記憶だけ別の身体に入る――これを小説的にどう表現するのか。術後当初は、かつて男だった己の自意識は依然としてそこにあり、女として母親として、肉体の持ち主であった「歌音」を演じているという意識がある。時折、「歌音」であった頃の意識が表面化し、自身でも意図しない言葉を放ったりもする。物語が進んでいくにつれ、かつて男であった自分でもなく、身体の持ち主であった女のものでもない、女性性を身に付けた「自意識」=第三の人格が徐々に統合していく過程に読者は立ち会うことになる。詳細はぜひ実作にあたっていただきたいが、小説の会話表現や地の文の人称など、表現の面でも細かな工夫が散りばめられおり実に見事である。

小説後半部、主人公の自我が落ち着いてからは、母親としての主人公、雑誌編集者としての主人公が話のメインとなり、他者や社会とのかかわりへ物語はシフトしていく。特に息子を中心とした家族との対話・出来事にフォーカスしていくが、このあたりから硬派な医療系SFといったテンションから、子育て奮闘記とでも言うか、急に人情ものっぽい雰囲気になってくる。主人公の「異変」に気づいた職場の同僚によるイジメなど、正直、これ海馬移植関係なくね?という気分になりつつ読み進めていったことはここに記しておこう。元の人格としての「歌音」が登場し、意識を乗っ取り言葉を放つことで、主人公のピンチ(息子の迷子など)を救うというSFチックなギミックをキモに、息子にまつわる連作ドラマじみた展開(迷子編、カンフー教室編等々)を見せたあたりから、この小説に対する当初のイメージは霧散したと言っていい。(佐藤優氏がオビで言及した「神」という言葉から、「パラサイト・イヴ」のような生物創出のイメージを持っており、カノン=「神音」という漢字も勝手に思ってたんだがそうではなかった。)

やがて朽ちていくかつての自分の肉体との対面を経た後のラストシーン、「わたしは、カノン。氷坂カノンよ。」は、それまでの社会的な本名「歌音」ではなく、小説のタイトルでもあるカタカナ表記である「カノン」とすることで、新たな人格を獲得しきったという、物語的にもクライマックスのはずなんだが、時既に遅しとでも言うか、個人的にはすごく残念な感じを抱かずには得なかった。広げた風呂敷(=設定)の壮大さに対して、与えられた物語展開が、家族愛では余りに釣り合わないんじゃないのかという気がする(家族愛の物語が悪いと言っているのではもちろんない)。元は別の人間であった肉体と脳が合体するという、医学的・社会的に見て極めてレアな医療行為(もちろんこれがこの小説の最大の売りであり、一定の小説的リアリティの獲得には成功しており、ひいては読者に対する面白さの提供にもつながっている)を経て生まれた人間に起きるだろう物語を想うと、5才の息子の子育てや夫との関係、職場の人間関係等々、ある種誰にでも起こりうるプライベートな物語が点々と紡がれただけに見えた後半部には、スケールダウンを感じずにはいられなかった。

読書メーターで感想を追ってみると、こっちの家族愛の方に比重を置いて読まれた方もいて、それはそれで人それぞれなんだろうけど、僕個人としては前半部の引き込まれ方が凄かった分、ちょっと肩透かしだったかなぁというのが正直なところである。惜しいという意味で、★★☆☆☆(星2つ)。

2012-08-31

「TARI TARI 第8話」視聴

全体を包む音楽性・人間関係の「希薄さ」


【作品情報】 TARI TARI

TARI TARI 1 [DVD]

TARI TARI 1 [DVD]

ジャンル:アニメ

初出:2012年7月〜、P.A.WORKS

梗概:⇒wikiへGO!(手抜き)wikipedia:TARI TARI

個人的評価:★★★☆☆(星3つ)


【コメント】

超久々(約1年半ぶり)に更新です。何かキーボード叩いてたら最近見てるアニメのレビューが出来上がっていったので、勢いで載せちゃいます。



のっけから規範批評めいていて何だが、とりあえず現状言えることは、この作品を音楽モノとして見たとき、音楽はキャラクターたちが集まるための契機程度にしか働いておらず、真に音楽を愛した人たちの物語には見えない、ということ。音楽・合唱を一生懸命にやるというのが、物語の前面に出ていないことに、個人的な印象で申し訳ないが、非常に不満足感を覚えている。さあこれからみんなで練習だという時に、ピアノ調律されていなかったり、乗馬が気になったりで、音楽に集中できないストーリー展開が続きがちで、何だか肩すかしを喰らったような気持ちになる。原作なしのオリジナルということで、凄く期待感のあったアニメだったのだが。。

キャラたちの絡みも妙に淡く、何とも言えない感じが続いている。音楽を一番に愛するキャラは、母を亡くし一度は音楽を捨てた和奏、駅前でアカペラで一人歌っていた来夏の2人だけで、あとのメンツは友だち付き合いの延長として合唱を行っている、というのが現状。にしては登場人物たちが歌う(という設定の)挿入歌やEDテーマがいきなり上手くて、一瞬感動するんだがやはり違和感を覚える。一体いつの間にそんなに上手く歌えるようになったんだよと。バドミントンとか乗馬とかが一番の人たち(と後何がやりたいのかすらよく分からない帰国子女)が、音楽が好きでたまらない、けれどそれぞれ音楽に苦い経験を持ち、本流での活動(白浜高校声楽部)が出来ない2人に、音楽的な動機は薄いまま付き合う、というのがこのアニメの音楽をめぐる構造である。1クールの3/4まで来たが、これから音楽に目覚めていき、その面白さ・奥深さを共有しながら、人間関係を深めていくという展開には恐らくならないだろう。音楽はおまけ、ということにどうやらなりそうである。

たびたびで恐縮だが、「キラ☆キラ」との比較になるが、かの作品は、音楽を始めた動機としてはごく曖昧だった第二文芸部のメンバーたちが、音楽へのパッションやバンドをやってて楽しいという想いを、演奏技術の成長と共に強めていき、同時に彼らの人間関係の深まりを描いた物語であった。作り手が音楽畑の人たちだった「キラ☆キラ」は、音楽で人と人とが繋がるというドラマツルギーを描いた訳で、そうした作品は、同じく(一応)音楽方面の自分の贔屓目なんだろうが、単に作品を構成するいちパーツとしてしか音楽を扱っていない作品とは、まるで次元の違う面白さを備えたものだと思っている。


昔書いた「キラ☆キラ」レビューはこちら

「キラ☆キラ」プレイ中。千絵姉ルートを終えた所。 - 雑想ノオト - 良いモノに触れたときの感動は代替不可能だから


今回のTARI TARIはどうなんだろう。彼らは「合唱時々バドミントン部」を作って一体何を共有しようとするんだろうか。煮え切らない彼らを見て、教頭ではないが、お前ら何がしたいんだと言いたい気にはなる。その点がすごくフラストレーションで、また「キラ☆キラ」の良さを逆照射してしまう。かつて自分も声楽部に所属し、亡くなった和奏の母親・まひると歌を歌ってきた教頭の過去シーンが何度か挿入されるが、あれも一体どういう意味づけになっているのか。真面目に音楽をやるだけが素晴らしいのではなく、楽しいから音楽をやるというのも必要なことなんだよ(来夏・まひる)、というアンチ教養主義的なメッセージ性に心を動かされているのか。だとしたらそれはそれでアリだとは思うのだが、だからと言って「TARI TARI」における音楽の扱い方が、いまいち明瞭としないことに変わりはない。

そもそも音楽ということを取っ払ってみても、「合唱時々バドミントン部」の5人が目的・目標を共有して、まとまっていき、人間関係を深めていく・・という、部活ものでは王道(だと思う)展開になっていない。キャラクター個々のエピソードはかなり面白いと思うのだが、キャラクター同士がそれを共有できていない。和奏がもう一度音楽をやろうと決意したことに対し、たとえば同じく歌うことが好きな来夏のリアクションは、果たして充分に描かれていたのか(ただし紗羽の乗馬のエピソードでもそうだが、家族間の人間関係はかなり濃く描かれているのが「TARI TARI」の特徴)。もしかして最近のマンガ・アニメラノベなどは、あまりガツガツした人間関係ではなく、こういうサラッとしたスタンスが好まれる傾向にあるんだろうか。その辺は寡聞にして良く分からないが、調査・分析してみる価値はありそうだ。



ここまで書いてきて何だか批判めいた意見ばかりになってしまったけど、それは、オリジナルアニメで音楽モノってだけで個人的な期待値が跳ね上がっているので、その分の反動が出てしまっている故だと思います。「TARI TARI」が好きで好きでたまらない人にはホント申し訳ないですが。残りの4〜5話で、音楽性やら人間関係やらをどうまとめていくのか、しっかりチェックしていきたいなと。(終)

2011-02-13

サークル「蛸壷屋」のけいおん同人誌が神すぎる件

もっとも有名な(?)けいおん同人誌


【作品情報】 「万引きJKけいおん部」「レクイエム5ドリーム」「THAT IS IT」

ジャンル:マンガ同人誌(すべて18禁

初出:C76C77C78

梗概:元HTTメンバーの「その後」を描く。

個人的評価:★★★★★(星5つ)

参考URLネタバレ有):蛸壷屋とは (タコツボヤとは) [単語記事] - ニコニコ大百科


【コメント】

とりあえず「マブラヴ」の時に書いた、エロはおまけ理論を発動させてください。でないと話が前に進みませんので。


エロゲを語る、ということ。 - 雑想ノオト - 良いモノに触れたときの感動は代替不可能だから


しかし何だろうね、この神がかりっぷりは。原作を知っているとは言え、二次創作にここまで心動かされれるというのも珍しい。そしてこの批評性の高さ・・。

まずは何と言っても、原作やアニメであったゆるーい萌え風味が、完全にぶっ壊されている様は驚きである。原作から考えるとあり得ないほどハードなHTTメンバーの「その後」を描きながらも、それが妙なリアリティを保っているから謎だ。AAで有名な律のセリフ、「ありゃー…唯とうとう死んじゃったのか…」(仕事の昼休憩中、ラーメンを啜りながら)が、そのあたりの象徴であろう。

また、同人誌特有のありえねぇエロ要素が加味され、遺憾なことではあるが、これがまたキャラクター達の身体性獲得に一役買っている。想えば原作やアニメでは、そういうのが徹底的に排除されて、純なゆる萌え路線を走っていたのではないか。かの「ONE PIECE」も、恋愛とか性的なコトなんかは意図的に排除されているらしく、友情や熱さが強調される作りになってるんだとか。

また、原作やアニメでは垣間見える程度であった、音楽の本質へ切り込んでいく姿勢が強調されていて、個人的にはツボであった。"天才・平沢唯"と、それに引っ張られていく梓の存在が印象的だった。

結果として、図らずとも「けいおん」が(広義の意味で)脱構築されている。ストーリーだったり、設定だったり、キャラクターの生い立ちだったりといった、「けいおん」の諸要素を一度バラバラにして、作者の妄想をフル活用した改変を行いながら、再度これらの3冊として組み上げられている。ちなみに3冊とも、ベースとなるストーリー・設定は一緒で、それぞれが異なる視点・角度から書き直されたものになっている点も、実に興味深かった。





という訳で以下ネタバレ時間(タイム)。





続きを読む

2011-01-17

「美味しんぼ」を読みながらふと気づいたこと。


いや、このblogの趣旨とはあまり関係ないんだけど、ちょっと思いついたんで。

f:id:shin-11:20110117232523j:image

【左】花咲アキラ

【右】三峯徹

絵の感じとか、何か似てね?

2010-12-11

【祝・映画化】村上春樹「ノルウェイの森」を分析してみた。

3ヶ月以上も放置してしまっている当blogです。故あって、ここ半年ほど小説とかマンガとかの趣味から離れておりまして(別にまったく読んだり見たりしてないってわけじゃないですが)、おそらく今回のエントリー以降も放置の日々は続くかと思われます。

村上春樹の「ノルウェイの森」の映画が本日公開です。長らく春樹ファンを自認していた私も、もちろん見に行きますが、今になって、数年前に執筆した「ノルウェイの森」の分析ノートの存在を思い出しまして、謎の衝動にかられ、こうして久々にエントリーを更新している次第です。当エントリーは、その時(多分5年ぐらい前)に書いたものからの収録・加筆です。


ノルウェイの森 文庫 全2巻 完結セット (講談社文庫)

ノルウェイの森 文庫 全2巻 完結セット (講談社文庫)


1.作者情報と作品内容の時間的一致、および冒頭のシーンから読み取れること

春樹本人

1969年(19歳) 早稲田大学入学

1987年(37歳) 「ノルウェイの森」刊行


ノルウェイの森」の「僕」

1969年(19歳) 大学入学

1987年(37歳) ドイツハンブルグ空港から18年前を思い出す。


春樹のキャリアと小説の中身を照らし合わせるとこうなります。まんま一緒です。春樹自身は否定しているらしいのですが、ふつうに考えると、自分の学生時代の体験をモチーフに物語りますよ、という作者のサインだと思わざるを得ません。とくに「ノルウェイの森」が刊行された1987年当時なら、尚のことだと思います。

で、もう一つ。18年前という、かつてあった(つまり今はもうない)物語である、失った時間を「思い出す」ことで物語られる小説である、というのがこの物語の重要な構造であると思っています。思い出は美化される、というやつです。そしてこれは、「僕」という一人称形式とも相まって、読者を物語世界に引き込む、強力な装置であるといえます。


<第一章の構図>


1987年 ドイツハンブルク空港

37歳 「僕」


  ↓ 18年前 思い出す


1969年 京都・阿美寮

19歳 「僕」  20歳 「直子」


2.作品全体を包む喪失感

よくよく「ノルウェイの森」は、主人公の「喪失感」を描いた物語である、といわれます。このあとも書きますが、それは当たり前の話で、この小説、死だとか別れだとかの展開がかなり多い。で、問題なのが、基本的に「何かを失う」という物語は、ウケるという認識です。それが恋人とかだとより一層で、たとえばちょっと前のセカチュー人気なんかを思い出してみてください。

当時読んだ評論で、「現代小説のレッスン」(石井忠司、講談社現代新書、2005年)というのがあります。このエントリーの元ネタのノートでも言及しているので、ちょっと引用しておきます。


  • まずメランコリーの方が特に理由もなく独立的に存在し、次にそのメランコリーの帳尻を合わせるため、いかにももっともらしい「原因」(直子の死)が事後的にデッチ上げられるのだ(中略)村上春樹の小説の功績とは、まずは世界の何事にも依拠しない純粋なメランコリー=喪失感=罪悪感というものを、十全に書き尽くしたところにこそあるのだと思う。
  • 悩みの材料がまったく存在しなくとも人間は無根拠に=「美学」的に悩む。これは人間が人間である以上、もうどうしようもない。村上春樹の小説は別に何を失ったわけでもない「喪失感」、別に何を目指したわけでもない「挫折感」など、具体的な原因を欠く純粋なメランコリーを見事に形象化したがため、それは人間の「美学」的な本質を突くものであった(後略)

現代小説のレッスン (講談社現代新書)

現代小説のレッスン (講談社現代新書)


正直なところ、今読むと大したことが書いてあるようには思えないのですが、当時はハッとさせられましたね。そういえば村上春樹って、な〜んか独特の気だるさ・暗さがあるよな、と。そしてそれが妙に心地よいという・・。「1Q84」のハッピーエンド(?)に意外性を感じたのを思い出しますが、それだけ初期の春樹作品は、「喪失感」と切っても切れない関係にあったのでしょう。

映画化にあたり、この独特の感じがどう表現されているのか、一番気になるところです。PVを見た感じでは、口当たりのよいスイーツ映画になってしまっている危惧を、感じないでもありません。60〜70年代の「臭さ」(風俗などの時代考証)などはきちんと再現されているのだろうか云々。

3.「ノルウェイの森」を構造分析してみる

1と2というフィルターをはぎとって、物語内容のみを抽出すると、だいたい次のようになるかと思います。


  • 死んだ友人(キズキ)の元カノ(直子)と東京で再会して、エッチまでしちゃうけど、彼女は精神的に不安定で、「僕」と離れ京都の療養所に行って、最後に自殺する。
  • 一方、大学で知り合った女の子(緑)も、両親に愛されなかったというトラウマを抱えていて、「僕」と恋愛関係になる。
  • 直子が自殺した後、直子の寮でのルームメイト(レイコさん)と何故かエッチして、緑とつき合う(<生>の世界に戻る)ことを決意する「僕」。

その間にも、「僕」のルームメイト(突撃隊)は「僕」のもとを突然去り、直子の姉が自殺していたことが語られ、緑の父親は母親と同じく脳腫瘍で死んだり、「僕」の寮での先輩(永沢さん)も退寮し(何年かのち、ドイツ・ボンへ)、その先輩の恋人(ハツミさん)が2年後に自殺したことが語られ・・と、とにかく人が死んだり自殺したり、「僕」から離れていったりする話が連発される。また、直子・緑にかかわらず、どこかしらに病を抱えた人物が非常に多い。

とりあえず、ここから見えてくるキーワードは、

・死 ・病い ・恋愛(セックス) ・別れ

これが「100パーセントの恋愛小説」として読まれている小説の骨子です。当然ながら、映画の方もそういう期待感を持ちながら見る人が多いと思われます。あのPV見ると尚更です。

4.各章のまとめ

各章における、場所、時間、人物、主な出来事をまとめてましたので、これも上げときます。何かオリジナルでサブタイつけてますが、生暖かい目で見ていただけると幸いです。当時はこれでも結構考えて書きました。


第一章 「18年という歳月」


ドイツハンブルグ空港

1987年11月 「僕」(37歳)

⇒18年前を思い出す


京都・阿美寮

1969年秋 「僕」(19歳) 直子(20歳)

⇒阿美寮訪問(1回目)時の記憶


第二章 「『生』のまっただ中における『死』」


東京四谷駅〜駒込駅

1968年春 「僕」(18歳) 直子

⇒直子との再会、あてのない歩行

東京の寮、突撃隊


「僕」と直子の地元

1966年春 「僕」(16歳、高2) 「キズキ」

⇒キズキの自殺。「生は死の対極としてではなく、その一部として存在している。」


第三章 「直子との離別」


東京武蔵野 直子のアパート

1968年1969年4月 「僕」 直子

⇒直子とのセックス(直子の誕生日)と別れ


東京・寮〜新宿

1968年1969年4月 「僕」 永沢

⇒行きずりの女とのセックス

新宿レコード店でアルバイト


*第二章〜第三章の約1年間、「僕」と直子が東京でつき合っていた一番幸せなはずの時期だが、物語の分量としては、それほど充てられていないことに注目。


第四章 「緑との出会い」


東京・大学近くのレストラン〜大塚・小林書店

1969年9月 「僕」(19歳) 緑(19歳)

⇒関西風の見事な手料理、ギターで火事見物、キス

⇒突撃隊、退寮


第五章 「直子からの手紙」


東京・寮

1969年9月〜10月 「僕」


第六章 「阿美寮」


京都・阿美寮

1969年10月の3日間 「僕」 直子 レイコ

⇒直子の肉体的成熟

⇒レイコの長い話

⇒直子の姉のエピソード

⇒牧場へピクニック、直子の(自主規制)


 ↓


東京新宿

「僕」


第七章 「緑2」


東京・御茶の水の病院

1969年10月〜11月 「僕」 緑 緑の父親

⇒父にキウリを食べさせる「僕」

⇒父のメッセージ「ミドリ・キップ・ウエノ・タノム」


第八章 「『キズキ』『直子』『僕』――3人というリフレイン


東京・麻布のレストラン

1969年11月 「僕」 永沢 ハツミ

⇒永沢の内定祝いの会食

⇒ハツミの激高


  ↓


東京渋谷のハツミのアパート

「僕」 ハツミ

ビリヤード、キズキの連想


⇒永沢がドイツへ発って2年後、永沢とハツミの結婚、ハツミの自殺


  ↑

ニューメキシコピッツァハウス

12年か13年後 「僕」

⇒「奇跡のような夕陽」の中で思いかえす


第九章 「緑3」


東京新宿

1969年11月 「僕」 緑

⇒バー「DUG」、SM映画、ディスコ

⇒小林書店へ


第十章 「変化する<生>の世界」


・「僕」、20歳に。緑、小林書店から姉と共に茗荷谷のアパートへ


京都・阿美寮(2回目)

1969年12月 「僕」 直子 レイコ

⇒直子による(自主規制)および(自主規制2) 「これも覚えていられる?」


東京・寮

1970年

⇒永沢、三田のアパートへ

⇒僕、吉祥寺の借家へ


⇒レイコの手紙、直子の病状悪化

⇒美大生の伊東、イタリアン・レストランでのアルバイト


⇒2か月間にわたる緑の拒絶


  ↓


東京日本橋のデパート

1970年6月 「僕」 緑

⇒地下で食事

⇒屋上にて緑の告白

茗荷谷のアパートへ、緑の(自主規制)


・直子と緑の間で揺れる「僕」の心は、章末のレイコからの手紙に収れんされていく。


第十一章 「どこでもない場所のまん中から」


1970年8月、直子の自殺。まるひと月にわたる「僕」の西方への旅


東京吉祥寺、「僕」の借家

1970年10月 「僕」 レイコ

⇒レイコによる直子が死ぬまでの話

⇒直子の「悲しくない」葬式

⇒「僕」とレイコのセックス


  ↓


上野駅

「僕」 レイコ

旭川へ向かうレイコ

⇒緑に電話をかける「僕」


――「僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼び続けていた」 (終)

5.その他雑感(ノート執筆当時)

  • mixi内のどこかのコミュニティの書き込みで読んだ文章に目からウロコ。冒頭の語り起こしに出てくるのは直子であって、そこに緑はいない。「ノルウェイの森」を直子と緑の対比(<死>と<生>の対比)で読むのは常とう手段だが、それ以前に「ノルウェイの森」とは、<直子を失う物語>であったのだ。
  • ちなみに、「僕」はその両方の世界の「まん中」にいるどっちつかずの存在で、レイコさんは<生>の世界から<死>の世界に入るけど、最後また<生>の世界に戻ってくるという、二項対立的な構造が「ノルウェイの森」にはある。
  • ふと思ったが、ageの「君が望む永遠」に構造がクリソツだ。ちょっと内気な女の子と、パッと見明るい感じの2人女の子の間でウジウジする男という構図。そして、内気な方の女の子には、何かしらの「欠落」なり「欠損」が起こるという。

今回の感想的なもの

白状しますが、私、「ノルウェイの森」をおそらく通算10回は再読しています。えぇ。ここ2〜3年はそうでもありませんでしたが、毎年1〜2回は再読(しかもこのようにメモを取りながら必死に精読)するという、何とも香ばしい時期が何年も続いておりました。よくよく考えたら、ここまで何度も読み返した小説なんて他にはありません。まぁ非常に恥ずかしい話ですが。

そんな「ノルウェイの森」が本日映画公開と。まぁ非常にwktkですね。

村上春樹というと、世代や性別はおろか、言語や文化圏を越えて、実に様々な受容のされ方をしている、現役の日本人作家では筆頭の存在かと思います。国内では「1Q84」の大ベストセラーが記憶に新しいですし、フランツ・カフカ賞の受賞や、ノーベル文学賞が受賞が期待されたりと、海外での知名度も相当に高い。海外の大学では現代日本文学のメジャーな作家として、研究対象になっているそうですね。

だがしかし。今回、昔の細かい分析をまとめてみて改めて思いましたが、特にこの「ノルウェイの森」では顕著ですが、そんなに手放しで文学的な価値を認めてもよい作家なんでしょうか。誤解なきよういっておきますが、村上春樹が80年代以降、現在においても、最も重要な作家の一人であることは疑いようもないことです。ただそういうことじゃなくて、「1Q84」がバカ売れしたりしたみたいに、万人に無条件でオススメできる作家じゃあまりないな、ということです。

この間、仕事の取引先の人としゃべってて、村上春樹のどこがそんなに面白いの? みたいな話になってしまい、私、返答に困ってしまいましたよ。何せ、(自主規制)(自主規制2)ですから。まぁそういった現象面のアレな感じ以上に、村上春樹をめぐる、思考のあり方とか、世界観のあり方とかは、やはり一筋縄ではいかないな、という気はずっとしています。

「好きな作家は?」と聞かれて、本当は村上春樹なのに、そう正直に答えるのに、どこか気恥ずかしさを感じる人は大勢いるんじゃないでしょうか。プロフィール欄などでもよく見かけるように、好きな作家を問うことは割と一般的な質問とみなされているようですが、本当は非常に危険な行為だと思いますね。初対面なんかだと特に。その人の精神的な傾向なり嗜好なりをモロに反映してしまうわけですから。

極端な話、仕事とかのオフィシャルな場で、「団鬼六」ですって答える奴がいたらどうでしょうか? まぁ非常識人のレッテルを貼られるか、真正のMかと思われるかのどちらかでしょう。だから、いきなり「好きな作家は?」なんて聞いてくる奴がいたら、そいつは要注意なんですね。「あなたの性癖は?」なんて聞いてくるのと同等の質問をしてるようなもんですから。「好きな作家は?」と聞かれて、何の躊躇いなく「村上春樹です」って答えるやつがいたら見てみたいです。ただ、あんまりマニアックな作家を答えて、相手が「フーン」となってそこで話が終わるのも嫌なんで、最近では恥を忍んで「村上春樹」と答えるようにしていますが。


えー「ノルウェイの森」の構造分析とは、ほとんど関係ない話になってしまいましたが、とりあえず時間もないのでここらで終わりといたします。