Hatena::ブログ(Diary)

shin422の日記

2017-08-26 不動産投資の罠(再掲)

 いわゆる「アベノミクス」の一環として講じられている日本銀行による「異次元金融緩和策に加え、日系米国人ロバート・キヨサキという詐話師によるベストセラー『金持ち父さん、貧乏父さん』(筑摩書房)の影響も間接的に貢献して(それにしても、仏文学に関する学術書や各種学問上の名著を出版している老舗出版社が、このような詐話師の本を出版するとは、世も末だなという感もする)、我が国では数年前から主として「老後の不安」を焚きつけられたサラリーマンによる不動産投資が過熱している。一昨年の冬頃あたりから若干勢いは衰え始めたものの、日本銀行の「マナナス金利」策の影響で不動産事業向け融資を拡大する金融機関が増大し(特に地方銀行の動きが露骨であろう)、物件価格が高騰して投資利回りが悪くなっているにもかかわらず、収益不動産投資による「不労所得」を掲げた不動産会社の術中に多くのサラリーマンがはまり続けている現状が見られる。金融庁もとうとう過熱する不動産投資による予想される悪影響を懸念し、銀行等金融機関に申し入れをするに至っている。

 金融機関の収益不動産投資向けの過剰融資は今なお続いているが(メガバンクは撤退し始めている。せいぜい、りそな銀行がいまだこの方面に力を入れているようだ)、金融庁の業務改善命令をも無視して悪質な不動産会社と結託し、無知なサラリーマン投資家一種の罠にはめ込んでいる実情がある。ここでは、収益不動産をサラリーマン投資家に仲介手数料不要を謳って第三者のための契約による所謂「中間省略」の方法で高額の利益を上乗せして転売してぼろ儲けしている不動産会社と、それと結託する金融機関の悪質な違法行為を紹介しよう。

●主に電話等で都市圏その他地方の不動産業者に連絡をとり、会社の取り決めた基準に合致する物件をできるだけ安く仕入れてくる。転売業者は宅建業者であるから当然に瑕疵担保責任を負うため、数年は持つ程度に「バリューアップ作業」と称して修繕作業をしておく。

●仕入れ値の10%〜15%の利益を上乗せした価格を算定し、かつ「銀行評価済みの物件」と「不動産投資セミナー」等でかき集めた客にアピールするため、銀行の予めの評価を取り付けておく必要があって、既存の空室については満室状態を仮構するなりして、できる限り空室がないような見かけを偽装する。例えば、実際は全室空室であるにもかかわらず、全室満室であるとごまかすために、架空の人間の名義を利用して虚偽の賃貸借契約書を作成して既存の入居者がいるようにみせかけるとともに、現地調査によって満室状態が架空であることが発覚することを恐れて、現地に赴いて部屋にカーテンを取り付けるなど、あたかも入居者が存在するかのような偽装工作を行う。その他にも、金融機関に向けて、当該物件に融資がつくように仕向けるために、物件概要書やレントロールならびに謄本や図面等の他に、例えば屋根の防水加工などの修繕履歴が全くないにもかかわらずあたかも修繕の履歴があるように偽った虚偽の修繕記録等を記した書類も提出する。

●ごく一部の例外を除いて通常、物件価格の2割から3割ほどの自己資金を用意する必要があるにもかかわらず(たいていの金融機関には内規があって、最高でも物件価格の8割〜9割までしか融資できないはずである)、それすら用意できないサラリーマン投資家のために、「ファイナンス・アレンジ」と称して、客のために事実上の「フルローン」になるように、金融機関向けの虚偽の価格を設定した架空の売買契約書を作成して金融機関に提出する。と同時に、購入希望者の客との間では別途異なる「覚書」を取り交わす。この際、「契約書は一通しか作成しないので、二重売買契約には該当しない」とごまかして客を納得させる(「覚書」という名称であろうと、当事者相互債権債務関係が発生する旨の合意をしている以上、二重に契約を締結したと解さざるを得ないことは明らか)。

●この時、金融機関の融資担当者から、稟議書作成のために、物件の賃料設定や客の属性や収入に関する数字の改竄の指示が入ることもある。つまり、金融機関もこの時点でグルであることが理解されよう。ネット利回り等の数字を上げてあたかも収益性の見込める物件であるように見せかけるために賃料の改竄を行うだけでなく、顧客の源泉徴収票の偽造、虚偽の金融資産を証明する資料の作成、場合によっては預金通帳の改竄まで行う。

●金融機関向けの価格と実際売買される価格との差額分については、直接不動産会社から当該物件購入者に対して融資することは明らかに宅建業法47条に抵触するので、関連会社を利用した迂回融資によって、客との間で差額分の金銭消費貸借契約を結び、その上で当該購入者の銀行口座に振り込む。銀行側が客の通帳に自己資金分の残高があることを認識できる状態を作出して、融資を実行させる。その後、不動産会社に客から虚偽の価格分の金銭が支払われる。そうして当該物件の所有権移転手続きと、銀行による担保設定が行わる。その直後、不動産会社と客との間での覚書で当該物件の価格設定を変更し(金融機関は認識していないということになっている)、一度当該不動産会社に支払われた差額分が客に返金され、客は当該不動産会社が迂回融資に利用した関連会社から借入れしていたこの差額分の金銭を返済して一連の取引が完了する。

 

 以上の一連の行為は、少なくとも詐欺罪刑法246条1項)や私文書偽造罪(同法159条)及び宅建業法47条三号違反に該当すると思われるが、問題は、たとえ不注意であったとしても、購入希望者である投資家の客が自身のしらぬ内に「犯罪者」にされてしまっていることなのである。むろん、以上の二重売買契約による融資の実行に金融機関の担当者が加担している場合には、不動産会社と購入客による「欺罔行為」の相手方は直接的には当該担当者であって、金融機関は「欺罔」されていない以上、詐欺の被害者とはいえないとも解釈できるかもしれないが、反対に金融機関の融資担当者のスタンドプレーであって、あくまで銀行としてはそのような違法行為はあずかりしらぬことと強弁すれば、たとえ金融機関が当該客を刑事告訴するなりの手段を選択せずとも、少なくとも当該客への融資を取り消し、融資額の一括返済を求めてくることになるだろう。また、融資担当者のみならず当該金融機関が組織として一連の違法行為を認識していたならば、金融機関のコンプライアンス上重大な問題を抱えているということになる。

 かつて、金融機関に虚偽の情報を申告してオーバーローンの融資を受けたことが後になって発覚し、詐欺の疑いで大阪府警捜査二課によって逮捕された法務省保護観察官がいたが、そのような「潜在的な犯罪者」を量産している不動産会社による違法行為は、到底社会倫理的にも許されるべきことではなく、将来の任意売却の行列、あるいは自己破産者の群れをつくりだす非生産的な社会の「寄生虫」的行為である。投資が理由で自己破産手続きを申し出ても免責される保障はなく、一生借金返済に追い立てられるかもしれない。投資は原則として「自己責任」であるとはいえ、虚偽の情報に踊らされて、いわば「嵌められた」側の一方的な「自己責任」として片づけるわけにはいかないものと思われる。

 いずれにせよ、実際の被害を受けるのは、不注意な投資家である。事後に一連の行為が違法であることを認識し、また自身が「罠にはめられた」と覚ったところで、自らが違法行為にいつの間にやら加担させられてしまっている手前、一方的な被害者であると主張することも憚られ、結局泣き寝入りせざるをえなくさせているところに事の深刻さがある。

 とかく、日本の不動産業界や不動産業界に関わる人材のレベルは概して低いと言われている。「千三つ」の世界と言われるほど詐欺まがいの行為や明らかな違法行為が蔓延し、業界の者はそれが当たり前であるという感覚になるほど麻痺した状態が続いている。遵法意識が著しく希薄な者たちで溢れかえっている。今まで何をやってきたのかわからない「どこの馬の骨」だか不明な者でも慢性的人手不足の業界ゆえに採用され、ほとんど「運頼み」の側面が強い「水商売」の性格もあって、暴利をむさぼることしか考えていない者が残念ながら多いのが実情である(なお信じ難いことではあるが、宅建士の資格すら取得していない、否、何年経っても取得する実力のない者が多数であるのも、現実のことなのである。何も殊更「学歴」にこだわるわけではないが、まともな学校も出ていない、場合によっては以前に詐欺行為を働いていた者すらいる。試しに、調べてみるといい。三菱地所三井不動産等の大手企業は別として、ほとんどの不動産会社の役員は、プロフィールに具体的な学歴・経歴を記していないはずである)。客を騙して得た利益で毎晩の如く豪遊し、常軌を逸した乱痴気騒ぎで周囲の顰蹙を買い、奢侈を極めた海外への社員旅行、贅をつくしたクルーザー等、会社にとって不要な浪費へと消えていくわけである。

 本年4月にも、東京都千代田区に本社をおく不動産会社「株式会社ケースタイルマネジメント」が、東京国税局によって法人税法違反の疑いで刑事告発されたし、最近でも架空経費を計上するなどしていた不動産会社「マーベリッグパートナー」が同じく法人税法違反の疑いで東京地方検察庁告発されたが、不動産投資の過熱ぶりに我が世の春を謳歌している得体のしれぬ不動産会社の場合、さらに大きな規模での違法行為によって利益がもたらされるとともに、多額の脱税行為がより巧妙な仕方で行われているのである。

 元々頭の悪い者が多く集まっているため歴史から学ぼうという姿勢などなく、バブル崩壊の二の舞を演じようとしている。しかし、そのツケを支払わされるのは国民である。金融機関による不動産向け過剰融資は、いずれまた不良債権問題を生む恐れすらある。金融庁が恐れているのも、そうした事態が過熱した不動産投資からもたらされることなのである。

 たとえ金融機関からの低利での融資を受けられるとはいっても、今のように実需に基づかない物件価格の高騰による低い投資利回りしか見込めない状況でワンルームマンションや一棟モノのマンションに投資することは、控えた方が賢明であろうと思われるが、それでもなお不動産投資をしたいというのであれば、よほど眼光紙背に徹して市場分析や投資分析を甘い見通しに基づかずに行って極くわずかしかない良質な物件であるかを吟味すること、そして比較的信頼できる会社(ほとんど皆無に近いが)以外とは関わりをもたないことである。「不動産投資セミナー」をあちこちで開催している会社は多いが、ほとんどは嘘話である。時折、「成功者」と称する個人投資家をゲストに投資へと誘うセミナーも見られるが、常識で考えればわかるように、誰が好んでもうけ話を他人にするのか。たいていは業者からマージンをもらって営業のお先棒を担いでいるに過ぎない。

 不動産会社のホームページだけでなく、「リクナビ」や「マイナビ」などに記載されている当該不動産会社の求人欄にも目を通すことをお勧めしたい。やたらと「稼げる」ことを売り文句にしている会社は、間違いなく暴利をむさぼるために違法行為すら行っている会社であると断言できる。

 それに加えて「帝国データバンク」や「東京商工リサーチ」による評価も、絶対的信頼はもちろんおけないが、貴重な参考材料となるだろう。最低でも55以上の評価がついていない会社、あるいはそもそも情報提供していない会社は論外である。そうすると、なかなか信頼できる不動産投資に関わる会社というものはないということが理解できる。悲しいかな、不動産投資向けの物件を販売する会社の大半は詐欺会社であると思うくらいの覚悟で、不動産投資というものを再考してみるのが賢明な態度ではないかと思われる。

kentokento 2017/09/06 18:09 貸付先がない地方銀行がここ数年、アパート投資のパッケージ業者と組み、ほぼフルローン対応して素人オーナー(主にサラリーマン)を量産している状況を目の当たりにするにつけ、日本発のプチリーマンショックを懸念しています。

なまえ心理療法家なまえ心理療法家 2017/12/10 01:03 貴重な情報ありがとうございます。
ひで〜世の中になってきてますね。

2017-07-27

渡部昇一氏の逝去に際して思いだした事ども

01:18

 今から三月ほど前になるが、4月17日、英語学者で上智大学名誉教授である渡部昇一氏が昇天された。麹町聖イグナチオ教会において、シェークスピア研究の大家であるピーター・ミルワード神父の導きにより追悼ミサが執り行われたという。先ずは御冥福をお祈り申し上げたい。世間では英語学者というよりも、かなり保守的な言論を展開し、専門外の分野での論争等でも知られた評論家としての方で名が通っていたように思われる。その評論の内容から、いくつかの例外は別として(『知的風景の中の女性』からは、カトリック保守派の女性観が感じ取られたが)、渡部氏が学生の頃に岩下壮一神父の『カトリックの信仰』の影響から洗礼を受け、一貫してカトリックの信徒であったというのが信じられないほどなのであるが、単刀直入に言って、僕は渡部昇一氏のイデオロギーにはついていけない点が多々あったというのが正直なところである。そのあまりに極端な主張に立腹して思わず罵詈雑言を以って非難したこともあった。

 亡くなった世界的経済学者森嶋通夫が、『サッチャー時代のイギリス』において渡部氏のサッチャーに対する認識の誤りを手厳しく批判していたように、その過剰なサッチャー賛美には到底同意出来なかったし、『歴史の鉄則』にある租税論も間違いがいくつも見られた。『萬犬虚に吠える』に収録されているロッキード裁判批判や南京事件の認識にも全くついていけなかった。僕は渡部氏のロッキード裁判批判とその後の立花隆氏との論争をチェックするため、「朝日ジャーナル」のバックナンバーをコピーしてすべて追っかけてみたが、渡部氏の法律学に関する知識は、どうしても素人の域を出ず、立花隆氏の批判に真正面から応答していなかった。もっとも、立花氏の立論にも問題があって、コーチャンやクラッターに対して事実上の刑事免責を付与した上での嘱託証人尋問調書の証拠能力は、後に最高裁の決定でも示されている通り、我が国刑事訴訟法には刑事免責制度はないので、これを認めることは反対尋問権を保障した法の趣旨を逸脱することから否定されるべきであって、この点では渡部氏の主張にも一理あったわけである。伝聞証拠であっても刑訴法321条以下の伝聞例外に該当すれば反対尋問が保障されずとも証拠能力がみとめれることももちろんあるわけだが、厳格な要件を満たす限りで認められるはずの伝聞例外を、明文規定なき刑事免責を事実上付与する形で得られた証人尋問調書にまで拡張適用するようなことは許されようはずがない(なお僕は、刑訴法321条1項2号の検察官面前調書に伝聞例外を認める規定は憲法37条違反だという私見も持っているが)。

 南京事件も然り。確かに、中華人民共和国政府が主張する40万人の無辜の市民の虐殺というのは、どう考えても物理的に不可能なことであるが、だからと言ってただの一人も殺していないというのは言い過ぎである。何かにつけてマギー神父の証言を持ち出すが、当時の陸軍上層部の日記を見ても南京でただならぬ出来事が起こったとして陸軍省内部で騒然となった顛末が記録されているわけで、おそらく数百人規模の殺害があったに違いないとの感を抱かないわけにはいかない。もっとも、被害者が本当に無辜の市民であったかは疑問が残るものの、中には便衣兵と間違えられて殺害された者も確率としてありうるので、渡部氏のように主張することはできそうもない。事実、そんな主張をしているアカデミズムで相応の業績が認められている専門の歴史学者はほぼ皆無に近い。中共が反日プロパガンダの一環として誇張された南京事件を喧伝して歴史をいわば恫喝の道具とする様に愛国者として怒りを覚える気持ちはわからぬではないが、その怒りが極論に向かうのはいただけない。氏が強調する「知的正直」とは真っ向から反するはずである。

 こうした反共右翼的イデオローグの役割を果たしてきた側面もある渡部昇一氏であるが、他方で僕が渡部昇一氏に敬意を抱かないわけにはいかない側面も持ちあわせていることもまた事実なのである。渡部氏のビブリオフィアとしての側面は、晩年になって特にメディアを通して注目されていたが、僕は氏の最大のベストセラーであろう『知的生活の方法』を著した頃から既に相当な読書人であったことが推測された。そして、その内容は梅棹忠男『知的生産の技術』よりずっと実用的で中身もあったのである。僕が知る限り、読書論でこれを超える日本で出版された書物は未だないと思える名著である。この書物においては渡部氏は極めて公平な観点を以って書いていることは、日本社会党左派の社会主義協会の理論的指導者で教条的なマルクス主義者であった向坂逸郎についてのエピソードを紹介していることからも理解できる。氏が学生の頃、できる限り書籍代を工面しようと電車賃までけちって神保町や弓町の古書店に歩いて通い詰めたために靴や靴下がボロボロになった話や、大学院生の頃に大学図書館住み込みしていていたエピソードなど、本好きが読んでいてわくわくする話でも楽しましてくれる。稀代のビブルリオフィルの面目躍如は、数千万円もする『カンタベリー物語』の初版本を手に入れるために上智大学を早期退職してその退職金をはたいたというエピソード。推定15万冊にのぼる書物を保管するために関町から荻窪近くの自宅を新築して創設したプライベートライブラリーを目にしたとき、「この人は本当に幸せだなあ」という羨望の念を禁じえなった。渡部氏と同様、稀代の蒐集家であった谷澤永一氏も10万冊を超える書物の所有者であったが、渡部氏と谷澤氏の読書をめぐる対談本は本当に面白い。その政治談議のつまらなさと際立った対照をなしていて、本当に同一人物なのかとの疑問すら出てくるほど。谷澤氏も『雑書放蕩記』や『完本紙つぶて』といった名著を残している。まさに「書痴」とご自身が形容する両者のプライベートライブラリーの書物を巡って、「書痴の楽園」という名の天国で読書連談を交わしてておられるのだろう。

2017-02-12

建国記念の日を祝して

21:48

「雲に聳ゆる高千穂の。

高根おろしに草も木も。

なびきふしけん大御世を。

あふぐ今日こそたのしけれ」。

 昨日は、紀元節すなわち現在の「建国記念の日」という誠にめでたい日であった。西日本日本海側の大寒波による大雪の影響で、奈良橿原神宮も数年ぶりの雪降り積もる紀元祭となるのかと思いきや、幸いにして雪もたまに降る程度にして、紀元祭の挙行の妨げになるものではなかった。

 午前11時から始まる紀元祭の時間に間に合うように、真夜中に東京を出発して数時間。眠気覚ましに真夜中の高速道路軍歌を大音量で流しながら走るわけにもいかなかったが、車内では十代の連中でも耳にしたことがあったりカラオケなどでも歌うことのある「出征兵士を送る歌」やら「ラバウル海軍航空隊」あるいは「麦と兵隊」など有名な軍歌を合唱することもあって、橿原神宮に到着するまでに若干声をからす羽目に。僕のいる団体は、十代、二十代のそれも血の気の多い連中が比較的多い団体ということもあって、途中、交通等規制する公安や交通担当の警察官と一悶着あったが、何とか無事、橿原神宮まで辿り着くことができた。以前も橿原神宮に参拝したことがあったが、事前に悪天候が予想されたためか、例年よりも参拝に来る人数が少なかったように思われる。紀元祭自体は1時間ほどで終了し、直会のための弁当や御神酒などを頂いて、午後は関西の民族派団体と連帯して、「反紀元節」を主張する左翼の集会やデモへの抗議行動に馳せ参じて、帰路につくという忙しい一日であった。

 この日は、建国記念の日を祝賀する立場も反対する立場も様々な式典や集会などを催しており、自称も含め「文化人」「識者」は講演の依頼で大忙しになるようで、最近は「遅れてきた左翼青年」というべきなのか「中年」というべきかは知らぬが、『永続敗戦論』というアジテーションの本で、その方面から重宝されている白井聡も、「反紀元節集会」に講演者として登壇していたと耳にする。もっとも、この人の例の書き物は、ほとんど旧態依然の左翼の「本音」に基づく主張とそう大差ないので、ここで改めて言うべきことは何もないのだが、「左翼的であること」「過激であること」が自己目的化したようなその主張を嬉々として取り上げる左翼系メディアを見るにつけ、増々その凋落ぶりが自ずと露呈されていくことに当該メディア自身が気がついていないというところが救いようがない。

 それにしても、こういう人たちは、何故にかくも「日本嫌い」なのだろうか。その「日本嫌い」ぶりは、かつての丸山真男大塚久雄といった、自ら捏造した架空の「西欧近代」を理想化した上で、その理想的モデルからの距離によって日本社会

や日本人の思惟形式なるものを裁断していった連中の姿に重なる。

 丸山真男が、「日本」を徹底的に呪詛する意図を正面切って展開したと思われる論文「日本の思想」によると、日本においては座標軸となるべき思想的伝統が形成されないまま、近代において「伝統」的とされる思想と「外来」思想が雑居するという、思想が歴史的に構造化されがたい「無構造の構造」という日本特有の「構造」が抽出され、このような「無構造の構造」においては、新たな思想は次々と受容はされはしても、傍らに忘却されていた「過去の伝統」が、突如として「背後から現在のなかにすべりこ」み、ある時ふと「思い出」といった形で噴出する、というのである。

 「周知のように、宣長は日本の儒仏以前の『固有信仰』の思考と感覚を学問的に復元しようとしたのであるが、もともとそこでは、人格神の形にせよ、理とか形相とかいった非人格的な形にせよ、究極の絶対者というものは存しない。・・・この『信仰』にはあらゆる普遍宗教共通する開祖も経典も存しない。・・・『神道』はいわば縦にのっぺらぼうにのびた布筒のように、その時代時代に有力な宗教と『習合』してその教義内容を埋めてきた。この神道の『無限抱擁』性と思想的雑居性が、さきにのべた日本の思想的『伝統』を集約的に表現していることはいうまでもなかろう」。

 ここで丸山が取り出すのは、これまでの丸山の営為とは随分趣きが違うのであるが、前近代的論理としての「日本的なもの」である。公私の分離、個人の内面性の解放と保持、主体的作為という近代性の論理の欠如態として「日本的なもの」を見る視点の発生である。この「日本的なもの」の中核となる「無構造の構造」という論理は、いわゆる「天皇制」国家の「無責任の体系」を生み出す原基と位置づけられるというわけである。

 翻って、『日本政治思想史研究』に収録されている第一論文「近世儒教の発展における徂徠学の特質並にその国学との関連」を見ると、朱子学は自然法則と道徳法則とを連続性の相において考えていたのに対して、荻生徂徠の学問に、そうした朱子学的思惟様式から離脱して自然法則と道徳法則の分離、及び政治的・社会的「公」と個人的・内面的「私」の分離という思惟様式を見出す。その営為には、徂徠の学問に「近代的なもの」の重要な標徴を見る当時の丸山の思考が反映しているわけだが、こうした思考と『日本の思想』収録の諸論文に見られる「日本叩き」の論理に見られる思考との間には明らかに思想的断絶が存する。

 「われわれがこれまで辿つて来た規範と自然の連続的構成の分解過程は、徂徠学に至つて規範(道)の公的=政治的なものへまでの昇華によつて、私的=内面的生活の一切のリゴリズムよりの解放となつて現はれたのである」。

 「抑々この様にして儒教思想の自己分解のなかに近代意識を探ることに一体如何なる現代的価値があるのか、さうした近代的な思惟こそまぎれもなく現在『危機』を叫ばれるゐるところではないのか。現代精神のあらゆる混乱も無秩序も遡つて行けば、そこに源泉が見出されるのではないか。われわれはこの疑問にたいしてかう答へるよりほかない。まさにその通りである。しかしながら問題は近代的思惟の困難性は果たして前近代的なものへの復帰によつて解決されるかといふ点に存する。市民は再び農奴となりえぬごとく、既に内面的な分裂を経た意識はもはや前近代的なそれの素朴な連続を受け入れる事は出来ない」。

 つづく第二論文「近世日本政治思想における『自然』と『作為』」は、第一論文で描かれた私的道徳と「政治的なもの」の分離に続く、「作為の論理」の抽出である。

 「完全に近代化されたゲゼルシャフト的思惟様式に於ては、自由意思の主体としての人間が社会秩序を作為すると構成がすべての個人について認められる。『社会契約説』はその必然的帰結である。しかるに徂徠学では秩序を作為する人格は第一義的に聖人であり、次にそのアナロギーとして一般的支配者である。しかもその聖人は殆ど宗教的絶対者にまで高められてゐる」。

 「この様にして維新の身分的拘束の排除によつて新たに秩序に対する主体的自由を確保するかに見えた人間は、やがて再び巨大なる国家の中に呑み尽され様とする。『作為』の論理が長い忍苦の旅を終つて、いま己れの青春を謳歌しようとしたとき、早くもその行手には荊棘の道が待ち構へてゐた。それは我が国に於て凡そ『近代的なるもの』が等しく辿らねばならぬ運命であつた。徳川時代の思想が決して全封建的ではなかつたとすれば、それと逆に、明治時代は全市民的=近代的な瞬間を一時も持たなかつたのである」。

 『日本の思想』にまで至るこの丸山の思考過程にいかなる断絶の契機があったかは、僕の詳しくしるところではないが(一応僕は、名は東京大学なれど、少なくとも文科系のある部分に関してはその実態として「頭狂」大学なる名称が相応しい大学にて政治思想史を中心に学んできたのだけれども・・・)、丸山真男が「日本よ、死ね!」と藁人形に五寸釘を打ち付けるかのように「日本的なもの」への呪詛の言葉を撒き散らすようになるのは、おそらく昭和20年代後半の、ちょうど我が国がサンフランシスコ講和会議を経て主権回復する前後である。特に「ある自由主義者への手紙」や「日本におけるナショナリズム」あるいは座談会「日本人の道徳」に端的に現れているように思われる。「日本におけるナショナリズム」では、「戦後日本の民主化が高々、国家機構の制度的=法的な変革にとどまつていて、社会構造や国民の生活様式にまで浸透せず、いわんや国民の精神構造の内面的変革には到つていない」とし、「日本人の道徳」では遂に「天皇制」に対する呪い言葉をぶつけるに至るのである。

 「天皇制がモラルの確立を圧殺している。これを倒さなければ絶対に日本人の道徳的自立は完成しない。・・・天皇制の批判は、それが天皇を含めて日本人の人間解放を執拗にはばむ一番非人間的な制度だという点に重点を置くべきだ」。

 まるで「郵便ポストが赤いのも何もかも天皇制が悪い!」と叫んでいるようなものである。丸山に言わせればいまだに前近代的思惟様式を決定づけてもいる「日本的なもの」への批判にとどまることなく、あたかもその責任を天皇の御存在にまで担わせる。のみならず、最後には日本の一般民衆までをも蔑視する差別意識を剥き出しにしていたことについては、国文学者で書誌学者でもあった谷沢永一の『悪魔の思想―進歩的文化人という名の国賊12人』の中で論じられている。もっとも、ここでの谷沢の批判はほとんど「いちゃもん」の類に過ぎない文句が多数を占め、思想研究としては著しく水準が低いやっつけ仕事であるので、とても褒められた仕事ではないことは確かである。『完本紙つぶて―自作自注最終版』や『雑書放蕩記』などの書誌学方面での仕事や特に当時「神様」扱いされていた小林秀雄に対しても遠慮なく手厳しく批判した『大正期の文藝評論』や文献を徹底的に読み込んだ上で引用文をなくして極力地の文に入れ込んだ(ある意味「自由間接話法」を極めた)『文豪たちの大喧嘩―鴎外・逍遥・樗牛』などの仕事は、実証・論証の面からみても極めて優れた仕事であり、昨今見られる実証も論証も糞もない思い付き作文と化している批評と比べてみても(もちろん優れた批評は少数ながら存在する)貴重であるにもかかわらずにである。

 丸山が蛇笏のごとくに嫌った「日本的なもの」への徹底的批判は、最終的には論文「歴史意識の『古層』」となって結実するに至る。僕が肯定的に評価する本居宣長が取り出してみせた日本人の「固有信仰」こそがその原基であるとして捉え返されたのである。この点で、『日本政治思想史研究』において「内面性」の契機を取り出した宣長への肯定的評価が打って変わって、今度は呪いの対象と化したという大転換である。日本の歴史意識の基底に流れつづけていた思惟様式が、『古事記』・『日本書紀』に基づいて、「つぐつぎとなりゆくいきほひ」という「古層」として抽出されたわけである。この論文に対しては、様々な論者が言及し、斎藤環『世界が土曜の夜の夢なら―ヤンキーと精神分析』においても触れられている始末。その読み方は、政治思想史から見れば相当杜撰なものだから、学術的水準には到底達していないいい加減な読み物に過ぎないわけだが、さほどにこの論文が多く論じられている。だが、そこに含意されている時間論がうまく摘出・分析されている論文には中々お目にかからないというのが現実である。いずれにせよ、この論文の含意が、それに関して書かれた論文の量は数多に上るにもかかわらず、きとんと読み解かれたとは思われず、これからの課題であり続ける。

2017-02-04

廣松哲学における「自然」

00:34

 『平家物語』巻九は、主として一の谷の合戦の様子が描かれている。「知章最期」の段は、生田の森の大将軍中納言知盛の心の動きを追っていくことを主旋律として、その知盛の子である知章の最期が物語られてゆく。監物太郎という侍と知盛父子とただ三騎になって、助けの船の見える渚へと落ちていく。結局、助けの船に乗れずに知章も首を打ち取られ、監物太郎も討死し、知盛ただ一人が生き残って名馬にまたがって海を泳がせ、総大将平宗盛の船に命辛々辿り着く。この一の谷で討死した平家一門は、一の谷の大将軍通盛、弟の業盛、小松殿重盛の末子師盛生年十四歳で、経正、清定、清房、経俊、忠度、敦盛、知章である。味方の軍勢に見捨てられて討死したも同然であったという。「落足」の段では、この哀切を滔々と次のような名文で綴っている。

 「いくさ破れにければ、主上をはじめ奉つて、人々みな御船に召して出給ふ心のうちこそ悲しけれ。汐に引かれ、風にしたがひて、紀伊路へおもむく船もあり。芦屋の沖に漕ぎいでて、浪にゆらるる船もあり。あるは須磨より明石の浦伝ひ、泊り定めぬ梶枕、片敷く袖もしほてつつ、おぼろかかすむ春の月、心をくだかぬ人ぞ無き。あるは淡路の瀬戸を漕ぎ通り、絵嶋が磯にただよへば、波路かすかに鳴きわたり、友まよはせる小夜千鳥、これもわが身のたぐひかな」。

 「小宰相身投」では、海上の船で恋しい人の安否を気遣う小宰相のもとに、通盛最期の様子を急ぎ伝えに来た侍がいて、君は今朝、湊河の川下で敵七騎に取り込められて遂には御最期を遂げられたと。小宰相は泣き臥して、もはや伝えに来た侍の言葉が耳に入らない。知らせを受けたのは二月の七日。この日暮れから十三日まで泣き臥したまま決して起きてこなかった。ところが船が屋島に到着せんとする十四日の夜更け、満月にほぼ近い月の光に照らされる海に、小宰相はわが身を投げて沈んでいった。

 「ちつとまどろみたりけるひまに、北の方、やはら舷へ起き出でて、漫々たる海上なれば、いづちを西とは知らねども、月の入るさの山の端を、そなたの空とは思はれけん、しづかに念仏し給へば、沖の白洲に鳴く千鳥、天の戸渡る梶の音、折からあはれやまさりけん、忍び声に念仏百返ばかりとなへ給ひて、なむ西方極楽世界教主、弥陀如来、本願あやまたず浄土へみちびき給ひつつ、あがで別りし妹背の仲らへ、必ず一つ蓮にむかへたまへと、泣く泣くはるかにかきくどき、南無ととなふる声ともに、海にぞ沈み給ひける」。

 小林秀雄は、『無常といふ事』に収録されている「平家物語」という文章の中で、次のように書いている。

「通盛卿の討死を聞いた小宰相は、船の上に打ち臥して泣く。泣いてゐる中に、次第に物事をはつきりと見る様になる。もしや夢ではあるまいかといふ様な様々な惑ひは、涙とともに流れ去り、自殺の決意が目覚める。とともに突然自然が目の前に現れる、常に在り、而も彼女の一度も見た事もない自然が」。

この後すぐに小林は、

「漫々たる海上なれば、いづちを西とは知らないけれども、月の入るさの山の端を」

を引用する。

 ここで小林のいう「自然」とはどのようなものであったのか、我々には想像することぐらいしかできないわけだが、この点に関し、フランス文学者杉本秀太郎が、小林秀雄が小宰相に見させた「自然」とは、ランボーが『地獄の季節』によってあばいた「自然」であり、小林が自作の小説『おふえりあ遺文』でオフェリアに見させている「自然」であり、あるいは『平家納経』の表紙、見返しの随所に描かれている蓮の花や、死して『納経』の料紙に浮かぶ月輪こそが、ここでの「自然」なのである、との面白い指摘を示している。この「自然」とは、いわば謎を無現に吸い込む架空の実体だというのである。

 さて、「自然」というものをどう捉えるべきなのか。もちろん立場や見方によって千差万別であろうが、哲学・思想の歴史を紐解いてみるならば、それこそ千差万別の「自然」に対する捉え方が見られる。

 伝統的には、「自然」という概念に込められている意味とは、人間の主観なり技巧なりといった人為に依らず「それ自体で」そのようなものとしてある現象なり存在者なりといった類である。すなわち、アリストテレスの『形而上学』によれば、「自然」とは、神々や人間のその都度のテクネーに依存することなく、自らの内に生成消滅する原理ないしは原理を有するものである。自らの内に運動の原因を持っているので、他のものに依存することなく存立するものとして考えられた。こうしたアリストテレスの考え方は、その後の「自然」についての捉え方に大きな影響を与えた。

 こうした伝統的な「自然」の捉え方に対して現象学は、志向対象の実在という超越者を措定するのではなく、自然をそれ自体で成立している現象ないし存在者であるように「意味されている」ものとして捉えることとし、「それ自体で成立している」とはどういうことかという問題に立ち返って現象学的分析がなされる。超越論的還元によって見出されたノエマは、「自我」のノエシスという構成的能作に還元されるものの、その「自我」がそれに対して受動的であると受けとられる「前言語的」な「自然」は、「理念の衣」を剥がされた直観のhyletichな基底層として規定される。「自然」というノエマを自我の構成的能作にいったん還元し、そこから明証性を獲得せんとする現象学は、当の「自然」を構成的に根拠づける主観性自体も、生成消滅する「自然」との共通な存在解釈の内に動いていることを見出すというのである。

 

 ハイデガーは、上記のようなフッサールの現象学をさらに進めて、存在一般の意味の解明の途上の「予備的考察」的な側面が際立つ『存在と時間』の中における「基礎的存在論」を展開し、これによれば、意味の了解者は意味世界に自らを投企する者であり、この了解される意味世界の成立は、了解という能作に還元されないので、フッサールの思考の如き「自我」なり「主観」と捉えられるべきではないという。世界を対象として眼前に定立する世界外の「自我」ならぬ了解者による了解は、その者の自己投企を可能ならしめるOffenheitとして捉えられなければならない、と。それゆえハイデガーは「自我」も「主観」も使用せず、存在Seinが自らを開示する場であるところという意味で「現存在Dasein」という用語を使用したわけである。ハイデガーによると、フッサールもそう指摘する通り、物理学における客観的事象としての「自然」は、そのようなものとして理解している現存在の自己投企を忘却したからこそ措定できるという。こうしたVorhandenseinは、現象とは須らく現存在の自己投企を可能にかのうならしめる限りでのみそのようなものとして現象しているに過ぎないにもかかわらず、そのことを忘却しているからこそ可能な一種の錯覚に他ならないわけである。そうしたVorhandenseinとして出会われる世界の手前で我々が生きている世界で出会われる物事は、いずれもZuhandenseinとして見出される。「自然」もそのようなものとして捉えられる。

 ハイデガーの影響を大きく受けた和辻哲郎倫理学においては、『人間の学としての倫理学』の中の「マルクス」の章でのマルクス解釈に反映されている通り、人間の生活乖離した「自然」というものを見ない。そのことが最も現れているテクストが、和辻の主著である『倫理学』である。この書は、「人間存在の歴史的風土的構造を明らかにし、国民的存在の世界史における意義と、その当為とを考察したものである」。和辻は、『倫理学』の下巻の第四章の第二節「人間存在の風土性」において次のように述べている。

 「数へ切れぬ世代の人々が、この国土によつて養はれ、この国土の開発と組織のために働らき、さうしてこの国土の土のなかへ帰つていつた。だからそこには祖先の墓があり、祖先以来耕し続けてきた田畑があり、祖先以来漸次発達してきた灌漑組織がある。それは文字通りに「父祖の国」「祖国」である。人々はそこに深い連帯感を抱かざるを得ない」。

 和辻にとって人間とは、時間的・空間的な構造をもって人倫的組織を形成する存在である。逆に言えば、時間も空間もそういう人倫的組織の刻印がされたものであって、その固有の歴史性や風土性を無視した時間や空間は抽象の結果でしかないということである。

 「歴史とは、国家を形成する統一的な人間共同体が、超国家的場面において自己の統一を自覚するとともに、この統一的な共同存在の独特な個性を規定してゐる過去的内容のうちの主要なるものを、共同の知識として何人も参与し得る客観的公共的な形に表現したものである」。

 「国土の成立は一様に広がつてゐる土地の或る一部分に一定の固有な位置、固有な性格、固有な意義を与へるのである。それによつてこの土地は、他の土地と勝手に取りかへることのできぬもの、この位置、この形態において一定の人間存在と不可分の連関を有するもの、従つてこの人間存在に属せざる人間をそこから排除するもの、として公共的に承認される。このやうな土地の限定が人間のうちに醸し出す構造こそ、風土性の問題にほかならないのである」。

 この和辻の倫理学の根本発想を、こと「自然」の捉え方に関して共有ないしは類似の観念を持っている哲学者として廣松渉が挙げられる。実際、廣松と和辻のマルクス解釈は非常に似た側面があり、廣松自身、東大本郷の倫理学科の、ちょうど死去する一年前の1993年度夏・冬学期の演習にて和辻倫理学を扱っていたことが、廣松渉著作集の第15巻に収録されている「年譜」で確認できる。その廣松であるが、廣松が「自然」をどのように捉えていたかを確認しておくのに最も好都合な著作は、『世界の共同主観的存在構想』と『マルクス主義の地平』及び『物象化論の構図』ではないかと思われる。ここでは『物象化論の構図』における核心となる部分を確認しておきたい。

 廣松渉『物象化論の構図』の第絃呂蓮崋然界の歴史的物象化」と題され、単刀直入に「自然」観の問題に取り組んでいる。まず通俗的なマルクス主義解釈における「自然」観を確認し、これを批判することから始まっている。

 「マルクス主義の自然観といえば、『所詮は19世紀自然科学的世界像をmutatis mutandis(適当な変更を加えて)追認したものにすぎない』という暗黙の了解が人口に膾炙されているように見受けられる。斯くの如き既成観念が拡延した経緯には自称・他称の“マルクス主義者”たちの論著が与っていることも否めない。某々国の官許マルクス主義教程ないしその義疏のごときは、戯画に堕した“弁証法”プロクルステスのベッドに截り合わせてはあるが、内実的には古典物理学的自然像の一変種という印象を賦えたとしても、蓋し無理からぬものがある」。

 廣松は、この文章にも反映されている通り、俗流唯物論と化した主流派のマルクス主義解釈の枠組みでは、所詮は古典物理学的世界像の一変種でしかなく、その中における「自然」の捉え方は当然い誤っているということを言いたいわけである。さらに続けよう。

 「翻って惟えば、しかし、マルクス・エンゲルスの場合、ヘーゲルの弁証法的な自然哲学との関係は暫くおくとしても、前世紀の中葉、まさにドイツの読書界を風靡したいわゆる俗流唯物論(これこそ自然科学的唯物論の一典型にほかならない)との厳しい対決を通して理論的構築がおこなわれている。この一事に鑑みても、マルクス・エンゲルスが自然科学的世界像を安直に追認したとは考え難い筈である。現に彼らは、近代哲学的世界了解の超克、新しい哲学的世界観の模索を公然と標榜したフォイエルバッハの提言を承けており、思想形成史上の経緯からいっても科学主義的Objektivismusの世界像(およびこれと双対をなす人間主義Subjektivismus)の地平を先駆的に踰越すべき問題状況下におかれていた。筆者が顕揚したい所以のものもこの案件に懸っているのであるが、マルクス・エンゲルスの原像に就こうとするかぎり、いわゆる科学的実在論の構図を誣いる既成観念は、この際、抜本的に革めらるべきであると考える」。

 確かにマルクスは、1841年の学位論文デモクリトスエピクロスの自然哲学との差異』に見られるように、若い頃から「自然」の問題に関心を抱き続けていた。マルクス・エンゲルスによる1845年の『聖家族』には次のような表現がある。

 「ヘーゲル哲学のうちには三つの要素がある。すなわち、第一スピノザの実体、第二にフィヒテ自己意識、第三に両者の統一物である絶対精神である。第一の要素は人間から切り離して形而上学的に改作された自然であり、第二のものは自然から切り離して形而上学的に改作された精神であり、第三のものは、これら両者の形而上学的に改作された統一であり、現実の人間、現実の人類である」。

 そして、自然と人間との真の統一という問題意識をヘーゲル左派のフォイエルバッハやブルーノ・バウアーから継承しつつ、新たな自然観・人間観ひいては新しい世界観の地平を開かんとしてして書かれた第二の共著『ドイツ・イデオロギー』には、次のようにマルクス・エンゲルスは述べる。

 「フォイエルバッハは、彼をとりまいていいる感性的世界は決して永遠の昔から直接無媒介的に存在している恒常的に自己同一的な事物なのではなく、産業と社会状態の所産であるということをみない」。

 自然界とは、決して事物の真の本質を看取する高次の哲学的直観のみに与えられるような、あるいは物理学者などに眼にしか開示されないような自存的な実体的対象界ではないというのである。フォイエルバッハが選好する「最も単純な“感性的確知”の対象でさえ、社会的発展、産業ならびに商業交通によってのみはじめて彼に与えられるのである」。

 「事物が現実に如何にありそれは如何にして生起したものであるかに即して事物を捉えるわれわれの観方においては、意味深長な哲学的諸問題は経験的な一事実に解消する。例えば、人間と自然との関係についての重大問題、かの大評判の“人間と自然との統一性”なるものは、産業の場面で昔から厳存していたものであり、産業の発展の高低に応じて時代ごとに別様なあり方で厳存してきたということを洞見すればおのずと氷解する」。

 ここで論じられていることは単純に自然界であるといえども人間の営為によって変様された所産であると言っているわけではないということである。

 「歴史においてはどの段階にあっても、或る物質的な成果、生産諸力の一総体、歴史的に創造された対自然ならびに個人相互間の一関係が見出される。これは、各世代に先行世代から伝授されるものであるが、このものはなるほど一面では新しい世代によって変様されるとはいえ、他面では当の世代に対してそれ固有の生活諸条件を指定し、この世代に一定の発展、或る特殊な性格を賦与しもするということ、こうして人間が環況を作るのと同様、環況が人間を作るわけである」。

 廣松は、こうしたマルクス・エンゲルスの認識を捉え、“歴史内存在”ともいうべき存在の仕方を説明する。

 「この“歴史内存在”というべき在り方にあっては、自然的与件に対する人間の関係は、第一次的には、対象認識というテオレーティッシュな関係ではなく、物質的生活の関心に根差したプラグマティッシュ・プラクティッシュな関与であり、そこではまた、汝をはじめ他者との関係は、第一次的には他我としての認知といったスタティックなAnerkennungではなく、物質的生活の場での分業的協働という役割に編制されたペルソナ的な関係である」。

 マルクス・エンゲルスにとって現実の感性的自然界は、「産業と社会状態の生産物であり、しかもそれが歴史的な生産物であるという意味で、諸世代の全系列の活動の成果なのである。この活動、次々と進展する感性的な労働と創造、この生産こそが現に実存している全感性界の基礎なのである。尤も、この際、外的自然の先在性は残るし、史上はじめて登場した最初の人間には当てはまらない。がしかし、こういう区別だては、人間と自然とを区々別々のものとして考察するかぎりでしか意味をなさず、人間の歴史に先行するこの自然なるものは、最近誕生したばかりの二、三のオーストラリア珊瑚島の上ならいざしらず、もはやどこにも存在しない代物である」という。

 こうしたマルクス・エンゲルスの考えを廣松は、次のように整理している。

 「われわれは、『自然』といえども歴史的現実態においては既に、“人為”であるという前掲の提題や、自然を以って人間の非有機的身体と規定する発想(因みに、マルクスは後年の『経済学批判要綱』においても、労働の非有機的主体ないし非有機的諸条件としての自然を云々している)、これが自然界なるものを地表的規模でしか勘案していないかどうかは後段に委ね、マルクス・エンゲルスとしては、まずは『自然界』を人類の歴史的生活との即自対自的な統一性の相で捉えようとしているということ、このGruncverfassungを如上からあらためて念頭に納めねばなるまい。この際、謂うところの統一の媒介環が前項でみておいた通り、かの物質的生活の生産の場、対自然的・間主体的な実践的協働の場にほかならない」。

 もちろん、こうした主張に対しては、人類誕生以後の、あるいはせいぜいが地球表面上の事象に限局される立論ではないかとの反論があることを廣松は予め想定している。廣松は、エンゲルスに即して次のように言う。

 「・・・この議論カントの物自体Ding an sichに対する認識論的批判としてどこまで妥当するか、これには異見の余地がありうるであろうし、人工的に創出できるようになればDing an sichがDing fur unsに転ずるという論点は、エンゲルス自身、認識論的にはこれで完結すると考えていたわけではあるまい。彼は『物質そのものals solcheというのは純粋な思惟の創造物であり、純粋な抽象である。・・・物質そのものは感性的に実存するものではない。自然科学が単元的物質そのものを探求すべく志すとき・・・自然科学の企図していることは、サクランやリンゴの代わりに、果物そのもの・・・を見出そうと努めるのと同断である』と考えており、彼としては、このように『物質そのもの』は実在せずと言い、あくまでDing fur unsに定位しようとする。この際。『われわれにとっての事物』というのは、しかし、単なる『認識された事物』という次元においてではなく、人間の歴史的実践(基底的にはかの「生産活動」)によって開示されたDa-und Soseinの謂いであって、開示というのは、しかも、即物的な対象的創出ないし変成そのことの謂いではなく、an und fur sich wersen-bei sich seinの現成である。この故に、歴史的に現成した自然というのは、“地表的な環境世界に局限されるのではないか”との疑念はしりぞけられるのであって、人間が間主体的な協働的対象活動zusammenwirkkende gegenstaendliche Taetigkeitにおいて、“内・存在”する『自然』は、それが歴史的に開示されるかぎり、いわゆる大宇宙的な規模に及びうる次第である」とし、結論として、「マルクス・エンゲルスは、いわゆる社会的・文化的な形象が物象化versachlichenされて現前するかぎりで、自然の歴史化と併せて歴史の自然化をも問題にしていくのであるが、総じてこの世界は、ハイデガー流のZuhandenseinでこそなけれ、歴史的に被媒介的な共同的生世界Mit-lebensweltである。マルクス・エンゲルスは、原基的には、このような相で『自然』を観ずる」と締めくくっている。

 マルクス・エンゲルスは、「われわれは唯一つの学、歴史の学しか知らない。歴史は二つの側面から考察され、自然の歴史と人間の歴史とに区分されうるが、しかし両側面は切り離すことができない。人間が生存するかぎり、自然の歴史と社会の歴史とは相互に制約し合う」として、自然と社会との統一的な「歴史」のWissenschaftの構想を打ち立てたものの、結局実現には至らなかった。「自然化された歴史」と「歴史化された自然」という二契機のうち、前者に関しては一定の体系的著述を残したが後者に関しては立ち入った論述を展開しなかったというのが廣松のマルクス・エンゲルス評価である。廣松は、彼らの意図を勘案しつつ、かつ独自の拡大された物象化論をひっさげて「自然」の問題を論述したのであった。

事柄の全部面を対自化するためには、次のごときありうべき借間に仮託すると便利である。『ドイツ・イデオロギー』では、人間の生産活動が『感性界(つまり、見たり聞いたり触れたり、感覚的認知の対象となる現実的世界)全体の基礎』であると言われており、『感性界は産業と社会状態の生産物である』『感性界は歴史的生産物である』とまで断定されているが、しかし、人間の対象変容的活動が実地に及ぶのは地球表面の限られた一部だけであり、大宇宙的自然は人間の存在や活動とは殆んど無関係に自存するのではないか?また、人間による“自然改造”が地表的部分でおこなわれるとはいっても、それは皮相的変化たるにすぎず、“真の実在たる原子”といったレヴェルでみれば、産業や社会状態には関わりなく、独立自存するのではないか?もしそうだとすれば、『自然の歴史と人間の歴史とは切り離すことができない』と称して『唯一つの学』たる『歴史の学』を構想するのは、そもそも失当ではないのか?この可能的反問に答えるには、存在論的・認識論的な次元に立ち入って論考することを必要とするが、マルクスもエンゲルスも、この次元にわたる主題的な論述は書遺していない。とはいえ、われわれは彼らが書遺している断片的な言説を手掛かりにして、彼らがもし右の反問に直面したとした場合、おおよそどのような線で回答をおこなったであろうかを推察することはできる。ここでは無論、この作業を周到に試みる段ではないが、大旨を簡略に述べてみよう。読者は、先の引用文中に『物理学者や化学者の眼にした開示されない秘密』云々とあったことを憶えておられるであろう。マルクス・エンゲルスの整理に従えば、フォイエルバッハは『直観』というとき、二重の相で考えている。その一つは、“肉眼”に明白な相での自然的事物を看取する普通の日常的直観であり、もう一つは、“真の本質”相での事物を看取する高次の学問的直観である。後者が嚮に謂う『物理学者や化学者の眼』に当たるものであり、フォイエルバッハとしては、この学問的直観の方を日常的直観よりも上位に置いている。このことが予備知識として念頭に置かれねばならない。さて、件の“反問”にあっては、まさに、“事物の『真の本質』相を看取する高次の学問的直観”、“物理学者や化学者の眼”に開示される相での自然が問題にされている。この相での自然ひいては事物一般こそが、通念では、客観的実在相そのものであり、肉眼に明白な相での自然は“見掛”にすぎないものと遇されるのが普通である。これに対して、マルクス・エンゲルスは、両者の優劣関係を単純に逆転させるわけでは決してないが、謂うところの“学問的な眼”そのものが歴史的・社会的な形成物なのであること、従って、この“眼”で“看取”された“客観的実在相”なるものも歴史的・社会的に相対的なものであること、この旨を指摘しようとする。人は、ここで、更に反問して言うかもしれない。歴史的・社会的に相対的な“客観的な”実在相なるもの、その都度の時代と社会における“学問的な直観”に開示される“自然”なるものは、自然そのものではなく、自然についての認識像にすぎないのではないか?認識像としての自然像はなるほど歴史的・社会的に相対的であり、『産業と社会状態の生産物』と言われうるにしても、自然的実在そのものは人間の存在や活動とは無関係に自存するのではないか?云々。旧来の認識論は、『自然そのもの』と『自然像』とを峻別してきた。これにはしかるべき理由があることであり、両者を単純に混同するようなことは許されない。だが、『自然そのもの』と称されているところのものの実情は何か?それは、なるほど“肉眼に明白な相での自然”ではない。だが、それは結局のところ、今日における“学問的な直観に開示された相での自然”にほかならないのではないか?それは、つまり、今日における『物理学者や化学者の直観』に開示された“学問的な自然像”に帰一しはしないか?なるほど、この学問的自然像とは別に“客観的自然そのもの”を想定することは論理上可能であろう。そして、現にそれを想定するのが近代認識論の常套でもある。だがしかし、具体的な“学問的自然像”を離れては、その“客観的自然そのもの”なる概念は実質的に空虚ではないのか?実際問題としては、その都度の時代・社会・文化圏において、“真実相”であると“公認”されているかぎりでの“学問的自然像”、これが事実上の客観的“自然そのもの”にほかならないのではないか?自然像とか世界像とか言うと、『対象−内容−作用』という近代認識論の三項図式のもとでは主観に内在的なな心像であるかのように扱われてしまうが、学問的自然像と呼ばれるものは、決して文字通りに“頭の中”にあるものではなく、まさしく人々の外部にある大自然そのものと別物ではないのである。この意味での『大自然』つまり『物理学者や化学者の眼に開示される自然』、これは人間の活動によって実地に直接的に変化するものでこそなけれ、やはり、歴史的・社会的に相対的な、歴史的所産なのである。マルクス・エンゲルスは、この構制を少なくとも即自的には把えていたが故に『感性的世界をそれを形成しつつある諸個人の<結合された>総体的生動的な感性的活動として把握する』立場を自己のものとし、『自然の歴史、すなわち、いわゆる自然科学』という言い方をも敢えてなし、『自然の歴史と人間の歴史とは切り離すことはできない』と言って、『唯一つの学』としての『歴史の学』を構想しえたのだと忖度される。読者のうちには、ここで反って次のように推測されるむきを生じるかもしれない。それは、いわゆる“学問的直観”に開示される自然なるものはイデオローギッシュな第二次的構築物であり、『肉眼に明白な相での自然』こそが真実在である、とマルクス・エンゲルスは考えていたのではないかという推測である。結論から先に言えば、この推測は正鵠を失している。『肉眼に明白な相での自然』つまり『感覚的な現認相』もまた、マルクスの考えでは、既にして、イデオローギッシュたることを免れない。『ブリュメール十八日』(1852年)の援用が許されるならば、マルクスは『感覚や幻想や思考様式』などをも『社会的な生存諸条件にもとづいて、特有の仕方で形成される』ところの『上部構造』に算入しており、実証主義者の流儀で『感覚』だけはニュートラルな超歴史的に妥当する終局的な与件であるとするような発想は断じて採っていないのである。『肉眼に明白な相での自然』、人々が日常的に関わっている直接的な対境的自然は、人々の対象変容的な活動によって実地に歴史化されているだけでなく、その『開示され方』においても間接的に歴史化されている。総じて、自存的な相で現前する自然界なるものは、『学問的直観に開示される相』であれ、『肉眼に明白な相』であれ、実際には『諸個人の<結合された>総体的生動的感性活動』の物象化に俟って現成している『歴史化された自然』なのである」。

 引用が長くはなったが、マルクス・エンゲルスの「自然」観として廣松渉によって推論された結論ではある。が、廣松も断っていると通り、相対性理論量子力学といった20世紀物理学の二大理論のもたらす知見は当然踏まえられていない。特に我々のこれまでの世界観・宇宙観を根底的に揺り動かすことになる量子宇宙論の諸成果を知らないマルクス・エンゲルスそして廣松。その廣松渉死去から20年で、そしてライプニッツモナドロジー』から300年経った年に、むしろ廣島=マルクスとは真逆の、それもライプニッツの路線を徹底させた結果として生み出された最も極端な数学実在論ともいうべうべき見解を披露した理論物理学者デグマークのOur mathematical Universeが世に出たことを、幽明境を異にした廣松はどのように受け止めたであろうか。

心理療法家心理療法家 2017/12/09 01:31 マルクスの自然観は別に近代自然科学とは関係ないので量子力学や相対性理論がどんなでも、何も関係ありませんよ。

2017-02-03

柄谷行人再評価

03:11

 「奇妙で馬鹿げた学説を流行させたり主張したりするには、曖昧でわかりにくく、意味のはっきりしない言葉をふんだんに用いて周りを固めるに若くはない。しかしながら、そうして出来上がる巣窟は、正々堂々とした戦士の要塞というよりも、山賊の住む洞窟か狐の住処にそっくりになってしまう。そこに逃げ込んだ者を追い出すのが難しいのは、その場所が持っている強さのためではなく、周りを囲む茨や棘、薮の暗がりのせいである。というのも、誤謬は元々人間の知性と相容れないので、不条理なものを擁護しうるのは、曖昧さしかないのである」。

 上の文言は、哲学者ジョン・ロックの言葉である。同様なことは、わが伊藤仁斎も『童子問』で強調しているのである。

「大抵詞直く理明らかに知り易く記し易き者は必ず正理なり。詞艱に理遠く知り難く記し難き者は必ず邪説なり」。

「卑きときは則ち自から実なり。高きときは則ち必ず虚なり。故に学問は卑近を厭うこと無し。卑近を忽にする者は道を識る者に非ず。故に知る凡そ事皆當に諸れを近き求むべくして遠きに求むべからず。遠きに求むるときは則ち中らず。学者必ず自ら其の道の卑近を恥じて敢えて高論奇行を為して以て世に高ぶる」。

儒者の学は最も闇昧を忌む。須く是れ明白端的、白日に十字街頭に在つて事を作すが若くにして一毫も人を瞞き得ずして方に可なるべし」。

 文芸批評家として世に出た柄谷行人は、久しく文芸批評をものしてはおらず、その仕事は「文芸批評家」というより、「批評家」もしくは「理論家」と形容した方が相応しいわけだが、これまでの仕事を通覧すると、乱暴に言って三つの時期に(あるいは四つの時期に)分けられるのではないかと思われる。「意識と自然」や傑作である「マクベス論」そして数多の漱石論や『マルクスその可能性の中心』、『日本近代文学の起源』に代表される初期。『内省と遡行』や『言語・数・貨幣』あるいは『探究』といった、「形式化」やら「ゲーデル問題」とやらに憑りつかれていた中期。『トランスクリティークカントとマルクス』や『世界史の構造』に代表される後期。

 僕は、初期の柄谷の仕事は本当に面白い仕事をしていると評価しているが、何度か言っている通り、中期の仕事はほとんど評価できない。「自己言及パラドクス」やら「ゲーデルが云々」やらというのは、わざわざ数学者に家庭教師してもらってまで数学を勉強していた作家の大岡昇平が『成城だより』で「インチキ」であると指摘していたように、後に「心の哲学」やその他言語哲学の研究で知られ、またロジシャンのハオ・ワンによる長大なゲーデル伝である『ゲーデル再考』の翻訳者の一人でもある篤実な研究者の土屋俊が小編の論文で暗に批判し、また『「知」の欺瞞』以後に出された『アナロジーの罠−フランス現代思想批判』にてコレージュ・ド・フランス教授で科学哲学者のジャック・ブーブレスがゲーデルの証明を社会や共同体の問題にまでに拡張して濫用しまくっているレギス・ドブレに対して全面批判している内容と同様の批判が、この時期の柄谷にも丸々あてはまる(アラン・バディウは、集合論に関して似たようなことをやっているわけだ。まるで、日本の何某が集合論を振り回して「数理神学」でございとやってるようなものである。この種の傾向は、集合論というわけではないにせよ、ジャック・ラカンミッシェル・セールにも見られる悪弊であろう。社会学者でもジャン・ボードリヤールブルーノ・ラトゥールもその手の連中のお仲間であるだろう)。

 ロジックトポロジーの初歩的な知識を、しかも一知半解なままにまるで魔法の如意棒の如く振り回し、はっきり言って「調子に乗って」いた姿は、読者をも赤面せしめるほどの醜悪なものであった。それを浅田彰蓮實重彦もおだてるものだし、また思想的に似通っていたというか、一種の「党派的な」立場から森毅や倉田令二朗がその誤り正すどころか、ともすれば容認するかのような言を吐くものだから(森毅も倉田令二朗も、よき「教師」ではあったと思うが、数学者としての業績はほぼ皆無に近い。今の時代なら数学者としてアカポスにはありつけなかったであろう。但し、ご両人の名誉のために一言しておくと、森毅の『位相のこころ』や倉田令二朗の「数学基礎論」シリーズは名著だと思う。もっとも、現在ではもっといい「教科書」はあるけどね)、本人は「お墨付きをもらっている」とばかりにますます増長していった。柄谷自身は、ジャック・デリダやボール・ド・マンに影響されて、だが彼らのようにはせずに専ら抽象化・形式化して論じたいという野心を抱いていたに違いない。その志はわからぬではないが、抽象体系を言語や人間あるいは社会の問題にパラフレーズして論じるためには、想像を絶するような手続きが事前に用意されていなければならないはずである。ほとんど「無謀」というべき企てだったのである。

 しかも推察されよう数学の知識はというと、相当「お寒い」有り様であった。それは『群像』や『現代思想』などの狭い日本の商業誌の中だけで通用した戯言の類であって、よしんば米国イエール大学などで開陳していたとしても、それは日本文学科やフランス文学科などの連中の前だけであって、哲学科の連中が誰一人として来ない場でなされていたという意味では、事情はあまり変わりない。もし相当に自信があったというなら、その主張をジョン・アーマンやらローレンス・スクラーやらデイヴィッド・アルバートやらジェレミー・バターフィードやらといった科学哲学者の面前でやってみればよかったわけである。欧米の科学哲学者は日本と違って、哲学ではもちろんのこと理論物理学や数学でもPh.Dを取得している者が結構いるわけだから、僕でもわかるような「インチキ」に対して容赦なき袋叩きが待っていたであろう。

 この時期は、柄谷のみならず多くの思想に携わる者たちが「熱病」にうなされていた。東大への任用をめぐる「中沢新一問題」も、その『雪片曲線論』などで書かれている数学の知識が杜撰極まることを指摘する声もあって騒動となり、また東大駒場内部の教授陣らの内部対立もあって、結局中沢新一の東大教養学部助教授就任はお流れになり、当時東大教養学部教授であった西部邁は駒場を去り、中沢は、著名な刑事訴訟法学者であった渥美東洋らが仕切る中央大学総合政策学部に職を得ることになった。もっとも、中沢新一の著書は、そうした「くわせ」的な著作も目立つものの、目の付け所は決して悪くはなく、『森のバロック』や『精霊の王』などに見られるように、大風呂敷路を広げて壮大な構想を描く能力には秀でており、戦前ならさしづめ「帝国国策遂行要領」執筆を任せてみたくなるような人物である。学者というより、北一輝のような神がかりの在野の思想家というに相応しい。なお、『野生の科学』も、その言わんとしていることは理解できるものの、何の前提もなくいきなり凄まじく抽象的なホモロジー代数を持ち出して論じるなど「ファッショナブル・ナンセンス」を繰り返しているのは、いただけない。レーニン論で世に出た若手の政治思想研究者の白井聡は、どこかでこの『野生の科学』を推していたが、明らかにどうかしている。もっとも白井の著書『「物質」の蜂起を目指して−レーニン、力の思想』は、中沢新一の著作、主として『はじまりのレーニン』や『緑の資本論』の後半の<モノ>論に影響されている、否、基本的なアイディアをそこから調達していることが見え見えであるので、そういう評価になるのもむべなるかなといったところかも知れない。

 また、社会学の分野においてもある種の「数理的」な意匠を凝らした研究が出されたことも注目すべき現象である。例えば、その博士学位論文であるらしい大澤真幸『行為の代数学』は、スペンサー・ブラウンの奇妙な「数学」を使って怪しげな立論を展開していたし、宮台真司ゲーム理論を使わなくても十分論じられる内容であるにもかかわらず、わざわざゲーム理論を振り回して論じた『権力の予期理論』も典型例である。宮台は、その後はこのような研究から離れたが、大澤は今も『量子の社会哲学』などという珍妙な著作を著すなどしている。渡辺慧の『時』の復刊にあたって、前書きを書いていて、いかに渡辺の時間論から影響を受けたかを得々と語っているものの、一体どこをどう読んだら『量子の社会哲学』などが書けるのか、その論理がめちゃくちゃなのである。渡辺慧は紛れもなく世界的な物理学者であるが、大澤の『量子の社会哲学』は、その渡辺慧の日本語で出版された『時』や『時間の歴史』または『時間と人間』などの著作のみならず、英語や仏語で書かれた渡辺の専門論文を読み込んだ上で書かれたものだとはとても思えないような杜撰極まる「トンでも本」であった。あまり著作を量産するのも粗製濫造となりかねないという典型例だろう。女子学生とのスキャンダルが原因で京都大学総合人間学部、同大学院人間環境学研究科を辞めざるを得なかった後なので、兎にも角にも書きまくる必要に迫られていたのかも知れないが、それにしても事の真相は結局うやむやにされて今日に至っている(ちなみに、こうした大学教員は有名人でも結構いるもので、若手憲法学者の中でも凄くいい論文を書いていた東大法学部の蟻川恒正教授も痴漢行為で検挙されて東大を辞めざるを得なかったし、京大筒井清忠セクハラ騒動が原因で京大を辞職する羽目となった。とはいえ、結局真相はうやむやのままである)。こうした80年代から90年代前半の「浮ついた時代」の雰囲気が彼らの著作に何とはなしに影響していたのではないだろうか。

 こうした時代の「熱病」から覚め、柄谷は「ファッショナブル・ナンセンス」の路線からまともな道に軌道修正することになった。その第一歩目が『トランスクリティーク』である。もちろん、まだ「ゲーデル問題」やら「変換規則の同一性」云々という思考の名残が見られないわけではない。後期ウィトゲンシュタイン問題として、「教えるー学ぶ」関係の背後にマルクスの「売るー買う」関係を重ねて読み込む中期の『探究』から離陸して、カントの読解を通してマルクスを読み直していく作業が、この『トランスクリティーク』のモチーフである。カントの超越論的な「垂直的」なものと、マルクスの「交通」の横断性といった「水平的」なものを重ねる試み。そこで問われていたことの一つは、フーコーが近代的主体の特質として提示した「経験的主体と超越論的主体との二重体」の問題である。柄谷がそこで言わんとしたことは、こうした経験的なものと超越論的なもの、すなわちオブジェクトレヴェルとメタレヴェルの垂直的関係は、その実、横断的なトランスヴァーサルな関係あってこそなのだということであって、ある意味、ドゥルーズのカント批判とも重なる面が見られるのである。また柄谷はそこに宇野弘蔵の原理論に見られるようなヘーゲル的循環の論理には還元されない歴史における偶然的所与性を認めることこそがマルクス的唯物論なのだと論じるのである。これは後に熊野純彦が『マルクス資本論の思考』でも指摘してたことだし、アルチュセール歴史認識もおそらくそうだったに違いないわけである。

 その後、柄谷は本格的に<世界>との直接的対決に乗り出す。政治的意見はまるで異なる者であるが、『世界史の構造』に見られるその思考には鬼気迫る強度が感じ取られ、何度も言うようにその主張の内容には賛同し難いものがあるものの、「普遍宗教」を通して<普遍>を垣間見ようとせんとする孤高の思想家の姿を見るにつけ、尊敬と畏怖の念を感じないわけにはいかない。間違いなく、今の柄谷行人は、現代日本から出立した偉大な思想家であることだけは確かなことであるように思われる。