Hatena::ブログ(Diary)

shin422の日記

2012-01-20

「なかお」さんへの返答&おすすめの書籍

01:11

 御題は二つ。一つは、かなり前の日記にコメントを寄せてくださった「なかお」さんへの返答。もう一つは、ドゥルーズの『差異と反復』とドゥルーズ/ガタリの『千のプラトー』を読むに当たって直接その読解に資するわけではないものの、その欠陥の認識も含め間接的には役立つであろう、基本的な数学の知識を学べる古典的な書籍についての紹介。

(1)「なかお」さんへの返答

 前置きを省略させていただき、早速本題に入ることをお許しください。

 お尋ねの件ですが、僕がここで述べたかったことは、解除後の対第三者効につき、これを解除前のように民法545条1項ただし書を適用するのではなく、もっぱら民法177条の対抗関係ないしは対抗関係類似の関係として具体的事案を処理することが何の解決にもならないと申し上げたのではなく、契約解除効として直接効果説を採用するという大前提に立脚するならば、解除後の対第三者効についての通説の地位にある先の理論構成を基礎づけることになる復帰的物権変動論は、こと論理的整合性の点で辻褄が合わないということを申し上げたかったわけです。 実務上、具体的事案を解決するのに何ら差し障りはない理論構成であっても、当該理論構成の内容を仔細に検討すれば、論理的整合性の点で問題含みの理論はいくらか見られます。僕の関心は(といっても現在の僕は関心が薄れているのですが・・・笑)、実務上問題ない理論構成であれば事足れりということではなく、たとえ問題なく運用されている理論であっても、理論構成内部に整合性がとれないと解される点があれば、それを指摘しておくことにあります。

 例えば、民法570条の瑕疵担保責任の法的性質をめぐる解釈論におけるいわゆる「法定責任説」(債権法分野の大改正によって、もはや維持できなくなるかもしれませんが)の依って立つ前提を維持しながら、同時に民法95条の法律行為の要素の錯誤の解釈論における動機錯誤の処理につき動機表示構成を採ることは明らかに矛盾すると思いますし、民事訴訟法における訴訟物理論に関しても、実務が維持している「旧訴訟物理論」(むしろ「旧実体法説」という表現の方が相応しいと思われますが)も処分権主義との関係で必ずしも整合性がとれるとは思われませんし。ですので、これら一々の理論構成が実務において何ら差し障りが生じないように運用されておらず、実務上問題を抱え込まざるを得ないとまで主張しているわけではありません。ですが、もし、誤解されたのであれば、それは僕の表現の不味さに起因すると思われますので、この点につき平に御容赦くだされば幸いに存じます。

 僕が主張した矛盾は、日記に既にある通りですが、誤解のないよう敷衍しておきます。

釈迦に説法」ということになろうかと恐縮しておりますが、基本的なところから確認していくことにします。解除の効果につき、理論上、大きく二つに大別されることはご案内のことと存じます。一つ目が直接効果説に基づく説明で、二つ目が間接効果説に基づく説明です(もちろん「折衷説」が存在します。これは解除の遡及効は認めない点では間接効果説類似ですが、未履行債務については非遡及的消滅として債務の消滅を認める点で間接効果説と袂を分かつ見解ですが、修正案として提出された見解なので、理論構成の大枠についての学説の対立点の核心を第三の立場から見るのには好便であるとしても、理論構成の論理的整合性を云為する上では、対立が先鋭化している両説を中心に取り上げておきます)。

 直接効果説は、解除により契約に基づく全ての効力は遡及的に消滅するとの大前提に立脚して、解除の効果をめぐる諸々の論点につき説明しようとします。対して間接効果説は、解除によって契約は遡及的に消滅することはなく、単に契約当事者間に原状回復関係が発生するに過ぎないと説明します。既履行債務については原状回復のための準契約的返還請求権が発生するでしょうし、逆に未履行債務については履行拒絶の抗弁権が認められるにとどまりましょう。

 ここで、僕自身日記に書いた難点の一つを要約するなら、すなわち、契約解除に伴う契約の効力の遡及的消滅と復帰的物権変動の非両立性という簡略化された表現になるでしょうか。民法177条が想定する典型的な二重譲渡関係にはなっていない。物権変動は当初からなかったものとされるという建前があるのだから。もちろん、我妻栄はこの矛盾には気がついていたのだと思います。では、どう矛盾を糊塗したのかというと(そこが折衷説の出番になるのではないかもしれませんが)、我妻栄『民法講義』では、確か履行利益賠償を基礎づける限度で契約関係が存続するとしていたかと記憶しています。履行利益賠償を基礎づける限度かそうでないかで契約関係の遡及的消滅か契約関係存続かが結せられるというのです。なぜ履行利益賠償事由の有無で契約関係の存否が決まるのでしょう。話が「アベコベ」であって、辻褄が合わないと言うべきではないでしょうか。この点につき御了解いただけるものと思います。

 少しズレますが、ついでに債務不履行解除後の当事者関係の話に拡大してみます。次のような事態を想定しましょうか。甲と乙との間で100万円の壺の売買契約が成立したとします(甲が買主、乙が売主)。乙は新しいこの100万円の壺を引き渡さず、50万円相当の骨董の壺を甲に引き渡したとします。買主の甲はこれに気づき当該契約の解除をするという事案を考えてみるのです。ここで、何らかの事情により甲に引き渡された壺が滅失したとしましょう。

 解除権行使の前後に先ず振り分けて整理します。解除権行使前においては、滅失が甲の過失による場合、民法548条1項により解除権は消滅するでしょうし、逆に滅失につき甲の過失が認められないのなら、解除権は消滅しないということになろうかと思われます。

 では、解除権行使後はどうなるでしょうか。甲乙双方に過失がなく不能になった場合の処理について考えます。原状回復関係についても危険負担規定の適用があるとの解釈を採れば、目的物返還義務に関する債権者である契約不履行者たる乙が滅失につき無過失のときは民法536条1項により、甲の目的物返還義務も乙の代金返還義務もともに消滅し、解除の理由となった50万円の損失は結果的に甲が負担することになってしまいます。 対して、原状回復関係につき危険負担規定の適用がないとの解釈を採れば、乙が無過失のときでも原状回復義務は存続し、乙の価額賠償権と甲の代金債権との相殺が問題となるでしょうし、逆に過失がある場合には、甲乙双方無過失の場合は甲乙双方の原状回復義務に対価的均衡を前提しえないので、民法548条1項の趣旨により、甲は価額賠償義務を負わないとの結論になってしまいましょう。結論として、乙に過失があるならば、結論は変わらないが、乙が無過失であるならば必ずしもそうならず、仮に相殺を認めて対価的均衡を図るとしても、今度は乙の価額賠償権の整合性ある法律構成をどう考えればよいのか次に疑問が生じてきます。

 これも解除の直接効果説に基づく契約の遡及的消滅と債務不履行の損害賠償請求との関係如何についての難点をどう整合させて説明するのかにかかっています。我妻栄の見解は、先に記したように無理やり説明しようとしてあのようなアドホックな辻褄合わせの理論構成によって乗り越えようとしたのだ、と僕には思えたわけです。

 コメントありがとうございました。

(2)おすすめの書籍

 元々デカルト研究者であり、ドゥルーズの哲学についての著論文をものする小泉義之は、かつて『差異と反復』は解析学に基づいて書かれており、『千のプラトー』は代数学に基づいて書かれている、と言っていた。

 もっとも、ドゥルーズの『差異と反復』で使用される微分に関する記述には、夙に指摘されている通り、ところどころ明らかな誤りが散見され、事実、冪と累乗を混同しているのではないかと思われる節が見受けられるのもその一例なのであるが、僕としては、たとえ誤りが多数存することは確かだとしても、日常言語ではある種の「人間主義的」手垢にまみれているがゆえに表現できないと考えたドゥルーズが、徹底して「非人間主義的」な表現を求めて、より抽象的で普遍的な数学の概念に賭けて思考しようとしたことを、ドゥルーズ自身普遍数学の理念が再興されたあの17世紀のスピノザライプニッツの研究者でもある点を鑑みれば、その志の点で共感しないわけにはいかないのである。20世紀の哲学において有力な運動を形成した現象学にしても、あるいは英米圏を中心に日本の哲学界も一時は席捲しつつあるとの観があった分析哲学にしても、個々の哲学者で面白い者はいるし、決して無視できない業績を打ち立てていることは確かだとしても、どうも全体としてみた場合、「せせこましい」というか「干からびた」という感じがして、中々のめり込むまではない至らないというのが正直な感想なのである。

 とはいえ、再度言うが、数学の概念の使用の仕方に「いい加減さ」があることは否定しがたく、この点でソーカル事件が起こるのも必然だったと言えるだろう(もっとも、ソーカルは、この点についての批判を超えて、ー否、最終的には科学に対する相対主義的な見方全体を一まとめにして葬り去ろうとする意図の方が実は強かったのだと思われるがー、ほとんど素朴実在論擁護ではないかと見紛う主張をするに至っては、むしろソーカルの批判は的外れであろうと思われる)。

 そこで、ドゥルーズの2つの書の読解に直接資するわけではないが(多少は役立つはずであろうけど)、その批判的読解に間接的にでも資するかもしれない文科系でも知っておいた方がよい知識を比較的簡単に得られる書籍を紹介したいと思う。

 大学の理科系の初学年なら絶対にやることになる線形代数微積分は必須として(教科書はいやというほど出版されている)、やはり群論微分方程式について基礎的な知識が求められると思う。

 そこで、とりわけ群論について、最新の洗練された仕方で整理された教科書ではなく、むしろ多少古臭い書かれ方をしている、それでいながら依然として燦然と輝く古典的名著を読んだ方がいいと思い、それに相応しい古典的な名著を紹介しておきたい。

 線形常微分方程式を群論的に扱ったのはリーマンである。リーマンの扱った群は、リーの扱った連続群ではなく、微分方程式の定義域のつながりを示すのに使われる不連続なモノドロミー群であって、微分方程式の解の多価性を表現する。解けない微分方程式があった場合、リーマンは3つの特異点が存在する場合に解が超幾何級数で記述できる場合を扱っている。ここは『差異と反復』の特に第四章の批判的読解に資するはずである。ただ、リーマンの論文はものすごく洗練されているので、わかりづらいと感じる人もいるかもしれない。

 話は逸れたが、紹介したい古典的な名著は以下の通り。

ポントリャーギン『連続群論(上)』。いわずと知れた名著の中の名著。群の定義や性質を手っ取り早く知りたければ、冒頭20頁ぐらい読めばいいと思う。群論の概念を多用する人がよく見受けられるが、正確な理解をしている人もいれば、いい加減な理解しかしていないままに多用している人もいるので、せめてポントリャーギン『連続群論』の上巻の最初の部分でもいいから読むべきだろう。

 リーは、単位元の近傍だけを考えるという局所的なものであったが、群は強い一意性を持っているので、その主要な性質は単位元の近傍で定まってしまうので、幸運にも結果的に、いくつかの実数と複素数パラメータとする変換群を考察しその作用を微分することにより、無限小変換を導入し連続変換群の構造がこの無限小変換の間の交換関係によって定まることを発見できたわけであるが、これを元にフォン・ノイマンは、局所コンパクト位相群に左右不変の法則の存在を証明したハールの定理を利用して、位相群が位相多様体ならばリー群になるか、というヒルベルト第5問題をコンパクト群に対しても肯定的に解決した。この一連の仕事にポントリャーギンのこの仕事も位置づけられる。さらに、後のブルバキ数学原論』へと導いていくという画期的な業績なのである(あくまで素人の理解ですけどね)。


 次にアルティンガロア理論』。アルティンの本は名著といわれて久しい。今後もその評価は変わらないものと思われる。もっとも、僕自身はガロア理論を勉強するのには使用しなかった。足立恒雄『ガロア理論講義』で勉強したというのが正直なところなのである。というのも、アルティンのこの書は、無限次元拡大までフォローができていないという点、グロタンディークによるガロア理論の一般化から見たら、アルティンの書は、単に線形代数化して構成しているだけの古典的方法で記述されているばかりであまり刺激的ではないという点が存するからである。

 ついでにSGAにあるグロタンディークによるガロア理論の一般化の試みが抽象化を徹底しているかということを見ると、門外漢ながらグロタンディークの「化け物」具合がうかがい知れてくるというもの。

 グロタンディークによるガロア理論の一般化の核心と思われるアイディアを僕なりに簡略に整理するとこうなるだろう。すなわち先ず、

(1)可換体K上の有限エタール代数は体Kの有限次分離拡大有限個の環としての直積であること

(2)有限エタール代数Aの連結を直積に分解しないこと

という命題を前提とすることから始めて、それが

(3)Aが可換体であることと同値であること

を証明していくという筋書き。最終的に、代数基本群の理論をスキームのガロア理論として再構成する。

 他方、モチーフの理論とは、方程式の根を0次元多様体とした上で、非特異射影代数多様体全体のなすカテゴリーVarの対称性ユニバーサルコホモロジー理論によって記述していく。

 とにかくアルティンの著書はちくま学芸文庫にも収録されて入手しやすいので、ぜひご購入を!(残念ながら『連続群論』は絶版だけどね。図書館に行けばたいてい所蔵されていると思いますよ)。

ではでは。

なかおなかお 2012/01/23 09:52 わざわざご回答いただいたようで感謝します。大変有り難うございます。

さて,おっしゃることはよくわかるのですが,私がお伺いしたいのは,では,どのように考えるべきか,ということです。

民法は相対的ですから,理論的整合性の追及は,究極的には不能です。いわゆる直接効果説といってみたところで,第三者を保護する法文自体が論理矛盾です。

よって,法理論上,事件解決上,ではいかなる理論がよりましかということが問題となるわけで,矛盾は百も承知,我妻博士をはじめ,皆それを求めているものと考えます。私が,実務上問題が解決されている,というのはこの意味です。

以上まとめますが,我妻博士の理論が何の解決にもならない,とおっしゃるためには,それを超えてより整合的で,かつより事件解決に資する理論を所持する必要があると,私は考えます。

なかおなかお 2012/01/23 10:47 >ここで、僕自身日記に書いた難点の一つを要約するなら、すなわち、契約解除に伴う契約の効力の遡及的消滅と復帰的物権変動の非両立性という簡略化された表現になるでしょうか。民法177条が想定する典型的な二重譲渡関係にはなっていない。物権変動は当初からなかったものとされるという建前があるのだから。


以上についてですが,解除によって契約効が遡及的に消滅するといっても,これは法律的な擬制で,事実として関係性がなかったわけではないのですからそれは仕方ありません。

しかしご存知のとおり,Bを基点として,解除したのに登記を戻さないAと,第三者であるCは,フィフティーフィフティーに考えうる利益をもっているから,登記で決するのが妥当な解決であろうというのがまずある。

そして,登記で決する場面は177条だというところから,「物件変動があったと類似の法律関係」と言っている。

物件変動があったのだから,登記で決すべし,と言っているのではないですね。

解除の性質がいわゆる直接効果説だ,間接効果説だ,というのが先にあるのではありませんね。当該法文に関係して発生する法律関係を安定して円滑に処理するためにどうするのか,という問題が先にあって,その理論の総体をどのように名付けるのかということは後から来る問題ではないでしょうか。

私は,解除後の第三者の問題を,「177条類似の法律関係に見立てる理論」というのは,「解除に遡及効があるとする理論」とそう矛盾するものではないと考えます。

なかおなかお 2012/01/23 11:12 解除によって所有権はAに復帰し,AはBに対して物権的登記請求権を持つ。
対してCはBに対して,債権的登記請求権を持つ。
解除によって,BとCとの間の債権契約は消滅するわけではありません。

これは,BがAに売却後,登記未了の間に,BがCに売却したケース(他人物売買,二重譲渡,177条)とほぼ同様の法律関係ではないでしょうか。

AはBに対して物件的登記請求権を持ちますし,CはBに対して,債権的登記請求権を持ちます。

shin422shin422 2012/01/24 00:30  再びのコメントありがとうございます。何だか、デカルト『省察』にある「反論と答弁」みたいな様相になってきましたね。大袈裟な表現かもしれませんが(笑)。お寄せになったコメントを反論として読ませてもらいますと、僕としましては承服しかねる点がいくつか見受けられますので、「答弁」という形で返答させていただきます。

 再度申し上げます通り、「実務上の問題がない」ということに関しましては、日記を書いた頃(大学三年時)は特にほとんど関心はなく、もっぱら法理論の整合性に目が向いていたといっていいかもしれません。まあ、今もほとんど変わることはありませんが。理論上の整合性がとれていると言い難いながらも、実務上何ら支障なく運用されている解釈は、例えば先述した通り、民事訴訟法の解釈論でかつて華々しく論戦がたたかわされた訴訟物理論について、実務では旧実体法説が通用していることを筆頭にいくつも見られるわけです。実務上問題がないからと言って法理論としての整合性はある程度蔑ろにされて構わないという立場には、僕は賛同できません(「なかお」さんもそこまでの主張はしておられないことと忖度します)。況してや、法理論上の不整合性の指摘が代替案を伴った仕方でないと許されないとの立場には全く賛同できません。

それはさておき、反論を個別に見ていくことにしましょう。「なかお」さんは、論理的整合性を追求するならば、民法545条1項本文と同項但書の関係すらも矛盾の関係ということになってしまう、と仰ります。しかしながら、同条同項の本文と但書とでは矛盾の関係には立ちません。なぜならは、但書は本文の原則に対して一般的に制限を加えて適用領域を限定する機能を果たすので、制限を加えられた領域とそうでない領域の内包が既に異なるわけですから、それ自体が論理矛盾しているとは言えません。これは論理学的に見て当たり前の話でしょう。
 それから、民法の解釈は対当事者、対第三者等との関係で相対的に解決が図られるというのは全くそのとおりですが、相対的解決を図ることと法理論内部で矛盾関係にあることとは別の話です。例えば、民法94条2項あるいは96条3項の第三者との関係で相対的な解決が図られることを許容しても、論理的不整合を来たしているとは直ちには言えません。予め対当事者間関係、対第三者間関係とカテゴリー分けして処理できるとの前提を置けば済む話です。ところが、同じ当事者間に、あるいは同じ第三者間において、ある結論を導き出すために取られた前提となる命題の否定命題を前提として推論することは許されません。

 次に、解除による契約の遡及的消滅と復帰的物権変動とは相容れない、との僕が主張に対して、「なかお」さんは不整合はないと仰ります。しかしながら、この点も僕の考えとは異なります。「なかお」さんは、契約の遡及的消滅はあくまで法律上の擬制にすぎず、事実上の関係がなかったことまで意味するわけではない、ということを仰ります。この点については僕も同意します。しかし、だからといって復帰的物権変動と整合できるということまで含意しません。擬制であろうとなかろうと、議論の帰趨には何ら関わりません。問題は、擬制であれ何であれ、ひとたびその前提をとると「みなした」のなら、同時に当該前提を否定する命題を前提とする推論は許容されないという理論内部での論理的な整合性です。すなわち、契約が最初から存在しなかったものと「みなす」という評価をしておきながら、他方で債権者に履行利益賠償を認めて契約目的の利益状態を損害賠償の形で許容することは、契約が最初から存在しなかったものとみなすという前提をとりつつ、契約は最初から存在しなかったものみなすわけではないという否定の前提をとることを含意することになり矛盾します。履行利益賠償は契約の存在を当然に含意するものだからです。この件につき法学部在籍時に某民法学者に質問したことがありますが、矛盾を認めざるを得ない旨答えていました。遡及的構成をとりつつ損害賠償を許容するには純理論的に見た場合、信頼利益賠償しか帰結しないだろうと。

 僕の見解(といっても、たかだか学部で齧った程度でしかないので、たかが知れていますが・・・)は、遡及的構成は採れないという立場です。では、いわゆる間接効果説に立つのかと問われれば、答えは否です。なぜならば、これは夙に指摘されている通り、間接効果説においては解除は、既に給付されたものについての返還請求権を発生させる制度であって、この返還請求権の行使を通じて既履行給付分の返還がされた結果として、間接的に、契約が効力を失うのと同様の結果がもたらされる、すなわち、解除は、返還請求権を通じて契約の失効へと間接的に作用するに過ぎないと解するところ、未履行給付については解除をしたからといって契約が消滅するのではないから、履行請求権は依然として消滅しはしない、という帰結を導いてしまうからです。もちろん、間接効果説の説明としては、未履行給付については先述した通り、履行拒絶の抗弁権が発生するという仕方でこの不都合を回避しようと図りますが、抗弁権不行使時に生じる不都合を回避できないという点で採用するわけにはいかないと考えます。ついで折衷説についても既履行給付については新たな原状回復義務を生じさせる一方、未履行給付については将来にむかってのみ契約を消滅させる制度と捉えているところ、正当化の論理が結果の妥当性しかないので、法理論としては失格だと考えます。
 むしろ、原契約が変容すると解する学説がましだろうと思われます。これは、解除により原契約関係は契約からの離脱を実効たらしめるために本来履行すべきであった債務内容を含めて原状回復へと向けた内容の清算過程へとむかう債権関係に転換されると解する説です。既履行給付に関する原状回復は清算関係であり、未履行債務からの解放という効果は、原契約変容による清算関係の一環として位置づける。解除されても原因となった契約が遡及的に消滅しないため、遡及的構成と違って「法律上の原因」に基づいた給付です。したがって、民法545条1項本文に規定された原状回復請求権は、不当利得返還請求権とは位置づけられません。あくまで、解除の意思表示の結果として、「法律上の原因」に基づいた既履行給付を含めて清算過程に取り込むことを明記した規定として解釈されます。そうすると、545条3項の損害賠償については以下のように捉えることができるでしょう。すなわち、解除は債務不履行の結果として契約の拘束力を維持する利益が脱落することを理由として解除権者に契約からの離脱を認めるものである、と。債務不履行による契約解除および契約関係の清算と債務不履行による履行利益賠償は論理的に併存可能になり、545条1項と同条3項を整合的に理解することができるというわけです。
 なお、545条1項但書の趣旨をそこから捉え返すと、同条にいう「第三者」を原状回復関係に取り込まず、この者との関係では契約に基づく権利変動が存続している状態を仮定してその法的地位を確保するものと解し、例えば、AとBとの契約が解除される前にBからCが目的物の所有権を譲り受けたという場合には、Cから見てA、B、Cの関係は相次譲渡として構成され、Cとの関係ではBからAへの復帰的物権変動を考慮する必要はありません。よって、二重物権変動の対抗関係ないしは二重物権変動対抗関係類似の関係と構成するのは失当であると考えます。

なかおなかお 2012/01/24 12:53 度々お付き合い有り難うございます。大変お忙しいことと想像されますが,お時間を賜り感謝します。ご迷惑でしょうからもうそろそろ引き上げますが,あと少しだけお願いします(笑)。

逐一引用させていただくと非常に長くなりますので,要点だけお伝えします。

1 法理論不整合の指摘が代替案を伴った仕方でしか許されない,ということは法的には当然ありません。思想上の問題とお考えください。我妻博士の理論が矛盾に矛盾を重ねており何の解決にもならないという文章を見つけましたので,少し気になっただけです。博士は当然様々な理論を検討され,結論を提示されているだろうと考える故です。

2 法文と法文の間の論理的整合,対当事者関係,対第三者関係の論理的整合は問わないのに,法理論内での論理的整合のみ徹底すべしとする理論的根拠及び法理論という言葉の定義と射程がよくわかりませんが,これは同意してもかまいません。

3 履行利益賠償に言及しておられますが,545の3は,「損害賠償の請求を妨げず」と規定しています。解除によって契約関係は消滅する。が,しかし,損害賠償の請求は「妨げない」わけですから,賠償の範囲はこの規定の解釈如何の問題ではないでしょうか。

4 貴説について
(1) まずもって,契約内容が変容するという解釈は,法文の「解除」という日本語と相容れるのでしょうか。また変容とは何でしょうか。債権の発生でも消滅でもない,新たな変容という理論は,民法体系のどこから導かれるのでしょうか。
(2) 例えば事例におけるBが原状回復義務を履行しない場合,契約関係はいつまでも永続するのでしょうか。これはおよそ契約関係を解消するということを意味するであろう「解除」という日本語からは違和感があります。
(3) Bが解除前に目的物から多大な法定果実を収受している場合,この取扱いはどうなりますか。
(4) 未履行債務からの開放という効果は,法文のどこから導き出されるのでしょうか。
(5) 解除後ですが,現状回復義務という法律上の規定によるBからAへの物権変動と,BからCへの契約による物権変動は,177条の問題として登記で決することで宜しいでしょうか。

shin422shin422 2012/01/25 00:37  コメントありがとうございます。やはり、「なかお」さんと僕とでは考え方に隔たりがありますので、三度の答弁をさせていただきたいと思います。もちろん、考え方に隔たりがあることは悪いことでも何でもなく(むしろ一々について同じことぐらい気色悪いものはないですからね)、いいことだとすら思っています。日本法と離れてしばらく経ちますので、思い出すいい契機ともなっており、「なかお」さんには感謝しているというのが偽らざる気持ちです。

 まず、法理論上の整合性と、対当事者間・対第三者間とを相対的に別異に扱うことを許容するかしないかということとは違うという僕の主張について、どうもご納得いただけてないようなので、再度確認しておきたいと思います。

 民法の解釈において対当事者間と対第三者間において相対的に解決することが許容されることを解釈の上で大前提として了解されているならば、当然別異に扱うことは許されるし、現にそのように解釈することが許されているわけです。ここには直接論理的整合性が問われることはありません。しかし、一貫した結論として統一されねばならないので、それゆえ相対的解決は許容されないとの前提が仮にとられているならば、逆に、別異に扱うことはこの前提に抵触することになるので、不整合を来たすということになります。相対的に解決することが許容されるのは、まさに民法の解釈上相対的に扱うことが許容されているという前提が共有されているからにほかなりません。もし、許容されないとの前提に立脚すれば、逆の結論に至りましょう。したがってこれは規約(convention)の問題に還元されます。
 他方、契約がはじめからなかったものとみなすという前提に立つ遡及的構成に則りつつ、契約がはじめからなかったものとみなさないとの前提を含意せざるを得ない理論構成を採ることは、前提を(P∧¬P)としてしまっているので端的におかしいということであり、このことはPがどのような命題であれ結論は左右されません。そしてこれは規約に還元することはできません。規約自体が既に矛盾となってしまうからです。したがって、上の相対的解決を許容しながら理論内部の整合性を云為するのがおかしいとの反論は、端的に言ってlogical fallacyでしかありません。

 
 次に原契約変容説につき、「変容」という表現があたかも何か別種の法的効果を作り上げているかのように思われているのかも知れませんが、そんなことはありません。なぜ「変容」などと表現したのかは、当の学説を主張する民法学者に尋ねないとその真意を僕が代弁するわけにも参りませんが、僕としては「変容」という表現が相応しいかどうかはともかく、545条1項本文の「解除」の法的性質が契約解除及び契約関係の清算という二つの意味を持っているとの解釈で捉えられる法的性質であろうと考えます。このように二つの意味を持つと解することは何ら許容されないわけではなく、例えば民法424条の詐害行為取消権の法的性質をめぐる解釈論において多数説となっているだろう相対的取消権説が(もっとも、僕自身はこの「相対的取消権説」には反対という立場です)、請求権としての性質と取消権としての性質を併有するものとして捉えているように、多少技巧的すぎるきらいはあれど、可能な解釈であると思われます。この立場からすると、契約の解除により契約は終了しますが遡及的消滅ではありません。契約の終了以後の原状回復関係については、原状回復義務への発生という仕方で理解することができます。既履行給付については原状回復義務の発生が、未履行給付についても原状回復義務の発生は抽象的に観念できるが履行不要のため消滅し、かかる原状回復義務は損害賠償とは直接かかわりません。一旦有効に成立した契約及び当該契約によって保障されている債権者の契約利益まで否定するするものではなく、契約に基づく個別的な債務だけを消滅させ、それゆえ既履行給付であれば返還させるだけであり、それでもなお償われずに残ることのありうる債権者の契約によって本来保障されていた利益については、契約ないし債務不履行を理由とする損害賠償請求の可能性をなお残しているものと捉えれば済むことと思われます。

 原状回復の範囲についてですが、原物についてはそのまま返還、給付された物の利用利益については、金銭の場合は解除により金銭を返還するときはその金銭を受領した時から利息を付して返還することが義務となります(545条2項)。もちろん金銭の受領者が善意であっても利息の返還が義務づけられることになります。金銭の利用可能性を取得したのだから、その価値をも返還しなければ原状を回復したことにはならないからです(逆に遡及的構成をとって不当利得返還請求権として構成した場合には、不当利得の一般原則である民法703条・704条では善意・悪意によって処理が異なることになってしまいます)。他方、金銭以外の場合は、目的物から生じた法定果実(例えば賃料など)を取得した場合は、金銭の場合と同じく、相手方に返還しなければ原状を回復したことにはなりません。現実に果実を収受しなくとも、目的物の利用可能性を取得したのであれば、その価値を返還しなければならないことは当然ということになります。

 次に、遡及的構成を採っても、545条3項により損害賠償が規定されているのだから、履行利益賠償を求められると解してもおかしくはないとされている点について。
 しかしながら、545条3項はあくまで損害賠償することを妨げるものではないと明記しているだけであって、そこから直ちに履行利益賠償まで認められるとまでは明記していません。当然、その中身について解釈が入るわけですが、その際に、遡及的構成だと契約が最初からなかったことになるので、論理的に見た場合、履行利益賠償を請求できると解することはできないとなるのが自然な解釈であり(信頼利益賠償が導けるのみ)、だからこそ、遡及的構成を採る民法学者もこの難点をどうクリアするかについてあれこれ悩んでいるわけでしょう。したがって、545条3項があるから履行利益賠償まで認められて当然と単純に解するわけにはいかないと思います。
 損害賠償と原状回復義務との関係について僕は以下のように考えます。すなわち、損害賠償の点については、まず解除の効果は原状回復に限られ、損害賠償責任とは無関係であり、それゆえ損害賠償責任は債務不履行における損害賠償の原則規定たる民法415条により認められ、545条3項は、原状回復義務を認めることが債務不履行による損害賠償請求の妨げになるものではない、つまりは原状回復義務と損害賠償責任との併存可能性を意味する規定と解されることになります。事実、545条3項の文言は、解除は損害賠償請求を妨げないとの規定となっており、文意に合致します。
 効果につき、遡及的構成を採ることは、何度も申し上げるように、論理的整合性の点できわめて問題です。そもそも、何ゆえに契約の遡及的消滅まで認める必要があるのでしょうか。未履行の義務についてはそれ以上履行の必要がないとし、かつ、既履行給付については、戻すことを認めさえすれば解除の目的は達成できるのに、わざわざ契約を遡及的に消滅させるまでの必要はありません。むしろ、損害賠償責任を基礎づける際に難点を抱え込まざるをえず、不適切だと思われます。ここまではほとんど以前に触れた通りです。
 ではなぜ遡及的消滅構成をとる見解が登場したのか、というと、おそらく、ドイツ法では直接効果説の遡及的構成により説明されていたからだろう思われます。しかしながら、ドイツにおいて直接効果説が主張されたのは、解釈をした場合に損害賠償を認めない旨が明記されていたからであって、解除に際して損害賠償請求することを妨げないとの明文規定をもつわが国の民法とは事情が異なります。要するに、ドイツ法を「つまみ食い」的に輸入してしまったがための無用の混乱というのが実相ではないかと思われます。

 最後に、解除後の第三者についてですが、これは545条1項但書にいう「第三者」には該当しません。その点は共通していると思われます。しかしながら、僕のように不遡及的構成を支持するのなら177条構成は可能であると考えますが、そうではなく遡及的構成を採るのであれば、遡及的構成をとりつつ復帰的物権変動をとることはできませんので、177条で構成することはできないと考えます。遡及的構成を採りたければ177条ではなく、むしろ94条2項類推適用として構成されるべきであると考えます。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/shin422/20120120/1327075910