インタラクティヴ・イノベーション〜価値交換装置としてのエログロナンセンス

・批評誌『新文学03 革命×ネット×二十一世紀文化のエグいコンテンツ』寄稿コラム(4,000字)

本稿はメルマガ『新大学01ー03』所収の三つの論考(五七,〇〇〇字)を再構成したもの。『新文学02』では「ゼロ年代のネットサービス」を取り上げたが、その補完としてネット内外に渦巻く「エログロナンセンス」を題材にしている。興味のある方はぜひ原版も参照されたい。

なお本誌特集「このコンテンツがエグい!」はこれらの考察を重ねてきた僕の提案による。「エグい」は70年代の流行語で古めかしい印象もあるが、特集内『DEATH NOTE』の項目でも触れている漫画『バクマン。』に登場する漫画家コンビの作風を示す言葉。10月からテレビアニメも始まっており、タイムリーなキーワードに思える。

  一「萌えロティック・性くノフィリア〜アクトロイドは無料動画の夢をみるか?」

「萌え」の語源は植物が芽吹く様。生と性が内包された新緑の匂いは精液に似ている。『古事記』や『日本書紀』では神の身体の一部や装飾品、所持品が変化して新たな神が産まれる。無性生殖やシミュラークルに近い。オリジナルの権威が失墜した今、神さえも宗教の専売特許ではいられない。我々は個別の神を心の中に描いており人の数だけ神が存在する。

神のように非人間的なる存在こそが人間の永続性を保証するのだと考えれば、架空や虚像も含むキャラクターへの愛情は距離感あってこそ強まり、グッズ購入やN次創作といったフェティッシュな方法によって充足される。フェチはエロの不可欠要素でもあり、萌えとエロは不可分との意味を込め「萌えロティシズム」という呼称を提唱したい。

テクノロジーの普及はエロに牽引されてきた側面も大きい。その意味も込めて、テクノロジー恐怖症を示すテクノフォビアの対義語テクノフィリアに性を関連付け「性くノフィリア」と名付けてみた。ネットにおける例として、欧米で流行したコミュニケーションツール『セカンドライフ』はアバターを自作できる特徴を持つことから、セクシャルなポーズのヴァリエーションを付加させて事に及ぶ遊び者が増え、風俗店まで登場している。

日本ではフィギュアやガレージキット、ダッチワイフの発展形リアルドールに精緻な技術が投入され、エロ目的ではないもののキャンギャル風の外観を持つガイド用ロボ「アクトロイド」も登場。彼女は必要最低限の言動しか出来ないが、その発展系「HRP-4C未夢(ミーム)」は歩行やダンスも可能。日本人女性の平均顔を採用し全関節可動型でありながら身長一五八センチ体重四三キロで、性くノフィリア的な執念が込められているようにも思える。

人間の顔を立体的に見せるシェードなる化粧技法は光源と関係なく影が続き、目の前にいても遠近感がなく現実感が失われる。性別も年齢もなく死ぬことすらない存在は神の領域だ。人が死に写真や映像だけが残るのは二次元化と同義ではないか。人ならざる人に似た者とは、思い出の中にのみ生きる死者や、想像の中だけに登場する神や悪魔だけではなく人形や二次元キャラも含む。

我々は神のシミュラークルを所有し世界と一体化せずに生きられない。現実を模倣するフィクションと、フィクショナルな現実の区別が曖昧になりつつある不確かな毎日に脅かされる存在論的危機は、死と紙一重のエクスタシー=全体性との融合=宇宙意志との合一によって回避される。

  二「デスハック・ソリューション〜死と戯れ生を遣り過ごすグロテクスな方便」

グロテクスとは臓物や汚物や怨恨といったネガティブな側面が衆知に晒される状況。それが嫌われるのは怪我や汚染による命の危険を感じさせる危機管理力の作用。巷にあふれるグロ表現は能力を高めるための予防接種ではないか。病気も事故も殺人も普遍的な出来事に過ぎない。

現実あるいは空想における加害者/被害者と、明日を見通せない自分自身の置かれた環境は、紙一重である。技術や発想によって作業効率を脅威的に高められるエンジニアはハッカーと呼ばれる。その技能を日常に応用する「ライフハック」の一環として、グロとの有益な関わり方を模索し、過酷な現実を生き抜くソリューション=解決策を「デスハック」と呼びたい。

生とは動くことそのものであり、あらゆる表現は生と死に分類することが出来る。ライヴ表現は今まさに生きている表現であり、過去に表現された映画・レコード・書籍・絵画は死んでいる。だから録音録画を視聴する際に「再生」と呼ぶ。あるいは死んでいるとも生きているとも言えるゾンビ。ライヴも表出された傍から次々と死んでいく。

けれど生きる事が動くことであるからには、これを死と呼んでいいものか迷うところではある。この世のあらゆる現象は生と死を行ったり来たりしながら明滅するものなのかもしれない。映画のゾンビは死んでいるのに動く。我々は現実に死んでいるはずのものが生きている様を知っている。言葉は過去の誰かの脳内で息づいていた精神の欠片だ。また葬儀とは遺された人間が故人の死を受け入れる儀式。そういう意味では葬式こそがデスハックの最たるものである。

死とは全体に溶け込み透明な存在になること。亡霊や妖怪、鬼神の類は空気のように有るようで無く無いようで有る。景色の一部と化した路上のホームレスや詩集を売るため駅前に立ち続ける女性に横浜メリー。彼らは生きながら神霊化している。人の遺体は抜け殻に過ぎないが、人の面影がある限り我々はそれを人と認識する。

人であり人でないものは人智を超えた存在感を保つが故に畏怖される。即ち人は死ぬ事によって人智を超えた鬼神の類に連なる事が出来るのである。とはいえ形而上の存在としての魂それ自体と、魂の脱け殻は別種のもの。京極夏彦が説明する妖怪研究においても、魂が表徴化する幽霊と死体に別の魂が宿る現象は別の妖怪として区別されている。

「綺麗は汚い、汚いは綺麗」シェイクスピアの『マクベス』で三人の魔女は謡う。『アバター』における異星人がストーリーが進むにつれ美しく感じられることは美意識が後天的によって作られた幻想でしかない事を証明している。言葉は世界を表現するものではなく、言葉によって世界が作られる。

そして言葉とは文字や音声それ自体ではなく、脳内で再生される文字や音声のイメージであり、それが曖昧な世界の事象に対するイメージと重なって成立する。つまり言葉によって作られる世界とはイメージの世界であり、イメージなくして人間は世界を理解する事が出来ない。そのイメージの世界にフィクション/ノンフィクションの区別はない。だから我々にとってのリアリティもそれが現実か否かとは別次元の問題として成立している。

気に入らない人間に頭を下げて良い暮らしの出来る現実と、気に入らない奴をメッタ刺しにして死刑になる虚構。いずれもグロテスクだがベクトルが違う。ありえなかった過去の分岐点やこれから先の未来に待ち構えている可能世界というのも虚構であり、そして死もまた。有限の時間を生きている限り、生きる事は死に近づくことである。現実は虚構へ向かう。

  三「南無センス/異能センス〜無意味の意味を考えさせるネットコンテンツ」

ニコ動「妹が作った痛いRPG」シリーズの見た目はゲーム的だが、セオリーを無視した別種のエンタメに仕上がっている。ゲームのようでゲームではない動画には他に『ゆめにっき』という人気作も。「ナンセンス=センスが無い」「センス=意味」を指す。仏教における「南無」は帰依すること。そしてNUMはExcelにおける数式エラー。宗教的価値を持つ南無が科学上では無価値なエラーになってしまう。

「Nonsense」と「Innocence」にはスペル違いで「センス」の語が。「Inno」も「無い」の意。南無同様に漢字を宛て「異能センス」。異能は痛い異能設定を指す「邪気眼」などラノベ頻出ワード。その無邪気さを「聖なる白痴」の系譜に連なるものとして肯定も出来る。ゲームは遊びだが、ハンドルの遊びは空転部分を指す。通常の遊びも基点間に位置すると思われるが宇宙に基点は存在するか。

大人にとってそれは神や常識。だが赤子は自らが唯一絶対の基点であり、無神論とは産まれたままの人間に備わった無垢の魂の原型だろう。異能センスにとって世界は自分のものであり、南無センスにとっての世界は他者=神や公共のもの。異能は南無に抑圧されがちだが、異能が南無の信仰の対象となったりもする。

午前四時に「なるほど四時じゃねーの」と自動投稿できるTwitterアプリがある。「深夜になってしまったことよ」という粋な洒落に思えるが、管理者が代理操作を悪用し「お気に入り」ボタンを押したことで、無意味な遊びが一瞬にして悪意に堕落。九一一テロに際しドーキンスが感じた「宗教は有害なナンセンス」との認識にも似る。彼は宗教などウィルスのように伝播する情報を「ミーム」と呼んだが、教育や法律も幻想に基づくミームである。

ミームに漢字を宛て「味意無」とすると逆は「無意味」。無意味なものを意味づける南無と、意味を無意味化する異能。既存の価値体系に南無することによって心の安定は保たれるかわりに本来の自分は隠蔽される。多くの者が社会に組み込まれるために捨てた異能センスを持ち続けられる異能者は意味の無意味性を暴く可能性を秘めている反面、無垢ゆえに遺伝子の利己性に逆らえない。両者が補完しあうことによって世界の均衡は保たれてきた。

以上の考察から、エログロナンセンスの相互作用(インタラクション)によって、技術革新(イノベーション)がもたらされるのではないかとの期待を込めて、本稿のタイトルを名付けた。既存技術を無力化するほど破壊力のある発明を「破壊的技術革新(ディスラプティヴ・イノベーション)」という。秩序を乱す爆発的な先進性は、一見粗野な人間性の奥底にこそ潜んでいるように思えてならない。(了)


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