あさりよしとお『まんがサイエンス』

 一気に大人買いしたがこれはすごい。大人も読むべし。
http://www.bk1.co.jp/product/2356822?partnerid=p-inaba3302385
http://www.bk1.co.jp/product/2356823?partnerid=p-inaba3302385
http://www.bk1.co.jp/product/2356824?partnerid=p-inaba3302385
http://www.bk1.co.jp/product/2356825?partnerid=p-inaba3302385
http://www.bk1.co.jp/product/2356821?partnerid=p-inaba3302385
http://www.bk1.co.jp/product/2356819?partnerid=p-inaba3302385
http://www.bk1.co.jp/product/2356820?partnerid=p-inaba3302385
http://www.bk1.co.jp/product/2231393?partnerid=p-inaba3302385
http://www.bk1.co.jp/product/2518396?partnerid=p-inaba3302385
http://www.bk1.co.jp/product/2738456?partnerid=p-inaba3302385
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4051057550/interactivedn-22
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4051062228/interactivedn-22
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4056001480/interactivedn-22
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4056006938/interactivedn-22
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4056011834/interactivedn-22
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4056018758/interactivedn-22
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4056022526/interactivedn-22
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4056028818/interactivedn-22
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4056036136/interactivedn-22
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4056046263/interactivedn-22

『岩波講座憲法1 立憲主義の哲学的問題地平』における長谷部恭男包囲網

http://www.bk1.co.jp/product/2782737?partnerid=p-inaba3302385
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4000107356/interactivedn-22

 やはり公私を区分するジョン・ロールズの政治的リベラリズムと異なり、長谷部〔恭男〕が立憲主義を不自然な、人々に無理を強いる選択だと強調するのは、実は長谷部が公的領域での政治的発言に広く「公益」による歯止めを求めているからではないか(中略)。長谷部の「社会の共通の利益」考慮の要求は、既に政治的発言自体に向けられている。各個人は、他人に対して働きかけようとする際には常に、その前に自分の内心で、表現しようとする内容が自分の私的思想の表明ではなく社会全体の利益にかなっているのかを吟味しなければならない。表現の「自由」が思ったことを言う自由を意味するはずである以上、彼は、国家の決定に影響を及ぼそうとする表現活動には「自由」を認めていないわけである。(中略)
 しかし、表現の自由についてのこのような理解は、従来の憲法学が漠然とであれ想定してきた表現の自由観とは大きく異なっている。(中略)民意形成の場面では自由を認めるべきではないという理論は、戦後憲法学の常識への挑戦を含んでいる。

毛利透「市民的自由は憲法学の基礎概念か」6-7頁

 表現の自由を行使しようかどうかためらう人々に、できるだけ行使する方向でのインセンティブを与えるべきだ(中略)。特に代表民主政においては、人々が絶望の中に放置されがちなだけに、公的領域への「現れ」を促進する必要が高いのである。一見無意味な活動が無意味ではないことを、法が示さなければならない。(中略)
 日本の憲法学は表現の自由の重要性を説きながら、それを「行使」している人間は全人口からすればごく少数しかいないということの意味についてまったく考察してこなかった。(中略)少数の者が参加する公共圏が民主政を支えているからこそ、少数者になることのリスクを減らす必要がある。アレントが現代における政治への参加者として想定していたのは、生活に不自由のない富裕層ではない。日常的な社会の不公正に耐えられなくなって、どうしても異議申し立てをしたいという人々だ。

同上、24-5頁

 たとえ現実問題としては意味構築の作業に参加できる層が一部の専門家に限られるとしても、だから彼らのあいだでのみ意味に関する信憑が共有されれば十分だとすることは、「人民が自ら統治に参加している」という幸福な信憑を基礎とする民主政を揺るがすことになる。民主的プロセスを通じて、意味構築の少なくとも枠組みを決めていると人々が信じられること、また人々がそれを無理なく信じることのできる実態を維持することが、専門家には求められるのではないか。

大屋雄裕「根源的規約主義は解釈改憲を放縦化させるのか」296-7頁
註:

結論を一言で要約すれば(もちろん論文でこうは書いていないが)、長谷部恭男的愚民政策は良くないんじゃないですか?

http://alicia.zive.net/weblog/t-ohya/archives/000416.html

追記(4月28日)

 いずれも長谷部立憲主義論に対する(それぞれに異なった方向からの)批判的アーギュメントなわけですが、ここからどう議論は発展していくのか。
 長谷部立憲主義の基本線は実は「公益」重視の功利主義的公共政策論であり、それに一定の制約をかけ、その毒を中和するために「切り札としての人権」だの「民主主義」だのが持ち出されるのではないか、と私は考えております。「公益」に関する実在論者なわけね。でも「公益」に関する見識を持つ「専門家」は少数である。
 この実在論的スタンス(に内在するエリート主義?)を、根源的規約主義者大屋先生に突っ込まれている。では毛利先生からの批判の眼目はと言うと、おそらく「少数派」の見識の性質に関する理解の違いから来ているのね。うんと乱暴に言うと、長谷部先生の想定する見識ある「少数派」ってのはたとえば水伝批判の科学者たちみたいな人々で、毛利先生の考える、政治参加のアクティブな主体としての「少数派」は、基本的には反差別運動がモデルなんだ。
 長谷部世界の「少数派」は見識あるエリートだからこそ、大屋先生的突っ込みに応えるべく、独善に陥らず自制しなければならない。(そういえば長谷部先生の考えでは学問の自由は人権じゃなく特権なんだよね。)彼らにとって民主主義はどちらかと言うと足かせ、制約なんですね。それに対して毛利先生は「少数派」を被差別者、弱者と捉えていて、民主主義は彼らにとっては不可欠の支援ツールであるわけだ。

 なんかまだ議論は微妙にすれ違っているような気もしますがね。
 「公益」だの「正義」だのについての反実在論者・根源的規約主義者大屋先生にとっては民主主義こそが基盤であり、あれこれ文句を言っても仕方がない地平なのでしょうか。それに対して長谷部先生にとっては民主的意思決定とは独立に「公益」「正義」を定義可能なんでしょうね。で、ともすれば民主政は衆愚に陥る、と。
 ただ長谷部先生もおそらく、「専門家」エリートの愚昧なる大衆に対する優越はあくまでも短期的にのみいえることで、長期的には「みんなの意見は、案外正しい」その大衆の英知を集約するツールとして、多数決などの民主主義的装置に信頼を寄せていると思われます。(市場もまたそういう装置のはずですが、長谷部先生は市場に冷たい気がする。)
 またそのように考えると、長谷部・対・毛利の構図はむしろ逆転する可能性さえ出てくる。解釈1の長谷部先生が「大衆民主主義・対・エリート少数派主導の公共政策」であるのに対して、毛利先生は「大衆私生活主義・対・被抑圧少数派主導の民主主義」というわけですが、解釈2による長谷部先生の構図は「短期的には衆愚で長期的には神たる大衆民主主義・対・エリートということになっているが実は自分で思っているほど賢くはないから自制しなければいけない少数派の運動・政策提言」になる。この構図は解釈1とは異なり、毛利先生の図式と単純にすれ違うのではなく、むしろそれを己のうちに包摂してしまえるんじゃないか。


 ぼくとしては長谷部立憲主義論に対する解釈2に立脚して「少数派のアドボカシーに徹するがゆえに、もはや多数派獲得が不可能となり、民主主義は足場である以上に制約となりつつある左翼の生き延びる道は、リアリズムに徹したローカルなテクノクラートとなり、民主的意思決定の隙間を縫っていくしかない」というシニカルな左翼擁護論を展開してはどうか、と考えたりするわけですが。