田島正樹先生からお礼状をずいぶん前にいただいたけれど

 お返事が遅れてしまったので少しこちらに書いてみるよ。

(『「公共性」論』を――引用者)一ベツした所、現状認識については私とはずい分違ふやうに思はれますが、理論的な点で少々食ひ違ふのは、進化論の評価でせう。(cf p-207)人間についての洞察としては、進化論よりキリスト教の方がはるかに真実に近いと私は思ってをります。進化論は歴史の包括的合理的説明理論である限りに於いて、スターリニズムとそっくりです。ドストエススキーが「二二ンガ四」と呼んだものです。(田島先生の私信より)


 田島先生が「キリスト教」という言葉で何をどう理解しておられるのか正確にはわからないわけですが、私自身の理解にしたがえばキリスト教ダーウィン進化論は別に対立関係にはありません。キリスト教ダーウィニズムはどちらも、私の理解する限りでの「歴史の包括的合理的説明理論」を指向するスターリニズムへの根底的批判となっていると存じます。
 『「公共性」論』で、孫引きしたドナルド・マッケイは物理科学から認知科学に転じた人ですが、同時にカルヴィニストとして著名です。ここで彼はダーウィニズムではなく、物理学的な決定論キリスト教的自由意志論の両立性について論じているわけですが、その論法はただちにダーウィニズムに対しても転用可能です。
 更にダーウィニズムの場合には、ここにキリスト教的な「奇蹟」への対応物も見つかります。すなわち「突然変異」です。自然界には突然変異という奇蹟が日々絶えず起こっているのです。


 私の理解する限りでは、キリスト教においては神の奇蹟の業を信じる一方で、それに対して人間が容喙する可能性を拒絶しています。にもかかわらず神の根本的な善性を信じ、神の創造物である世界と人間を肯定し、余計なことに思い迷ってくよくよしないこと、がキリスト教の要諦でしょう。神は知恵と善意をもって世界と人間を創造したわけですから、神の意志と法の絶対性はここでは大前提である。しかしながら他方、それは隔絶した神の業であるがゆえに、人間にはそれに介入することはできないし、知ることさえ究極的にはできない。
 マッケイの場合にはここで、仮に物理主義的決定論が正しいと仮定したとしても、自由意志が無意味になるわけではない、と論じています。完璧な物理学的データをもとに誰かの次の瞬間の行動を予測したとしても、その予測を当の対象に伝えた途端、「予言破り」の可能性が開ける。
 ダーウィニズムも論理的にはこれと同型です。どのような生き物のどのような形質が環境に対して適応的であるか、については、誰も決して事前的には知りえないのです。自然選択のメカニズム自体がそのようなものなのです。自然選択についての完璧な科学理論が完成したとしても、原理上それは不可能なのです。


 思うに「スターリニズム」とはここで人間を人間扱いすることをやめて(動物化して?)、己を地上の神たらしめようとするものであるわけですが、これはもちろん「偽の神」でしかありえないのです。神ならば人間とコミュニケートできますが、「偽の神」にはそれはできず、ただ外側から人間を間接的に操ることしかできないのですから。


 ところでこの系論として「自らキリストになろうとした者は、必然的に反キリストになってしまわざるを得ない」という結論が出てきそうな気がします。ただしこれはキリストの唯一無二性、キリストの出現の一回性に直ちにつながるかというと、必ずしもそうでもない、とも思われます。「その人は自らそう望んでなどいなかったが、結果的にキリストであることがわかってしまった」――ということであれば、キリスト教の教理と矛盾しないことも可能なのではないか、とか。それでももちろん、キリストを唯一無二としておいた方が、反キリストの出現への備えとしては便利なのでしょうが。

日本で出たそうで気になっているもの

変貌する民主主義 (ちくま新書)

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 やっと――やっとですか森先生!
いま、働くということ (ちくま新書)

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 『所有という神話』は罵倒してしまったわけですがそれでもなお期待をしてしまうわたくし。


不可能性の時代 (岩波新書)

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<自由>の条件

<自由>の条件

 大澤真幸先生三連発ということで話題沸騰ですが、まある種一抹のというか「また第三者の審級(の蒸発)か!」という危惧もあるのですよ。御本尊を読みもしないのに、amazonの「 kogonil_35」氏のレビューにただならぬリアリティを感じてしまう俺ガイル。
 実は『逆接』は当地の紀伊国屋で立ち読みして、「方法的原理主義」(大澤さんはこういう言葉づかいはしておられなかったと思う。この言葉づかい自体は私の責任です)の話をちらっと見てふむふむと思った(自分も昔同じようなことを考えたので)一方、「本当にそうか?」と眉に唾をつけたくなる気分もわいたのですよ。
 それはもちろん古典は大事であり、「とにかく大先生のおっしゃることはすべて正しい」と仮定してみる方法的原理主義はとても有用な方法論なのだけど、その有用性はあくまでもプラグマティックなものではないのか、それは大澤さんがお考えになるほどに原理的な水準のものなのか。「自由」な読解の不毛さに対して「原理主義」の豊かさをそれほど一方的に称揚してよいものか。「自由」な読解はしばしば己の「自由」の前提に無自覚であるのは確かで、それに比べれば「方法的原理主義」の方がより自覚的で洗練されているけれど、それだって「自分は自覚している」という思い込みが惰性化して、単なる「原理主義」に堕する危険はないのか。
 それによく考えてみると、「方法的原理主義」の偉大さを示す具体的な成果って、一体何なのか。マルクスに対するアルチュセールフロイトに対するラカンあたりか。しかしいま読み返してみて、本当にアルチュセールラカンが偉大な成果として、それ自体でマルクスフロイトのような古典として残る価値のあるものなのかどうか、我々の頭に疑問がわきはしないか。(などということを、「猫も杓子もアルチュセール」のパリにうんざりしていた若きエルスターのことを思うにつけ、考えてしまう。)
 そもそもすべての古典が、「方法的原理主義」を要求するようなタイプのテキストばかりなのか。もっと「軽い」にもかかわらず、確実に古典として我々の財産となっているテキストもあるのではないか。