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2008-07-18

[]フーコー講義録をここまでもってきて読む フーコー講義録をここまでもってきて読むを含むブックマーク

というのはいかがなものか。

 続きの『生政治誕生』の翻訳が遅れてるようですが、いつごろ出るんでしょうか。英語の方もまだです。

 この辺り、ことに後者と邦訳未刊の続きは例の「統治性」という不穏な話のもとになっているやつですが、前者、『社会は防衛しなければならない』もまたひどく嫌な、不穏なお話です。なんというかアレント全体主義起源』のことに第1巻における人種主義の話を思い出す。


 学問として、そして近代人の基礎教養としての西洋政治思想史にはれっきとした「本流」というものがあって、そこにはボダン、マキアヴェッリホッブズロックといった名前が大きく刻み込まれていて、中心的なテーマはまずはいわゆる「宗教改革」以降の「絶対主義」とともにやってきた「主権国家」であり、その主旋律に対する最も重要な変奏として「自然状態」による「契約説」というやつが絡む。そしてそれら全体を支配する通奏低音は結局のところ「法」である。――こういうイメージがありますよね。

 何が言いたいかというと、西洋政治思想史において、「人種」「民族」あるいは「階級」といった、何と言ったらよいのか、生身の人間たちの形成する社会的な集団の問題は、あくまで「傍流」としてのみ扱われてきたのではないか、ということです。また聞きですが生前の福田歓一は「政治思想史はヘーゲルで終わり、そのあとは現代政治学になる」という風にとれる発言をしていたそうで、実際彼の教科書『政治学史』もまたそういう構成だったように記憶します(いま手元にない)。あくまでも西洋政治思想史の「本流」は制度の人為的・意図的な構築にあり、自然発生的な集団性にはない、と。偉大な古典として読み継がれているテキストは、確かにその種のものに偏っています。19世紀には無視しがたく政治の前面に出てきた「民族」「階級」は、たとえば福田に言わせれば「歴史」ではなく「現代」に属しているわけですが、おそらくそれにとどまらない。この発想にのっとるなら、「民族」「階級」という問題系は、仮に西洋政治思想の「本流」を「主権」「契約」「法」周りにあるとみなすならば、基本的にはその本流に乗らない、乗りえない問題系であり、それらについてのテキストは政治思想上の「古典」とは位置づけられえないということになってしまうのではないか、という気がします。


 しかしここでフーコーがひっくり返しているテキスト群は、17、18世紀に属しており、今日はあまり顧みられないけれども、確実に19世紀以降の「民族」「階級」にまつわる議論を準備したものたちです。それは今日の目から見れば非常に不穏で、おそらく我々は今日それらをまともに――少なくともマキアヴェッリやホッブズ、ロックを読むようには――読むことができない。にもかかわらず決してそれはひとごとではない。「民族」や「階級」といった集団を実体的な主体とみなす歴史観は、我々自身において血肉化している。だからこそその起源は正視にたえない――そんな感じがしました。


 ちなみに「社会学」というのはまさにこの「本流」の外にあって、「民族」「階級」「人種」とともにあるわけですね。20世紀後半には「人種」と何とか手を切ったわけですが。

 で、経済学は? 

 『生政治の誕生』では自由主義と経済学がテーマになっているわけで、経済学とその対象もまた当然この「本流」以後、「本流」から外れたところに位置する。しかしたぶんこの「経済」と「民族」「階級」その他社会学的な人間集団とは、どうもカテゴリーが違う感じがする――。

 「経済」も「民族」「階級」も、ことに『安全・領土・人口』のフーコーに言わせれば、17、18世紀に官房学、ポリツァイ学、初期(いわゆる重商主義重農主義)経済学によって発見され構築された、彼のいう意味での「人口」というテーマの変奏なのでしょうが、その変奏の仕方がずいぶんと違う。

 アレントの言葉づかいに従うならば、いずれも「社会」なんだけど、経済学的な意味での社会――というか経済と、社会学的な意味での社会――「民族」「階級」はこっちに入る――は違う。

anser29anser29 2008/07/18 10:17 政治学が主権だけ扱ってきたのか、であれば、自生的的秩序につながる問題がまずあります。社会契約説をひとくくりにしてしまうのはどうでしょうか。主権と市場を考える、主権よりも市場が人間にもたらす教育効果(名誉心よりも利己心)を重視する流れは何も経済学に限らず、制度論のかなりの部分を占めているはずです。英国学派国際関係論などに通じます。もちろん政治が相対的であり得る場合の経済の側の神学(政治学)は何なのか(経済神学を論じたアガンベンのような)その問いかけが英米にはないにしても。主権論重視は日本が偏っているのかも知れない。あるいは宗教改革が延々といまでも続いているかのような錯覚を起こさせる不思議なアメリカ政治の光景(副題こそpost-christian nationだけど、ハロルド・ブルームのAmerican Religionなんかを読みながら宗教保守派の星雲状のグループを考えたとき、現代国家においてすら、社会契約が過去のこと(過去のフィクション)に過ぎないと思えなくなるし、主権が所与とは思えなくなる)。または共和主義の伝統に則ってマキャベリやアメリカ革命を読み直した場合のこと。こうした晦渋な問題を日本の学者が一般によく伝えてこなかった反面、フランス思想が流行になっていきなりフーコーが入ってきたから、まるでフーコー以外にそうした議論がないように錯覚される部分があるはずです。ガバナビリティとかグローバルコモンズとか何百年も前から議論の素地はあるんだな、あるいはこうした現代地球政治の問題とだけとらえられがちな話題が乗っかっているオントロジカルの基盤が何なのか、そろそろ自覚的であるべきだろう、という意味で貴重なエントリーとして拝読しました。