http://www.shunjusha.co.jp/magazine/500/
ドナルド・デイヴィドソン『合理性の諸問題』について書いてます。
合理性の諸問題 (現代哲学への招待 Great Works)
- 作者: ドナルド・デイヴィドソン,金杉武司,塩野直之,鈴木貴之,信原幸弘
- 出版社/メーカー: 春秋社
- 発売日: 2007/12/01
- メディア: 単行本
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ドナルド・デイヴィドソン『合理性の諸問題』について書いてます。
合理性の諸問題 (現代哲学への招待 Great Works)
すいませんね立ち読みで。
最後の方で新井素子の「小説は作者のためでも読者のためでもなくキャラクター達のためにこそ書かれねばならない」なる見解が肯定的に引かれているがこれは『…絶句』のことか? 読んでいないのでわからないですよ。
それだけについていえば『オタクの遺伝子』著者としては全面的に賛成するのでありますが、いわゆる「純文学」と「エンターテインメント」の違いがここに引っかかってきませんかね。
質とか志の問題を脇に置いて即物的に両者の違いをいうと、書き手としての作者の屈託や自意識が露骨にしかし自覚的に投入されるのが「純文学」でいいんじゃないの? 「私小説」ではそれがあからさまになるだけで、私小説でなくともたいがいのいわゆる「純文学」には、主人公であったりいわゆる視点キャラであったり、とにかく「書き手」「語り手」としての自意識がはっきりとある(客観的にいえば過剰な)キャラがだいたい登場しますよね。「エンターテインメント」にはそういうのは不在、とは言わないが、必要ではない。
SFというジャンルにおいてそれがわかりやすく出ているのがディレイニーですね。また近年の日本の漫画家で言うと日本橋ヨヲコですか。
「エンターテインメント」に肩入れするなら、「純文学」は書き手のナルシシズムの上に成り立ってる、ってことになるし、「純文学」に肩入れするなら、「エンターテインメント」は己の内なるナルシシズムに対して自覚が足りん、ということになるのかな?