GDP(?)論争のガイドラインなんか立て(られ)ないよ

 でも一応コメントしますと、論争をウォッチしたい人ははてなブックマークなんか見てても多分無駄(非生産的なヤジとネガコメしかつかないよ)なので、いちごびびえす経済板の「ブログ界隈」スレあたりをご覧になるとよいと思います。ただしそれなりの用意と覚悟のない方は書きこまず、基本ヲチに徹してください。(当たり前のことですが、やるなとは申しませんが、情報操作とか工作なんて高等戦術は、それなりの見識がないとできません。)2chの「はてな村ウヨサヨヲチスレ」では既に関心はよそにずれているようで、あまり役には立たないでしょう。
 論点のうちかなりの部分は、以前『所有と国家のゆくえ』感想戦http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20060904/p3http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20060905/p1)の反復になると思います。なおmojimoji氏は明確に立岩支持を打ち出していたと思う。「しゃべり場」まで行くとずれが大きくなるかな?


 お断りしますと、基本的に「論争」のディベートとしての側面には興味がありません。今回のように世界観レベルでの甚大なずれに論点がかかわってくれば、勝ち負けとか、どっちかがどっちかを説得するなんてことは無理だと考えます。ギャラリーの方も同様で、それぞれの価値観によってそれぞれに違った判定が下されるだけでしょう。
(ついでながら、ネットでの論争全般については、パソ通時代から今に至るまでようするにこういうことですよね。mojimoji氏も山形氏も忙しいその道のプロですが、ヲチャ―はそうでもないでしょう?)
 ぼくが期待しているのは、お互いに勝手なことを言い合って、それぞれがそれぞれの立場から、相手の思いつかない論点を繰り出して、そこから互いに有益な知見を得ることだけです。
 その上でぼく自身の展望を申し上げます。この論争から、ぼく自身にとって何か新しい論点が出てくる可能性は、ほぼ期待しておりません。最初のmojimoji氏のエントリに対してぼくが感じていた疑問はだいたい解消されました。mojimoji氏自身はリフレを支持しておられるそうですし。あと気になるのは、「リフレ派」に対するややためにすると思われる非難(「半可通」等)ですが、どちらかというと瑣末な問題です。その上でmojimoji氏が提出された「マクロ経済・マクロ政策」理解については、やや意外ではありましたがそれでも想定の範囲内であり「世の中にはそういう考え方もあったよね、ぼくはとらないけど」という感じです。
 他方山形氏についても、基本的なマクロ経済観とか社会指標観についてぼく自身のそれと激しく異なるところはないと理解しています。mojimoji氏に対する文句の付け方については、mojimoji氏は「誤解」と評しておられ、たしかに論点ずらしの感はあるのですが、ずらすことによって基本的な世界観の対立はむしろあらわになってわかりやすくなった可能性もあります。ずらされ、隠されてしまった論点が今後浮上する可能性もあるでしょう。
(なお「ポルポト」の語をここで持ち出した山形氏のふるまいは、「トリアージ」の語を持ち出したり、あるいは「トリアージ」の語の濫用をいさめるために「ホロコースト」の語を持ち出すのと同じ程度には下品で、ほめられた行いではない、と思います。しかしながら個人的に申し上げますと、スターリニズムポルポトの所業をわが痛みとして感じることのない「左翼」をぼくはいっさい信用しません。ぼくはもはや自分を左翼とは思っていませんが、今でもなお「あの状況にいればおれも虐殺者の側だったかもしれない」と考えて身震いします。レッテル貼りに反発するのはわからなくもないですが、常に背後に「スターリン」「ポルポト」の亡霊を抱いている覚悟は必要でしょう。)


 そのうえで申しますと、mojimoji氏もいまだ山形氏の問題提起の重要な部分に対してまだ応えていない、とぼく個人は考えます。
 山形氏の基本発想はすでに小島寛之『確率的発想法』書評に提示されていますが、ここには、デレク・パーフィットが『理由と人格』の第四部で世代間倫理について論じて以来広く注目されて論じられている問題の変奏ともいうべきものがみられます。
 世代交代を含む程長期にわたる政策について評価する際には「政策決定をした世代とその成果を被る世代とのが同一ではないのみならず、たとえば政策aの結果生まれてくることになった後世の人々Aと、政策bの結果生まれてくる人々Bもまたまったく別個の存在になるはずである」という問題が浮上してきます。ここで政策aが実現されたとして、その結果生まれた人々のほとんどは、もしかりに政策bの方が行われていたとしたら、存在することさえなかったでしょう。この議論は基本的に未来志向のものですが、山形氏はこれを歴史解釈の問題に転用して考えているわけです。(なおこの「非同一性問題」についての経済学者の議論として、日本語で読めるのはパーサ・ダスグプタ『サステイナビリティの経済学』岩波書店、鈴村興太郎編『世代間衡平性の論理と倫理』東洋経済新報社、等。)
 ちなみにパーフィット自身は、基本的には古典的功利主義(人格の個別性・唯一性の相対化、効用の比較可能性・集計可能性に肯定的)をとることによって、難問を回避しようとしています。しかもそれをいまだ生まれていない、将来世代についてのみならず、すでに確定している歴史の評価についても可能だとします。つまりパーフィットによれば「あなたが生まれてこない方がよかった」という発言が、原理的に可能となります。
 このパーフィット的な臆面もない戦略は、おそらくはmojimoji氏も山形氏も拒絶するでしょう。しかし話が真に面白くなるのは、そこからだと思います。ただ気になるのは、繰り返しますが、この問題提起についてmojimoji氏は特に何も応えていません。


 ぼく個人のエゴで申し上げますと、ぜひとも議論をそっちの方向で展開していただきたい、と希望するものであります。しかしこの希望に沿うべき義務は、当然ながらおふた方にはございませんですね。
 あとはギャラリーから下らない茶々ができるだけはいらないことを望みます。かつて見田宗介先生は「相手をその高みにおいて乗り越えないと意味がない」とおっしゃいました。ぼく自身はいまや「乗り越え」など可能なのかどうか、懐疑的になってはおりますが、「相手をその高みにおいて解釈する」のでないと非生産的であることは間違いないと存じます。この理屈を分かっていない人が目立つようになりましたね。自戒をこめて。
 ただこれをいうと、自分もそういう、池田信夫先生のいう「ネットイナゴ」(池田先生ご本人の振る舞いがとてもほめられたものではないことはさておき)的振る舞いをしてしまった愚民の一部ではあるので、自己弁護にもなってしまうんですけど、はてブネガコメの嵐になったり祭りの発火点になるのには、システム的な理由もあるはずですね。もともとはまともな人でも、このシステムにあおられて自制心を喪失することがありうるんじゃないか。このシステム、少し考えた方がいいですね。コメ非表示機能の実装なんかも対策の試みなんでしょうが、そもそもこの、字数が少なくて好むと好まざるとにかかわらず「言い捨て」にならざるを得ないブクマコメのアーキテクチャそれ自体に問題がある。いっそ最初からない方がいいんじゃないかな。めんどくさいけど、コメントしたければブログでちゃんとやろうよ、ってことで。
 で、こういうのって、個人の心がけだけじゃ駄目なのね。あると使っちゃうから(と動物化した私の言い訳)。


理由と人格―非人格性の倫理へ

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サステイナビリティの経済学―人間の福祉と自然環境

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