「教育」と「学習」とは必然的には結びついていない。人間は(そして多くの高等動物も)学習することなしにはおそらく生きてはいけないが、「教育」を受けることなく生きていくことはできる。
「教育」はせいぜい「学習」のための条件を整えること以上のものではない。すなわちそれは「学習」を包囲する権力作用である。だからそれ自体は――たとえ人間にとって不自然・非本来的であっても――別によくもわるくもない。
実際問題として世界は非対称的である。とりわけ時間軸に対して非対称的である。生き物は所与の環境に適応する形でしか生きてはいけない。人間もまた例外ではない。ただ人間的環境の中には、いわゆる「公共圏」もまた含まれてしまう。それゆえに人間はしばしば、この非対称性を忘れてしまう。実際「公共圏」とは、この非対称性を馴致したり無害化する役割を果たしているといえなくもない。しかしそれは決して、この非対称性を解消しはしない。
どういうことかといえば、コミュニケーションは非対称的だ、といいうことだ。「教える」ことと「学ぶ」ことはもちろん、「話す」ことと「聞く」こと、「伝える」ことと「解釈する」ことの間には非対称性が存在する。コミュニケーションにおいて、通常は誰かが先手を取ってしまう、ということだ。そしてどの個人もあるいは学習能力のある動物個体も、これらの後者の契機から逃れることはできない。しかしながら前者はそうではない。
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