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2006-08-24 アニマルマニア

どういったマニアか知らんけど、アニマル殺ルマニアじゃないことを祈る回文

[]「子猫殺し」への批判とその批判可能性 「子猫殺し」への批判とその批判可能性を含むブックマーク

たまたま倫理道徳のことを勉強をしていることもあってなんだが、話題になってることに口を挟みたい。特に自分が規範的意識が強いとかではないのだが、友人ともいえる人が自分の考えからあまりにも遠いところにいるのは道徳を訴える動機として駆り立てられるし、何よりもこんな中学生の作文みたいので何か言った気になってのが本当にアホだと思うので突っ込みたくなる。


問題となってるのは8月18日付の「日経新聞」に掲載された「子猫殺し」と題された坂東眞砂子という作家の文章である。一時的なソースがないため、直接引用はしないが特に問題はないだろう。


この話は以下の2点で批判することが可能である。1は彼女自身に対する批判、2は1の批判が妥当なことである理由と、彼女への道徳的批判を妥当ではないと主張する人への批判だ。

  1. 現代の功利主義道徳から言えば、猫の嬰児殺しは猫の避妊手術よりも悪である。
  2. 自らの非道徳性を認めることの道徳性という自己欺瞞的態度に対して道徳的批判は可能である。

1の方がより明確で指摘している人が少ないので有益な論点となるだろうが、俺はPeter Singerに代表されるような現在功利主義立場に詳しいわけではないので、どなたか専門の方がいれば教えていただきたい。まあ自分が理解している現代の功利主義から言って、猫の嬰児殺しは猫の避妊手術よりも悪であるのは明らかではないだろうか。

そのロジックはこうだ。現代の功利主義立場に立てば、ある一定の脳組織を持ち快苦を体験するような動物においては、その死がたとえ人間に利するようなものでも、その死における苦の総量は最小化されるべきである。

このような動物にまで拡張された功利主義日本人には馴染みのないものであるが、中絶の問題とともに高い動物愛護の意識を持った西欧では一般的な考え方であろう。だからイタリアだったか忘れたけど、甲殻類の茹で方とかにも法的な規定があるのだ。

たしかにこの立場を押し進めるならば、Singerのように菜食主義に行き着くし、日本人からすると理解しがたい上記のような法律や捕鯨に対して倫理的悪を主張することになる。

俺はそこまでに極端に功利主義を主張する立場に組みしないが、猫の嬰児殺しか、猫の避妊手術かを選べと言われたなら以上の理由から避妊手術を選ぶし、そちらのほうが倫理的に正しいことだと思う。

この作家はなんとも豊かな想像力を持って「もし猫が言葉を話せるならば、避妊手術なんかされたくない、子を産みたいというだろう。」なんて言うが、それなら子猫と話してみる気はなかったのか?

確かにペットというものが人間の傲慢に基づいているかもしれないが、殺される子猫たちの苦と避妊される親猫の苦を功利計算するならば後者の方がマシであることは明白である。道徳的判断といってもオール・オア・ナッシングでどちらも悪いと言うのは甚だ浅薄な考えとしか言いようがない。

さらに言えばペットを飼うということが本当に倫理的に悪なのかと問うことができる。自然主義的な功利計算をするならば、ペットで飼われている猫はそこらの野良猫より明らかに幸福であるから、よって倫理的にもよいと主張ができる。しかも犬や猫の人間との関係を歴史的に考えるならば、ペットという関係は不可避であり、野生動物を無理矢理捕まえてきて飼うわけではなく、ある種の犬や猫はペットとして生まれてくるのである。チワワなどを可哀想といって自然に解放するなどという行為がその動物自身にとって幸福なわけもないし、倫理的に正しいはずもない。

はっきりいってこの作家はその辺のことを考えたという割には知識として知らなすぎるし、悪とわかった上のペットだから人様に迷惑かからなければ何をしてもいいというような乱暴な主張は受け入れがたい。この論理ではペット虐待までも正当化できてしまうが、彼女はそのようなことを望んでいないと思われる点で論理的にもおかしいといえる。


次に2についてだが、これは言説のレベルでのメタ的に批判なので、あまり深入りすると泥沼化するので突っ込みたくないのだがごく簡単に言っておく。

上記の1の批判に対して、このように反論できるであろう。この文章はある作家個人の感情を書いただけであって、道徳的判断について言及したわけではない。よって1の批判は的外れに過ぎず、ペットという人間と動物の関係において道徳は無力であり、その不可能性を書いたものだと。

たしかにそれは一つにはあり得る話で、そういった立場もあっても良いかもしれない。彼女自身「鬼畜のように罵倒されるだろう。動物愛護管理法に反するといわれるかもしれない。そんなこと承知で打ち明けるが」と自分の行為がある意味において非難されることを認めているし、「私は、これに異を唱えるものではない」と自らの行為を一般化するべく主張しているわけではない。

ところが「殺しという厭なことに手を染めずにすむ」といった言葉には明らかに一般化可能な道徳的判断が内包されており、自らが「厭なことに手を染め」ることが道徳的に正しいことを言外に主張していると言うことが可能である。百歩譲ってそれでも彼女は自らの道徳的判断ではなく、エッセイのような形式で自らの感情の問題を文学的に表現したとする。それでも小説のようなフィクションのレベルで表現しているのではなく、自ら為した事実を表現している以上、その言説に道徳的な批判を加えることは可能である。道徳人間の行動の原則と広義に捉えられる以上、自らが為した事実に対する説明がたとえ感情的なものであっても、我々はその行動原則を吟味して批判を加えることは可能である。

だいたいそもそも何故このような文章を新聞に載せる意味があるのだろうか?彼女の私的な感情を彼女自身の著作に発表するのは自由であるが、不特定多数に見られるようなメディアでこのような文章を発表する以上、彼女自身認めてるように道徳的に批判されるのは当たり前だ。

一部ではこの文章に感情的批判、非難なりを加えるのは妥当ではないという主張も見られるが、そう主張する人は厳格なカント主義者なのかもしれないが、そのような感情が人間の行動原則の経済において有意義に働いてることも考慮して欲しい。感情的なことが即、不当な批判となるわけではない。


以上の論点から、もし俺が彼女と話できるような状況なら子猫を殺すことをやめるように説得するだろうし、そのような行動原則を認める人にもそれが道徳的に正しくないことを主張するであろう。

追記:同じく功利主義的な立場からこの話題に言及した日記

http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20060822#p1

ピーターシンガー引用もある。

[]倫理学へのすすめ 倫理学へのすすめを含むブックマーク

ともかく欺瞞とか偽善とか言うのはたやすいがそのことについて厳密に問い続けるのは茨の道であり、そのこと自体ちっとも倫理的なことではなくなる。件の議論に興味をもって追求したい人にはこの本を勧める。

倫理とは何か―猫のアインジヒトの挑戦
永井 均
4782802099

本質的にこの本は理解できないことが書かれている。そもそもアインジヒトは我々が了解する猫ですらなく、「アインジヒト」と名で指されるものでもなく、本質的に他人から理解し得ない「私」のようなものである。それを言語化しているこの本はある種のSFとも言うべきほんであって倫理的な本ではない。それでも欺瞞性ということに追求するのであれば、ここまで議論を突き進める他ないであろう。

くみこくみこ 2006/08/25 01:14 素敵です。
猫関連のRSSに大量にひっかかってくるので読んでいるうち凹んできましたが、この記事が一番スマートでノイズも無くて人間的です。日経新聞にのせればいいのに。

yoooooneeyooooonee 2006/08/25 09:52 昨日初めて日経の本文を読みました。この作家さんの議論自体に複数の正当化根拠が混在しているので、いくつかの解釈がありえると思いますが、動物の道徳的地位を認めるタイプの功利主義に訴えなくともこの作家さんの議論の一つの矛盾を突くことはできると思います。
彼女は「獣の雌にとっての「生」とは、盛りのついたときにセックスして子供生むことではないか」とし、それが生にとって本質的なことであるから、それを人間の都合で奪い取るのは良くないと判断します。従って避妊手術を施すことを拒否するわけです。
なるほど、そうかもしれません。でもそうすると彼女にとっては深刻な矛盾が生じます。もし生まれた子猫がメスであったならば、先ほどの議論「盛りのときにセックスし子供を生むことがその生にとって本質的であり、それを人間の都合で奪い取ることは許されない」があてはまるはずです。子猫のメスについてそれを殺すことは将来の生殖活動を不可能にすることになるのですが、それはその生の本質的部分を人間の都合で奪い取ることに該当するのではないでしょうか?
結局、彼女の議論の一番大きな問題点は、親猫も子猫も同じ猫なのに一方には本質的な生のあり方(と彼女が考えるもの)を保証しておきながら、他方で子猫にはそもそもどのような生のあり方も許さないというダブルスタンダードな判断を行っている点にあるのだと考えるべきではないでしょうか。従って彼女の議論についてはまず「子猫も猫ではないのですか?」と問うべきなのだと考えます。
(簡単な話を長く書いてすみません)

KUMAKUMA 2006/08/25 11:12 納得。私もこの記事をネット経由でちょっと見ただけですが、とても複雑で嫌な気持ちになってました。でも「良くない」という気持ちがあるのに自分の中で整理できないもどかしさがあったのですが、この記事にたまたまたどりついたのだけど納得。すっきりした。

yoooooneeyooooonee 2006/08/25 11:23 たびたびすみません。上に書いた立場とは矛盾するかもしれませんが、上記の問いに対して「ええ、子猫は猫とは違いますが何か」と答える余地は十分あります。つまり「子猫は十分に成長した猫ほどの配慮の対象にはなりません。」という立場です。私は倫理学の専門家でもないし、なんの研究者でもそもそも無いですから以下のことは十分眉につばをつけて聞いていただきたいですが
おそらくP.Singerの立場は「生まれたばかりの嬰猫(こんな言葉がほんとにあるのか知りませんが)と成猫との間には道徳的な配慮の重み付けが異なる」とするものだと思います。彼は人間について新生児を大人と同様な道徳的配慮対象とはみなしていなかったと記憶していますから、猫に対しても同様のことを主張する可能性はあります。もちろん、注意しておかねばなりませんが、だからといって乳児殺害が無制限に許容されるというわけではないですし、さらには「子猫は十分に成長した猫ほどには配慮の対象にはならない」からといって嬰猫殺と比べて成猫の性交出産活動の自由の保証の方が優越するという結論が単純に出てくるわけではもちろんありません。
議論が錯綜しているところに余計に錯綜を呼びそうなコメントをして大変申し訳ありませんでした。本来ならば自分のweblogなりなんなりにて書くべきところですが、現在blogを持っていませんので、他人様のコメント欄にて長々とコメントを残させていただいたこと、shinimaiさまおよびここをご覧の皆様にはどうかご寛恕願いたいと思います。上記コメントは誰かの立場を叩くとか貶める意図があったものではなく、この点をめぐる皆様の議論に少しでも貢献できればという希望に基づく点をどうか斟酌いただきたいと思います。最後にシンガーについてですが、日本語で読めるものもたくさんありますが読みやすいのは「実践の倫理」かと。またonlineでも
http://www.utilitarian.net/singer/にて動物の権利や、生命倫理、貧困問題などに関するシンガーの論文を入手できます。
それでは、本当に失礼いたしました。

idiot817idiot817 2006/08/25 11:27 >yoooneeeくん ごぶさたしてます。
親猫と子猫を区別することを正当化するには、理屈上出生直後の嬰児はそれ以降の成体とは区別される、むしろ胎児の延長線上に近い存在と位置づけられるのだ、と反論できますね。
その根拠としては、ひとつは、出生直後には認知メカニズムなどが未発達であって、生存や死亡に対する快苦の感受性が不十分なのではないか、という生物学的な視点。いまひとつは出生直後にはまだ社会との関係性構築が起こっていないので、死亡しても成体の死亡の場合と比較して、社会に生き残る側の感じる悲しみが少ない、という社会的面です。

idiot817idiot817 2006/08/25 11:28 話が超かぶってしまって恥ずかしい。

shinimaishinimai 2006/08/25 12:27 >yone
ほぼ同感というか、彼女は猫と子猫との区別をしているという以上に自分が飼っている3匹の猫の「本質的な生のあり方」にしか興味がないと思われるんですよ。それでいて一般化できるような道徳を語ってるのが本当にバカらしいし、そこから道徳の不可能性のような議論をするような輩がいてもうなんだかって感じであります。
シンガーとかのアニマル・ライツ関係の議論をしたのはそういった視点で語る人がいなかったからです。実際的な立場にたつとこれは国際問題になりそうで、捕鯨へのバッシングも反動として強まる可能性もあるし、西欧の動物愛護の思想を理解しておくのも悪くないと思い、無知を承知で書いた次第であります。シンガーの主張などは確かにかなり単純化した気はしますが補足説明ありがとう。

shinimaishinimai 2006/08/25 12:40 >idiot
たしかに功利主義的立場からそのような反論は可能でしょう。まあそれでも子猫殺しが避妊手術よりも正当性をもつとは言い切れないでしょう。また崖から落とすとはもってのほかだと。猫という動物を考えるとセックスしたいという欲望があることを自然主義的事実として認めることは可能でしょうが、子供を生みたいという欲望は高度に社会的な人間のような動物にふさわしく猫がそのような欲望を感じているとは言い切れません。百歩譲ってそれを認めても、じゃあ子育ての欲望はどうなのって話だし。

z0racz0rac 2006/08/25 18:33 はじめまして。
いきなり揚げ足取りのような反論で申し訳ありませんが、避妊手術が子猫殺しよりも正当性をもつとも言い切れませんよね。
避妊手術が死ぬまで雌猫に苦痛を与えるかもしれない。彼女の主張はこの点だと思われます。
猫の幸せをもっての功利主義的立場というのは単純に無理だと思います。

shinimaishinimai 2006/08/25 23:54 > z0rac さん
どうもはじめまして。
上のエントリ及びコメントをちゃんと読んだのですか?「避妊手術が死ぬまで雌猫に苦痛を与えるかもしれない」とは何を根拠に言ってるんですか。作家の想像力でしょうか。なら子供が殺されることに対する苦痛への想像力はないのでしょうか。
それに対して現代の功利主義的立場から言う苦痛とは、そんな根拠のない想像によって考えうるものではなくて、脳科学上のある一定の事実なのです。

noritzkynoritzky 2006/08/26 05:03 まず、作家の文章を読んでいないのでなんともいえないところもある。それをおいた上で、「功利主義的立場からの」検討は、死に舞の本文、yoneやidotらの補足もあり、理解されるが、z0racさんの反論に対する死に舞のコメントについて言えば、『「現代の功利主義的立場」を、この作家は共有していると表明している、もしくは共有すべきである』ということが、死に舞の言説の根底には必要であると思われるが、z0racさんはそれを認めているようには思われず、それは上記の議論をちゃんと読んだかどうかとは無関係と思われる。もっとも、「西欧の動物愛護の思想を理解しておくのも悪くない」というのは確かにその通りである。私自身は避妊手術と子猫を殺し続けることを考えれば、「判断」としては避妊を選ぶであろうが、そのことを「脳科学上のある一定の事実」による確実な選択とまでは、思わない。「どうも自分の愛猫は自由な性交と出産を望んでいるようだが、その子供の生死には無関心らしい」と思い込む愛猫家がいても、それを厳しく咎めるまでにはいたらんということで、それが「現代の功利主義的立場」とは異なると言われればそれは甘受せざるを得ない。これは別に自分の「判断」については批判を受け付けないということではない。これは「ペットと人間の関係における道徳の不可能性」と言い換えられても仕方ない。そして作家の主張がこの「不可能性」を主張せんが為の、固定的な道徳に基づく「不妊手術の選択」への批判であったとするならば、私もその自由は認めたいと思う。

shinimaishinimai 2006/08/26 14:21 まず例の作家の文章を読んでその論理的な破綻ぶりをみてください。

「「現代の功利主義的立場」を、この作家は共有していると表明している、もしくは共有すべきである」
これは当たりません。道徳上の主義が一致しなくても、未知の道徳の主義によって人を説得することは可能です。必要なのは道徳の存在を認めることだけです。
「どうも自分の愛猫は自由な性交と出産を望んでいるようだが、その子供の生死には無関心らしい」と思い込む愛猫家がいても、それを厳しく咎めるまでにはいたりませんが、それが道徳的な立場からは主張しえないことと推奨しないことであると言うでしょう。
「そして作家の主張がこの「不可能性」を主張せんが為の、固定的な道徳に基づく「不妊手術の選択」への批判」である可能性はあります。しかしその場合2で説明したとおり、彼女は「ペットに関する道徳の不可能性」を「ペットに関して道徳的」に主張していると言うほかならず、矛盾をきたすでしょう。そこらへんはその文章を読めばわかるでしょう。

ww 2006/08/27 01:25 てst

MRMR 2006/08/27 01:36 彼女が伝えたかったことは、現代の日本では飼い主の安易な考えで避妊手術が行われており、それを容認する社会は異常ではないのか、という事だと思います
エッセイ自体にはこの部分は直接出来には書かれていないので、どうしても避妊手術と子猫殺しの対比に目が移りがちですが、彼女の真意はそこには無いのです
フィクション作家である以上、子猫殺し自体がフィクションであるかもしれません
しかしフィクションであると認めてしまうと、エッセイを読んだ方がここまで思慮を深める事はあったでしょうか
まずは、相手の間違いを見つけるよりも何を伝えたかったのか理解し、その問題について考えをめぐらすことが大事だと思います

shinimaishinimai 2006/08/27 02:58 「彼女が伝えたかったことは、現代の日本では飼い主の安易な考えで避妊手術が行われており、それを容認する社会は異常ではないのか、という事」
猫の避妊手術に関しては飼い主の多くの方々がそれなりの苦渋の選択として決断していると思います。それを安易な考えだと判断するのは何故でしょうか。一般の方は新聞などでそのような葛藤を書くことは出来ません。しかしブログなどを見ると今回の一見で猫の飼い主がそれなりの真摯さをもって判断しているのがわかるでしょう。
そして例え安易な気持ちで行ったにせよ、功利主義的な立場は行為の結果により道徳判断をするので、その立場にたつなら思慮の浅さによってある行為を非道徳的とみなすことはできません。
フィクションであれば上の批判はあたりません。その場合、新聞のような媒体で事実であることをほのめかした文章を書くことに関する作家の倫理性が問われるでしょう。

BunMayBunMay 2006/08/27 11:08 非常に瑣末なことだとは思うのですが、質問してもよいですか?
「猫の嬰児殺し」と「猫の避妊手術」のニ項の主体にズレ(避妊手術が可能になる年齢が、生後六ヵ月くらいと病院系サイトに書いてあったので)があるのは、功利計算上問題ないのですか。同じ主体なら、比較は容易だと思うのですが…。
ここからはこのブログを見た感想で、かつ死に舞さんの負うべき説明責任を越えるものだと思うので、聞き流す程度でよいです。坂東さんの文章を全文手に入れていない以上、何か言うのは憚られるのですが、このブログやkasuhoさんのブログ上のやり取りから類推しているということを前もってことわっておきます。ロジックとしては非常に整然としていて、上に挙げたような瑣末な質問くらいしか私にはできません。坂東さんへの批判としては、これ以上ないくらいかもしれません(あえて、同じ土俵に立っての批判なのですから)。ただ、坂東さんの立つ土俵(猫の嬰児殺しか避妊手術かの二者択一のように私は受け取っています)をいくら論理的に窮めたとしても、結局その二者択一からは逃れられなくて、何とも陰気な読後感に襲われてしまいます。議論の落としどころがそこでよいのかなというのが、率直な感想です。(死に舞さんに、「はあ?ちゃんと文章読んでんの?」と言われるのが怖い……)

shinimaishinimai 2006/08/27 13:18 これくらいやりとりしてたら自分の文章の誤読される理由がわかってきました。基本的に自分が納得するために書いてるので語句について詳しい説明をしてないからです。
一番おそらく理解されないのは、功利計算という言葉でしょう。これはある人がみずからに利するような行為原則を立てるために計算するのでも、ある人が行為を行ううえで他人一人の快苦を計算するというわけでもありません。いわゆる最大多数の最大幸福です。なので個別に異なる存在すべてを考慮にいれなけばならないのです。
二者択一についてですが、これは違います。私はかならず避妊手術をすべきだと思ってません。子猫が生まれても里親を探すとか、雄猫に種付けされないように家のなかでしっかり飼うとか、さまざまな選択肢があるでしょう。それを二者択一のように考えて、どちらもペットを飼う以上しかたのなく同じくらい悪いというのは、やはりしかたなく避妊の決断をしている人たちが可哀想だと思います。
あと功利計算とは具体的なものではなく理想的なものでしかないです。日常我々は自らの行動が招く結果を考えていますが、そこまで厳密な計算を行えないのですが、ある道徳を吟味するとき可能な限り幸福が最大化されているかを問うことは可能でしょう。

犬 2006/08/27 16:20 失礼します

>一部ではこの文章に感情的批判、非難なりを加えるのは妥当ではないという主張も見られるが、そう主張する人は厳格なカント主義者なのかもしれない・・・

そんな難しいことではなくて,もし坂東氏の「論理破綻」をご指摘されるなら,人間に妥当することが,同じように猫にも妥当する,という「論理の飛躍」のほうが私には問題だと思われますが,いかがでしょうか.

猫の嬰児殺し自体よりも,猫を殺して良いなら,人間を殺しても良いということになるとか,人間を殺してはいけないように,猫を殺してはいけない,といった飛躍した言説のほうが問題を含んではいないでしょうか.

「似ているから同じだ」ではなくて,「似ているが,にもかかわらず違う」というのも倫理の基本だと思いますが,いかがでしょうか.

shinimaishinimai 2006/08/27 16:47 >犬さん
まったくもって同感です。そのような批判は十分に可能です。
ある意味で動物に拡大された功利主義は、人間を殺してはならないことを自然主義的な事実から導くことができるなら動物を殺してはいけないと主張しているので、動物愛護の問題が人間の生命倫理に関わるんです。

川畑川畑 2006/08/27 18:41 >shinimaiさま
突然の横レス、お許し下さい。犬さんがおっしゃっているのは、人間の考案した功利主義を動物に拡大して同列に論じる姿勢に対しても当て嵌まる二重の批判なのではないでしょうか。脳科学による厳密な子猫の快苦計算をもってしても、それはやはり当事者(子猫)自身による希望の言明ではない限り、最大多数の最大幸福には「人間にとっての」という留保を外すことはできないと思うのですが、いかがでしょうか。もし動物が話すなら、愛護も虐殺も頼んだ覚えはない、ほっといてくれ、という言葉をもらすかもしれませんね。

shinimaishinimai 2006/08/27 22:16 >川畑さん
たしかに私は犬さんの主張をよく理解していなかったかもしれません。あの作家の文章には論理の飛躍があり功利主義を持ち出すまでもなく批判可能だというてんまでは賛成しましたが最後のほうはよく意味がわかりません。
もし川畑さんがおっしゃる通り功利主義が「人間にとっての」という留保を免れ得ないのという主張であるなら、端的に道徳とはそのようなものでしかありませんと答えるでしょう。ある時、狂信的猫主義者がいかなる猫に対する人間の行為もしてはならぬ、とかいいだしてもその行為原則は「人間にとっての」ものです。

犬 2006/08/27 22:54 判りにくいコメントで失礼しました.川端さんの仰るとおり,私が言いたかった「論理の飛躍」といいますのは,坂東を批判する側の人たちの論理の飛躍であって,坂東の文章のことではありません.つまり,問題としているのは,人間の話と猫の話を「同じように」という,端的に無根拠な言葉で結びつけていいのか,ということです.それを私は論理の飛躍と申し上げたわけです.なぜなら,人間と猫が「同じ」であるというのは自明では全くないからです.いかがでしょうか.

川畑川畑 2006/08/27 23:51 >shinimaiさま、犬さま
ご回答とご説明、ありがとうございました。私からも一点補足をさせて下さい。倫理的な正しさをめぐる議論には、その正しさの担保として「功利」基底的なものが連綿としてまずあり(ベンサム、ミル)、しかしそこには、最大多数の最大幸福によって社会設計を行う計算主体の要請が不可避である以上、ある種のエリーティズムを免れないという反省から、「功利」ではなく「公平性」基底的な議論(ロールズら)へとシフトした学説的な流れがあります。

川畑川畑 2006/08/27 23:56 もしこの「公平性」派とでもいうべき立場からの主張に応答する場合、子猫自身による自己決定的な生の選択可能性を考慮する必要があります。それは狂信的でも何でもなく、現代倫理学の別の発想から演繹される考え方です。あるいは、子猫は物言わぬ存在であり、子猫の自己決定など現実的に無理であるという時、子猫という「他者」を代理表象することの(不)可能性という、また別の多元主義的議論(サイードら)の問題設定にぶつかります。
周知のこととは思いましたが、議論を整理する一助になればと思いコメントしました。

川畑川畑 2006/08/28 00:23 何度もお邪魔してすみません。
犬さんのおっしゃる、人間と猫の生き方の間にある非対称性を坂東批判は無視しているのではないか、というご指摘は重要で、さらにそれを「猫」一般というカテゴライズの暴力を行使することなく、個別の猫の生き方の差異にまで敷衍する場合、BunMayさんのご提示された疑問を回避することができません。瑣末、とおっしゃっているけれども、クリティカルな問題ですよね。

shinimaishinimai 2006/08/28 01:45 >犬さん
「人間と猫が「同じ」であるというのは自明では全くないからです.」
たしかにそうでしょう。ただし功利主義者は痛みを感じるという点で同じ存在であると根拠付けてます。その論理はあの作家の論理より強力でしょう。
まあそれでも彼女が、私の飼ってきたペットの猫とその猫の生んだ子猫は違う!と主張したとしたら、お手上げです。そのような利己主義をお互いに了解可能なかたちで論駁するのはほとんど無理です。
>川畑さん
つまりは選好充足の形で動物を含めた功利主義を行うのが真に道徳的だという話でしょうか。ロールズ的に言えば、動物に生まれ変わる可能性を考慮したうえでの無知のヴェールとでも言うべきでしょうか。たしかに面白い想像ではありますが、私にはまだちょっと理解が追いつかないです。
「人間と猫の生き方の間にある非対称性を坂東批判は無視しているのではないか」という点についてですが、それについてはまず坂東氏が答えるべき質問だと思われます。件の文章のなかではその点については非常に不十分な見解しか述べられてないので。

shinimaishinimai 2006/08/28 01:58 あとここで議論でコメントしたり考えたい人はhttp://d.hatena.ne.jp/kasuho/20060824/p1のコメント欄のかならず参照してください。でないと何度も同じ話をせんならんといかんので。
一週間くらいすればみんなあきるとは思いますが、この調子でずっとやられてもって感じですので。
いままでのところは本当にいろいろ考えれて良かったと思います。あと出来ることいえば彼女に直接手紙でもだすことだと思いますが。そこまでの道徳性は持ち合わせておりませんが。

川畑川畑 2006/08/28 02:48 >shinimaiさま
そうですね、ただ、無知のヴェール説にも多くの欠点が指摘されており、私のコメントの主旨はそこにはない点、修正させて下さい。むしろ私の疑問は、上のレスでshinimaiさんは既に回答されてますが、「痛みを感じるという点で同じ存在である」という根拠づけこそが他者を自己投射性へと回収する論理なのではないか、ということです。坂東氏はこのアポリアに対して明確な考えを述べていませんが、あえて坂東氏のフレーム設定に準拠して反駁を試みておられるshinimaiさんにも無視できる問題ではないかと思うのです。

川畑川畑 2006/08/28 03:04 ごめんなさい、もうこれきりにします。kasuhoさんのブログも参照してきました。理解はばっちりです。しかし理解した上で申し上げると、永井均やデリダの言うような他者の理解不可能性、もしくは不可能性に直面してもなお、いかにして正義を構築するのかという問題(いわば倫理ではなくメタ倫理の問題)を、shinimaiさんは最初から想定されていないのですね。あちらではkasuhoさん、conchukameさんはそれを主張し続けているように思いました。ともあれ、いろいろ考えるための有意義なきっかけをいただきました。どうもありがとう。

努力努力 2006/08/28 04:30 坂東氏に足りなりのはただの努力です。最初は小さな努力でいいんです。仔猫が生まれたらてすぐに崖に向わないで、しばらく猫の親子を見つめるんです。生まれたての仔猫たちは正直あまりかわいくありませんが、数時間もたてば体毛はふわふわになり、前足で母猫の乳房をもみもみしながら乳を飲む姿はとても愛らしいんです。そして親猫は乳を飲む仔猫たちを大事に嘗め回し、時折飼い主(坂東氏)に安心した満足そうな表情を向け、勇気を与えてくれます。殺す勇気ではなく共に生きる勇気です。または里親を探す勇気です。その勇気を受け取る努力ができないようでは、何も守れません。人を愛そうとしないで寂しがっているようなものです。

YY 2006/08/28 09:14 >川畑さま
おそらくshinimaiさまの議論が英米系の倫理学理論を前提とし、
その限界についていささかの言及もないことへの違和感のようなものが
コメントの背景にある問題意識なのだと勝手ながらご推察いたします。
私も自分の数少ない知識は英米系倫理学のものであり、しかも人文社会科学を修めた者ではないので川畑さまの指摘は私にとっても重要なものではないのかと思い、
しかしながらsimpleな頭にはまだ理解が追いつかないところがあるので明らかにさせていただけると幸甚です。

猫一般というカテゴライズの暴力、というのはつまりこれは個々のあまたの差異をもつ猫たちを「猫一般」というくくりであつかうこと自体の暴力性、ということですよね。では、
,修譴録祐屬砲弔い討癲◆嵜祐岼貳漫廚箸いΔくりであつかうことは暴力的ということになるのでしょうか。さらにはそれよりもっと細分化されたサブカテゴリ(例えば「無実の人」や「子供」とか)も暴力なのでしょうか。
△修里茲Δ淵テゴライズが暴力的であるということは、そのようなカテゴライズに基づいた道徳判断(例えば無実の人を迫害してはならない、子猫は捨てても善い、とか)は全て正しくないということになるのでしょうか。それとも暴力的ではあるが、正当化されるということになるのでしょうか。
△抜慙△い燭靴泙垢、そのとき言われている「暴力」とは「より少ない暴力」とか「より甚大な暴力」とかいった比較が可能なものなのでしょうか。例えばより細分化されたカテゴライズはそうでないカテゴライズよりも暴力性が比較的少ない、とか。
だ己学など他の諸科学によるカテゴライズもまた、「暴力」であることを免れないのでしょうか。

カテゴライズして扱うことが定義により個物の差異を捨象せざるを得ないという意味でならカテゴライズ一般が必然的に孕む暴力性なるものが存在することを私も認めないではないですが、だからといって正義自体、あるいはそれに基づいた法規範の定立自体が不可能だという主張をもしなさるとすればあまり首肯できないものを感じます。カテゴリ化して取り扱うことを全くしない形で法や制度が可能なものでしょうか?私はそうはおもえないのです(この点は想像力が足りないのかもしれませんが。)だとすれば、そのような暴力性とは無縁の「外部」など実際には存在し得ないように思います。そしてそうだとすると、この点に関する道徳(というよりは正義や法ですよね)に対する批判は、確かにtrivialな形ではあたっているかもしれないが、だからといって道徳や正義一般を諦めよ、という主張なのだともしすれば(そうではないと信じますが)残念ながら私にはやや理解できません。安易な開き直りだ、と思われるかもしれませんが。

横からいろいろいって申し訳ありません。論難する意図は全くございませんので
もし不快に思われたならどうかご寛恕くださいませ。「もうこれきりにします」
とおっしゃられているので、ご返答いただけなくとも一向に構いません。
そしてshinimaiさま度々コメント欄を汚染したことご容赦くださいませ。

川畑川畑 2006/08/28 12:35 >Yさま
こんにちは。それではもう少しだけ。Yさんの危惧される「道徳一般を諦めよ」というニヒリズムを、私は自分の主張に含意させてはいません。カテゴリ化する思考についても同様で、そこには一定の暴力性が孕まれるゆえ、そういった思考全てを拒否する、という愚直なお話をしたつもりも毛頭ありません。猫殺しの人物を倫理学上の理論によって裁断することがどのようにすれば可能であるのか、むしろその一点に私の関心はあります。

川畑川畑 2006/08/28 12:45 そもそもshinimaiさんが挑戦された議論の前提がカテゴライゼーションの採用を否定しているのです。子猫の死と親猫の避妊手術の是非もしくは判定を、当該主体間における幸福の総和によって比較考量するならば、という作業仮説に基づいているのですから。そのとき生じる理論的困難を(Yさんの推察される通り)別の思潮に立った場合の視点から指摘してみたのが私の真意、と言えるでしょうか。この議論がより豊かな学的視野へと接続されることを願って少々生意気なコメントをしてしまいました。

shinimaishinimai 2006/08/28 17:18 >川畑さん
「そもそもshinimaiさんが挑戦された議論の前提がカテゴライゼーションの採用を否定しているのです。」
なんども同じことを言うようでアレですが、あの作家の文章だけからそのように読むことはとてもできません。彼女が飼い猫にたいして避妊手術をすることにためらう理由は、「『生』の充実」というなんらかのカテゴライズに基づいているからです。

z0racz0rac 2006/08/28 20:02 >shinimaiさん
かなり遅れたので迷ったのですが、返答を頂いたのに付けずに済ますのは失礼かと思いレスさせて頂きます。
まず、「現在の功利主義」に対する私の無知と見当外れのコメントをお詫びします。今までのコメントや関連を読ませて頂いて、shinimaiさんのご主張は一応理解したつもりです。
その上で、shinimaiさんの仰る「明白」は私にとっては明白ではありませんでした。「脳科学上のある一定の事実」と仰られるのであれば、それなりの基礎データ(少なくとも今回のケースを類推可能なもの)は欲しいところです。避妊手術後の猫に一晩付き合った経験から、避妊手術と言えど苦痛が0とは考え得ないからです。
とは言え、データの提示を求めている訳ではありませんので、勉強がてら調べてみます。失礼しました。

shinimaishinimai 2006/08/28 20:32 > z0racさん
「避妊手術と言えど苦痛が0とは考え得ない」
この点はもちろん私も同意します。ただ崖から落とされるのと、適切な形で避妊手術を行うのでは、前者のほうが苦が多いのは明白ではないかと言ったのです。その点で明白という言葉が適切でないのなら撤回します。
勉強不足なのは私も変わりません。なによりもこのような未熟かつわかりにくい文章にみなさん付き合ってくれてありがたいです。論旨そのものは基本的に変わりませんが。

枯れ葉枯れ葉 2006/08/29 00:04 はじめまして。
確かに、功利主義の考えから、坂東氏を間違っているということはできそう。
ただこの考えからいくと、安楽死はどうなのだろうという気がしますね。
安楽死の場合、苦痛はないわけですから、避妊手術よりは良いかもしれません。
では、みな子供は安楽死させて避妊手術はしないようにしましょう、というのに賛成してもらえるか。
納得しない人は多そうですけどね。
皆、その残酷さ(苦痛を伴う方法だったこと)よりはむしろ、殺したこと、生命を人間が勝手に奪ったことを問題にしてるようですから。

それとペットとして飼われている猫は野良猫より幸福だから、倫理的に良い、か?
は愚問だと思います。
ペットとして生活したほうが幸福であるように人間が人間の都合で改良を加えたのがペットでしょう。
自然では暮らしにくいように変えておきながら、野良よりは幸福だろう、とは傲慢な気がしますよ。

それと、
>猫の避妊手術に関しては飼い主の多くの方々がそれなりの苦渋の選択として決断していると思います
というのもとってつけたような美辞麗句ですね。
皆が苦渋の選択なんかしないですんでるから、ペットがブームになれるんでしょう。
自分たちがしている避妊の罪悪感を隠蔽したいがために、皆、子猫を殺したことに問題を単純化して非難しているようにしか見えませんね、意地悪くいえば。

以上、思ったままに感想書きました。

shinimaishinimai 2006/08/29 15:48 安楽死させていたなら崖から落としてたよりマシなことだと思いますので、ここまでの批判はなかったでしょう。
あとペットブームなどの批判とか言う人はペットブームがいかなる事態を指すのか説明をしてくれないのでよくわかりませんが、そのような批判と彼女の行為の是非は関係がないと思います。この件については彼女のさらなる説明がないとなんとも言えませんのでもうコメントはいいです。

evansevans 2006/09/01 01:32 はじめまして。
現代の功利主義的立場から「猫の嬰児殺しは猫の避妊手術よりも悪である」ことを主張しておられますが、その直後に、ペットを飼うことは倫理的によいことだと主張されています。
1.現代の功利主義的立場からは「(犬、猫など)肉食動物をペットとして飼うことはペットフードのために殺される他の動物の苦痛を増大させる行為であり倫理的に悪である」という結論が導かれると思いますが?

にもかかわらず、「ペットを飼うことは倫理的によいことだ」と主張するためには「ペットについては功利計算するべきだが、ペットフードのために殺される他の動物については功利計算しなくてもよい」という前提が必要です。

2.「ペットについては功利計算するべきだが、ペットフードのために殺される他の動物については功利計算しなくてもよい」と考えるのはどうしてですか?
3.「ペットについては功利計算するべきだが、ペットフードのために殺される他の動物については功利計算しなくてもよい」という主張は「自分の飼っている猫については功利計算するべきだが、子猫については功利計算しなくてもよい」という坂東眞砂子氏の主張と大して違いがないように思えますが、何が違うのでしょう?

以上お答えいただければ幸いです。

shinimaishinimai 2006/09/01 14:36 >evansさん
「ペットを飼うことは倫理的によいことだと主張されています。」
そのように直接主張はしていません。本当に悪なのかと問うているとはいえますが。基本的にこのエントリの趣旨は件の作家の文章を批判することにあってペットや動物に関わる倫理一般を考えたわけではありません。ですからあなたの質問に答える必要はないです。
それでも何か答えるとするならば、まず厳密な動物にも拡大された功利主義を実践する人は、ペットを飼うことも動物を食べることもしないでしょう。シンガーとかは事実ベジタリアンですし。私はそこまで厳密に道徳的な実践を行ってはいませんが、ペットと家畜に線引きを行う論理は自分の猫とその子猫に線引きを行う論理より、一貫性をもつとは思いますよ。