迅速な対応に対するさらなる対応。
もとの書評とはいちおう切り離した議論として、すこしばかり意見をさしはさませてもらう。

ああ、最後に、一応もしかしたら万が一、ということで山形氏をフォローしておくと、

山形氏は

「物理的に判別できないものは、美的性質も同じになる」と考えているのかもしれません。

これへの応答は、その「判別できない」をどう捉えるかによって二通りにわかれます。

(1)「カテゴリーが違うけれども、見た目に差がない」という風に捉えるならば、もう上記の議論でその立場は退けられます。この立場にまだ固執するんなら、もうすこししっかりした議論が必要になります。かなり苦しい立場ですが、まぁやりたい人は頑張ってください。。

(2)「カテゴリー的にも判別不可能」というのであれば、美的性質は同じになりえますが、その場合、「それがプラスチックの木<である>かぎり」という西村の限定の外に出る話なので、西村への反論にはなりません。その場合、もう「プラスチックの木」とは見てないでしょ。
http://d.hatena.ne.jp/conchucame/20120120

「物理的に判別できないものは、美的性質も同じになる」という主張は、もう少し洗練された言い方をすると「美的性質は物理的性質にスーパーヴィーンする」ということになる。スーパーヴィーニエンスについては適当に調べてもらうとして、あとスーパーヴィーニエンスをどう解釈するかに関してもとりあえず、置いておく。
なんにせよ「美的性質は物理的性質にスーパーヴィーンする」と言いなおされた場合、上記の1、2の応答がどうなるかチェックしよう。
1の場合、「もう上記の議論でその立場は退けられます」と言っているが、これがどの議論か実はブログではあまりよくわからない(オレが悪いのかもしれないが)。おそらく当該本のこの部分「そもそもプラスチックの木は、それがプラスチックの木<である>かぎり、たとえ完全なレプリカだとしてもその非美的で形式的、感覚的な面から見ても自然の木とはまるで違っており、それがひとをぎょっとさせ狼狽させるのである」(p.172)ということから、カテゴリーが異なる対象に対して、「非美的で形式的、感覚的な面から見ても」見た目が違うという議論を指しているのであろう。
しかしそうだとすると、これは法外な主張といえる。なぜならば「完全なレプリカ」という表現は普通、「非美的で形式的、感覚的な面から見て」見た目が同じであることを含意すべきであるからだ。それ以外に「完全なレプリカ」を解釈する方法はないように思える。もしも、いや本当にもしもですが、「完全なレプリカ」が「物理的性質において同一」であることを意味すれば、これはさらに法外な主張になっているだろう。それは美的性質の物理的性質へのスーパーヴィーンを認めないばかりか、非美的性質、つまり単なる三角や四角(に見える)という形や赤や白といった色などの感覚的な性質が物理的性質にスーパーヴィーンしないということになる。もちろんこういう立場はないわけではない(サピア=ウォーフの仮説とか)。でも西村の主張は、本当にそんな主張をしているのだろうか?かなり疑問である。
2に関して。そもそもこの「カテゴリー的にも判別不可能」という自体をどう解釈するかがちょっと文意的に読めない。もしも当該対象となるものが、どういうカテゴリーに属するのかが、物理的には判別できないという意味であるならば、カテゴリーとは当然、非物理的なものによって決定されているはずだ。当該ブログで「「自然の樹木」と「プラスチックの人工の木」では、そこに備わる歴史がまったく異なる」ということから推論して、対象の来歴に関することは物理的組成では判別できないということを認めるとしよう。(これはこれでじつは突っ込める問題であるかもしれない。多くの対象の来歴は物理的組成の分析で判別可能であるかもしれない。さらにはいわゆる関係的性質もまた物理的だとも言い得るかもしれない。)この場合、美的性質の物理的性質のスーパーヴィーニエンスを認めている場合、当然、美的性質は同じになるだろう。だがやはり西村の「非美的で形式的、感覚的な面から見ても」見た目がことなるという主張は、感覚的な性質の物理的性質へのスーパーヴィーンを認めないという上述の法外な主張になるだろう。
以上から「美的性質は物理的性質にスーパーヴィーンする」ということがたとえ成り立たなくても、西村の主張していることは1や2では対応できない、というか美的性質以前の問題の「非美的で形式的、感覚的な面から見て」という表現がかなり問題含みだと思う。要は美的性質が来歴や文脈、またはカテゴリーといった単純な意味での物理的性質以外によって左右されることは認めても、普通の感覚的性質の物理的性質へのスーパーヴィーニエンスを認めないのはちょっと大胆すぎる主張だと思う。