読んだ。

ほぼ本についてメモっているブログなのに、このカテゴリーは無意味になってきた。やっぱはやくはてなから引越しする!(でも書評だけははてなダイアリーつかうかもしれん。)
脳は美をどう感じるか: アートの脳科学 (ちくま新書)
川畑 秀明
4480066861

神経美学については以前、このシンポジウム(http://www.gcoe-cnr.osaka-u.ac.jp/?p=2954)に行っていたし、大体どういう研究しているのかは知っていた。だが、ちゃんと本とか論文読むのは始めてで、こういう新書は格好の一冊だ。
しかし残念ながら、全体としてはそれほど面白くもなく、内容も雑駁としていた。これは仕方ないことかもしれない。というのも「本書のねらいは、あくまでも、アートの魅力を改めて感じてもらうのと同時に、脳科学に面白さを感じてもらうことだ」と書いているように、どちらかといえば、脳科学の入門的な部分が多い。そして実際に心理学の授業の教科書として作ったものらしい。美や芸術とは関係ないような話も多い。
さらにもともと進化心理学については以前から興味もあり、本も読んでいたので知っていた話は多い。特に音楽については。このへんでエントリも書いている。
http://d.hatena.ne.jp/shinimai/20070805/p3
http://d.hatena.ne.jp/shinimai/20070505/p1
神経美学といえば、fMRIとかで脳の興奮やなんか計測したりする認知脳科学的側面が強いと思うが、川畑さんは自身はどちらかと言えば心理学畑の人と言うとおり、たしかに進化心理学的な話が多かったように思える。そして進化心理学に関してはピンカーなんかの面白い本がいろいろあるので、読み物としてはそっちを薦めるかな。
とはいえ、芸術を扱った認知科学というアプローチを今後も必要で、それが日本語で読めるのは喜ばしい。ただこの本を読んで神経美学をやりたくなるのかというと、ちょっとどうも分からないっていうコメントをしたくなる。芸術は確かに多くの人を引きつけるテーマであるが、本書が扱っているのはかなり王道の美術ばかりなので、なんというかちょっと教科書的すぎるのだ。
ただその点は川畑さんの師匠であり、神経美学の提唱者のゼキ由来のものだろう。ゼキはモンドリアンなどの「優れた芸術家は優れた神経科学者でもある」だと言う。「優れた神経科学者でもある」という言葉の含意は「昔の芸術家であっても、現在明らかにされつつある最新の脳科学の知識を当時すでに知っていたかのように、脳の振る舞いを活かした表現をしているから」というが、それはそういう絵画が歴史的に残ってきただけであって、どちらかと言えば有名な芸術家を絶賛するための新しいレトリックのように感じる。
特にあのモンドリアンのあの抽象画の偉大さ(!)についての説明において、脳科学者のラマチャンドラン(邦訳もある有名な学者だ)の「ピークシフト仮説」を持ち出すあたり、非常にレトリック臭く感じてしまう。ピークシフト仮説とは、動物の行動などで反応すべき特徴が誇張され、強大化されたものへと好みを形成していく現象を指し、ラマチャンドランは人間の芸術の中にもそのようなピークシフトされた表現があるという。具体的にはヒンドゥーの女神のパールヴァティー像のセクシーなプロポーションなどに現れると。そこでモンドリアンや他の画家についても以下のように言う。

このように、今から百年前に完成したモンドリアンの画面の構成は、視覚脳の基本的な働きを最大化するような表現がなされている。というよりも、線分と色に対する脳の反応を最大化するように、ピークシフトの技法をとったといっても良いだろう。
(222−223)
このような特定の視覚的特徴の情報を処理する脳の場所を最大化するように作品を作り上げていったという意味で、ピークシフトの技法は多くの優れた美術家の表現において実践されてきたことだ。
(223)

モンドリアンなどの抽象画にピークシフトという概念を使うメリットはあまりわからない。また絵画表現において「誇張」があるのは珍しくないわけで、何がピークシフトで何がそうではないかがよく分からないのだ。また表現のレベルとして漸進的に進んだならばともかく、モダニズムの画家であるモンドリアンはそのような進化ではなく、かなり急激な変化である。人間が生得的に反応すべき特徴が誇張され、強大化されていく過程を示すならば、モンドリアンのような画家の芸術作品ではなく、日本のオタク文化における萌え絵の目の変遷とかのほうが納得がいくのではないかと思った。
そして実際問題、そういった特定の反応すべき特徴の誇張は、広告の画像や写真の修正、ポルノなどのむしろあまり偉大ではない人たちの画像表現の常套手段ではないのかと思う。

だが、本書の美術の教科書臭さが気になるのは置いとくとして(多分に私のアートうぜぇ心が揺さぶられるわけだが笑)、本書で登場する面白かった実験について触れておこう。

ひとつは美醜の判断に関わる脳部位の話。

美しいと感じるときと、醜いと感じているときとで脳の働きを比べてみて、同じ脳の場所(一つかもしれないし、複数かものしれない)が、一方には興奮的に、もう一方には抑制的に働くのであればそれは一つの尺度の両極であると捉えることができるだろう。しかし、美しいと醜いとでは、それぞれ別の脳の仕組みが反応を示す可能性がある。
 私たちが行った研究では、肖像画、風景画、静物画、抽象画それぞれ九六枚、計三八四の絵画の画像を観察者に見てもらい、「美しい」「どちらでもない」「醜い」という評定判断を行なっているときの脳の活動をfMRIで捉えようとした。そうすると、美しいという評定判断に応じて、眼窩前頭皮質内側部の活動が、一方、醜いという評定判断に応じて左脳運動野の活動が変化することが明らかになったのだ。眼窩前頭皮質内側部は、美しいと感じるときには活動が高まるが、醜いと感じるときには活動が低くなる。一方、左脳運動野は、醜いと感じる時には活動が高まり、美しいと感じる時には活動が低くなる。つまり、美しいに対応する脳の場所と、醜いに対応する脳の場所はそれぞれ別でありながらも、それらがトレードオフの関係にあることが分かる。トレードオフというのは「一方を立てるとと他方が立たない」というように両立し得ない状態のことだ。つまり、美と醜とは、お互いに関係し合いながらも、独立した概念だと考えられる。
(86−87)

神経科学者のマイケル・ガザニガは、私たちの研究で示された、醜さに対する運動野の働きについて「私たちが生まれつき危険を避けるのが最も得意ですばやいことを思い起こせば合点がいく。私ちはの情動は、危険を不愉快あるいはネガティブと分類する」と述べている。
(87−88)

これは分析美学でも時たま話題になる「美醜の概念が双極的か、単極的か」という議論にかなり強いデータを与えてくれる。脳の部位を見る限り、美醜は双極的とは言い切れず、異なるカテゴリーとしてみるの方が正しいようだ。この実験はかなり興味深いので今後も続けて欲しい。さらに美醜の判断に対して、エキスパートと素人でどう脳の状態が異なるのかを測れば、より面白そうだ。

もうひとつは「言語隠蔽効果」と呼ばれる現象が美的な判断にも関わるという話。

ワインをふだん飲まない人、ワイン好きの素人、ワインの製造や販売を生業とするプロとで、顔の実験と同じようにワインの味を口に含んでその味を覚えてもらい、その後、味の特徴を言語化した後にワインのリストから先に飲んだものを当ててもらうという課題だった。そうすると、ふだんワインを飲まない素人とプロとでは言語隠匿効果はないが、ワイン好きの素人においてのみ、言葉にすることの弊害が現れて、正しく思い出せなくなってしまうことが示されている。素人の場合には、ワインに関する感覚的経験も言語経験も乏しく、プロの場合には両方の経験が豊富だ。一方、ワイン好きの素人は、感覚的なものには熟練があるものの、言語的経験には乏しい。このような普段慣れている感覚を言葉にすることがないと、なおさら言葉にしたときに記憶が歪んでしまうのだろう。
(203−204)

これもなかなか興味深い実験である。普通、美的なものの鑑賞を言語化することは、対象の選別能力を高めるものと考えがちだが、そうとも言い切れないことが示されている。むしろ素人は言葉にせず、ただ味わった方がいい(笑)。
でも、おそらくこれは好悪や選好の判断と味の実質的な判断が異なることを示しているようにも思える。それこそ、ワインのソムリエはワインに対する「自分の好みの判断」を宙吊りにすることで、その質を弁別することに長けているのだろう。では、どちらが美的判断とみなすべきだろうか。これはなかなか面白い問題だ。

このように認知脳科学が与える知見は、分析美学の基礎的な問題に取り組むには非常に有用なものだ。だから、私自身は神経美学に対しては応援したい気持ちがある。ただし、それは芸術といった高次な人間の行動に対してよりも、快楽や美、調和など低次な美的性質に対する追求においてこそ威力を発揮すると思える。あと、やっぱ音楽だよ音楽。確かに認知脳科学は視覚の研究が多いが、音楽は絵画に比べ、より人間の感情や認知の生得的な部分に訴えるように思えるので。