明治42年の杉浦非水の挿絵「木太刀」

shinju-oonuki2006-10-05

表紙の装画が気に入って購入した「木太刀」第7巻第6号(木太刀社、明治42年6月)だが、このアールヌーボー風の表紙を描いた画家名は結局は分らない。

その代わりというわけではないが、本文中に杉浦非水に描いた挿絵が2点あった。


「みだれ髪歌かるた」(明治34年制作、37年「明星」に発表)を描いてから8年後の作品だが、全く日本風の絵を描いている。この頃の非水といえば
明治38年島根県第二中学教諭を辞任し、東京中央新聞社に入社。
明治41年三越呉服店嘱託。
明治42年…『みつこしタイムス』第7巻第4号から表紙デザインを担当、以後13年間続ける。
明治43年…図案部主任となる。
明治44年…雑誌『三越』発刊、表紙デザインを担当する。
明治45年…「書籍装幀表紙図案展覧会」(於:日比谷図書館)開催。中沢弘光と〈光風会〉創立。

というように、洋風のデザインを盛んにと摂取していた頃であるが、器用に日本風の絵も描き分けていた。
それもそのはず、非水は、16才の頃、松山で四条派の日本画家・松浦巌暉に入門。明治30年5月に上京し、四条円山派の第一人者・川端玉章に師事。9月、東京美術学校日本画科に入学。
というように、日本画を一筋に勉強してきたのだから、当然といえば当然の事である。

非水が洋画に興味を持ち始めたのは、西洋木版画家・合田清を通じて黒田清輝を紹介され、フランス語、洋画、欧風図案の指導を受けるようになってからである。

黒田のところでの、久米圭一郎、菊池鋳太郎、岡田三郎助、和田英作、小林萬吾、藤島武二、長原孝太郎など洋画壇の淙々たるメンバーとの出逢いが、非水を大きく変える事になる。

話を「木太刀」の戻そう。この本には下記のような挿絵も挿入されていた。サインが○の中に「不」とある。同様のサインを使うのが中村不折であるが、この絵は不折の絵ではない。彫師・伊上凡骨のところで修業していた「ルンプフリツ」である。おそらくフリツの「不」のつもりであろう。