知る人ぞ知る高橋忠弥の装丁

高橋忠弥といってもその名を聞いて装丁や絵を思い浮かべることが出来る人は、身内か友人の類いでしかないのではないかと思われる。忠弥の装丁で一番知られているのは何といっても深沢七郎楢山節考』(中央公論社、1957[昭和32]年)だろう。というか、一般に知られているような装丁は他にはあまりないのではないだろうかと思われる。



楢山節考』は木下恵介監督『楢山節考』(1958[昭和33]年)の原作を、今村昌平監督によって緒形拳坂本スミ子の親子役というキャスティングで1983(昭和58)年に2度目の映画化が行われ、1983年のカンヌ国際映画祭グランプリ受賞(カンヌフパルムドール)の栄誉に輝いているのでよく知られているものと思う。


忠弥の装丁本はやっと30冊ほど集まってきた程度だが、最近、忠弥の装丁の話を書いてみたいと思うようにさせるなんともすてきな装丁本が次々に集まってきた。これがそのうちの1冊、佐藤愛子『加納大尉夫人』(光風社書店、昭和44年9月)。



フランス遊学から帰国した年の作品で、『楢山節考』と比べてみると、だいぶ色彩も構成もフランスの香りを感じ洗練されたような印象を受ける。フランス・ビオットに滞在していた時は「少し足を伸ばせば、レジェ、ピカソシャガール等の美術館やヴァンズのマチスのデザインした協会、サンポールのマグー美術館等を観賞出来る環境であることもうらやましい事であった。」(「高橋忠弥1972-1976 a BIOT」山本勝巳)とあるように、近くに美術館などが沢山あり、忠弥の絵もシャガール等の画風を取り入れるなどだいぶ受けているように見受けられる。


高橋忠弥 (東京生、1912〜2001)は、父の転職に伴い少年期を東京、北海道、と転々とし、9歳から母親の出身地でもある盛岡で暮らす。
昭和8年岩手県師範学校卒業後、小学校教員を勤める。
昭和10年、「岩手日報」学芸欄所載の随筆「教官記」が憲兵隊の忌避にふれ教壇を追われる。
昭和11年、24歳で再び東京に移り画業に専念。
昭和14〜19年、北京、上海、蘇州に遊学。
昭和25年独立美術協会員となる。
昭和40〜44年、フランスへ遊学。
昭和44年、一時帰国。独立美術協会退会。
昭和45年、再渡仏。
昭和47年、ビオットへ引っ越す。
昭和51年、帰国。