装丁家・大貫伸樹の装丁挿絵探検隊

2018-12-10 西東京市・富士町交差点にあった田柄用水の水車跡を探す

【しん散歩(14)……田柄用水、富士町交差点の下田水車】

 ちょっと見ずらいですが、練馬区に入って富士街道を走る田柄用水の地図です。左端の真ん中あたりの薄い色の点線が田柄用水です。西武池袋線のとことからくねくねと北進しています。その後田柄川に合流し、さらに石神井川に合流しているようです。田柄用水と田柄川の合流点は見ましたが途中は追いかけていません。西東京市市内は富士町交差点のあたりで、水路跡が消えてしまいます。

f:id:shinju-oonuki:20181210172620j:image



私が毎月消しゴム版画を教えている教室・縁屋さんが入っている「マックコート東伏見」があるあたりに、田柄用水にかけた水車があったらしいという話を聞いた。今まで田柄用水(西東京市市内)にかかっている水車は田柄用水が田無水から分岐するすぐ近くにあった山上の水車(旧田無市)しか知りませんでした。

f:id:shinju-oonuki:20181210193213j:image

山上の水車と本家の水車(下田家)(『田無のむかし話』西東京市中央図書館、昭和55年)。


f:id:shinju-oonuki:20181210193545j:image

田無町3丁目、田柄川と山上の水車があったあたり。北から南を撮影。奥の突き当たりが、田無用水との分岐点。


f:id:shinju-oonuki:20181210194108j:image

暗渠になってしまった田柄用水と田無用水の分岐点。写真上に向かうのが田無用水、左に曲がるのが田柄用水。



もう一つの「富士町の下田家分家にあったとされる水車」跡を探してみようと思います。


富士街道を探索中です。水車はまだ見つかりませんが、富士街道沿い「けやき憩いの森」(東京都練馬区石神井台8丁目21番)には、約47メートル、上幅約4メートル、素掘りの用水堀で当時架けられた石橋もあり、田柄用水が残されているようです。何度も脇を通っていますが中に入ったことはありませんので、チョット仲間で踏み込んでみます。

f:id:shinju-oonuki:20181210173031j:image



滝島 俊さんからのコメント…… ロイヤルホストの向かいですね。ここだけ一瞬富士街道から外れて敷地の中を通り、90度向きを変えるんですよね。


またまた不思議なクランク迂回ですね。

f:id:shinju-oonuki:20181210173547j:image


滝島 俊さんからのコメント…… 富士町の下田家水車の次には、櫻井水車(南大泉1丁目)がありました。田柄川用水にも多くの水車がかかっていました。けやき憩いの森には水車があったという記録はありませんが、何らかの意図がある水路でしょうね。

f:id:shinju-oonuki:20181210194942j:image

櫻井水車があった櫻井商店。今は水車はありません。


松崎 博さんからのコメント…… 田柄川・田柄用水についての千葉大学の井上さんの研究があります。https://core.ac.uk/download/pdf/97062769.pdf


山下 昭夫さんからのコメント…… 松崎さん 教えて頂いた千葉大井上孝夫教授の研究を拝見しました。私も練馬区関町出身ですが田柄川の存在は知らなく(現在は練馬自衛隊付近から緑道で城北中央公園へつながっているらしいですね)参考になりました。論考文書の参考文献一覧の中で、田無から練馬への水路については平田英二氏の論考『ねりまの文化財59』2頁「田柄用水の謎」が詳しいようです。


滝島 俊さんからのコメント…… 山下さんありがとうございます。

「けやき憩いの森」は本橋家の野菜洗い場のための引き込み水路だったんですね。

f:id:shinju-oonuki:20181210195530j:image

葉っぱに埋もれて、昔の石橋がありました。練馬大根の産地でしたので、多分練馬大根を洗っていたのでしょうね。



練馬区の田柄用水は、あまり考えたことがありませんが、田柄用水や、板碑など、練馬区の関連性を考えないわけにはいかなくなってきました。市内探索のつもりが、ありがたくもどんどん範囲が広がっていきます。


山下 昭夫さんからのコメント……田柄用水は練馬区なので西東京市関連部分だけに限れば「富士町交差点」近くの下田家分家「水車」の存在が気になり得意のランニングで現地調査しました。そこでコメダ珈琲を富士街道を超えた北側の都営団地付設の小公園がその跡地では?と考えました。北隣は下田家ご子孫とおぼしきお屋敷です。痕跡未発見等エビデンスに欠ける推量ですが唯一の根拠は地図黄色枠にあった小暗渠でГの形で小公園方向に流れ途切れていました。初心者ゆえの浅慮推量ですがどうでしょうか?

f:id:shinju-oonuki:20181210174505j:image


明治39年の地図を見る限りでは、関道を横断した田柄用水はそのまま富士街道に平行に北東にビル一つ分くらい進んで、その後は富士街道の北側に戻りそのまま現在駄菓子屋さんがあったあたりまで進んで、小さな交差点からは富士街道の南に位置を変更しています。もしも富士町交差点の近くに水車があったとするならば、現在交差点にあるマンションのあたりか、あるいは、富士街道の北側を流れている場所だと思われます。

f:id:shinju-oonuki:20181210200407j:image

高塚の交差点より東側は大泉村ですので、この地図の範囲で水車が記されているのはとりあえず大泉村ですね。明治39年の富士町交差点には水車はなかったようですね。


田柄用水にはこんなにたくさんの水車があったんですね。田無・山上の水車も田柄川沿いの水車だと思いますが、保谷・田無の水車が練馬に比べて少ないですね。

f:id:shinju-oonuki:20181210200742j:image

「ねりまの文化財」(平成16年〔2004〕)より。


この地図を見る限り、山下さんがおっしゃっている「下田家の水車」は富士町交差点のあたりで田柄用水が富士街道からそれた部分にあったように見受けられます。もう少し正確な地図があれば水車があった場所がわかるんですが…。


滝島 俊さんからのコメント…… 田無分水口から富士街道までの流路は、比較的複雑な経路ですが、基本は「用水は背を通す」で標高の高い所をつないでいます。富士街道に出てからは、元の地形の標高差を利用して、石神井公園駅手前までほぼ道路沿い(北岸や南岸に沿って)流れていました。下田家水車の推定地ですが、富士街道と関道の交差点(昔は新青梅街道が無かった)付近と思われます。

殆ど富士街道に沿って流れていた用水が、この交差点で凸状にクランクするのは不思議ですが、この角に「百札所巡礼成就塔」(造立寛政四年1792年)が建っており、願主に下田家もいます。

もしかしたら、この石碑を回避するために流路をクランクさせ、ついでに下田家の敷地を通し、そこに水車を作ったのかも知れませんね。分水したとしても水車はあまり用水本流から離さないと思います。おそらく本流に架かっていたとしたら、今の縁屋さんの裏側あたりから、富士街道の本流に戻るあたりでしょうかね?


滝島さん ありがとうございます。「百札所巡礼成就塔」が立っていた場所も下田家のようで、新青梅街道ができる前の縁屋さんが入っているビルの土地所有者がわからないかなと思います。もう少し調べれば分かりそうな気がします。そういえば、版画教室のビルのオーナーだという女性が一度来たことがありました。何かを聞けるかもしれませんね。


滝島 俊さんからのコメント…… 現富士町1丁目15番地に有ったとする記述がありますので、関道より東側(縁屋のビルがある側)だろうと思います。

候補地としては、縁屋さんのビルの東隣の「ハイツ・ユー」か「グレースハイツ東伏見」のあたりかと思っています。


松崎 博さんからのコメント…… Shinju Oonuki さん、いやはや 田柄用水にかかっていた水車の図とは。未だ見ぬ資料を色々見つけてきますね。

まさか田柄川にこんなにたくさんの水車があるとは考えてもいませんでした。西東京市には、2箇所しか確認されていないので、それより下流では水量が少なすぎるのではないかと思っていましたので。水車の建造年は調べていませんが、明治26年、田柄用水の増水工事で水量が大幅に増えたことも、田柄用水に水車がたくさんある一因かと推察しています。


これは、「多摩川上水分水路北多摩郡保谷町大字上保谷字関道九百十三の弐の土地に水車新築営業被成旨に就ては……大正四年三月拾七日」と、富士街道沿いの関道913の2の土地に水車営業を認める証文ではないかと思われます。

f:id:shinju-oonuki:20181210210059j:image


関道913の2の場所を探してみました。赤丸部分が水車があった場所ということになります。現在、関道と富士街道とに挟まれた北の角の部分で、マックコート東伏見、グレースハイツ東伏見あたりに位置しています。

f:id:shinju-oonuki:20181210210233j:image

昭和13年の『保谷土地宝典』


滝島 俊 やはりここにあったんですね。ちょっと意外だったのが、関道沿いにもちょっとだけ流路があることです。明治39年の地図と若干異なるように見えます。(富士街道に戻るのが交差点に近い)この地番図を見ると、もしかしたら水車を作るために、流路を変更し、913の土地を913−2に分筆したのかもしれませんね。


先ほどの地図は昭和13年の『保谷土地宝典』ですが、この昭和37年発行『上保谷西武線北部住宅地図』では、新青梅街道ができて、水車は無くなり、313-2も314も下田さんの土地になっていますので、滝島さんのおっしゃるように、水車を作るために分筆したのかもしれませんね。

f:id:shinju-oonuki:20181210210714j:image


以前から、富士町交差点の西側にある田柄用水の暗渠が、関道で分断されたところが気になっていました。写真手前が、関道で分断された蓋暗渠の田柄用水、関道の向こう側(北東)、マックコートマンションの南西にある歩道につながります。

f:id:shinju-oonuki:20181210211138j:image


マックコートマンションの南東にある歩道を富士町交差点から撮影。なぜここだけ短い歩道があり、すぐに突き当たりになってしまうのかずっと不思議に思っていました。もしかしてこれが『保谷土地宝典』(昭和13年)に記されている水車ように引き込んだ田柄用水の水路跡ではないかと推察します。

f:id:shinju-oonuki:20181210211227j:image


滝島 俊さんからのコメント…… 大貫さんに提示していただいた昭和13年の『保谷土地宝典』に現代の空中画像をオーバーレイしてみました。

これによれば、田柄用水は縁屋さんがあるビルを流れていたことになりますね。

f:id:shinju-oonuki:20181210211605j:image


滝島さん、ありがとうございます。すごいですね‼︎ 土地宝典は土地台帳のようなものだからかなり精度の高いものだとは思っていましたが、こうして現在の地図と重ねてみると、現在の地図と変わらぬ正確さで、ほぼぴったり重なっていますね。これで水車の位置がだんだんわかってきましたね。水車のオーナーが誰だったのか、水車は具体的にどこにかかっていて、どんな風に回っていたのか、水車で何を作っていたのか、などなど、ますます興味を惹かれます。


滝島 俊さんからのコメント…… この図から判断すると、水車がかかっていた場所は縁屋さんが入っているビル(マックコート東伏見)の「へ」の字のクランクのどちらかの辺と思われます。土地的には東西の辺でしょうかね。

東隅にあったという古老の証言もあったそうなので、南北の辺かも知れません。そこのところは限定できていません。

落差を利用できなさそうですので、下掛け水車でしょうか。

挽き臼は片側5~6個、両側で10~12個みたいなので、小麦の粉挽きがメインだったのかと。構造上そんなに大きな動力は無かったのではないかと推測します。


詳しい話をありがとうございます。昨日、マックコート東伏見の周りを歩いてみましたが、平井家の坂上水車と比べると土地面積が小さいので、水車の規模もさほど大きなものではないのではないかと思いました。

昭和12年の地図を見ると、建物があった場所は交差点の角のようですので、となると、水車は南北の富士街道に平行の水路にかかっていたものと思われます。

f:id:shinju-oonuki:20181210212402j:image


滝島 俊 今度は昭和22年の空中写真と重ねてみました。

昭和12年の地図にもあるように、新青梅街道が出来る前のこの交差点付近は林の中ですね。おかげで水路は良く分かりません。

昭和12年の地図の水路(流路)と、昭和13年の土地宝典とで若干の違いがありますが、地図の方が改訂されていないのかと思われます。

f:id:shinju-oonuki:20181210212645j:image


これは田無・半兵衛水車設置図ですが、水車が回っていない時の水路と、水車を回す水路があって、水の勢いが強いところで水車を回転させるところに設置しているように思えます。となると、敷地内に水路が入ってきてすぐのあたりに設置するのではないか、と思われますが?

f:id:shinju-oonuki:20181210213123j:image


滝島 俊さんからのコメント…… そうですね。水車の仕掛けは用水の本流には架けないで、用水からまわし堀を掘削して、それに水車を架けるのが一般的と思います。とくに練馬区内の下流域が長い田柄用水であれば、下流域への影響を考慮したはずですね。そうなると、明治の地図に描かれている流路と、大正四年の証文(水車新設にあたり、上下流域への影響が無いと判断されたので許す・・・)の土地地番、昭和13年の土地宝典の流路を考えると、水車小屋を作製する際に新しく作られた流路(もしかしたらこちらが水車を動かさない時に流す流路?)かも知れませんね。水車は関道を横断後分水し、直進する水路は水車小屋に入ったのち、再び富士街道沿いの本流に戻される(もしかしたら体内堀?)かもですね。少なくとも、1本の水路ではなかったと思います。推測ですが・・・。


私もそう思います。つまり大正12年の地図の流路もありなのかな、と。